誰も知らない現世を生きる二人の幽霊 第四章 断片的な“彼女”の記憶と“この世界”の真実
公開 2025/10/09 10:02
最終更新 2025/10/09 10:12
(空白)
 薄暗い空が何もない世界を作り出していた。そこにあった道を歩く一人の少女がいた。途方もない道を歩き続けていたが、声をかける人物がいた。しかしその声に反応することなく、違う方を見ていた。その方向はこの「裏世界」との境界線に存在する「表世界」の入り口だった。

 未練があるわけじゃない。もうそこには少女に関するものがないのだから。

 表世界と裏世界、元は一つの世界。たった一つの願いから綻びが生まれて、それを受け止めるために分かれてしまった。元からあった世界を「表世界」と、新しく生まれた世界を「裏世界」と呼んだ。本来、「裏世界」を認識することは出来ないが、ある条件下において、その入り口を見つけることが出来る。それは「表世界」にいることを拒むことだった。その行為がどうであれ、選ばれた者は『裏世界への招待状』を得ることとなる。
 けれどそれを受け取り「裏世界」に渡れば、「表世界」で生きた記憶も存在も認識も失われ、誰も覚えていない、忘れた状態になる。そしてそれを思い出すことは不可能だった。『誰も知らない世界』を除いて。

第一節 壊れきった――の記憶
 遠くから眺めた血の池は乾ききってなくなった。染みついた布もなくなって荷物置き場に変わり果てたその部屋は元々誰かが住んでいた。――を認識していたのは一人だけだった。それは本来思い出すことの出来ない記憶、けれど残り火は確かにそこにあった。その影を追い求めて、生きていた記憶を取り戻そうとした。しかし現実は書き換えられたまま、確信できない記憶が頭の中に渦巻いていた。

 何をしようとも――はいつだって自分がどうなろうと気にしていなかった。静かに怒り、その怒りが爆発したこともあったけど、物静かで何もなかった。けれどいつもどこかを怪我していた。特に指の怪我は多く、そもそも自分で血を流していた。痛みは生きていることを証明してくれる、そんなことを言った気がする。あまりにも異常だったが、――にとってはまだ正常な方だった。
 この異常という行為、それがすべての元凶であり、――という空白の存在が生まれた原因だった。記憶の中に存在する――の行動は怒らせないようにするためのものだった。何も出来ないからこそ何もしない、何かすれば良くないことが起きるから。口は禍の元というように、話せば良くない方へと傾く。だからずっと黙っていた。

 それが異常だと気づいたのは少し離れて暮らすようになったから。正常な世界へと足を踏み入れた時、今までの出来事があまりにもおかしかった。そんな生活をずっと繰り返せばおかしくなるのは明白だったが、――はその状況に慣れてしまった。それどころか何も思わなくなった。しかし代わりに怪我は増えていった。指だけにとどまらず、謎の切り傷が増えて、隠しているようで隠れていなかった。

 そしていなくなった。顔を思い出すことが出来ないほど存在が消え失せた。幻覚だと思っていたそれは異常を通り越した正常の世界だった。恐怖の対象にもなり下がった――だったのに、この空っぽの感情がわからない涙を流した。


 知らない紅葉の地、そこにリフォは座っていた。山の頂上で見る夕焼けの強い光。その風景を一度だけ見たことがある。写真とともに語るその声を覚えてはいないが、その風景を今その目で見ていた。もし“この世界”が見せている幻影(げんえい)だとしても、今見ているものは真実だと思いたかった。
 立ち上がって藍色が見え始める頃、その姿は消える。リフォの目に夜が見えることはない。しかし一度だけ、死後初めての夕焼けの時、夜を見たことがあった。電灯のない暗闇の道を進み続けて、ぶつかることのない世界を歩いていた時、一瞬誰かとすれ違った。驚いて振り返って歩みを止めたが、誰かは進み続けて見えなくなった。その手足には大量の包帯が巻かれ、血が滲んで痛々しかったことは覚えている。ゆらゆらと今にも倒れそうな歩き方をする誰かと心配して、そっちに行こうとしたが体は言うことを聞いてくれなかった。いや、何かに引っ張られていた気がする。

 またあの時と同じように忘れていた。それが空白に書き換えられた人物ならば、きっとまだ何かが足りない。だから伸ばすことが出来なかった、追いかけられなかった。もう一度、会わなければ。すべて終わった世界にやり直しが存在しなくても、大切だったその人を取り戻したい。それが罪であり、未練なのかもしれない。

第二節 最初から存在しない命
 いつか人は死ぬ。それを知った時、この体の意味がわからなくなった。生まれてから楽しさより苦しみの方が多かった。出来事としては多いのかもしれないが、記憶として残っているのは悪い方ばかりだった。何のために存在しているのかわからない。
 その前からすでに異常だったのは言うまでもなく、感情が壊れたのはいじめが原因だった。何も出来ないから対象にされて、何もしないから攻撃できる。いつも標的にされて誰も助けに来なかった。助ければ次の標的になるから、みんなただの傍観者だった。助けてくれた先生は新米で、まともに話を聞いてくれる生徒はいなかった。荒れていたわけでもないが、その力は先生でも止められなかった。

 そして成長するうちに考えは死ぬ方へと傾いた。生きる方法なんて無駄なのだと。傷ついた体と元に戻らない心、壊れた意思は大量の血を撒き散らした。しかしそれでは死ぬことが出来ず、意識が消えることはなかった。何をしようとも止められた。命を散らすことは出来なかった。
《誰もいらないのに どうして助けようとするの?》
 そう考えて何度も繰り返した。そう言ったこともあったかもしれないが、よく覚えていない。死ぬことに恐怖はなかったわけではない。痛いのは痛いし、そのたびに泣いた。けれどその液体はいつしか混ざりものになって、色を認識することが出来なくなった。白黒の世界、その期間が長かったこともある。心は擦り減り、何も感じなくなった頃、彫刻刀で腹を刺した。無意識に突き刺したそれに何の反応もなかった。気づかれて安全に引き抜かれたが、自力で引き抜いたらどうなっていたのか容易に想像できた。

《いつになったら終わるんだろう 忘れたらいいのに》
 その願いは強くなって人との関わりを断ち切った。そうすれば誰も傷つかずに済む。一人消え去れば、何も考えなくて済む。心残りがあったのは―――のことだった。何が起きようとも頭の奥には―――がいた。壊れてしまった記憶の中で、楽しいと思った出来事には必ずというほど存在していた。―――はどう思っているのか知らない。他の人と同じようにいらないと思っているのかもしれない。それでも唯一信じることが出来る人間ではあった。

 そんな矢先だった、『裏世界への招待状』が届いたのは。離れて暮らすようになり、疎遠になりつつあった新月の夜、白い封筒が置かれていた。毎日のように傷つけた手は醜いほど赤く染まり、その白さを穢した。そのせいで読めた文字は少なかったが、願いに沿ったものだった。
 危険物はすべて取り除かれていたはずだった。しかしその手には確かに刃物が握られていた。隠し持っていた最後の死を、実行するための方法として残していた。


 一瞬にして暗転した意識はすぐに戻った。代わりに薄暗い空が見えて起き上がった。傷だらけの体は何もかもなかったかのように治っていた。ここが「裏世界」と呼ばれる世界なのだろう、と少女は思った。立ち上がって何もない世界を歩いていた。すると見慣れた風景が広がり始めたが、どれもこれも“忘れられたもの”が存在していた。人々の記憶から消え去ったすべてがそこに存在していた。

 これですべてが終わった。安堵とともに少女にはわからない涙が流れていた。

 未練があるわけじゃない。最初からそう望んだのは自分自身なのに、存在が消えた「表世界」に残されたあの子は何も思わないのだろう、と悲しくなった。壊れていたはずの感情も体とともに治っていたらしい。いらないものまで治って、溢れた涙が枯れるまで泣き続けた。落ち着くまでかなり時間がかかったように見えたが、「裏世界」にはその概念がないように見えた。“忘れられたもの”に時間など必要ないように。
 深い悲しみが今までの苦しみと違って、同じように繰り返しても取り除かれることはなかった。けれど何を考えても意味ないと切り捨てた。そしてまた苦しんだ。

第?節 『誰も知らない世界』を生きるという意味
 時間の概念がないということは“忘れられたもの”に歳を取るという考えもなかった。けれど「表世界」は時間が進み、あの子の寿命はもう少しで尽きる。それを知ったのは境界線の揺らぎからだった。誰かが思い続けている間はこの「裏世界」に流れ着くことはない。けれどあの子少女の存在を認識してしまった。そのせいで本来の死を迎えることが出来なくなっていた。「表世界」にも「裏世界」にも「天国」にも「地獄」にも行けなかった。助けたいと思っても少女に、“忘れられたもの”に選択肢はなかった。けれどその願いは切り離される形で生まれ落ちた。かつて「表世界」に存在した――の姿として、少女の元から生まれたあの子の記憶で構成された空っぽの器。記憶のない代わりの人形、“忘れられた”少女が託したあの子を救うための奇跡。
 傷だらけの体を隠すように大量の包帯が巻かれても滲んだ赤色は見えていた。話すことも出来ず、解き放たれた人形は「裏世界」からいなくなった。けれど最後に少女はその人形に名前を与えた。記憶として残せないかもしれないが、それでも何もわからないよりはマシだと思った。

『ルティ あの子を助けて』
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