根南志具佐(茸) 三之巻
公開 2026/02/14 09:58
最終更新
2026/02/14 10:00
そういうわけで竜宮城では、閻魔大王の勅命を受けて瀬川菊之丞捕獲のため緊急会議が招集された。評定の間に大小さまざま、列を正して詰める鱗どもをぐるりと見回し龍王は口を開いた。
「閻魔大王様の幕下に属し、我はこの水中界の主となり、貴殿ら多くの鱗どもを養うてきた。これもみな閻魔大王様の御恩である。今こそ忠義を尽くさねば、いつの世にその御恩に報いることができようか。しかしそうは言っても世界を隔てのことなれば、捕まえるのは容易なことではない。もし此度の御用をし損じれば、あの長大な三途川の浚渫か、極楽のご修復か…ぬう…。銭は金魚・銀魚のごとく逃げていく、餌を乞う緋鯉のごとくホウボウよりご返済をとせっつかれる、しかし世間の目が網にかかった白魚のようにびっっっちり詰まっておるゆえ『無いヒレは振れない』などと言えるわけもなく。もしもそんな御用を仰せ付けられては、甚だ難儀であるぞ。いや閻魔大王様の逆鱗強きときには、どこへ追い出されるかもわからぬ。もしこの水中を追われて須弥山のてっぺん、忉利天(とうりてん)へ『陸流し』になどなったら、その道中で我々みな干物になってしまうであろう…。これは並々ならぬ一大事である。急ぎ瀬川菊之丞捕獲作戦を考えるのだ!」
龍王の仰せに一の上座についていた鯨が悠々と顔を上げ、
「仰せの通り此度は上様の一大事。私めは身不肖ながら家柄により代々家老職を相勤め、こちらに並びいる鰐や鮫なども家老の座に連なり、シビマグロなどは側用人を相勤めておりますれば彼らとも内々に会議など致しましたが、所詮は人間界のこと。詳しく聞かねば良い策も出ないというものでございます。そこで手下の者どものうち才覚ある者どもをスパイとして人間界に忍び込ませておきました。じきに様子も知れましょう…」
と言い終わらぬうちに「御注進!御注進でございますッ!」ところころ転げ込んできた者があった。こやつは本所あたりに棲まう業平しじみである。無礼者!弁えよ!と飛び交う厳しい声を龍王は声高らかに制して、「こやつら如き下郎たりとも甚だ急ぎのことである。構わん、今ここで申せ」との仰せ。しじみは恐れ入った様子で「私めは人界にてスパイのお役目を承りまして、ザルの中へ量り込まれ、人の肩に担れて、方々ぐるりとまわって人界の様子を見てまいりました。」とおずおず貝を開いた。
「まず私めが行ってまいりましたところは諸々の路地裏、裏長屋が第一でございますから、大名小路は勿論もちろんメインストリートの様子などはわかりませぬ。まず初めに参りましたところのことでございます。何のことやらわかりませんが、私めを担いだ男が「一升十五文、一升十五文」と申せば…そうでございますね、歳の頃は三十ばかりの女房が出てまいりまして「五文に負けてよ」と言います。すると私めを担いでおりました男は腹を立て、「とんでもねぇ!盗品でもあるまいし、しじみなんざ半分殻だと言われたってそんな値段で売るもんかい!」と悪態ついてさっさと出て行きました。あの女房、いかにも小綺麗な顔をしておりましたが「いい気になりやがって、いけすかない減らず口め!そんな悪態はテメェのかかあに言ってやれ!」なんぞと啖呵を切る声がほの聞こえてまいります。しかし私めを担いだ男は知らん顔で「しじみや〜しじみだよ」とまた売り歩いておりますと、とある仕舞屋風の格子からキンキン声の小娘が三味線なんぞを弾いているのが聞こえます。この龍宮界にては琴や三味線などは高貴な方々の御遊びかと思っておりましたが、こんなシケた暮らしでも娘に三味線を弾かせるとは…やれやれ人間というものはなんと傲慢な…と思うているうちに、麻の帷子を着て流行りの小紋羽織を手に提げた男がやってまいりました。
「お嬢ちゃんをお妾奉公へ出すって話、いよいよ相談はまとまりましたか。一昨日も言った通り、あちらは一国を預かるお大名で、お妾には中肉中背で鼻筋の通った常磐津をやれる娘があればとのご希望だ。こちらさんのお嬢ちゃんも磨きあげりゃ十分いけると思いますけどねぇ。特に先様お好みの常磐津がやれますから、いよいよお出しになるってんなら常磐津のお師匠サンに頼んで弟子にしてもらって、この話進めるようにいたしましょ。あちらから頂く支度金は八十両、アタシの仲介料二割を引いてもハッパ六十四・五両はお宅の取り分だ。もしも若様でも産んでごらんなさいよ。お宅は御大名お祖父様、お祖母様…十人扶持、二十人扶持もらうくらいは、棚に置いたものを取るよりも簡単ですよ。どうです、お妾にお出ししちゃうってことでようござんすか?」
男の言葉に家主夫婦は大喜びで、「イヤもう、何から何までご親切に、へへへ…おい、カカア!二合半(こなから)買ってこい!」と亭主は仏壇の下戸棚から小銭を取り出し、あぁ、そうだねアンタ!と答えた女房も浮かれ心地。燗鍋提げてドブ板を踏み抜きながら、汚れも気にせず裾をまくって走り出ていく。私めを担いだ男がこの騒ぎに付け込んで「や、どうも、おめでとうございやす。ところでお祝いにしじみはいかが」と言うのを聞こえましたので、ここで売られては大変だ!と他のしじみどもを押しのけてザルの底へ屈んでキュッと小さくなって聞いておりますと、女房は杯を洗いながら「今日の祝いはしじみなんぞじゃ済まされないよ。うなぎの蒲焼でも買おうかしら」と目もくれぬ。担いだ男はむくれっ面でザルを振りたげながらまた二、三丁ほど行って四辻を左へ曲がりますと、今度はそこらで大騒ぎ。
「この大泥棒め!」と掴み合い、組み合い、団子になってあっちへこっちへ転げ回るので格子はめりめり、皿鉢はぐわらぐわら、手桶の輪が切れて水が飛べば、煙草盆の火でも飛んだか畳からは黒煙。腕に彫物をした職人らしき男どもが諸肌脱いでの大騒ぎでございまして、聞き耳を立ててみますとどうやら女房と通じた間男んところへ大勢でカチコミをかけたようで。初めのうちは今にも切るか突くかと見ておりましたが「イヤ親分さんがた…へへ…この度はとんだご無礼を…」などと言い始め、何のかんの言っているうちに「どうぞお詫びのしるしに」と酒五升と掛けうどん十人前が届き、デタラメな『誤り』証文一枚で先ほどまでの勢いはどこへやら。首を取らんとばかりの討ち入りが、あっという間にグニャグニャへたれて宴会気分。我らを担いだ男めもヘラヘラその輪に入って仲間入り、茶碗でしたたかに酒をひっかけ良い気分でございました。さて千鳥足の帰り道。馴染みの客のうちへ寄りますと死んだ息子の七回忌とかで、ツルツル頭に天使の輪っか輝く坊主めが木遣り声を張り上げて鉦を叩いて百万遍世帯仏法腹念仏(ひゃくまんべんせたいぶっぽうはらねんぶっぽう)。「あぁ、あんたかい。今日はお坊さんが来てんだ、豆腐のぐつ煮と干し大根のはりはり漬けで済ませるからシジミはいらないよ」と突っぱねられて担いだ男は腹を立て、帰りしな「あぁ、ムシャクシャするなぁ畜生め!」とザルのシジミを川へざらざらばら撒いたので、これ幸いと引き潮に乗って息を切らして帰ってきたまいりました。」
シジミが語り終わらぬうちに、今度は背中に角を背負った者が一直線に評定の間へ駆け込んできた。こやつもシジミと同じく人間界に放されたスパイのサザエである。
「む、サザエよ。人間界の様子はどうであった!さぁ、どうであったのだ」
ご覧になるや龍王が厳しい声で問いただすと、恐れ入った様子でサザエがにじり出て口を開いた。
「私めは小田原町から通り筋をぐるって回って参りましたが、まず目を引いたのは石町の角に朝鮮人の格好をして夥しく飾り立てた看板を持った男を先頭に大勢の売り子がゾロゾロ列を成して飴を売っておりまして、またまた変わったところでは、旦那の練った膏薬売りが奥州の相馬にて主人の仇を討ったとか何とかいう噂の他にはさして変わったことは見聞きいたしませんでした。」
聞き終えた龍王、真っ赤な顔に青筋を浮かべてキッと家老以下家臣たちを睨みつけ、
「貴殿ら評議はどう言うつもりでこんな役立たず共をスパイ役に遣わしたのだ!?我々に必要な情報は菊之丞の船遊びの日時ぞ!その一番知りたい情報は持ってこず、どいつもこいつも役にも立たぬことばかり見て帰って、さも一大事であるかのように言いよって言語道断である!まったく忌々しい!それというのも貴殿ら家老・用人どもが自のことばかりを考え下々の難儀は顧みず、イワシやスバシリの類をよりたくさん己の腹へ納めんとばかり心がけ、御役目を疎かにするゆえである。私腹を肥やすことばかり考えていい加減な仕事をしておるから、こんな大事にもきちんとした魚らも派遣せず、サザエやシジミのような雑魚どもを派遣してまともな成果も上げられぬのだ。全く以って前代未聞の不行き届きである!」
と終いには青筋どころか逆鱗まで逆立てて怒る怒る。するとお叱りを受けた鯨、鰭を動かし「仰せのこと、ご尤もにございまする。」と神妙な顔で答えた。
「しかしながらスパイとして誰を派遣するか詮議いたしましたところ、他の者はみな水を離れては到底身動きが取れませぬ。それゆえ水から出てもそこそこ身動きの取れる者を選抜いたしましたが、御用に立ちませんでしたこと不届き千万でございました。あの者めらは後でキツく叱っておきまする。ところでもうひとり、人間界へ派遣した者がおりまする。兼ねてより龍王様もご存じの伊勢海老でございます。歳はとっておりまするが、酒は底抜け、ピンシャン跳ねるところがイマドキのイケジジイ⭐︎とのことで、外交・折衝役にはピッタリと留守居役を仰せつかっておりまする。そのようなわけで伊勢海老めは元日より人間に交わり、諸々の寄り合いだの、無尽講の茶会だの、吉原・堺町といった歓楽街や芝居町、岡場所をはじめとして兎に角あっちこっちに顔を出したがり、年の暮れの浅草市まで年がら年中、人間と馴れ合うのが役目でございますので。必ずや船遊びの日時を聞き届けて参りましょう。」
そう言っている折から「伊勢海老、ただいま帰って参りました。」と下の者に案内され、例のごとく真っ赤な体で腰をかがめて評定の間へとやってきた。伊勢海老をご覧じになり「様子はどうであった」と龍王が尋ねると、「そうでございますねぇ…」と伊勢海老はヒゲをうごうご蠢かし、
「私めは堺町、葺屋町、楽屋新道、芳町といった芝居街や陰間茶屋街へ入り込みまして、よくよく様子を伺ってきまして。そこで来たる十五日、菊之丞をはじめ荻野八重桐なんぞと船遊びに出ると聞いて参りました。この情報は微塵毛頭も間違いございません。」
と言葉少なに申し上げた。これには龍王も大いにお悦びになり、「さすがは留守居役を勤めるほどあって世間のツボをよく心得ておるわ。芝居小屋のある堺町とはよく気がついた。神妙な働きである。」と格別のお褒めと御褒美を下されると伊勢海老はヒゲを扱いて曲がった腰をさらに屈めて平伏した。
これで日取りはわかったと龍王は鰐、フカを近くに召され、「貴殿らには菊之丞の捕獲の任を申しつける」と申し渡した。ところが両人、「ははぁ!」とひれ伏したがどうも煮え切らない様子。
「…恐れながら龍王様、人間を捕らえることに関しては我々に続く者はございません。しかしそれは海中であればということでございまして…いいえ、仰せに否を申すつもりはございません。ございませんが…船遊びということであれば、恐らく場所は両国・永代のあたりの隅田川でございましょう。海では負け知らずの我らも、川では力及びませぬ。虎の勢い強しといえどもネズミを捕ること猫に劣るの道理でございます。例えば最上の智者であっても、使う場面を間違えれば良い知恵が出ないようものです。この任務は他の方にお申し付けくださったほうがよろしいかと…」
この申し出に龍王はしばし御思案なされ、「然らば海坊主をここへ」とお召しになった。
「海坊主、お召しにより参りましてございます。」
精進料理の油揚げも食い過ぎてはこの通り。龍王の御前に参った海坊主は、ヌルヌル黒光りする巨体を白帷子と上等な紋呂の衣で包み、贅沢に布を使った五条の袈裟を掛け、珊瑚の数珠を神妙な顔でつまさぐりつつ、
「は、私めに瀬川菊之丞を捕らえて参れと…。恐れながら龍王様、私めは仏弟子となり、身には三衣を着し、口に仏名を唱えて厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)。この世界の衆生どもを火宅ならぬ水宅を逃れて南無『網』の目に救い(掬い)取られ、極楽往生の素懐(ねがい)を遂げるよう導くことこそ我ら出家の役目でございます。ですから本来であればそのような御役目につくような身ではございませぬが…しかしながら近年は私に限らず諸宗ともみなみな風紀が乱れ、出家者の身持ちにあるまじき栄耀栄華な暮らしをするゆえ、決まった額のお布施だけでは遊女狂い、バクチの元手、重箱で取り寄せる肴代には到底足りぬと檀家から葬儀代をむしり取り、石塔を質に入れ、そんなことまでしても資金繰りがうまくいかんと物言わぬ仏をダシに使うて無知蒙昧の老婆や嬶どもをたらし込み、『これでアナタも後世は蓮の台に』などと経文に書いていない嘘八百をつき散らし、やれお堂の寄進だ、釣鐘の奉加だなどと言い立てて衆生をたぶらかすようになりました。それゆえでございましょう。いつからか坊主はバケモノ仲間に入れられて、姫路のおさかべ赤手ぬぐいなどと歌われる妖怪どもと一緒にされてしまいました。仏の教えにそんな文言があるわけがないと龍王様もよくよくご存知の上でございましょうから、今さら隠し立てすることもございますまい。しかし他所の御用ならば人間どもをたぶらかすなら坊主どもも得意ですから、すぐにでもお請申し上げますが…。この度の御用には心苦しきことがございます。何と言いますと、涼み船の往来する両国・永代のあたりには見世物師どもが甚だ多くおりまして、異国の鳥だ、毛むくじゃらのクマ女だ、小人女の碁盤踊りだなどというのはもうとっくに流行遅れ。孔雀が出ても、もう見向きもされないほどでございます。犬に軽技をさせ、サツマイモに笛を吹かせるほどの輩どもが「何か珍しい、面白そうなものがないかいな」と日々鵜の目鷹の目を光らせておりまする。私のような異形の者があんなところへ顔を出したならば、忽ち絡め取られ憂き目を見るのはわかりきっておりまする。もとより出家の身なれば死するとも命は惜しみませぬが、大切な御用でございます。もし間違いがあっては私も本意ではございませぬゆえ、どうか此度の御役目は他の方にお申し付けください。縁なき衆生は度しがたし(輩は何をするかわかりませぬ)。たとえ寺を追われようとも、このお申し付けは御辞退申し上げまする。」
じゃらりと数珠を鳴らして手を合わせ、海坊主は侍溜まりならぬ魚溜まりへ静々と退がり、評定の間はしんと静まり返ってしまった。誰からも敬われ、知恵者と呼ばれる海坊主さえ御辞退いたしますと申し上げるからには「では私めが」と手を挙げる者は誰もいない。と、ふいにシャランシャランシャラン…と鈴の音が響き、奥の方の襖が開いた。艶やかなその姿に目を見張れば、頬高く、鼻小さく、背は低く腹の膨れた、まごうことなき乙姫様に召し使われたる御半下(おはした)のおフグであった。お歴々の居並ぶ真ん中をおフグは物怖じする色も見せず進み出で、龍王の前へ畏まった。
「先ほどからあちらにて、御評議は全てお聞きしておりましたが、大切なお役目のお使いに皆様お困りなんすよし…龍王様の御案もじが御気の毒様で、姫ごぜの身で大胆ながらわっちの思案を申し上げます。世の人は皆わっちをば植木屋の娘か何ぞのように気(木)が多い、毒じゃ毒じゃと言いふらしますゆえ、腹立って頬を膨らませれば『お多福、おふく』と笑われておりました。しかし禍いも三年経てば福に転じるとの諺がございます…この度の御用を承り、龍王様の御為にわっちが百年の命を捨て、菊之丞の腹へ飛び入って連れて参りましょう。わっちには、ほんにほんに自信がありやんす。」
そう言って白い歯を剥き出し、口を窄めて申し上げると龍王はしばし思案の体。すると傍に控えたタイがヒレを正して静々と立ち出で、
「かように申せば物知り顔のようでございまするが、拙は何か祝いの席というと必ず声が掛かり、仁義礼智も多少なりと覚えありとて儒者の数に加えられた者でございまするが、ただいま謹慎中の身でタダ飯を頂いている身でございますれば、腹蔵なく申し上げまする。
総じて昔は人間もその質朴にてありしゆえ、毒というものは食わぬことと心得、フグを恐るること蛇蝎の如くでございましたが、次第に人の心は放蕩になりゆき、毒と知りながらこれを食す者が出てまいりました。君主たる御方はこれを憂いて、『フグを食うて死したる場合、その者の家は断絶とする』とまで法律を立てましたが、上、仁を好めども、下、義を好まず(君が民を慈しんでも民は鼻をほじって知らん顔)。フグ〜フグだよ〜と大路を堂々売り歩き、煮売屋の店先にもドンと置かれておりまする。是、お上を軽んずること甚だしきと言い、父母より与えられた身体髪膚(からだ)を食欲のために亡さんこと五刑の類三千(類を見ない大罪)にして親不孝より重い罪はなしと言いまする。この聖人の教えに背いては、誰も決して天命から逃れられませぬ。
剰えフグがないときは他の魚をフグもどきと名付けて食うているのですから、まったく嘆かわしいことで。古の人の言葉にも、『牢を描いて其の内に座せず』とは、仮にでも汚名を嫌うということでございます。非礼見ることなかれ、非礼聞くことなかれ(礼を欠く者を見るな、礼を欠く言葉を聞くな)と申すことも知らざる世の中の文盲というものは本当にどうしようもございませぬ。どこぞの小文才のある男(この本の作者)や、或いは他人に毒断ちを勧めるような医者なんぞに好んで食う者がございます。これなる奴らはまったく、食を貪る犬猫の如し。かくも乱れたる世の風紀でございますから菊之丞もフグはご多分に漏れずフグ好きでしょうが、天の時を以て申さば今は水無月の半ば。フグの旬ではございませぬゆえ、今のご評議はご無用でございます。」
と言われしまい、龍王は重いため息をついて顔を上げた。
「…このままダラダラ詮議を続けたところで、所詮埒も開くまい。この上は龍王ひとりで人間界に立ち向い、雲を起こし雨を降らせ、菊之丞を引っ掴んで閻魔大王様へ奉らん。」
決意を瞳に漲らせ、波を蹴立てて龍王が立ち上がる。「お待ちを!」「龍王様…ッ!」一座の鱗どもは血相変えて龍王の前後を囲い「お待ちください、龍王様!鶏を捌くのにどうして牛刀を用いましょう!今一度、ご評議を!」と留めるが龍王の勢いは止まらない。「えぇい、退け!退けい!」と前後左右の鱗どもを蹴り飛ばし、すでに黒雲を起こして竜宮城を飛び出そういうその時。御門に控えたものがサッと飛び出して、龍王の御腰にむんずと抱きついた。振り解こうと身じろぎするも腰を抱く力の強かさ。龍王の力を以ってしても、なかなかどうして身動きが取れない。まさか蘇我物語で知られた剛力の武者・御所五郎丸ではあるまいが「何者だ!ここを離せ!」と後ろを振り返ると、龍王の腰を抱いていたのはなんと頭のてっぺんに皿を頂いた門番の河童であった。これには龍王、顔色を変えて、
「おのれ下郎の分際で推参至極!」
御声高く怒鳴り付け、河童を打たんと御手を振り上げる。「龍王様、お待ちを!お留まりください!」追いかけてきた大勢の鱗どもが左右の御手に縋りついた。
「龍王様、どうか、どうかお留まり下さい。これは河童が龍王様への忠義でございまする。どうか、その心だけは汲んでやってくださいませ。さ、さ、まずは御座へ御直りを!」
鱗どもは数に任せて強引に評定の間へ引っ立て、龍王をもとのごとく御座へ座らせた。猶も腹の虫が治らない龍王であったが、その御前へ河童はおずおずとにじり出た。頭の皿から水が溢れたかと思うほど、はらはら涙を流して。
「…下郎の身を顧みず無礼を働きましたのも、寸志の忠義でございます。事に臨んで命を捨てるは臣たる者の職分。だと言うのに…そこに並居る海坊主などは日頃過分の知行(給料)を賜り、身には錦繍を纏い、網代の輿(高級車)に乗っかって御菩提所の上人様と仰がれておりますのに、すわ龍王様の御大事という今になって弁舌を以って我が身を庇う不忠者。私めはようよう御門番を勤めるような塵より軽い足軽でございますが、忠義においては高い知行を戴く上﨟の方々にも決して劣りません。足軽の身で四十七士に加わった寺坂吉右衛門を思い出してくださいまし。この度の御大事、どうか…どうか拙者に仰せ付けくださいませ!」
涙を流し切々と願い奉る河童の姿に、先ほどまで目を釣り上げていた龍王も面を和らげた。
「こやつは申し分といい、力量といい、必ず役に立つ奴じゃ、この度の役目、こやつに申し付ければと私も早くから気付いてはいたのだがな…こやつは人間の尻をほじる若衆好きと噂があるゆえ、猫にカツオの番をさせるようで心苦しく思っていたのだ。しかしただいまの忠義に愛でて、こやつに大事の役目を申しつける。皿の水が続くだけ(命の限り)忠義を尽くせ。決してぬかるなよ。」
さぁ、時間がない。早う行ってこい。との言葉に顔を輝かせ、河童は飛ぶように竜宮城を飛び出して行ったのであった。
根奈志具佐 三之巻 終わり
「閻魔大王様の幕下に属し、我はこの水中界の主となり、貴殿ら多くの鱗どもを養うてきた。これもみな閻魔大王様の御恩である。今こそ忠義を尽くさねば、いつの世にその御恩に報いることができようか。しかしそうは言っても世界を隔てのことなれば、捕まえるのは容易なことではない。もし此度の御用をし損じれば、あの長大な三途川の浚渫か、極楽のご修復か…ぬう…。銭は金魚・銀魚のごとく逃げていく、餌を乞う緋鯉のごとくホウボウよりご返済をとせっつかれる、しかし世間の目が網にかかった白魚のようにびっっっちり詰まっておるゆえ『無いヒレは振れない』などと言えるわけもなく。もしもそんな御用を仰せ付けられては、甚だ難儀であるぞ。いや閻魔大王様の逆鱗強きときには、どこへ追い出されるかもわからぬ。もしこの水中を追われて須弥山のてっぺん、忉利天(とうりてん)へ『陸流し』になどなったら、その道中で我々みな干物になってしまうであろう…。これは並々ならぬ一大事である。急ぎ瀬川菊之丞捕獲作戦を考えるのだ!」
龍王の仰せに一の上座についていた鯨が悠々と顔を上げ、
「仰せの通り此度は上様の一大事。私めは身不肖ながら家柄により代々家老職を相勤め、こちらに並びいる鰐や鮫なども家老の座に連なり、シビマグロなどは側用人を相勤めておりますれば彼らとも内々に会議など致しましたが、所詮は人間界のこと。詳しく聞かねば良い策も出ないというものでございます。そこで手下の者どものうち才覚ある者どもをスパイとして人間界に忍び込ませておきました。じきに様子も知れましょう…」
と言い終わらぬうちに「御注進!御注進でございますッ!」ところころ転げ込んできた者があった。こやつは本所あたりに棲まう業平しじみである。無礼者!弁えよ!と飛び交う厳しい声を龍王は声高らかに制して、「こやつら如き下郎たりとも甚だ急ぎのことである。構わん、今ここで申せ」との仰せ。しじみは恐れ入った様子で「私めは人界にてスパイのお役目を承りまして、ザルの中へ量り込まれ、人の肩に担れて、方々ぐるりとまわって人界の様子を見てまいりました。」とおずおず貝を開いた。
「まず私めが行ってまいりましたところは諸々の路地裏、裏長屋が第一でございますから、大名小路は勿論もちろんメインストリートの様子などはわかりませぬ。まず初めに参りましたところのことでございます。何のことやらわかりませんが、私めを担いだ男が「一升十五文、一升十五文」と申せば…そうでございますね、歳の頃は三十ばかりの女房が出てまいりまして「五文に負けてよ」と言います。すると私めを担いでおりました男は腹を立て、「とんでもねぇ!盗品でもあるまいし、しじみなんざ半分殻だと言われたってそんな値段で売るもんかい!」と悪態ついてさっさと出て行きました。あの女房、いかにも小綺麗な顔をしておりましたが「いい気になりやがって、いけすかない減らず口め!そんな悪態はテメェのかかあに言ってやれ!」なんぞと啖呵を切る声がほの聞こえてまいります。しかし私めを担いだ男は知らん顔で「しじみや〜しじみだよ」とまた売り歩いておりますと、とある仕舞屋風の格子からキンキン声の小娘が三味線なんぞを弾いているのが聞こえます。この龍宮界にては琴や三味線などは高貴な方々の御遊びかと思っておりましたが、こんなシケた暮らしでも娘に三味線を弾かせるとは…やれやれ人間というものはなんと傲慢な…と思うているうちに、麻の帷子を着て流行りの小紋羽織を手に提げた男がやってまいりました。
「お嬢ちゃんをお妾奉公へ出すって話、いよいよ相談はまとまりましたか。一昨日も言った通り、あちらは一国を預かるお大名で、お妾には中肉中背で鼻筋の通った常磐津をやれる娘があればとのご希望だ。こちらさんのお嬢ちゃんも磨きあげりゃ十分いけると思いますけどねぇ。特に先様お好みの常磐津がやれますから、いよいよお出しになるってんなら常磐津のお師匠サンに頼んで弟子にしてもらって、この話進めるようにいたしましょ。あちらから頂く支度金は八十両、アタシの仲介料二割を引いてもハッパ六十四・五両はお宅の取り分だ。もしも若様でも産んでごらんなさいよ。お宅は御大名お祖父様、お祖母様…十人扶持、二十人扶持もらうくらいは、棚に置いたものを取るよりも簡単ですよ。どうです、お妾にお出ししちゃうってことでようござんすか?」
男の言葉に家主夫婦は大喜びで、「イヤもう、何から何までご親切に、へへへ…おい、カカア!二合半(こなから)買ってこい!」と亭主は仏壇の下戸棚から小銭を取り出し、あぁ、そうだねアンタ!と答えた女房も浮かれ心地。燗鍋提げてドブ板を踏み抜きながら、汚れも気にせず裾をまくって走り出ていく。私めを担いだ男がこの騒ぎに付け込んで「や、どうも、おめでとうございやす。ところでお祝いにしじみはいかが」と言うのを聞こえましたので、ここで売られては大変だ!と他のしじみどもを押しのけてザルの底へ屈んでキュッと小さくなって聞いておりますと、女房は杯を洗いながら「今日の祝いはしじみなんぞじゃ済まされないよ。うなぎの蒲焼でも買おうかしら」と目もくれぬ。担いだ男はむくれっ面でザルを振りたげながらまた二、三丁ほど行って四辻を左へ曲がりますと、今度はそこらで大騒ぎ。
「この大泥棒め!」と掴み合い、組み合い、団子になってあっちへこっちへ転げ回るので格子はめりめり、皿鉢はぐわらぐわら、手桶の輪が切れて水が飛べば、煙草盆の火でも飛んだか畳からは黒煙。腕に彫物をした職人らしき男どもが諸肌脱いでの大騒ぎでございまして、聞き耳を立ててみますとどうやら女房と通じた間男んところへ大勢でカチコミをかけたようで。初めのうちは今にも切るか突くかと見ておりましたが「イヤ親分さんがた…へへ…この度はとんだご無礼を…」などと言い始め、何のかんの言っているうちに「どうぞお詫びのしるしに」と酒五升と掛けうどん十人前が届き、デタラメな『誤り』証文一枚で先ほどまでの勢いはどこへやら。首を取らんとばかりの討ち入りが、あっという間にグニャグニャへたれて宴会気分。我らを担いだ男めもヘラヘラその輪に入って仲間入り、茶碗でしたたかに酒をひっかけ良い気分でございました。さて千鳥足の帰り道。馴染みの客のうちへ寄りますと死んだ息子の七回忌とかで、ツルツル頭に天使の輪っか輝く坊主めが木遣り声を張り上げて鉦を叩いて百万遍世帯仏法腹念仏(ひゃくまんべんせたいぶっぽうはらねんぶっぽう)。「あぁ、あんたかい。今日はお坊さんが来てんだ、豆腐のぐつ煮と干し大根のはりはり漬けで済ませるからシジミはいらないよ」と突っぱねられて担いだ男は腹を立て、帰りしな「あぁ、ムシャクシャするなぁ畜生め!」とザルのシジミを川へざらざらばら撒いたので、これ幸いと引き潮に乗って息を切らして帰ってきたまいりました。」
シジミが語り終わらぬうちに、今度は背中に角を背負った者が一直線に評定の間へ駆け込んできた。こやつもシジミと同じく人間界に放されたスパイのサザエである。
「む、サザエよ。人間界の様子はどうであった!さぁ、どうであったのだ」
ご覧になるや龍王が厳しい声で問いただすと、恐れ入った様子でサザエがにじり出て口を開いた。
「私めは小田原町から通り筋をぐるって回って参りましたが、まず目を引いたのは石町の角に朝鮮人の格好をして夥しく飾り立てた看板を持った男を先頭に大勢の売り子がゾロゾロ列を成して飴を売っておりまして、またまた変わったところでは、旦那の練った膏薬売りが奥州の相馬にて主人の仇を討ったとか何とかいう噂の他にはさして変わったことは見聞きいたしませんでした。」
聞き終えた龍王、真っ赤な顔に青筋を浮かべてキッと家老以下家臣たちを睨みつけ、
「貴殿ら評議はどう言うつもりでこんな役立たず共をスパイ役に遣わしたのだ!?我々に必要な情報は菊之丞の船遊びの日時ぞ!その一番知りたい情報は持ってこず、どいつもこいつも役にも立たぬことばかり見て帰って、さも一大事であるかのように言いよって言語道断である!まったく忌々しい!それというのも貴殿ら家老・用人どもが自のことばかりを考え下々の難儀は顧みず、イワシやスバシリの類をよりたくさん己の腹へ納めんとばかり心がけ、御役目を疎かにするゆえである。私腹を肥やすことばかり考えていい加減な仕事をしておるから、こんな大事にもきちんとした魚らも派遣せず、サザエやシジミのような雑魚どもを派遣してまともな成果も上げられぬのだ。全く以って前代未聞の不行き届きである!」
と終いには青筋どころか逆鱗まで逆立てて怒る怒る。するとお叱りを受けた鯨、鰭を動かし「仰せのこと、ご尤もにございまする。」と神妙な顔で答えた。
「しかしながらスパイとして誰を派遣するか詮議いたしましたところ、他の者はみな水を離れては到底身動きが取れませぬ。それゆえ水から出てもそこそこ身動きの取れる者を選抜いたしましたが、御用に立ちませんでしたこと不届き千万でございました。あの者めらは後でキツく叱っておきまする。ところでもうひとり、人間界へ派遣した者がおりまする。兼ねてより龍王様もご存じの伊勢海老でございます。歳はとっておりまするが、酒は底抜け、ピンシャン跳ねるところがイマドキのイケジジイ⭐︎とのことで、外交・折衝役にはピッタリと留守居役を仰せつかっておりまする。そのようなわけで伊勢海老めは元日より人間に交わり、諸々の寄り合いだの、無尽講の茶会だの、吉原・堺町といった歓楽街や芝居町、岡場所をはじめとして兎に角あっちこっちに顔を出したがり、年の暮れの浅草市まで年がら年中、人間と馴れ合うのが役目でございますので。必ずや船遊びの日時を聞き届けて参りましょう。」
そう言っている折から「伊勢海老、ただいま帰って参りました。」と下の者に案内され、例のごとく真っ赤な体で腰をかがめて評定の間へとやってきた。伊勢海老をご覧じになり「様子はどうであった」と龍王が尋ねると、「そうでございますねぇ…」と伊勢海老はヒゲをうごうご蠢かし、
「私めは堺町、葺屋町、楽屋新道、芳町といった芝居街や陰間茶屋街へ入り込みまして、よくよく様子を伺ってきまして。そこで来たる十五日、菊之丞をはじめ荻野八重桐なんぞと船遊びに出ると聞いて参りました。この情報は微塵毛頭も間違いございません。」
と言葉少なに申し上げた。これには龍王も大いにお悦びになり、「さすがは留守居役を勤めるほどあって世間のツボをよく心得ておるわ。芝居小屋のある堺町とはよく気がついた。神妙な働きである。」と格別のお褒めと御褒美を下されると伊勢海老はヒゲを扱いて曲がった腰をさらに屈めて平伏した。
これで日取りはわかったと龍王は鰐、フカを近くに召され、「貴殿らには菊之丞の捕獲の任を申しつける」と申し渡した。ところが両人、「ははぁ!」とひれ伏したがどうも煮え切らない様子。
「…恐れながら龍王様、人間を捕らえることに関しては我々に続く者はございません。しかしそれは海中であればということでございまして…いいえ、仰せに否を申すつもりはございません。ございませんが…船遊びということであれば、恐らく場所は両国・永代のあたりの隅田川でございましょう。海では負け知らずの我らも、川では力及びませぬ。虎の勢い強しといえどもネズミを捕ること猫に劣るの道理でございます。例えば最上の智者であっても、使う場面を間違えれば良い知恵が出ないようものです。この任務は他の方にお申し付けくださったほうがよろしいかと…」
この申し出に龍王はしばし御思案なされ、「然らば海坊主をここへ」とお召しになった。
「海坊主、お召しにより参りましてございます。」
精進料理の油揚げも食い過ぎてはこの通り。龍王の御前に参った海坊主は、ヌルヌル黒光りする巨体を白帷子と上等な紋呂の衣で包み、贅沢に布を使った五条の袈裟を掛け、珊瑚の数珠を神妙な顔でつまさぐりつつ、
「は、私めに瀬川菊之丞を捕らえて参れと…。恐れながら龍王様、私めは仏弟子となり、身には三衣を着し、口に仏名を唱えて厭離穢土欣求浄土(おんりえどごんぐじょうど)。この世界の衆生どもを火宅ならぬ水宅を逃れて南無『網』の目に救い(掬い)取られ、極楽往生の素懐(ねがい)を遂げるよう導くことこそ我ら出家の役目でございます。ですから本来であればそのような御役目につくような身ではございませぬが…しかしながら近年は私に限らず諸宗ともみなみな風紀が乱れ、出家者の身持ちにあるまじき栄耀栄華な暮らしをするゆえ、決まった額のお布施だけでは遊女狂い、バクチの元手、重箱で取り寄せる肴代には到底足りぬと檀家から葬儀代をむしり取り、石塔を質に入れ、そんなことまでしても資金繰りがうまくいかんと物言わぬ仏をダシに使うて無知蒙昧の老婆や嬶どもをたらし込み、『これでアナタも後世は蓮の台に』などと経文に書いていない嘘八百をつき散らし、やれお堂の寄進だ、釣鐘の奉加だなどと言い立てて衆生をたぶらかすようになりました。それゆえでございましょう。いつからか坊主はバケモノ仲間に入れられて、姫路のおさかべ赤手ぬぐいなどと歌われる妖怪どもと一緒にされてしまいました。仏の教えにそんな文言があるわけがないと龍王様もよくよくご存知の上でございましょうから、今さら隠し立てすることもございますまい。しかし他所の御用ならば人間どもをたぶらかすなら坊主どもも得意ですから、すぐにでもお請申し上げますが…。この度の御用には心苦しきことがございます。何と言いますと、涼み船の往来する両国・永代のあたりには見世物師どもが甚だ多くおりまして、異国の鳥だ、毛むくじゃらのクマ女だ、小人女の碁盤踊りだなどというのはもうとっくに流行遅れ。孔雀が出ても、もう見向きもされないほどでございます。犬に軽技をさせ、サツマイモに笛を吹かせるほどの輩どもが「何か珍しい、面白そうなものがないかいな」と日々鵜の目鷹の目を光らせておりまする。私のような異形の者があんなところへ顔を出したならば、忽ち絡め取られ憂き目を見るのはわかりきっておりまする。もとより出家の身なれば死するとも命は惜しみませぬが、大切な御用でございます。もし間違いがあっては私も本意ではございませぬゆえ、どうか此度の御役目は他の方にお申し付けください。縁なき衆生は度しがたし(輩は何をするかわかりませぬ)。たとえ寺を追われようとも、このお申し付けは御辞退申し上げまする。」
じゃらりと数珠を鳴らして手を合わせ、海坊主は侍溜まりならぬ魚溜まりへ静々と退がり、評定の間はしんと静まり返ってしまった。誰からも敬われ、知恵者と呼ばれる海坊主さえ御辞退いたしますと申し上げるからには「では私めが」と手を挙げる者は誰もいない。と、ふいにシャランシャランシャラン…と鈴の音が響き、奥の方の襖が開いた。艶やかなその姿に目を見張れば、頬高く、鼻小さく、背は低く腹の膨れた、まごうことなき乙姫様に召し使われたる御半下(おはした)のおフグであった。お歴々の居並ぶ真ん中をおフグは物怖じする色も見せず進み出で、龍王の前へ畏まった。
「先ほどからあちらにて、御評議は全てお聞きしておりましたが、大切なお役目のお使いに皆様お困りなんすよし…龍王様の御案もじが御気の毒様で、姫ごぜの身で大胆ながらわっちの思案を申し上げます。世の人は皆わっちをば植木屋の娘か何ぞのように気(木)が多い、毒じゃ毒じゃと言いふらしますゆえ、腹立って頬を膨らませれば『お多福、おふく』と笑われておりました。しかし禍いも三年経てば福に転じるとの諺がございます…この度の御用を承り、龍王様の御為にわっちが百年の命を捨て、菊之丞の腹へ飛び入って連れて参りましょう。わっちには、ほんにほんに自信がありやんす。」
そう言って白い歯を剥き出し、口を窄めて申し上げると龍王はしばし思案の体。すると傍に控えたタイがヒレを正して静々と立ち出で、
「かように申せば物知り顔のようでございまするが、拙は何か祝いの席というと必ず声が掛かり、仁義礼智も多少なりと覚えありとて儒者の数に加えられた者でございまするが、ただいま謹慎中の身でタダ飯を頂いている身でございますれば、腹蔵なく申し上げまする。
総じて昔は人間もその質朴にてありしゆえ、毒というものは食わぬことと心得、フグを恐るること蛇蝎の如くでございましたが、次第に人の心は放蕩になりゆき、毒と知りながらこれを食す者が出てまいりました。君主たる御方はこれを憂いて、『フグを食うて死したる場合、その者の家は断絶とする』とまで法律を立てましたが、上、仁を好めども、下、義を好まず(君が民を慈しんでも民は鼻をほじって知らん顔)。フグ〜フグだよ〜と大路を堂々売り歩き、煮売屋の店先にもドンと置かれておりまする。是、お上を軽んずること甚だしきと言い、父母より与えられた身体髪膚(からだ)を食欲のために亡さんこと五刑の類三千(類を見ない大罪)にして親不孝より重い罪はなしと言いまする。この聖人の教えに背いては、誰も決して天命から逃れられませぬ。
剰えフグがないときは他の魚をフグもどきと名付けて食うているのですから、まったく嘆かわしいことで。古の人の言葉にも、『牢を描いて其の内に座せず』とは、仮にでも汚名を嫌うということでございます。非礼見ることなかれ、非礼聞くことなかれ(礼を欠く者を見るな、礼を欠く言葉を聞くな)と申すことも知らざる世の中の文盲というものは本当にどうしようもございませぬ。どこぞの小文才のある男(この本の作者)や、或いは他人に毒断ちを勧めるような医者なんぞに好んで食う者がございます。これなる奴らはまったく、食を貪る犬猫の如し。かくも乱れたる世の風紀でございますから菊之丞もフグはご多分に漏れずフグ好きでしょうが、天の時を以て申さば今は水無月の半ば。フグの旬ではございませぬゆえ、今のご評議はご無用でございます。」
と言われしまい、龍王は重いため息をついて顔を上げた。
「…このままダラダラ詮議を続けたところで、所詮埒も開くまい。この上は龍王ひとりで人間界に立ち向い、雲を起こし雨を降らせ、菊之丞を引っ掴んで閻魔大王様へ奉らん。」
決意を瞳に漲らせ、波を蹴立てて龍王が立ち上がる。「お待ちを!」「龍王様…ッ!」一座の鱗どもは血相変えて龍王の前後を囲い「お待ちください、龍王様!鶏を捌くのにどうして牛刀を用いましょう!今一度、ご評議を!」と留めるが龍王の勢いは止まらない。「えぇい、退け!退けい!」と前後左右の鱗どもを蹴り飛ばし、すでに黒雲を起こして竜宮城を飛び出そういうその時。御門に控えたものがサッと飛び出して、龍王の御腰にむんずと抱きついた。振り解こうと身じろぎするも腰を抱く力の強かさ。龍王の力を以ってしても、なかなかどうして身動きが取れない。まさか蘇我物語で知られた剛力の武者・御所五郎丸ではあるまいが「何者だ!ここを離せ!」と後ろを振り返ると、龍王の腰を抱いていたのはなんと頭のてっぺんに皿を頂いた門番の河童であった。これには龍王、顔色を変えて、
「おのれ下郎の分際で推参至極!」
御声高く怒鳴り付け、河童を打たんと御手を振り上げる。「龍王様、お待ちを!お留まりください!」追いかけてきた大勢の鱗どもが左右の御手に縋りついた。
「龍王様、どうか、どうかお留まり下さい。これは河童が龍王様への忠義でございまする。どうか、その心だけは汲んでやってくださいませ。さ、さ、まずは御座へ御直りを!」
鱗どもは数に任せて強引に評定の間へ引っ立て、龍王をもとのごとく御座へ座らせた。猶も腹の虫が治らない龍王であったが、その御前へ河童はおずおずとにじり出た。頭の皿から水が溢れたかと思うほど、はらはら涙を流して。
「…下郎の身を顧みず無礼を働きましたのも、寸志の忠義でございます。事に臨んで命を捨てるは臣たる者の職分。だと言うのに…そこに並居る海坊主などは日頃過分の知行(給料)を賜り、身には錦繍を纏い、網代の輿(高級車)に乗っかって御菩提所の上人様と仰がれておりますのに、すわ龍王様の御大事という今になって弁舌を以って我が身を庇う不忠者。私めはようよう御門番を勤めるような塵より軽い足軽でございますが、忠義においては高い知行を戴く上﨟の方々にも決して劣りません。足軽の身で四十七士に加わった寺坂吉右衛門を思い出してくださいまし。この度の御大事、どうか…どうか拙者に仰せ付けくださいませ!」
涙を流し切々と願い奉る河童の姿に、先ほどまで目を釣り上げていた龍王も面を和らげた。
「こやつは申し分といい、力量といい、必ず役に立つ奴じゃ、この度の役目、こやつに申し付ければと私も早くから気付いてはいたのだがな…こやつは人間の尻をほじる若衆好きと噂があるゆえ、猫にカツオの番をさせるようで心苦しく思っていたのだ。しかしただいまの忠義に愛でて、こやつに大事の役目を申しつける。皿の水が続くだけ(命の限り)忠義を尽くせ。決してぬかるなよ。」
さぁ、時間がない。早う行ってこい。との言葉に顔を輝かせ、河童は飛ぶように竜宮城を飛び出して行ったのであった。
根奈志具佐 三之巻 終わり
