ごぉるでんでぇもん⑥
公開 2024/07/28 09:42
最終更新
2024/07/30 18:51
第七章
熱海は東京に比べて十余度ほども温かい。今日はようやく一月も半ばを過ぎたところだが、二千本もの梅林の梢は咲き乱れ、昼下がりの日差しは燦々と見上げる人々の面を照らしていた。また梅林の小路は爽やかな梅の香に満ち、袖を振れば波立つように清香は匂いくる。この庭には梅の他には一木もなく、所々に乱石が低く横たわるのみ。足元は一面に毛氈を敷いたように芝生が整えられ、その中を引き裂いた練絹が翻るように早瀬が横たわり、石に砕けては白玉のような飛沫を迸らせていた。後ろに背負う松杉の緑は麗らかに晴れた空を貫き、頂きにかかる雲は物憂げに眠るようである。そよとも吹かぬのに頻りと花は散り、はらり、はらりと舞いながら散る花びらを歌に詠むように鶯が競って鳴いていた。
宮は母親と連れ立って梅林に足を踏み入れた。二人は橋を渡り、船板のベンチを据えた木の下を目指してゆっくりと歩みを進める。宮の病はまだ良くならないのだろうか。薄化粧した顔は散り落ちた花びらのように萎れ、足取りも重く、ともすれば俯いてしまいがちな頭を思い出しては起こし、努めて梢を眺めるような具合である。宮は何か思い悩むことがあると唇を噛む癖がある。いま彼女は頻りに唇を噛み締めながら、
「御母さん、どうしましょうねぇ…」
咲き乱れる枝を飽かず見上げていた母の目は、このとき漸く娘を見た。
「どうしようったって、お前の心ひとつじゃないか。最初にどうだと聞いた時、お前が嫁きたいと言うからこういう話にしたんじゃないかね。それを今さら……」
「それはそうだけれど、どうも貫一さんのことが気になって…。御父さんはもう貫一さんに話しをしたかしら、ねぇ御母さん…」
「あぁ、もうなさったろうね」
宮はまたぐっと唇を噛み締めた。
「私は…御母さん、貫一さんに合わせる顔がないわ。だからもし嫁くなら、もう貫一さんとは逢わないで嫁いでしまいたいの。だから、そういう段取りにしてくださいな。…私はもう、逢わずに嫁くわ」
声は低く、美しい目に涙が滲む。宮はハンカチーフを押し当てた。忘れられるものか、その涙を拭ったハンカチーフは二度と逢わぬと決めた人がくれたものである。
「お前、そんなに悩むのなら、どうして嫁きたいなんて言ったんだね。そういつまでも迷っていては困るじゃないか。一日経てばその分話しは進むのだから、嫁ぐなら嫁ぐ、お断りするならお断りすると本当にしっかり決めなくてはいけないよ。お前が嫌なものを、どうしても嫁げと言うのじゃないのだから、お断りするなら早く断らなければ。だけれど…今になって断ると言ったって……」
「いいの。私、ちゃんと嫁ぐことは嫁ぐわ。でも貫一さんのことを考えると、自分が情けなくなって……」
貫一の件は母にとっても寝ても醒めても胸苦しいことであったから、娘が彼の名を口にする度に犯した罪を言い上げられるように思われて。本来ならこの良縁を喜ばしい筈なのに…と思いつつ、さすがに心から喜べないのであった。母は殊更明るく宮を慰めようとする。娘を慰めることでようと、自らも慰めようとするように。
「お父さんからお話しがあって、貫一さんもそれで納得すれば済むことだし、それにお前があちらへ嫁いでからは末々まで貫一さんの力になってあげればお互い幸せというもだから。そこを考えれば貫一さんだって……、それに男というものは思い切りがいいから、お前が心配してるようなことはないよ。これっきり逢わずに嫁に行くだなんて、それはお前、却って良くないから。ちゃんと逢って、ちゃんと話をして、そうしてさっぱり別れるのさ。今後も末永く兄妹で行き来をしなければならないのだもの。いずれ今日か明日にはお父さんからお便りがあって、うちの様子も分かろうから、そうしたら帰って早く嫁入りの支度にかからなければ」
宮はベンチに腰掛け半ば聴きながら、なかば物思いに耽りながら、膝に散り来る花びらを拾っては、唇を噛み締める代わりに頻りに指先で弄んでいる。鶯の声の絶え間を早瀬の流れが咽ぶように聞こえていた。
宮が何気なく顔を上げるとと共に少し離れた花枝の間に、そぞろ歩きする男の影を認めた。もしやと宮の心が波立つ。木立が垣のように、花が幕のように遮る隙間を縫いつつしばらくその影を目で追っていた宮は、その男が誰がわかったのだろう。お母さん、ちょっと…、と慌ただしく母に囁いた。急いでベンチを立ち、五六歩ほど歩いたところであちらも宮と母を見つけらしく、いち早く声をかけた。
「あぁ、そこにおいででしたか!」
静かな梅林にやけにその声は大きく響いた。宮はその声を聞くなり、怯えたようにベンチの端に身を寄せた。
「はい、今しがた来ましたところでございます、あなたもよくお出かけでござきましたこと」
母は朗らかに挨拶しながら彼を出迎える。宮はそちらを見もせず、ただ男が足早に近付いてくる足音を聞いていた。
母子の前に現れた若い紳士は、言うまでもない。指には目が覚めるような大きな金剛石をキラキラ輝かせて…緑色の玉に獅子頭の彫刻を施した、象牙のように艶やかな白いステッキの先で低い梢の花を打ち落とし打ち落とし、
「今貴女がたの宿へ行きましてね、ここへ出掛けたと聞いて追っかけてきたわけです。いやぁ、暑いじゃないですか」
ようやく顔を上げた宮がさて淑やかに立ち上がり恭しく礼をすると、唯継はいかにも嬉しそうな目をして受けながら、飽くまで高慢さを忘れず頷いた。その張り出したエラやへの字に結んだ薄い唇や、いやにギラギラ光る金縁の眼鏡が、彼の尊大さになおさら光彩を添えているに違いない。
「おや、そうでございましたか、それはまあ。あんまりいいお天気でございますから、ぶらぶらと出掛けてみました。ほんに今日はお暑いくらいでございますね。まぁ、こちらへお掛けあそばして」
母がベンチを立つと宮も立ち上がり、道を開けるように母の傍らに立った。
「あなたがたもお掛けなさいましな。今朝ですよ、東京からの手紙で『急用があるからさっそく帰るように』と…というのは、今度私がちょっとした会社を建てるのです。外国へこちらの塗り物を売り込む会社。これは去年からの計画で、いよいよこの三月か四月には立派に出来上がる訳でありますから、私も今は随分忙しい身でしてね。なにしろ社長ですからな。それで私が行かなければ解らんことがあるので呼びに来た。で、明日の朝、熱海を立たなければならんのであります。」
「おや、それは急なことで」
「あなたがたも一緒に帰りませんか」
唯継は言いながら宮の顔をチラリと伺ったが、宮は何言うでもなく佇んだまま。見兼ねてまた母が答える。
「はい、ありがたい御申し出で…」
「それともまだ熱海においでですか。宿屋にいても不自由で面白くもないじゃないですか。来年あたりはひとつ別荘でも建てましょう。なに、別荘なんぞわけもない。土地を広くとって、その中に風流な田舎家を造るのです。食べ物なんかは東京から取り寄せて、そうじゃなければ保養になんぞならん。家が出来たら、ゆっくり遊びにいらっしゃい」
「まぁ、結構なことでございますね」
「お宮さんは…なんですか、こういう田舎の静かなところがお好きなのかな?」
「……」
宮は微笑んだまま何も言わない。母が傍らから、
「これはもう遊ぶことなら嫌いなんてございませんわ」
「ははははは!誰でもそうです。それじゃこれからはもっともっとお遊びなさい。どうせ毎日、何の用もないのだから。田舎でも、東京でも西京でも好きなところへ行って遊ぶのです。船はお嫌いですか、ははぁ。船が平気でしたら、支那からアメリカの方を見物がてら今度旅行をしてくるのも面白いけれど。日本のうちじゃ遊山に歩いたところで知れたものですよ、どんな贅沢をしたとしてもね。あぁ、そうだ。お帰りになったら一日、赤坂の別荘の方へ遊びにおいでください、ねぇ。梅の良いのがあるのです。それは大きな梅林があって、一本一本種の違うのを集めて二百本もあるが皆老木ばかりです。この梅などまるで仕方がない!こんな若い野梅、薪みたいなものだ。とても庭に植えられる花じゃない。これで熱海の梅林とは恐れ入る。是非うちのをお目にかけたいですね、一日遊びに来てください。ご馳走しますよ。お宮さんは何がお好きです?えぇ、一番好きな物は?」
「……、」
彼は密かに宮と語らいを望み水を向けるが、宮はなお何も言わず、ただ恥ずかしげに微笑むのみ。
「…で、いつお帰りになりますか。明日一緒にお発ちにはなりませんか。こっちにそう長くいなきゃいけない訳でもないでしょう。そんなら一緒にお発ちなすったらどうです?」
「はい、ありがとうございます。ですが少々宅の方の都合がございまして…二日三日のうちには便りがございますはずで。その便りを待ちまして、実は帰ることに致しましてございますものですから、折角の御申し出ですが、はい…」
「ははぁ、それじゃどうもな」
唯継は例の不遜な態度で天を睨むようにうち仰ぎ、杖の獅子頭を撫で回しつつ暫く思案するような体であったが、やおら白羽二重のハンカチーフを懐から取り出してさっと一振り広げると鼻を拭った。その瞬間、梅の香を押し退けてヴァイオレットの香りがぶわっと広がり、宮も母もその匂いの鋭さに一瞬息を詰まらせた。
「あぁと、私これから少し散歩しようと思うのであります。ここから出て流れに沿って田んぼの方をね。私はまた見たことがないが、とても景色が良いそうだ。ご一緒にいかがと思いましたが、だいぶ道のりがあるから貴女にはご迷惑でありましょう。二時間ばかりお宮さんをお貸しくださいな。私一人で歩いてもつまらない。お宮さんは胃が悪いのだから散歩は極めて薬。これから行ってみましょうよ、ねぇ」
返事も待たず、彼は杖を取り直してもう立ち上がろうとしている。
「はい、ありがとうございます。お前、お供させていただくかい?」
「……、」
躊躇う姿を見て、唯継は促すようにベンチを立つ。
「さぁ、行ってみましょう。えぇ、胃の薬です。そうグジグジしていてはいけない」
つと宮に近づき、唯継はその肩を促すようにぽんと軽く叩く。宮はたちまち頬を赤らめ、どうしたらいいかわからないというようにオロオロと立ちすくんでいる。母の前だというのに憚らぬ男の馴れ馴れしさを嫌とまでは思わないけれど、何だか自分がひとくはしたない女のように思われて。
「……。」
えも言われぬ娘の初心が、染み入るようにゾクゾクと男を昂らせる。その昂りはそぞろ唯継の目の中に顕れて、唯継は怪しくほくそ笑んだ。この初心で愛らしい、美しい娘の柔らかい手を握り、人無き長閑な野道を語らいつつ歩けばどんなに良いだろう…。彼は気もそぞろに、
「さぁ、行ってみましょう。御母さんからお許しが出たんだからいいじゃありませんか、ねぇ。あなた、よろしいでしょう」
母はなお宮が恥じる様を見て、
「お前、ご一緒するかい?どうおしだえ?」
「あなた、『ご一緒するかい』なんて仰っちゃいけません。『ご一緒しなさい』と命令なさってください。」
「まぁ…」
宮も母も思わず笑った。唯継も二人に遅れじと笑う。
(…あら、)
また誰か梅園に入ってきたようであった。気付いた宮はあたりを窺うが、姿は見えず靴音のみが花の向こうから聞こえる。梅を見に来た客だろうか、それにしては用事でもあるのか忙しく踏み鳴らす足音である。
「それじゃお前、お供をおしな」
「さぁ、行きましょう。ちょっとそこまででありますよ」
宮は小さな声で、
「御母さんも一緒に行きましょうよ」
「えぇ、私かい?まあお前、お供をおしなね」
母親付きでは全く風流ではない、それじゃちっとも雰囲気が出ないじゃないか。唯継は飽くまで二人きりがいいと、
「いや、御母さんには却ってご迷惑です。道が良くないから、御母さんにはとてもいけますまい。実際あなたにはとてもじゃないがお勧め申されませんよ、ご迷惑になる。何も遠くへ行くのじゃないのだから、御母さんが一緒じゃなくてもいいじゃありませんか、ねぇ。折角思い立ったんですから、ちょっとそこまででいいから付き合って下さい。貴女が嫌だったら直ぐに帰りますよ、ねぇ。それはなかなかの景色だから、まぁ私に騙されたと思って来てご覧なさいな、ねぇ」
このとき、先程から聞こえていた靴音がはたと止んだ。靴音の主は立ち去ったかと思いきや、七八間向こうの木陰に足を止めてじっと息をひそめてこなたを窺っている。しかし唯継も鴫沢母子も誰も気付いていない。木陰に佇むその人は、高等中学の制服の上に焦げ茶のオーバーコートを着て、肩には年季の入った象皮の学校鞄をかけ…彼は間貫一ではあるまいか。
再び靴音は高く、足早に近付いてくる。闖入者の足音に三人が驚き振り返ると、花の散りかかる中を進み来た学生は学帽を取り、
「おばさん、参りましたよ」
彼を見とめて、母子は動転して色を失った。母親は驚きのあまり焦点の合わないような目でぼんやりと彼を見つめ、しばらく石のように固まったまま微動だにせず。宮は今ここで死んでしまいたい、このまま消え去って土になってしまえたら…と思いつつ、薄白く色を失った唇を食いちぎるほど噛み締めて。
おもうに彼らの驚きと恐れとは、自分が殺したはずの人間が思いがけず生きていて目の前に現れたようなものである。気もそぞろに母は、譫言のようにやっと唇を開いた。
「お…おや、おいでなの…」
宮は幾らかでも彼の目から逃れたいというように木陰に身を寄せて、弾む息を聞かれぬようにとハンカチーフで唇を覆った。それでも見るのは苦しいが会えなければ辛い貫一である。彼の顔を俯いた額越しに窺いつつ、また一方では唯継の様子も密かに気遣っていた。
唯継は彼らの心にそれほどの大波乱があるとは当然知らない。あぁ、あれが例の鴫沢の食客か…とんだ邪魔が入ったなと、いつもの金剛石の手をこれみよがしに杖に置き、誇りかに梢を仰ぎ口を結んだ。
貫一は全て知っている。今回の件も、彼が唯継だということも、先ほどまでの三人の様子も多少なりとも見ていた。
後だ、言うべきことは後できっちり言おう。今はしばし、顔にも出さん。そうして張り裂けそうな胸の無念を鎮めて、貫一は苦しげに作り笑顔を貼り付けた。
「ミイさんの病気はどうですか」
宮は堪りかねてハンカチーフを食い締める。
「あ…あぁ、だいぶ良いのでね、もう二三日のうちには帰ろうと思ってね。お前さんも良く来られましたね。学校はどうなすったの?」
「教室の工事があるとかで、今日半日と明日明後日は休みになったものですから」
「おや、そうかい」
唯継と貫一とを左右に受けた母の絶対絶命は、誤って野中の古井戸に落ちた人が沈みもせず、かと言って上がることも出来ないような。やっとのことで取り縋った命綱の草の根を、鼠がやって来て目の前で齧るような。そんな生きた心地もせぬ有様である。いったいどうしたらと恐れ迷うが、とうとうその運命から逃れられないことを悟り、母はようやく覚悟を決めた。
「ちょうど宅から人が参りましたので、甚だ勝手で申し訳ございませんが、私どもはこれから宿へ帰りますので。いずれまた後ほどお伺いしますが……」
「ははぁ、それではなんでありますか、明日はご一緒に帰れるような都合になりますな」
「はい、話の模様によりましては、ご一緒できるかもしれませんので。いずれ後ほどには是非伺いまして、……」
「なるほど、それでは残念ですが、私も散歩はやめます。散歩はやめてこれから帰ります。帰ってお待ち申していますから、あとで是非おいで下さいよ。よろしいですか、お宮さん。それでは後できっといらっしゃいよ。誠に今日は残念でありますなぁ」
唯継は行こうする足をすいと宮の方へ向け、宮の傍に寄り、
「あなた、きっと後でいらっしゃいよ、えぇ」
貫一は瞬きもせず、じっとそれを見つめていた。宮は答えに窮して会釈さえ出来ず。しかし小娘の恥じらいはこんなものだろうとしか思っていない唯継はますます身を寄せ、舐るようにねっとりと、
「…よろしいですか、来なくてはいけませんよ。私、待っていますから…」
貫一の眼は炎のように燃え上がり、宮の横顔を睨めつける。宮は恐ろしくて貫一の顔を見やることもできないが、さりとて彼の怒りも当然…とひとり心を慄かせた。しかしこのまま答えねば、唯継がまた何を言い出すかわからない。今はこの場を取り繕って…と、宮はようよう小さく会釈を返した。
母子にとってはどれほど幸いだったろう。唯継は貫一について露ほども疑いを持たず、あくまで愛しい宮に後ろ髪引かれるように帰って行った。
その後ろ姿を穴が空くほど見つめていた貫一は、我を忘れてしばらく佇んでいた。母子は彼の心を測りかねて言葉をなく、息をさえ殺して、ただ早瀬のせせらぎだけがうるさいくらいに耳に響く。
やがてこちらを向き直った貫一は、只ならぬ怒りに血の気の失せた顔へ笑おうとして失敗したような僅かな笑みを浮かべていた。
「ミイさん、今の奴はこの間のカルタに来ていた金剛石だね」
宮は俯いて唇を噛んだ。母は素知らぬ顔で、折しも啼いた鶯を窺うように梢を見上げている。貫一はこの有様を見て、ふふっと嘲笑った。
「夜見たらそれほどでもなかったけれど、昼間見ると実にキザな奴だね。そうしてどうだ、あの高慢ちきのツラは!」
「貫一さん、」
母は急いで呼びかける。
「はい」
「お前さん、おじさんからお話はお聞きでしょうね、今度の話は」
「はい」
「あぁ、それならいいけれど。普段のお前さんらしくもない、そんな人の悪口だなんて言うものじゃありませんよ」
「はい」
「さぁ、もう帰りましょう。お前さんもお疲れだろうから、お湯にでも入って…そういえばお昼ご飯もまだなのでしょう」
「いえ、汽車の中で寿司を食べました」
三人は揃って歩き始めた。するとさっとオーバーコートの肩を払われて、貫一が振り返ると宮と目が合った。
「…そこに花が着いていたからとったのよ」
「それはありがとう!」
熱海は東京に比べて十余度ほども温かい。今日はようやく一月も半ばを過ぎたところだが、二千本もの梅林の梢は咲き乱れ、昼下がりの日差しは燦々と見上げる人々の面を照らしていた。また梅林の小路は爽やかな梅の香に満ち、袖を振れば波立つように清香は匂いくる。この庭には梅の他には一木もなく、所々に乱石が低く横たわるのみ。足元は一面に毛氈を敷いたように芝生が整えられ、その中を引き裂いた練絹が翻るように早瀬が横たわり、石に砕けては白玉のような飛沫を迸らせていた。後ろに背負う松杉の緑は麗らかに晴れた空を貫き、頂きにかかる雲は物憂げに眠るようである。そよとも吹かぬのに頻りと花は散り、はらり、はらりと舞いながら散る花びらを歌に詠むように鶯が競って鳴いていた。
宮は母親と連れ立って梅林に足を踏み入れた。二人は橋を渡り、船板のベンチを据えた木の下を目指してゆっくりと歩みを進める。宮の病はまだ良くならないのだろうか。薄化粧した顔は散り落ちた花びらのように萎れ、足取りも重く、ともすれば俯いてしまいがちな頭を思い出しては起こし、努めて梢を眺めるような具合である。宮は何か思い悩むことがあると唇を噛む癖がある。いま彼女は頻りに唇を噛み締めながら、
「御母さん、どうしましょうねぇ…」
咲き乱れる枝を飽かず見上げていた母の目は、このとき漸く娘を見た。
「どうしようったって、お前の心ひとつじゃないか。最初にどうだと聞いた時、お前が嫁きたいと言うからこういう話にしたんじゃないかね。それを今さら……」
「それはそうだけれど、どうも貫一さんのことが気になって…。御父さんはもう貫一さんに話しをしたかしら、ねぇ御母さん…」
「あぁ、もうなさったろうね」
宮はまたぐっと唇を噛み締めた。
「私は…御母さん、貫一さんに合わせる顔がないわ。だからもし嫁くなら、もう貫一さんとは逢わないで嫁いでしまいたいの。だから、そういう段取りにしてくださいな。…私はもう、逢わずに嫁くわ」
声は低く、美しい目に涙が滲む。宮はハンカチーフを押し当てた。忘れられるものか、その涙を拭ったハンカチーフは二度と逢わぬと決めた人がくれたものである。
「お前、そんなに悩むのなら、どうして嫁きたいなんて言ったんだね。そういつまでも迷っていては困るじゃないか。一日経てばその分話しは進むのだから、嫁ぐなら嫁ぐ、お断りするならお断りすると本当にしっかり決めなくてはいけないよ。お前が嫌なものを、どうしても嫁げと言うのじゃないのだから、お断りするなら早く断らなければ。だけれど…今になって断ると言ったって……」
「いいの。私、ちゃんと嫁ぐことは嫁ぐわ。でも貫一さんのことを考えると、自分が情けなくなって……」
貫一の件は母にとっても寝ても醒めても胸苦しいことであったから、娘が彼の名を口にする度に犯した罪を言い上げられるように思われて。本来ならこの良縁を喜ばしい筈なのに…と思いつつ、さすがに心から喜べないのであった。母は殊更明るく宮を慰めようとする。娘を慰めることでようと、自らも慰めようとするように。
「お父さんからお話しがあって、貫一さんもそれで納得すれば済むことだし、それにお前があちらへ嫁いでからは末々まで貫一さんの力になってあげればお互い幸せというもだから。そこを考えれば貫一さんだって……、それに男というものは思い切りがいいから、お前が心配してるようなことはないよ。これっきり逢わずに嫁に行くだなんて、それはお前、却って良くないから。ちゃんと逢って、ちゃんと話をして、そうしてさっぱり別れるのさ。今後も末永く兄妹で行き来をしなければならないのだもの。いずれ今日か明日にはお父さんからお便りがあって、うちの様子も分かろうから、そうしたら帰って早く嫁入りの支度にかからなければ」
宮はベンチに腰掛け半ば聴きながら、なかば物思いに耽りながら、膝に散り来る花びらを拾っては、唇を噛み締める代わりに頻りに指先で弄んでいる。鶯の声の絶え間を早瀬の流れが咽ぶように聞こえていた。
宮が何気なく顔を上げるとと共に少し離れた花枝の間に、そぞろ歩きする男の影を認めた。もしやと宮の心が波立つ。木立が垣のように、花が幕のように遮る隙間を縫いつつしばらくその影を目で追っていた宮は、その男が誰がわかったのだろう。お母さん、ちょっと…、と慌ただしく母に囁いた。急いでベンチを立ち、五六歩ほど歩いたところであちらも宮と母を見つけらしく、いち早く声をかけた。
「あぁ、そこにおいででしたか!」
静かな梅林にやけにその声は大きく響いた。宮はその声を聞くなり、怯えたようにベンチの端に身を寄せた。
「はい、今しがた来ましたところでございます、あなたもよくお出かけでござきましたこと」
母は朗らかに挨拶しながら彼を出迎える。宮はそちらを見もせず、ただ男が足早に近付いてくる足音を聞いていた。
母子の前に現れた若い紳士は、言うまでもない。指には目が覚めるような大きな金剛石をキラキラ輝かせて…緑色の玉に獅子頭の彫刻を施した、象牙のように艶やかな白いステッキの先で低い梢の花を打ち落とし打ち落とし、
「今貴女がたの宿へ行きましてね、ここへ出掛けたと聞いて追っかけてきたわけです。いやぁ、暑いじゃないですか」
ようやく顔を上げた宮がさて淑やかに立ち上がり恭しく礼をすると、唯継はいかにも嬉しそうな目をして受けながら、飽くまで高慢さを忘れず頷いた。その張り出したエラやへの字に結んだ薄い唇や、いやにギラギラ光る金縁の眼鏡が、彼の尊大さになおさら光彩を添えているに違いない。
「おや、そうでございましたか、それはまあ。あんまりいいお天気でございますから、ぶらぶらと出掛けてみました。ほんに今日はお暑いくらいでございますね。まぁ、こちらへお掛けあそばして」
母がベンチを立つと宮も立ち上がり、道を開けるように母の傍らに立った。
「あなたがたもお掛けなさいましな。今朝ですよ、東京からの手紙で『急用があるからさっそく帰るように』と…というのは、今度私がちょっとした会社を建てるのです。外国へこちらの塗り物を売り込む会社。これは去年からの計画で、いよいよこの三月か四月には立派に出来上がる訳でありますから、私も今は随分忙しい身でしてね。なにしろ社長ですからな。それで私が行かなければ解らんことがあるので呼びに来た。で、明日の朝、熱海を立たなければならんのであります。」
「おや、それは急なことで」
「あなたがたも一緒に帰りませんか」
唯継は言いながら宮の顔をチラリと伺ったが、宮は何言うでもなく佇んだまま。見兼ねてまた母が答える。
「はい、ありがたい御申し出で…」
「それともまだ熱海においでですか。宿屋にいても不自由で面白くもないじゃないですか。来年あたりはひとつ別荘でも建てましょう。なに、別荘なんぞわけもない。土地を広くとって、その中に風流な田舎家を造るのです。食べ物なんかは東京から取り寄せて、そうじゃなければ保養になんぞならん。家が出来たら、ゆっくり遊びにいらっしゃい」
「まぁ、結構なことでございますね」
「お宮さんは…なんですか、こういう田舎の静かなところがお好きなのかな?」
「……」
宮は微笑んだまま何も言わない。母が傍らから、
「これはもう遊ぶことなら嫌いなんてございませんわ」
「ははははは!誰でもそうです。それじゃこれからはもっともっとお遊びなさい。どうせ毎日、何の用もないのだから。田舎でも、東京でも西京でも好きなところへ行って遊ぶのです。船はお嫌いですか、ははぁ。船が平気でしたら、支那からアメリカの方を見物がてら今度旅行をしてくるのも面白いけれど。日本のうちじゃ遊山に歩いたところで知れたものですよ、どんな贅沢をしたとしてもね。あぁ、そうだ。お帰りになったら一日、赤坂の別荘の方へ遊びにおいでください、ねぇ。梅の良いのがあるのです。それは大きな梅林があって、一本一本種の違うのを集めて二百本もあるが皆老木ばかりです。この梅などまるで仕方がない!こんな若い野梅、薪みたいなものだ。とても庭に植えられる花じゃない。これで熱海の梅林とは恐れ入る。是非うちのをお目にかけたいですね、一日遊びに来てください。ご馳走しますよ。お宮さんは何がお好きです?えぇ、一番好きな物は?」
「……、」
彼は密かに宮と語らいを望み水を向けるが、宮はなお何も言わず、ただ恥ずかしげに微笑むのみ。
「…で、いつお帰りになりますか。明日一緒にお発ちにはなりませんか。こっちにそう長くいなきゃいけない訳でもないでしょう。そんなら一緒にお発ちなすったらどうです?」
「はい、ありがとうございます。ですが少々宅の方の都合がございまして…二日三日のうちには便りがございますはずで。その便りを待ちまして、実は帰ることに致しましてございますものですから、折角の御申し出ですが、はい…」
「ははぁ、それじゃどうもな」
唯継は例の不遜な態度で天を睨むようにうち仰ぎ、杖の獅子頭を撫で回しつつ暫く思案するような体であったが、やおら白羽二重のハンカチーフを懐から取り出してさっと一振り広げると鼻を拭った。その瞬間、梅の香を押し退けてヴァイオレットの香りがぶわっと広がり、宮も母もその匂いの鋭さに一瞬息を詰まらせた。
「あぁと、私これから少し散歩しようと思うのであります。ここから出て流れに沿って田んぼの方をね。私はまた見たことがないが、とても景色が良いそうだ。ご一緒にいかがと思いましたが、だいぶ道のりがあるから貴女にはご迷惑でありましょう。二時間ばかりお宮さんをお貸しくださいな。私一人で歩いてもつまらない。お宮さんは胃が悪いのだから散歩は極めて薬。これから行ってみましょうよ、ねぇ」
返事も待たず、彼は杖を取り直してもう立ち上がろうとしている。
「はい、ありがとうございます。お前、お供させていただくかい?」
「……、」
躊躇う姿を見て、唯継は促すようにベンチを立つ。
「さぁ、行ってみましょう。えぇ、胃の薬です。そうグジグジしていてはいけない」
つと宮に近づき、唯継はその肩を促すようにぽんと軽く叩く。宮はたちまち頬を赤らめ、どうしたらいいかわからないというようにオロオロと立ちすくんでいる。母の前だというのに憚らぬ男の馴れ馴れしさを嫌とまでは思わないけれど、何だか自分がひとくはしたない女のように思われて。
「……。」
えも言われぬ娘の初心が、染み入るようにゾクゾクと男を昂らせる。その昂りはそぞろ唯継の目の中に顕れて、唯継は怪しくほくそ笑んだ。この初心で愛らしい、美しい娘の柔らかい手を握り、人無き長閑な野道を語らいつつ歩けばどんなに良いだろう…。彼は気もそぞろに、
「さぁ、行ってみましょう。御母さんからお許しが出たんだからいいじゃありませんか、ねぇ。あなた、よろしいでしょう」
母はなお宮が恥じる様を見て、
「お前、ご一緒するかい?どうおしだえ?」
「あなた、『ご一緒するかい』なんて仰っちゃいけません。『ご一緒しなさい』と命令なさってください。」
「まぁ…」
宮も母も思わず笑った。唯継も二人に遅れじと笑う。
(…あら、)
また誰か梅園に入ってきたようであった。気付いた宮はあたりを窺うが、姿は見えず靴音のみが花の向こうから聞こえる。梅を見に来た客だろうか、それにしては用事でもあるのか忙しく踏み鳴らす足音である。
「それじゃお前、お供をおしな」
「さぁ、行きましょう。ちょっとそこまででありますよ」
宮は小さな声で、
「御母さんも一緒に行きましょうよ」
「えぇ、私かい?まあお前、お供をおしなね」
母親付きでは全く風流ではない、それじゃちっとも雰囲気が出ないじゃないか。唯継は飽くまで二人きりがいいと、
「いや、御母さんには却ってご迷惑です。道が良くないから、御母さんにはとてもいけますまい。実際あなたにはとてもじゃないがお勧め申されませんよ、ご迷惑になる。何も遠くへ行くのじゃないのだから、御母さんが一緒じゃなくてもいいじゃありませんか、ねぇ。折角思い立ったんですから、ちょっとそこまででいいから付き合って下さい。貴女が嫌だったら直ぐに帰りますよ、ねぇ。それはなかなかの景色だから、まぁ私に騙されたと思って来てご覧なさいな、ねぇ」
このとき、先程から聞こえていた靴音がはたと止んだ。靴音の主は立ち去ったかと思いきや、七八間向こうの木陰に足を止めてじっと息をひそめてこなたを窺っている。しかし唯継も鴫沢母子も誰も気付いていない。木陰に佇むその人は、高等中学の制服の上に焦げ茶のオーバーコートを着て、肩には年季の入った象皮の学校鞄をかけ…彼は間貫一ではあるまいか。
再び靴音は高く、足早に近付いてくる。闖入者の足音に三人が驚き振り返ると、花の散りかかる中を進み来た学生は学帽を取り、
「おばさん、参りましたよ」
彼を見とめて、母子は動転して色を失った。母親は驚きのあまり焦点の合わないような目でぼんやりと彼を見つめ、しばらく石のように固まったまま微動だにせず。宮は今ここで死んでしまいたい、このまま消え去って土になってしまえたら…と思いつつ、薄白く色を失った唇を食いちぎるほど噛み締めて。
おもうに彼らの驚きと恐れとは、自分が殺したはずの人間が思いがけず生きていて目の前に現れたようなものである。気もそぞろに母は、譫言のようにやっと唇を開いた。
「お…おや、おいでなの…」
宮は幾らかでも彼の目から逃れたいというように木陰に身を寄せて、弾む息を聞かれぬようにとハンカチーフで唇を覆った。それでも見るのは苦しいが会えなければ辛い貫一である。彼の顔を俯いた額越しに窺いつつ、また一方では唯継の様子も密かに気遣っていた。
唯継は彼らの心にそれほどの大波乱があるとは当然知らない。あぁ、あれが例の鴫沢の食客か…とんだ邪魔が入ったなと、いつもの金剛石の手をこれみよがしに杖に置き、誇りかに梢を仰ぎ口を結んだ。
貫一は全て知っている。今回の件も、彼が唯継だということも、先ほどまでの三人の様子も多少なりとも見ていた。
後だ、言うべきことは後できっちり言おう。今はしばし、顔にも出さん。そうして張り裂けそうな胸の無念を鎮めて、貫一は苦しげに作り笑顔を貼り付けた。
「ミイさんの病気はどうですか」
宮は堪りかねてハンカチーフを食い締める。
「あ…あぁ、だいぶ良いのでね、もう二三日のうちには帰ろうと思ってね。お前さんも良く来られましたね。学校はどうなすったの?」
「教室の工事があるとかで、今日半日と明日明後日は休みになったものですから」
「おや、そうかい」
唯継と貫一とを左右に受けた母の絶対絶命は、誤って野中の古井戸に落ちた人が沈みもせず、かと言って上がることも出来ないような。やっとのことで取り縋った命綱の草の根を、鼠がやって来て目の前で齧るような。そんな生きた心地もせぬ有様である。いったいどうしたらと恐れ迷うが、とうとうその運命から逃れられないことを悟り、母はようやく覚悟を決めた。
「ちょうど宅から人が参りましたので、甚だ勝手で申し訳ございませんが、私どもはこれから宿へ帰りますので。いずれまた後ほどお伺いしますが……」
「ははぁ、それではなんでありますか、明日はご一緒に帰れるような都合になりますな」
「はい、話の模様によりましては、ご一緒できるかもしれませんので。いずれ後ほどには是非伺いまして、……」
「なるほど、それでは残念ですが、私も散歩はやめます。散歩はやめてこれから帰ります。帰ってお待ち申していますから、あとで是非おいで下さいよ。よろしいですか、お宮さん。それでは後できっといらっしゃいよ。誠に今日は残念でありますなぁ」
唯継は行こうする足をすいと宮の方へ向け、宮の傍に寄り、
「あなた、きっと後でいらっしゃいよ、えぇ」
貫一は瞬きもせず、じっとそれを見つめていた。宮は答えに窮して会釈さえ出来ず。しかし小娘の恥じらいはこんなものだろうとしか思っていない唯継はますます身を寄せ、舐るようにねっとりと、
「…よろしいですか、来なくてはいけませんよ。私、待っていますから…」
貫一の眼は炎のように燃え上がり、宮の横顔を睨めつける。宮は恐ろしくて貫一の顔を見やることもできないが、さりとて彼の怒りも当然…とひとり心を慄かせた。しかしこのまま答えねば、唯継がまた何を言い出すかわからない。今はこの場を取り繕って…と、宮はようよう小さく会釈を返した。
母子にとってはどれほど幸いだったろう。唯継は貫一について露ほども疑いを持たず、あくまで愛しい宮に後ろ髪引かれるように帰って行った。
その後ろ姿を穴が空くほど見つめていた貫一は、我を忘れてしばらく佇んでいた。母子は彼の心を測りかねて言葉をなく、息をさえ殺して、ただ早瀬のせせらぎだけがうるさいくらいに耳に響く。
やがてこちらを向き直った貫一は、只ならぬ怒りに血の気の失せた顔へ笑おうとして失敗したような僅かな笑みを浮かべていた。
「ミイさん、今の奴はこの間のカルタに来ていた金剛石だね」
宮は俯いて唇を噛んだ。母は素知らぬ顔で、折しも啼いた鶯を窺うように梢を見上げている。貫一はこの有様を見て、ふふっと嘲笑った。
「夜見たらそれほどでもなかったけれど、昼間見ると実にキザな奴だね。そうしてどうだ、あの高慢ちきのツラは!」
「貫一さん、」
母は急いで呼びかける。
「はい」
「お前さん、おじさんからお話はお聞きでしょうね、今度の話は」
「はい」
「あぁ、それならいいけれど。普段のお前さんらしくもない、そんな人の悪口だなんて言うものじゃありませんよ」
「はい」
「さぁ、もう帰りましょう。お前さんもお疲れだろうから、お湯にでも入って…そういえばお昼ご飯もまだなのでしょう」
「いえ、汽車の中で寿司を食べました」
三人は揃って歩き始めた。するとさっとオーバーコートの肩を払われて、貫一が振り返ると宮と目が合った。
「…そこに花が着いていたからとったのよ」
「それはありがとう!」
