ごぉるでんでぇもん⑦
公開 2024/08/04 01:56
最終更新
2024/08/04 12:05
第八章
立ち込めた春霞の中、月は薄衣に透かしたようにほのぼのと明るく、水面はどこまでも仄白く揺蕩う。それはまるで無邪気な夢を見ているよう。寄せては返す波の音も眠たげにうつらうつらと、吹き来る風は人を夢幻に誘うようである。この浜辺をうち連れて歩く影がふたつ、貫一と宮である。
「僕はただ胸がいっぱいで何も言うことが出来ない」
「…堪忍してください」
五、六歩ほど歩いて、宮はようやく呟いた。
「何も今さら謝ることはないよ。今回のことがおじさん、おばさんの意向なのか、それともお前さんも納得してのことなのか…それを聞ければいいのだから」
「………」
「こっちに来るまで、僕は信じていたよ。お前さんにかぎって、僕を見限るなんてことあるはずがないと。いや、信じるも信じないもない。夫婦だもの、わかりきった話だろう。…昨夜おじさんから詳しく話があって、その上で『頼む』という御言葉だ」
彼の声は込み上げる涙に震えていた。
「大恩を受けているおじさんのことだ…頼むと言われた日には、僕の体はたとえ火水の中へでも飛び込まなきゃならない。おじさん、おばさんの頼みなら、無論僕は火の中でも水の中でも飛び込む気持ちだ。火の中水の中なら幾らでも飛び込んでやるが、それでも、この頼みばかりは僕は聞くことが出来ないと思った。火の中水の中へ飛び込めと言うより、もっと無理な、あまりに無理な頼みじゃないかと。済まないけれど、僕はおじさんを恨んでいる。
そうして、言うに事欠いて、この頼みを聞いてくれれば洋行させてやると言うんだ。い……い……いかに貫一が乞食武士の孤児でも、女房を売った金で洋行しようとは思わん!」
貫一は堪えきれぬというように足を止め、海に向かって涙を流した。宮はこのとき初めて彼に寄り添い、気遣わしげに貫一の顔をさし覗いた。
「堪忍してください、みんな私が……どうぞ堪忍してください」
貫一の手に縋り、忽ち外套の肩に顔を押し当てたと思うと、さめざめと泣く音を漏らす。波はゆらゆらと遠く烟り、月は朧気に浜辺の真砂を照らす。空も汀もほのぼのと白く烟る中に、立ち尽くす二人の姿は点々と零した墨のように影を成していた。
「…それで僕は考えたんだ。この熱海行きはおじさんが僕を説得して、その間におばさんがお前さんの方を説得しようと無理に連れ出したに違いないと。おじさん、おばさんの頼みとあれば僕は嫌だとは言えない身分だからハイハイ言って聞いていたけれど、ミイさん、お前さんは娘だ。幾らでも強情を張って差し支えないんだ。どうあっても嫌だとお前さんが言い通したなら、この縁談はそれで破談になってしまう。僕が傍にいたらお前さんに余計な入れ知恵をして邪魔をするだろうから、遠くへ連れ出して無理くり納得させようという謀だなと思いつくと、さあ心配で心配で…僕は昨夜は全く眠れなかったよ。そんなこと万に一つもある筈ないけれど、あれこれ言い含められて嫌とは言えない状況に追い込まれて、もしや承諾するようなことがあっては大変だと思って…学校に行くフリをして僕はわざわざ様子を見に来たんだ。
馬鹿だ、馬鹿だよ!貫一ほどの大馬鹿者、世界中探したってどこにいるものか!僕はこれほど自分が大馬鹿とは、二十五歳の今日までし……し……知らなかった」
宮は悲しさと恐ろしさとに襲われて、小さく声を立てて泣く。
怒りを押し殺す貫一は息を震わせた。
「…ミイさん、お前はよくも僕を騙したね」
宮は思わず慄いた。
「病気と言ってここに来たのは、富山と逢う為だろう」
「い、いいえ、そればっかりは……」
「へぇ、そればかりは?」
「それはあんまり邪推が過ぎるわ、あんまり酷いわ。いくら何でもそんな仰りようは……」
泣き入る宮を尻目に見ながら、
「お前でも酷いなんて言うことを知っているのかい、ミイさん。これが酷いと言って泣くほどなら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りはせんよ。お前が納得ずくでないなら、ここへ来るというのに僕にひと言もないなんてことはないだろう。家を出るのが突然でその暇がなかったなら、後から手紙をよこせば良いじゃないか。出し抜いて家を出るばかりか何の便りもせんところを見れば、最初から富山と逢う手筈になっていたんだ。もしかしたら一緒に来たのかな。…ミイさん、お前はとんだ奸婦だよ。姦通したも同じだよ」
「そんな酷いこと、貫一さんあんまりだわ、あんまりよ」
形振り構わず泣き崩れて男の腕に縋ろうとする宮を突き離し、
「操を破れば奸婦だろう」
「いつ私が操を破って?」
「いくら大馬鹿者の貫一でも、己の妻が操を破るのを傍に突っ立って見ているものかい!貫一という歴とした夫を持ちながら、その夫を出し抜いて他所の男と湯治に来ていたんだ。姦通していないという証拠がどこにある?」
「…そう言われてしまうと私は何も言えないけれど…富山さんと逢うだの、約束してあっただの、そんなのは全部貫一さんの邪推よ。私たちがこっちに来るのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのよ」
「なんで富山が後から尋ねてきたんだい」
「…っ……」
宮は唇に釘でも打たれたように、何も言えずに押し黙る。貫一はこうして問い詰めている間にも、宮が過ちを悔い罪を詫び、その身はおろか命までも貫一のものだと誓うと信じていた。よしんば信じていなかったとしても、心密かに望んでいたに違いない。ところがどうしたことだろう、宮には露ほどもそんな素振りが見られない。まるで朝顔を摘もうと蔓を引いても垣根に絡みついて離れないような、頑なな女の心変わり。本当に現実なんだろうかと思うほど、貫一はなかなかこの事実を受け止められなかった。
(あぁ…ミイさんは俺を棄てたんだ…)
貫一は呆然と宮を見つめた。
俺は妻を他人に奪われたのだ。我が命に換えてもと思うほど愛した人は塵芥のように俺を嫌っていたのだ…!恨みは彼の骨に徹し、怒りは彼の胸を引き裂く。身も世も忘れた貫一は、あの奸婦の肉を引きちぎり貪り食い、腹に渦巻く業火を冷ましてやろうかといきり立ったが、忽ち頭が裂けるような痛みを覚えてフラフラと尻もちをつくように座り込んだ。
それを見るなり宮はあっと驚く間もなく、一緒になって砂にまみれて貫一をかき抱いた。閉じた瞳からほろほろ落ちる涙が濡らす灰色の頬を、月の光は悲しげに彷徨い、肩を揺らす息は凄まじく波打つ胸の響きを伝えていた。宮は彼の後ろから取り縋り、抱きしめ、揺り動かして、震える声を張り上げればその声は更に震えた。
「どうして、貫一さん、どうしたのよう!」
貫一力なく宮の手をとる。宮は涙に濡れた男の顔を丁寧に丁寧に拭った。
「…あぁ…ミイさん。こうして二人が一緒にいるのも今夜限りだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜限り、僕がお前に物を言うのも今夜限りだよ。一月十七日、ミイさん、よく覚えておくんだよ。来年の今月今夜は、貫一はどこでこの月を見るのだか!再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れない。忘れるものか
、死んでも僕は忘れんよ!いいかい、ミイさん。一月の十七日だ。来年の今月今夜、僕の涙で必ず月を曇らせてみせるから。月が……月が……月が……曇ったならば、ミイさん。貫一はどこかてお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」
宮は折らんばかりに貫一に取り付き、狂ったように咽び泣く。
「そんな悲しいことを言わずに、ねぇ貫一さん。私も考えたことがあるのだから、それは腹も立とうけれど、どうぞ堪忍して少し辛抱していてくださいな。私はお腹の中には言いたいことが沢山あるけれど、あんまり言い難いことばかりだから…口には出さないけれど、たったひとこと言いたいのは、私はあなたのことを忘れはしないわ--私は生涯忘れはしないわ」
「聞きたくない!忘れんくらいなら、なぜ見捨てた」
「だから、私は決して見捨てはしないわ」
「なに、見捨てない?見捨てていない者が嫁に行くかい、馬鹿な!二人の夫が持てるかい」
「だから、私は考えていることがあるのよ、だからも少し辛抱してそれを--私の心を見てくださいな。きっと貴方のことを忘れない証拠を私は見せるわ」
「えぇい、狼狽えてくだらんことを言うな。食うに困って身を売らなければならんのじゃなし、何を苦にして嫁に行くんだ。鴫沢の家には七千円もの財産があって、お前はそこの一人娘じゃないか。そうして婿まで決まっているじゃないか。その婿も四五年の後には学士になると将来の見込みだってついているんだ。しかもお前は、その婿を生涯忘れないほどに想っているというじゃないか。なんの不足があって無理に嫁に行かなきゃならないんだ。天下にこれほど訳の分からん話があるかい。どう考えても嫁に行く必要のない者が無理に算段して嫁に行こうとするんだ、必ず何か事情がなければおかしいだろう。
婿が不足なのか、金持ちと縁をもちたいのか、どっちかしかないだろう。教えてくれ、
ミイさん。一旦夫に定めた者を振り捨てるくらい無遠慮なお前だ、今さら遠慮も何もいるものか」
「私が悪いのだから堪忍してください」
「それじゃ婿が不足なんだね」
「貫一さん、それはあんまりだわ。そんなに疑うのなら、私はどんなことでもして、そうして証拠を見せるわ」
「婿に不足は無い?それじゃ富山は金を持ってるからか。そうしてみるとこの結婚は欲からだね、僕を離縁するのも欲からだね。で、この結婚はお前も承知したんだろう、なぁ?
おじさん、おばさんに迫られて、どうしようもなくなってお前も承知したんなら、僕の考えで破談にする方法はいくらでもある。僕一人が悪者になれば、おじさん、おばさんはじめお前の迷惑にもならずぶち壊してしまうこともできる。だからお前の気持ちを聞いた上でやろうと思うが、お前も僕の考えに乗る気はあるのかい」
貫一は全身全霊をその眼に集めて、思い悩む宮の顔を鋭く見詰めた。五歩あるき、七歩あるき、十歩進めども、宮の答えはない。貫一は空を仰ぎ、ため息をついた。
「わかった、わかった…もういい。お前の心はよくわかった」
これ以上もう何か言っても無駄だが、それでもまだ何か重ねて言うべきだろうかと迷いつつ、彼はうち乱れる胸を少しでも鎮めようと敢えて宮から目を逸らし波間へ目をやった。しかし堪えがたい思いに駆られて又なにか言おうと振り返ると、そこに宮の姿はなく、六七間も後ろの波打ち際で顔を覆って泣いていた。
俯きさめざめと泣く宮は、月に照らされ、風に吹かれ迷子のように立ちすくみ。その足元へ、どこまでも続く海の端が白く崩れて波となり打ち寄せる。美しさに哀れさを尽くした風情に、貫一は怒りも恨みをも忘れて、しばし絵画を見るような心地で立ち尽くした。その上この美しい人はもう俺のものではないのだと思えば、何もかも夢ではないかとさえ思えるのだった。
「…夢だ、夢だ、長い夢を見たのだ!」
貫一は頭を垂れて足の進むまま汀の方へ歩む、すると泣く泣く歩いてきた宮と互いに偶然に行きあった。
「ミイさん、何を泣くんだい。お前はちっとも泣くことなんかないじゃないか。フリだろ、空涙だ!」
「どうせそうよ」
ほとんど聞き取れないほど、その声は涙に乱れていた。
「ミイさん、お前に限って欲の為に僕を捨てるなんて考えはないだろうと、僕は自分を信じるのと同じようにお前を信じていた。だがやっぱりお前の心は欲なのだね、財なのだね。いくらなんでも情けないよ、ミイさん。お前はそれで自分に愛想が尽きないかい。
いい出世をして、さぞ贅沢もできて、お前はそれでいいだろう。しかし財と引き換えに捨てられた僕の身にもなってみるがいい。無念と言おうか、口惜しいと言おうか…ミイさん、僕はお前を刺殺して--驚くことはない!--いっそ死んでしまいたいのだ。それを堪えて、お前を人に奪られるのを手出しもせずに見ている僕の心持ちはどんなだと思う…どんなだと思うよ!自分さえ良ければ、他はどうなろうとお前は構わんのかい。いったい、貫一はお前の何だよ。何だと思ってるんだよ。鴫沢の家にとっては厄介者の居候でも、お前にとっては夫じゃないのかい。僕はお前の男妾になった覚えはないよ。ミイさん、お前は貫一を慰み物にしたんだね。いつもいつもお前の仕打ちを水臭い水臭いと思ったのも道理だよ、初めから僕はひと時の慰み物のつもりで本当の愛情はなかったんだ。そうとも知らずに僕は自分の身よりもお前を愛していた。お前の他には何も楽しみがないほどにお前のことを想っていた。それほどまでに想っている貫一を、ミイさん、お前はどうしても捨てる気かい。
そりゃ無論金の力という点では、僕と富山とは比べ物にならない。あっちは屈指の財産家、僕はもとより一介の書生だ。けれどもミイさん、よく考えてごらん。ねぇ、人間の幸福は決して財で買えるものじゃないよ。幸福と財は全く別物だよ。人の幸福で一番大切なのは家内の平和だ。
家内の平和とは何か、夫婦が互いを深く愛するという外はない。お前を深く愛する点では、富山ごときが百人寄っても到底僕の愛には及ばないよ。僕がお前を愛する十分の一も愛することは出来まい。富山が財産で誇るなら、僕は彼らが夢想することも出来んこの愛情で争って見せる。夫婦の幸福は全くこの愛情の力、愛情がなければ既に夫婦ではないのだ。
我が身以上にお前を想っている、それほどの愛情を持つ僕を捨てて、夫婦の幸福には何の益もない…むしろ妨げになるような…その財産を目当てに結婚するなんて、ミイさんは何を考えているんだい。
しかし財というものは人の心を惑わすもので、智者の学者の豪傑のと…千万人に優れた立派な立派な男子さえ財のためには随分酷いこともするんだ。それを考えればお前がふっと気が変わったのも無理もないんだろうな。だから僕はそれは咎めない。ただもう一遍、ミイさんよく考えてご覧よ。その財が--富山の財産がお前の夫婦仲にどれほどの効力があるのかということを。
雀が食う米はせいぜい十粒か二十粒だ。俵で置いてあったって、一度に一俵食べられるものじゃない。僕は鴫沢の財産を譲って貰わなくたって、十粒二十粒の米に事欠いてお前にひもじい思いをさせるような、そんな意気地のない男でもない。もし間違ってその十粒二十粒を工面出来なかったら、僕は自分は食わんでも決してお前に不自由はさせん。ミイさん、僕は……僕はこれほどまでにお前のことを想っている!」
貫一は一粒流れた涙を払い、
「富山へ嫁いだら、それは立派な生活をして、贅沢もできようし、楽もできよう。けれどもその財産は決して息子の嫁のために費やそうと作られた財産ではない。それをお前は考えねばならんよ。愛情のない夫婦の間に立派な生活が何だ!世間には、馬車に乗って心配そうな青い顔で夜会へ招ばれていく人もあれば、自分の妻子を車に乗せて、それを自分で挽いて花見に出かける車夫もある。富山へ嫁げば親族も多いし、人の出入りの激しいだろう。従って気兼ねも苦労もひと通りのことじゃなかろうし、その中へ入って、気を遣いながら愛してもいない夫を持って、それでお前は何を楽しみに生きるんだい。そうして勤めていれば、後々あの財産がお前の物になるのかい。富山の奥様と言えば立派かもしれないが、食うところは今の雀の十粒二十粒に過ぎないじゃないか。よしんばあの財産がお前の自由になったところで、女の身に何十万という金がどうなる。何十万の金を女の身で面白く費えるかい。雀に一俵の米を一度に食えというようなものじゃないか。男を持たなければ女の身が立てないんなら、女は一生の苦楽を他に頼るという言葉の通り、女の宝とするのは夫ではないか。何百万の財があろうとその夫が宝とするに足らない男であったなら、女の心細さは車に乗せられて花見に連れられる車夫の女房さえ及ばないんじゃないかい。
聞けばあの富山の父という男は内に二人、外に三人も妾を置いているという話だ。財のある者はだいたいそんな真似をして、妻はちょこんと床の間の置物にされて、言わば捨て置かれているのだ。捨て置かれていながら夫に愛されている妾より責任は重く、苦労も多く、苦しみばかりで楽しみは無いと言っていい。お前が嫁ぐ唯継だって、望んでお前を貰うんだから暫くは随分可愛がるだろうが、それが長く続くものか。財があるから好き勝手な真似もできるんだ。他の楽しみに気が移って、じきにお前への恋も冷まされてしまうのは判ってる。その時になって、お前がどんな気持ちになるか考えてごらん。あの富山の財産がお前の苦しみを救うかい。家に沢山の財産があれば、夫に捨てられて床の間の置物になっていても、お前はそれで楽しいかい。満足かい。
僕が他人にお前を奪られる無念は言うまでもないけれど、三年後のお前の後悔が目に浮かんで…心変わりした憎いお前ではあるけれど、やっぱり可哀想でならないから僕は真実をお前に言うんだ。
僕に飽きて富山に嫁ぐなら、僕は未練たらしく何も言いはしないけれど。ミイさん、お前はただ『立派な家へ嫁ぐ』という、ただそれだけに惑わされてるんだ。それは間違ってる、それは本当に間違ってる。愛情のない結婚は、つまるところ自他の後悔にしかならないよ。今夜この場のお前の分別ひとつで、お前の人生の苦楽は決まるんだ。ミイさん、お前も自分の身が大事と思うなら…貫一が不憫だと思って、頼む!頼むからもう一度考え直してくれないか。
七千円の財産と学士の貫一なら、二人の幸福を保つには十分だよ。今だって随分二人は幸せじゃないか。男の僕でさえ、お前がいれば富山の財産など羨ましいとはさらさら思わないのに…ミイさん、お前はどうしたんだ!僕を忘れたのかい?僕を愛おしいと思わんのかい」
彼は水に落ちた女を助けようとするようにしっかと宮に取り付いて、匂い立つような襟元に熱い涙を零しつつ、葦の枯葉が風に揉まれるように身悶える。宮も離すまいと強く抱き締めて一緒に身を振るわせながら、貫一の肘の辺りを咬んで咽び泣きに泣いた。
「あぁ、私はどうしたらいいの!もし私があっちへ嫁いだなら、貫一さん、貫一さんはどうするの。それを聞かせてくださいな」
「…ッ!」
木を裂くように貫一は宮を突き放して、
「それじゃ、いよいよお前は嫁ぐ気だね!これほどまでに僕が言っても聞いてくれないんだね。クソッ!腸の腐った女め!姦婦!!」
その声とともに貫一は脚を挙げて、宮の弱腰をドンと蹴った。音を立てて横様に転がった宮はなかなか声も立てずに苦痛を堪え、そのまま砂の上に泣き伏した。貫一はまるで撃ち殺した猛獣を見下ろすように、身じろぎもせずに弱々しく倒れ伏した宮を憎々しげに見遣りつつ、
「宮、おのれ…おのれ姦婦、おいッ!貴様がな、心変わりをしたばかりに間貫一の男一匹はな、失望の果てに発狂して、これまで積み上げてきた人生を全て棒に振ってしまうのだ。学問も何も、もう止めだ。この恨みの為に貫一は生きながら悪魔になって、貴様のような畜生の肉を喰らってやる覚悟だ。富山のれ…れい…令夫人!もう一生お目にかからんから、その顔を挙げて、真人間でいるうちに貫一のツラをよく見ておけよ。長々の御恩に預かったおじさん、おばさんには一目会ってこれまでの御礼を申し上げなければならないところではありますけれども、仔細あって貫一はこのまま長の御暇を致しますから、これからも御達者でご機嫌よろしく……ミイさん、お前からよくそう言っておくれ、よ。もし貫一はどうしたとお尋ねになったら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違って、熱海の浜辺から行方知れずになってしまったと……」
宮はやにわに飛び起きて立ち上がろうして、しかし足に走った痛みに脆くも再び砂の上に倒れた。それでも痛む足を引き摺りながら這い寄り、貫一の足に縋りつき、嗚咽とも言葉ともつかぬ声で、
「貫一さん、ま……ま……待ってください。あなた、これからど……どこへ行くのよ」
貫一はさすがに驚いた。はだけた裾から覗く雪も恥じらうような白い膝頭は、夥し血に染まり震えている。
「あ!怪我をしたのか」
手当てしようとする貫一を遮って、
「いいの、こんなのは構わないから。あなたはどこへ行くのよ、話があるから今夜は一緒にいてください。ねぇ、貫一さん…後生だから」
「話があればここで聞こう」
「ここじゃ私は嫌よ」
「えぇい、なんの話しがあるものか。さぁ、この手を離さないか」
「私は放さない」
「剛情はると蹴飛ばすぞ」
「蹴られてもいいわ」
貫一が力の限り振り払えば、宮はまた無残に砂に伏し転んだ。
「貫一さん、」
顔を上げると、オーバーコートの後ろ姿はもう数間先を足早に進んでいる。宮は見るなり必死に起き上がり、足の痛みに幾度か倒れそうになりながらもその後ろ姿を追いかけ、
「貫一さん、それじゃもう留めないから、もう一度、もう一度……私は言い残したことがある」
遂に倒れた宮はもう一度立ち上がる力もなく、ただ声を頼りに貫一の名を呼ぶのみ。だんだん朧気になった貫一の影が一気に丘を登るのが見える。宮はなお身悶えして彼の名を呼び続けた。やがてその黒い影は丘の頂上に立つと、こちらを見下ろしているのだろう。声の限り張り上げて呼びかけると、男の声が遥々届いた。
「ミイさん…ッ!」
「あ…あ、あ、貫一さん!」
首を伸ばして見回しても、身を凝らして眺めても、宮の名を呼んだ黒い影はかき消すように消え失せて。もしやあそこに…と思って目を凝らした木立は寂しげに動かず、波は悲しい音を寄せて、一月十七日の月は愁いげに白々と見下ろしている。
宮はもう一度、恋しい貫一の名を呼びかけた。
前編おわり
立ち込めた春霞の中、月は薄衣に透かしたようにほのぼのと明るく、水面はどこまでも仄白く揺蕩う。それはまるで無邪気な夢を見ているよう。寄せては返す波の音も眠たげにうつらうつらと、吹き来る風は人を夢幻に誘うようである。この浜辺をうち連れて歩く影がふたつ、貫一と宮である。
「僕はただ胸がいっぱいで何も言うことが出来ない」
「…堪忍してください」
五、六歩ほど歩いて、宮はようやく呟いた。
「何も今さら謝ることはないよ。今回のことがおじさん、おばさんの意向なのか、それともお前さんも納得してのことなのか…それを聞ければいいのだから」
「………」
「こっちに来るまで、僕は信じていたよ。お前さんにかぎって、僕を見限るなんてことあるはずがないと。いや、信じるも信じないもない。夫婦だもの、わかりきった話だろう。…昨夜おじさんから詳しく話があって、その上で『頼む』という御言葉だ」
彼の声は込み上げる涙に震えていた。
「大恩を受けているおじさんのことだ…頼むと言われた日には、僕の体はたとえ火水の中へでも飛び込まなきゃならない。おじさん、おばさんの頼みなら、無論僕は火の中でも水の中でも飛び込む気持ちだ。火の中水の中なら幾らでも飛び込んでやるが、それでも、この頼みばかりは僕は聞くことが出来ないと思った。火の中水の中へ飛び込めと言うより、もっと無理な、あまりに無理な頼みじゃないかと。済まないけれど、僕はおじさんを恨んでいる。
そうして、言うに事欠いて、この頼みを聞いてくれれば洋行させてやると言うんだ。い……い……いかに貫一が乞食武士の孤児でも、女房を売った金で洋行しようとは思わん!」
貫一は堪えきれぬというように足を止め、海に向かって涙を流した。宮はこのとき初めて彼に寄り添い、気遣わしげに貫一の顔をさし覗いた。
「堪忍してください、みんな私が……どうぞ堪忍してください」
貫一の手に縋り、忽ち外套の肩に顔を押し当てたと思うと、さめざめと泣く音を漏らす。波はゆらゆらと遠く烟り、月は朧気に浜辺の真砂を照らす。空も汀もほのぼのと白く烟る中に、立ち尽くす二人の姿は点々と零した墨のように影を成していた。
「…それで僕は考えたんだ。この熱海行きはおじさんが僕を説得して、その間におばさんがお前さんの方を説得しようと無理に連れ出したに違いないと。おじさん、おばさんの頼みとあれば僕は嫌だとは言えない身分だからハイハイ言って聞いていたけれど、ミイさん、お前さんは娘だ。幾らでも強情を張って差し支えないんだ。どうあっても嫌だとお前さんが言い通したなら、この縁談はそれで破談になってしまう。僕が傍にいたらお前さんに余計な入れ知恵をして邪魔をするだろうから、遠くへ連れ出して無理くり納得させようという謀だなと思いつくと、さあ心配で心配で…僕は昨夜は全く眠れなかったよ。そんなこと万に一つもある筈ないけれど、あれこれ言い含められて嫌とは言えない状況に追い込まれて、もしや承諾するようなことがあっては大変だと思って…学校に行くフリをして僕はわざわざ様子を見に来たんだ。
馬鹿だ、馬鹿だよ!貫一ほどの大馬鹿者、世界中探したってどこにいるものか!僕はこれほど自分が大馬鹿とは、二十五歳の今日までし……し……知らなかった」
宮は悲しさと恐ろしさとに襲われて、小さく声を立てて泣く。
怒りを押し殺す貫一は息を震わせた。
「…ミイさん、お前はよくも僕を騙したね」
宮は思わず慄いた。
「病気と言ってここに来たのは、富山と逢う為だろう」
「い、いいえ、そればっかりは……」
「へぇ、そればかりは?」
「それはあんまり邪推が過ぎるわ、あんまり酷いわ。いくら何でもそんな仰りようは……」
泣き入る宮を尻目に見ながら、
「お前でも酷いなんて言うことを知っているのかい、ミイさん。これが酷いと言って泣くほどなら、大馬鹿者にされた貫一は……貫一は……貫一は血の涙を流しても足りはせんよ。お前が納得ずくでないなら、ここへ来るというのに僕にひと言もないなんてことはないだろう。家を出るのが突然でその暇がなかったなら、後から手紙をよこせば良いじゃないか。出し抜いて家を出るばかりか何の便りもせんところを見れば、最初から富山と逢う手筈になっていたんだ。もしかしたら一緒に来たのかな。…ミイさん、お前はとんだ奸婦だよ。姦通したも同じだよ」
「そんな酷いこと、貫一さんあんまりだわ、あんまりよ」
形振り構わず泣き崩れて男の腕に縋ろうとする宮を突き離し、
「操を破れば奸婦だろう」
「いつ私が操を破って?」
「いくら大馬鹿者の貫一でも、己の妻が操を破るのを傍に突っ立って見ているものかい!貫一という歴とした夫を持ちながら、その夫を出し抜いて他所の男と湯治に来ていたんだ。姦通していないという証拠がどこにある?」
「…そう言われてしまうと私は何も言えないけれど…富山さんと逢うだの、約束してあっただの、そんなのは全部貫一さんの邪推よ。私たちがこっちに来るのを聞いて、富山さんが後から尋ねて来たのよ」
「なんで富山が後から尋ねてきたんだい」
「…っ……」
宮は唇に釘でも打たれたように、何も言えずに押し黙る。貫一はこうして問い詰めている間にも、宮が過ちを悔い罪を詫び、その身はおろか命までも貫一のものだと誓うと信じていた。よしんば信じていなかったとしても、心密かに望んでいたに違いない。ところがどうしたことだろう、宮には露ほどもそんな素振りが見られない。まるで朝顔を摘もうと蔓を引いても垣根に絡みついて離れないような、頑なな女の心変わり。本当に現実なんだろうかと思うほど、貫一はなかなかこの事実を受け止められなかった。
(あぁ…ミイさんは俺を棄てたんだ…)
貫一は呆然と宮を見つめた。
俺は妻を他人に奪われたのだ。我が命に換えてもと思うほど愛した人は塵芥のように俺を嫌っていたのだ…!恨みは彼の骨に徹し、怒りは彼の胸を引き裂く。身も世も忘れた貫一は、あの奸婦の肉を引きちぎり貪り食い、腹に渦巻く業火を冷ましてやろうかといきり立ったが、忽ち頭が裂けるような痛みを覚えてフラフラと尻もちをつくように座り込んだ。
それを見るなり宮はあっと驚く間もなく、一緒になって砂にまみれて貫一をかき抱いた。閉じた瞳からほろほろ落ちる涙が濡らす灰色の頬を、月の光は悲しげに彷徨い、肩を揺らす息は凄まじく波打つ胸の響きを伝えていた。宮は彼の後ろから取り縋り、抱きしめ、揺り動かして、震える声を張り上げればその声は更に震えた。
「どうして、貫一さん、どうしたのよう!」
貫一力なく宮の手をとる。宮は涙に濡れた男の顔を丁寧に丁寧に拭った。
「…あぁ…ミイさん。こうして二人が一緒にいるのも今夜限りだ。お前が僕の介抱をしてくれるのも今夜限り、僕がお前に物を言うのも今夜限りだよ。一月十七日、ミイさん、よく覚えておくんだよ。来年の今月今夜は、貫一はどこでこの月を見るのだか!再来年の今月今夜……十年後の今月今夜……一生を通して僕は今月今夜を忘れない。忘れるものか
、死んでも僕は忘れんよ!いいかい、ミイさん。一月の十七日だ。来年の今月今夜、僕の涙で必ず月を曇らせてみせるから。月が……月が……月が……曇ったならば、ミイさん。貫一はどこかてお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ」
宮は折らんばかりに貫一に取り付き、狂ったように咽び泣く。
「そんな悲しいことを言わずに、ねぇ貫一さん。私も考えたことがあるのだから、それは腹も立とうけれど、どうぞ堪忍して少し辛抱していてくださいな。私はお腹の中には言いたいことが沢山あるけれど、あんまり言い難いことばかりだから…口には出さないけれど、たったひとこと言いたいのは、私はあなたのことを忘れはしないわ--私は生涯忘れはしないわ」
「聞きたくない!忘れんくらいなら、なぜ見捨てた」
「だから、私は決して見捨てはしないわ」
「なに、見捨てない?見捨てていない者が嫁に行くかい、馬鹿な!二人の夫が持てるかい」
「だから、私は考えていることがあるのよ、だからも少し辛抱してそれを--私の心を見てくださいな。きっと貴方のことを忘れない証拠を私は見せるわ」
「えぇい、狼狽えてくだらんことを言うな。食うに困って身を売らなければならんのじゃなし、何を苦にして嫁に行くんだ。鴫沢の家には七千円もの財産があって、お前はそこの一人娘じゃないか。そうして婿まで決まっているじゃないか。その婿も四五年の後には学士になると将来の見込みだってついているんだ。しかもお前は、その婿を生涯忘れないほどに想っているというじゃないか。なんの不足があって無理に嫁に行かなきゃならないんだ。天下にこれほど訳の分からん話があるかい。どう考えても嫁に行く必要のない者が無理に算段して嫁に行こうとするんだ、必ず何か事情がなければおかしいだろう。
婿が不足なのか、金持ちと縁をもちたいのか、どっちかしかないだろう。教えてくれ、
ミイさん。一旦夫に定めた者を振り捨てるくらい無遠慮なお前だ、今さら遠慮も何もいるものか」
「私が悪いのだから堪忍してください」
「それじゃ婿が不足なんだね」
「貫一さん、それはあんまりだわ。そんなに疑うのなら、私はどんなことでもして、そうして証拠を見せるわ」
「婿に不足は無い?それじゃ富山は金を持ってるからか。そうしてみるとこの結婚は欲からだね、僕を離縁するのも欲からだね。で、この結婚はお前も承知したんだろう、なぁ?
おじさん、おばさんに迫られて、どうしようもなくなってお前も承知したんなら、僕の考えで破談にする方法はいくらでもある。僕一人が悪者になれば、おじさん、おばさんはじめお前の迷惑にもならずぶち壊してしまうこともできる。だからお前の気持ちを聞いた上でやろうと思うが、お前も僕の考えに乗る気はあるのかい」
貫一は全身全霊をその眼に集めて、思い悩む宮の顔を鋭く見詰めた。五歩あるき、七歩あるき、十歩進めども、宮の答えはない。貫一は空を仰ぎ、ため息をついた。
「わかった、わかった…もういい。お前の心はよくわかった」
これ以上もう何か言っても無駄だが、それでもまだ何か重ねて言うべきだろうかと迷いつつ、彼はうち乱れる胸を少しでも鎮めようと敢えて宮から目を逸らし波間へ目をやった。しかし堪えがたい思いに駆られて又なにか言おうと振り返ると、そこに宮の姿はなく、六七間も後ろの波打ち際で顔を覆って泣いていた。
俯きさめざめと泣く宮は、月に照らされ、風に吹かれ迷子のように立ちすくみ。その足元へ、どこまでも続く海の端が白く崩れて波となり打ち寄せる。美しさに哀れさを尽くした風情に、貫一は怒りも恨みをも忘れて、しばし絵画を見るような心地で立ち尽くした。その上この美しい人はもう俺のものではないのだと思えば、何もかも夢ではないかとさえ思えるのだった。
「…夢だ、夢だ、長い夢を見たのだ!」
貫一は頭を垂れて足の進むまま汀の方へ歩む、すると泣く泣く歩いてきた宮と互いに偶然に行きあった。
「ミイさん、何を泣くんだい。お前はちっとも泣くことなんかないじゃないか。フリだろ、空涙だ!」
「どうせそうよ」
ほとんど聞き取れないほど、その声は涙に乱れていた。
「ミイさん、お前に限って欲の為に僕を捨てるなんて考えはないだろうと、僕は自分を信じるのと同じようにお前を信じていた。だがやっぱりお前の心は欲なのだね、財なのだね。いくらなんでも情けないよ、ミイさん。お前はそれで自分に愛想が尽きないかい。
いい出世をして、さぞ贅沢もできて、お前はそれでいいだろう。しかし財と引き換えに捨てられた僕の身にもなってみるがいい。無念と言おうか、口惜しいと言おうか…ミイさん、僕はお前を刺殺して--驚くことはない!--いっそ死んでしまいたいのだ。それを堪えて、お前を人に奪られるのを手出しもせずに見ている僕の心持ちはどんなだと思う…どんなだと思うよ!自分さえ良ければ、他はどうなろうとお前は構わんのかい。いったい、貫一はお前の何だよ。何だと思ってるんだよ。鴫沢の家にとっては厄介者の居候でも、お前にとっては夫じゃないのかい。僕はお前の男妾になった覚えはないよ。ミイさん、お前は貫一を慰み物にしたんだね。いつもいつもお前の仕打ちを水臭い水臭いと思ったのも道理だよ、初めから僕はひと時の慰み物のつもりで本当の愛情はなかったんだ。そうとも知らずに僕は自分の身よりもお前を愛していた。お前の他には何も楽しみがないほどにお前のことを想っていた。それほどまでに想っている貫一を、ミイさん、お前はどうしても捨てる気かい。
そりゃ無論金の力という点では、僕と富山とは比べ物にならない。あっちは屈指の財産家、僕はもとより一介の書生だ。けれどもミイさん、よく考えてごらん。ねぇ、人間の幸福は決して財で買えるものじゃないよ。幸福と財は全く別物だよ。人の幸福で一番大切なのは家内の平和だ。
家内の平和とは何か、夫婦が互いを深く愛するという外はない。お前を深く愛する点では、富山ごときが百人寄っても到底僕の愛には及ばないよ。僕がお前を愛する十分の一も愛することは出来まい。富山が財産で誇るなら、僕は彼らが夢想することも出来んこの愛情で争って見せる。夫婦の幸福は全くこの愛情の力、愛情がなければ既に夫婦ではないのだ。
我が身以上にお前を想っている、それほどの愛情を持つ僕を捨てて、夫婦の幸福には何の益もない…むしろ妨げになるような…その財産を目当てに結婚するなんて、ミイさんは何を考えているんだい。
しかし財というものは人の心を惑わすもので、智者の学者の豪傑のと…千万人に優れた立派な立派な男子さえ財のためには随分酷いこともするんだ。それを考えればお前がふっと気が変わったのも無理もないんだろうな。だから僕はそれは咎めない。ただもう一遍、ミイさんよく考えてご覧よ。その財が--富山の財産がお前の夫婦仲にどれほどの効力があるのかということを。
雀が食う米はせいぜい十粒か二十粒だ。俵で置いてあったって、一度に一俵食べられるものじゃない。僕は鴫沢の財産を譲って貰わなくたって、十粒二十粒の米に事欠いてお前にひもじい思いをさせるような、そんな意気地のない男でもない。もし間違ってその十粒二十粒を工面出来なかったら、僕は自分は食わんでも決してお前に不自由はさせん。ミイさん、僕は……僕はこれほどまでにお前のことを想っている!」
貫一は一粒流れた涙を払い、
「富山へ嫁いだら、それは立派な生活をして、贅沢もできようし、楽もできよう。けれどもその財産は決して息子の嫁のために費やそうと作られた財産ではない。それをお前は考えねばならんよ。愛情のない夫婦の間に立派な生活が何だ!世間には、馬車に乗って心配そうな青い顔で夜会へ招ばれていく人もあれば、自分の妻子を車に乗せて、それを自分で挽いて花見に出かける車夫もある。富山へ嫁げば親族も多いし、人の出入りの激しいだろう。従って気兼ねも苦労もひと通りのことじゃなかろうし、その中へ入って、気を遣いながら愛してもいない夫を持って、それでお前は何を楽しみに生きるんだい。そうして勤めていれば、後々あの財産がお前の物になるのかい。富山の奥様と言えば立派かもしれないが、食うところは今の雀の十粒二十粒に過ぎないじゃないか。よしんばあの財産がお前の自由になったところで、女の身に何十万という金がどうなる。何十万の金を女の身で面白く費えるかい。雀に一俵の米を一度に食えというようなものじゃないか。男を持たなければ女の身が立てないんなら、女は一生の苦楽を他に頼るという言葉の通り、女の宝とするのは夫ではないか。何百万の財があろうとその夫が宝とするに足らない男であったなら、女の心細さは車に乗せられて花見に連れられる車夫の女房さえ及ばないんじゃないかい。
聞けばあの富山の父という男は内に二人、外に三人も妾を置いているという話だ。財のある者はだいたいそんな真似をして、妻はちょこんと床の間の置物にされて、言わば捨て置かれているのだ。捨て置かれていながら夫に愛されている妾より責任は重く、苦労も多く、苦しみばかりで楽しみは無いと言っていい。お前が嫁ぐ唯継だって、望んでお前を貰うんだから暫くは随分可愛がるだろうが、それが長く続くものか。財があるから好き勝手な真似もできるんだ。他の楽しみに気が移って、じきにお前への恋も冷まされてしまうのは判ってる。その時になって、お前がどんな気持ちになるか考えてごらん。あの富山の財産がお前の苦しみを救うかい。家に沢山の財産があれば、夫に捨てられて床の間の置物になっていても、お前はそれで楽しいかい。満足かい。
僕が他人にお前を奪られる無念は言うまでもないけれど、三年後のお前の後悔が目に浮かんで…心変わりした憎いお前ではあるけれど、やっぱり可哀想でならないから僕は真実をお前に言うんだ。
僕に飽きて富山に嫁ぐなら、僕は未練たらしく何も言いはしないけれど。ミイさん、お前はただ『立派な家へ嫁ぐ』という、ただそれだけに惑わされてるんだ。それは間違ってる、それは本当に間違ってる。愛情のない結婚は、つまるところ自他の後悔にしかならないよ。今夜この場のお前の分別ひとつで、お前の人生の苦楽は決まるんだ。ミイさん、お前も自分の身が大事と思うなら…貫一が不憫だと思って、頼む!頼むからもう一度考え直してくれないか。
七千円の財産と学士の貫一なら、二人の幸福を保つには十分だよ。今だって随分二人は幸せじゃないか。男の僕でさえ、お前がいれば富山の財産など羨ましいとはさらさら思わないのに…ミイさん、お前はどうしたんだ!僕を忘れたのかい?僕を愛おしいと思わんのかい」
彼は水に落ちた女を助けようとするようにしっかと宮に取り付いて、匂い立つような襟元に熱い涙を零しつつ、葦の枯葉が風に揉まれるように身悶える。宮も離すまいと強く抱き締めて一緒に身を振るわせながら、貫一の肘の辺りを咬んで咽び泣きに泣いた。
「あぁ、私はどうしたらいいの!もし私があっちへ嫁いだなら、貫一さん、貫一さんはどうするの。それを聞かせてくださいな」
「…ッ!」
木を裂くように貫一は宮を突き放して、
「それじゃ、いよいよお前は嫁ぐ気だね!これほどまでに僕が言っても聞いてくれないんだね。クソッ!腸の腐った女め!姦婦!!」
その声とともに貫一は脚を挙げて、宮の弱腰をドンと蹴った。音を立てて横様に転がった宮はなかなか声も立てずに苦痛を堪え、そのまま砂の上に泣き伏した。貫一はまるで撃ち殺した猛獣を見下ろすように、身じろぎもせずに弱々しく倒れ伏した宮を憎々しげに見遣りつつ、
「宮、おのれ…おのれ姦婦、おいッ!貴様がな、心変わりをしたばかりに間貫一の男一匹はな、失望の果てに発狂して、これまで積み上げてきた人生を全て棒に振ってしまうのだ。学問も何も、もう止めだ。この恨みの為に貫一は生きながら悪魔になって、貴様のような畜生の肉を喰らってやる覚悟だ。富山のれ…れい…令夫人!もう一生お目にかからんから、その顔を挙げて、真人間でいるうちに貫一のツラをよく見ておけよ。長々の御恩に預かったおじさん、おばさんには一目会ってこれまでの御礼を申し上げなければならないところではありますけれども、仔細あって貫一はこのまま長の御暇を致しますから、これからも御達者でご機嫌よろしく……ミイさん、お前からよくそう言っておくれ、よ。もし貫一はどうしたとお尋ねになったら、あの大馬鹿者は一月十七日の晩に気が違って、熱海の浜辺から行方知れずになってしまったと……」
宮はやにわに飛び起きて立ち上がろうして、しかし足に走った痛みに脆くも再び砂の上に倒れた。それでも痛む足を引き摺りながら這い寄り、貫一の足に縋りつき、嗚咽とも言葉ともつかぬ声で、
「貫一さん、ま……ま……待ってください。あなた、これからど……どこへ行くのよ」
貫一はさすがに驚いた。はだけた裾から覗く雪も恥じらうような白い膝頭は、夥し血に染まり震えている。
「あ!怪我をしたのか」
手当てしようとする貫一を遮って、
「いいの、こんなのは構わないから。あなたはどこへ行くのよ、話があるから今夜は一緒にいてください。ねぇ、貫一さん…後生だから」
「話があればここで聞こう」
「ここじゃ私は嫌よ」
「えぇい、なんの話しがあるものか。さぁ、この手を離さないか」
「私は放さない」
「剛情はると蹴飛ばすぞ」
「蹴られてもいいわ」
貫一が力の限り振り払えば、宮はまた無残に砂に伏し転んだ。
「貫一さん、」
顔を上げると、オーバーコートの後ろ姿はもう数間先を足早に進んでいる。宮は見るなり必死に起き上がり、足の痛みに幾度か倒れそうになりながらもその後ろ姿を追いかけ、
「貫一さん、それじゃもう留めないから、もう一度、もう一度……私は言い残したことがある」
遂に倒れた宮はもう一度立ち上がる力もなく、ただ声を頼りに貫一の名を呼ぶのみ。だんだん朧気になった貫一の影が一気に丘を登るのが見える。宮はなお身悶えして彼の名を呼び続けた。やがてその黒い影は丘の頂上に立つと、こちらを見下ろしているのだろう。声の限り張り上げて呼びかけると、男の声が遥々届いた。
「ミイさん…ッ!」
「あ…あ、あ、貫一さん!」
首を伸ばして見回しても、身を凝らして眺めても、宮の名を呼んだ黒い影はかき消すように消え失せて。もしやあそこに…と思って目を凝らした木立は寂しげに動かず、波は悲しい音を寄せて、一月十七日の月は愁いげに白々と見下ろしている。
宮はもう一度、恋しい貫一の名を呼びかけた。
前編おわり
