【平家公達草紙】青海波
公開 2024/11/24 12:55
最終更新
2024/11/24 12:58
安元二年、法住寺殿で行われた安元の御賀でのことでした。三日に渡って行われた祝賀の後宴にて、当時、右大将であられた重盛殿のご子息、維盛殿、清経殿、有盛殿が舞人に抜擢されたのです。法皇様の節目の御賀、御前で青海波を舞う--これほど名誉なことはありません。青海波の装束を拝見しようと、重盛殿が一家の方々…中納言・宗盛殿、重盛殿の伯父である別当の時忠殿、同じく叔父にあたる右兵衛督・頼盛殿、平宰相・教盛殿、三位中将・知盛殿、頭中将・重衡殿、今日の舞人である新中将・清経殿、そのご兄弟である左少将・資盛殿、兵衛佐・忠房殿、従兄弟にあたる権少将・通盛殿、叔父にあたる左少弁・経盛殿を引き連れて楽屋へ来られました。あの時の彼らの晴れやかな堂々たる姿、華々しさは一際目を引いたものです。
楽屋では蔵人が演奏に使う楽器を持ってきたり、内大臣・藤原師長様が琵琶の音律を調整したりと慌ただしく準備が進んでおりました。
舞台では胡鳥蘇の舞が終わり、左右の胡床が取り払われ次は青海波です。蔵人頭・重衡殿、実宗殿以下四十余人が西の中門から御前を通って未申の庭にずらりと並びました。彼らは垣代…楽人の役目です。出納久近殿が垣代の方々へ反鼻…蕨のような形の楽器を楽人に配り終えた頃、笙の透き通った音が湧き上がりました。ようやく垣代が動き始め、舞人は袖を振りながら舞台の周りを回ります。まず輪台の上臈二人、左中将・頼実殿、新少将・清経殿が先頭に立ち、次に舞人四人、続いて輪台の下臈一人、藤原公時殿は元々は笛吹きとして出席していましたが舞人が一人足りないということで急遽舞人に抜擢されました。舞は万歳楽の他はまだ習っていませんでしたが、舞人に続く垣代のように立って走っておられました。次に殿上人の方々はそれぞれ列になって大輪を巡り、左右の舞人は摺り鼓を打ちます。それぞれぐるりと舞台を巡ってから東に小輪を作ると、その輪から中将・頼実朝臣、新少将・清経朝臣が出て青海波の序である輪台を舞いました。この時には大納言・藤原隆季様、中納言・源資賢様、三位中将・知盛殿、権中将・藤原定良殿が楽屋より出て垣代に加わって…あぁ、この時の音取り、唱歌の様子などはもう書ききれませんのでこのくらいで。
さて輪台の舞が終わりますと、垣代の輪の中から青海波の舞人、権亮少将・維盛殿と右少将・藤原成宗殿が現れました。輪から姿を現した権亮少将殿は右肩を脱ぎ、青裏の海浦文様の半臂を出し、腰には煌びやかな螺鈿の細太刀を佩き、紺地に水の文様の平緒を締め、桜萌黄の袍を纏い山吹色の下襲を引き、胡籙を解いて老懸を着けて…それはもう凛々しく美しいお姿で。
山の端近くの夕日が眩しいほどに御前の庭に差し込んでいました。白々と夕日にきらめく砂子の上には桜の花びらが白雪のように散り敷き、笛の音、笙の声、楽の音色も冴え渡るなかへゆっくりと舞い出た青海波。
「……。」
金色の夕日な照らされ、花びら散り敷く白砂へ足を踏み出し、袖を振る維盛殿の姿はこの世のものとは思えぬほど美しかった…あの光景は今でも目に焼き付いています。舞いなど数々ご覧になってきた主上も、後白河院はじめ皇族の方々も、初めて見る美しさに大変感じ入ったご様子だったそうです。父である重盛殿も感極まったご様子で、堪えきれずに目元を拭っておられました。無理もありません。青海波をご覧になっていた方々は、みなこの光景に涙を流しておられましたから。みな源氏物語の青海波の場面を思い浮かべて「もうひとりの舞人が頭中将でないのが惜しい」と言っていたとか。
さて青海波の舞が終わると舞人のお二人は始めのように並んで下がり楽屋へ戻ります。輪台の舞人はそれには加わらず残っていました。残っていた舞人の私、隆房が太鼓の前を通って楽屋へ進み寄り、中将・藤原泰通殿に「今の舞で太鼓が上げられないのはおかしくありませんか。何故鳴らさないのでしょう?」と話しますと、慌てたようにドォン!と高く太鼓が鳴りました。青海波が終わった後は通常では太鼓を鳴らさないのですが、極めて素晴らしい舞を披露した時には高く太鼓を鳴らすことになっているのです。先の仁平の御賀…近衛帝の五十の賀…にて、中院右大臣様、成通大納言様がともに相談してそのように太鼓を上げさせたのが始まりですが、この度も「素晴らしい舞であったなら太鼓を上げよ」と後白河院から仰せつかっていたのです。だと言うのに笛吹きの者がその仰せをすっかり忘れていたのでしょう。「今さら太鼓を上げるなんて…忘れていたならそのまま鳴らさない方が良かったものを」とみな恥じ入った様子でした。
青海波の次には、同じく平家一門である新少将・通盛殿と四位侍従・有盛殿が林哥を舞い、このとき院に代わり右大臣・藤原兼実様よりお二人は禄を賜りました。お二人は賜った蘇芳の織物の袿を各々の肩にかけ、舞いながら退場していきます。みなその美しさに涙を流しておられました。私は青海波の方がずっと素晴らしいと思いましたが…。
日が暮れますと、今度は御前で管弦の遊びが始まりました。主上が御笛を、内大臣様が琵琶を、中納言・宗家様が筝の琴を、左衛門督・宗盛殿が和琴を、按察使資賢殿が篳篥を奏で、中将・定良殿、権亮少将・維盛殿のお二人が院を言祝ぐ双調の安名尊を歌いました。その歌声もまた言い表せぬほど優美で座は大いに盛り上がり、褒美としてそれぞれに院から禄を賜りました。
管弦の遊びもそろそろお開きという頃。関白・藤原基房様が座をお立ちになり、寝殿の東方にて御贈り物の手配をなさっていらっしゃいました。主上からの御贈り物は御手本、御笛、御馬十疋、この他にはどんなものがあったのでしょう。近衛司がそれぞれ受け取っておりました。また中宮様から賜った小野道風が書いた古今集は中宮様の兄君である右大将・重盛卿が取り次ぎ、大進基親に下されました。
また院より、院別当大納言隆季卿を御使者に立て西八条の清盛様へ院宣を賜りました。「この度の御賀にて貴殿の一族の上達部、殿上人は殊に素晴らしかった。朝家の御飾りである、鼻が高い。と仰せでございました。」との由に清盛様はお悦びになり、御使者殿へ白金の箱に金百両を入れて贈られたそうです。これをお聞きになった院は「ほう、物分りのいい男だ」と仰せになったとか。また按察使の資賢殿を御使者に立て、隆季卿には「この度の御賀を何事もなく負えられたのは、取り仕切った貴殿の功績である。殊に良い指揮であった。」と院宣を下され、他の者達も労いの言葉や褒美を賜ったそうです。
その後、主上は御輿を寝殿の南の端に寄せて還御され、舞人や楽人はそのままの装束でお供仕りました。主上は閑院へ行幸されたましたが、その年からお隠れになるまで世の中に大きな騒乱もなく、風雨に煩わされることもなく穏やかに過ぎたこと、高貴な方から賎しい者まで喜ばぬ者はなかったとか。そんなことを聞きました。
楽屋では蔵人が演奏に使う楽器を持ってきたり、内大臣・藤原師長様が琵琶の音律を調整したりと慌ただしく準備が進んでおりました。
舞台では胡鳥蘇の舞が終わり、左右の胡床が取り払われ次は青海波です。蔵人頭・重衡殿、実宗殿以下四十余人が西の中門から御前を通って未申の庭にずらりと並びました。彼らは垣代…楽人の役目です。出納久近殿が垣代の方々へ反鼻…蕨のような形の楽器を楽人に配り終えた頃、笙の透き通った音が湧き上がりました。ようやく垣代が動き始め、舞人は袖を振りながら舞台の周りを回ります。まず輪台の上臈二人、左中将・頼実殿、新少将・清経殿が先頭に立ち、次に舞人四人、続いて輪台の下臈一人、藤原公時殿は元々は笛吹きとして出席していましたが舞人が一人足りないということで急遽舞人に抜擢されました。舞は万歳楽の他はまだ習っていませんでしたが、舞人に続く垣代のように立って走っておられました。次に殿上人の方々はそれぞれ列になって大輪を巡り、左右の舞人は摺り鼓を打ちます。それぞれぐるりと舞台を巡ってから東に小輪を作ると、その輪から中将・頼実朝臣、新少将・清経朝臣が出て青海波の序である輪台を舞いました。この時には大納言・藤原隆季様、中納言・源資賢様、三位中将・知盛殿、権中将・藤原定良殿が楽屋より出て垣代に加わって…あぁ、この時の音取り、唱歌の様子などはもう書ききれませんのでこのくらいで。
さて輪台の舞が終わりますと、垣代の輪の中から青海波の舞人、権亮少将・維盛殿と右少将・藤原成宗殿が現れました。輪から姿を現した権亮少将殿は右肩を脱ぎ、青裏の海浦文様の半臂を出し、腰には煌びやかな螺鈿の細太刀を佩き、紺地に水の文様の平緒を締め、桜萌黄の袍を纏い山吹色の下襲を引き、胡籙を解いて老懸を着けて…それはもう凛々しく美しいお姿で。
山の端近くの夕日が眩しいほどに御前の庭に差し込んでいました。白々と夕日にきらめく砂子の上には桜の花びらが白雪のように散り敷き、笛の音、笙の声、楽の音色も冴え渡るなかへゆっくりと舞い出た青海波。
「……。」
金色の夕日な照らされ、花びら散り敷く白砂へ足を踏み出し、袖を振る維盛殿の姿はこの世のものとは思えぬほど美しかった…あの光景は今でも目に焼き付いています。舞いなど数々ご覧になってきた主上も、後白河院はじめ皇族の方々も、初めて見る美しさに大変感じ入ったご様子だったそうです。父である重盛殿も感極まったご様子で、堪えきれずに目元を拭っておられました。無理もありません。青海波をご覧になっていた方々は、みなこの光景に涙を流しておられましたから。みな源氏物語の青海波の場面を思い浮かべて「もうひとりの舞人が頭中将でないのが惜しい」と言っていたとか。
さて青海波の舞が終わると舞人のお二人は始めのように並んで下がり楽屋へ戻ります。輪台の舞人はそれには加わらず残っていました。残っていた舞人の私、隆房が太鼓の前を通って楽屋へ進み寄り、中将・藤原泰通殿に「今の舞で太鼓が上げられないのはおかしくありませんか。何故鳴らさないのでしょう?」と話しますと、慌てたようにドォン!と高く太鼓が鳴りました。青海波が終わった後は通常では太鼓を鳴らさないのですが、極めて素晴らしい舞を披露した時には高く太鼓を鳴らすことになっているのです。先の仁平の御賀…近衛帝の五十の賀…にて、中院右大臣様、成通大納言様がともに相談してそのように太鼓を上げさせたのが始まりですが、この度も「素晴らしい舞であったなら太鼓を上げよ」と後白河院から仰せつかっていたのです。だと言うのに笛吹きの者がその仰せをすっかり忘れていたのでしょう。「今さら太鼓を上げるなんて…忘れていたならそのまま鳴らさない方が良かったものを」とみな恥じ入った様子でした。
青海波の次には、同じく平家一門である新少将・通盛殿と四位侍従・有盛殿が林哥を舞い、このとき院に代わり右大臣・藤原兼実様よりお二人は禄を賜りました。お二人は賜った蘇芳の織物の袿を各々の肩にかけ、舞いながら退場していきます。みなその美しさに涙を流しておられました。私は青海波の方がずっと素晴らしいと思いましたが…。
日が暮れますと、今度は御前で管弦の遊びが始まりました。主上が御笛を、内大臣様が琵琶を、中納言・宗家様が筝の琴を、左衛門督・宗盛殿が和琴を、按察使資賢殿が篳篥を奏で、中将・定良殿、権亮少将・維盛殿のお二人が院を言祝ぐ双調の安名尊を歌いました。その歌声もまた言い表せぬほど優美で座は大いに盛り上がり、褒美としてそれぞれに院から禄を賜りました。
管弦の遊びもそろそろお開きという頃。関白・藤原基房様が座をお立ちになり、寝殿の東方にて御贈り物の手配をなさっていらっしゃいました。主上からの御贈り物は御手本、御笛、御馬十疋、この他にはどんなものがあったのでしょう。近衛司がそれぞれ受け取っておりました。また中宮様から賜った小野道風が書いた古今集は中宮様の兄君である右大将・重盛卿が取り次ぎ、大進基親に下されました。
また院より、院別当大納言隆季卿を御使者に立て西八条の清盛様へ院宣を賜りました。「この度の御賀にて貴殿の一族の上達部、殿上人は殊に素晴らしかった。朝家の御飾りである、鼻が高い。と仰せでございました。」との由に清盛様はお悦びになり、御使者殿へ白金の箱に金百両を入れて贈られたそうです。これをお聞きになった院は「ほう、物分りのいい男だ」と仰せになったとか。また按察使の資賢殿を御使者に立て、隆季卿には「この度の御賀を何事もなく負えられたのは、取り仕切った貴殿の功績である。殊に良い指揮であった。」と院宣を下され、他の者達も労いの言葉や褒美を賜ったそうです。
その後、主上は御輿を寝殿の南の端に寄せて還御され、舞人や楽人はそのままの装束でお供仕りました。主上は閑院へ行幸されたましたが、その年からお隠れになるまで世の中に大きな騒乱もなく、風雨に煩わされることもなく穏やかに過ぎたこと、高貴な方から賎しい者まで喜ばぬ者はなかったとか。そんなことを聞きました。
