闇堕ちの能力者 第四章 亡くした心は蝶の夢を見る(1/3)
公開 2026/01/22 14:01
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不気味な空、灰色の大地。その山頂に立っていた。雲一つないその風景を眺めていた瞳は飛び立った無数のカラスに驚く様子はなく、それどころか羽ばたく音も耳には届いていなかった。その視線はゆっくりと下へ向かい、自分の姿もまた灰色であると認識した時、広げられた両手には赤色が飛び散っていた。恐怖を覚えた瞬間、頭の中に流れ込んだ映像は掠れながらも悲鳴と血だまりの連続だった。しかし「違う」と呟いて首を横に振り、後ずさりした足が地面とは違う何かを踏んだ。そこにあったのは白骨化しかけていた死体だった。その死体を見たことで周りを認識し、山を下ろうとした地面のすべては死体で埋まっていた。そして腐敗した顔は皆こちらを向いていた。
朝を告げる目覚ましの音がする前にその目は開いていた。隙間から流れた冷たい空気が顔に当たっていたが、それを蒸発させるかのような大量の汗をかいていた。息苦しくなっていて深呼吸を繰り返し、ゆっくり起き上がった水鏡(すいきょう)コタラはうるさく鳴り続ける目覚ましを止めた。
「……またあの夢か」
そう呟いて服を着替えて顔を洗い、ご飯を軽く済ませて寒くないようにコートを着て外に出た。長い夏が終わって秋で落ち着くかと思いきや、暖かさと寒さの喧嘩を繰り返した天気を得て冬になっていた。一日の間で気温の変化が大きく、体調の管理も難しい状態だった。今日はかなり寒いが雪は降らず、歩いて仕事に向かう彼はカイロを持って手を温めていた。
役所に到着し、準備を済ませて自分の席につく。そして彼は机に顔を伏せていた。最近、あの夢を繰り返し見るようになった。あれはまだ『亡心(ぼうしん)』の能力の制御が上手くいかなかった頃に起きた最悪の出来事、それを再現した夢だった。何をきっかけにしてその夢が繰り返されるようになったのかわからないが、そのせいで眠っている感覚がなく寝不足に陥っていた。それは病院に行こうと考えるまでになっていた。
「……予約、取らないと……スマホ……あれ? どこいった」
いつもならズボンのポケットに入っているはずのスマホがなくて、ゆっくりと顔を上げて机を見た。すると大量の紙に覆われたスマホが少しだけ見えていた。無意識なうちに出していたのかもしれない。「あっ……あった」とスマホに手をかけて、ぼやける目をこすりながら病院への予約をした。そこまでは覚えていたが、いつの間にか気絶していたらしく、再び目を覚ましたのは玄関のガラス扉が自動開閉をした時だった。何度か瞬きして、誰かが来たんだろう、と思ってかすかに聞こえる足音を頼りにその方を見た。
「……初めまして、水鏡コタラさん」
「?」
「その様子だと頭が回っていないようだ」
「……」
「まぁ、あんな悪夢を見続ければそうなりますよね」
「!? お前が……何のために」
「何のため? それはあなたを壊すため……精神を壊し、能力を暴走させる」
「暴走なんて……」
「しないと思っていますか? そうですね……ならこの蝶は見覚えありませんか」
その者が右手を差し出すと上に青色の蝶が飛んでいた。それを見たコタラはびっくりしながら立ち上がり、よく見るために少しだけ近づいた。しかし体はふらつき、近くの柱に寄せなければ立っていられなかった。
「何故? という顔をしてらっしゃる」
「それは……あいつの能力」
「ええ」
「でもあいつはそんなこと……いや、そもそももう」
「いないのに……ね」
「うっ……頭が痛い」
「限界のようですね。寝不足によって疲労も回復しない状態じゃ、まともに能力を使えるとは思えない」
「……」
「だからあなたに安らぎを与えましょう。永遠の幸福(あくむ)の中で眠り続けるといい」
寄りかかって立っていたコタラの体は限界を迎えて座り込み、意識が朦朧としていた。そんな中で青色の蝶はコタラの方に飛びながら少しずつ紺色へと変化して、彼の体に取り込まれた。そしてコタラは完全に意識を失って倒れて少し経った。しかし起き上がった彼の目は希望なく虚ろで、深い悲しみを背負った紺色の瞳へと変わっていた。
「さぁ……始めましょう。新たな……え?」
その者はコタラの様子を見て、高らかに宣言しようとしたが、心臓を抜き取られて潰された。一瞬の出来事で判断が出来ず、その者は大量の血の中で倒れていた。その血をものともせず、コタラはゆっくりと歩き出して市役所から出ていった。
同時刻、甘雨(かんう)セオンは朝寒(あささむ)ルジオの電話のもと、小さな喫茶店で待ち合わせをしていた。合言葉を決めて、それ以外を通さないシステムで情報屋がよく使っている場所。喫茶店のマスターは元情報屋にもかかわらず、噂話の絶えない場所になっていた。二人は個室に案内されて、マスターが扉を閉めて静まりかえった後、ルジオは鞄からファイルを取り出した。ファイルを開いてルジオが話そうとしたが、セオンは首を振って遮断して話し始めた。
「ある程度の情報はこっちにあるが、一つ分からないことがあって」
「それは?」
「《呪われた血》の入った最後の注射器……だったもの。地下の研究所で保管されていた」
「でも中身がない」
「ああ、かわりばんこで見張っていたんだが、一日だけ誰も見れない日があって……その日に使われた」
「ちなみに何があったんですか?」
「俺は闇市から逃げ延びたやつらを調べていた。『転移』で街外に飛ばしたにもかかわらず、生きて戻ってきたやつらもいた。その中で見たことない名前を見つけた」
「それがこの前電話で言っていた」
「雨水影狼(うすいかげろう)という男だ」
「その男についてはこちらで調べました。街外から闇市の調査に来ていたようで、どうやらこの街以外にも闇市の被害に遭われた方の生死の確認にいらしたようです。しかしその後、消息不明になっていて捜索届も出ていました。何があったんでしょうか……」
「《呪われた血》を取り込んだ……それが理由だろう。そしてもう一つ理由があるなら、闇市のやつらと接触した。どっちであろうと危険人物になったと考えた方がいい」
「そうですね」
「……」
「どうかしました?」
「いや、今気づいたが、地下の研究所からペンギンが逃げ出していたなって」
「それって」
「俺の鳩やルジオさんの小さな熊みたいな能力の制御を行ってくれる存在。俗にいう『式神システム』」
「じゃあ、やっぱり」
「能力を所有しているのは確定だろうな。問題は何の能力を持っているか……ああ、もうすぐ退院できるって話だったのに」
「それなら予定通りに」
「そっか」
「本当は延期するはずでした。しかし病院側もこれ以上は無理だと言われまして……」
「本来なら冬を迎える前に……だったからな。……少し脱線したな、話を戻すが、闇市のやつらはまた同じことを繰り返すと思うか?」
「え……? あっ、いきなりでびっくりしました。えっと……思います」
「俺はあれ以上のことが起きると思っている。《呪われた血》はもうない……というのは嘘で、もしその血を複製できる可能性があるのなら……なんて考えた。そうなれば誰もが能力を得ることになる」
「でも『式神システム』がなければ制御は」
「それすらも不要にできるならば? 暴走する原因を取り除けたら?」
「……こわいですよ、セオンくん」
「まぁ、これはただの想像に過ぎない。しかし警戒は怠らないように。俺もまだ調べるし、ルジオさんも調べる際は気をつけて」
「はい。雨水影狼に関する資料はこのファイルに詳しく書いていますので」
「じゃあ、俺はこれを」
そう言ってセオンは一枚の紙を取り出した。そこにはQRコードが描かれていてスマホで読み取る形になっていた。紙の裏にはパスワードを入れるためのクイズが載っていた。
「簡単なクイズなんで、ルジオさんは大丈夫だと思います」
「“私にしか解けない”簡単なクイズだよね」
「そりゃ、他の人に渡すわけないですし」
悪い笑いをするセオンに対してルジオはその紙を受け取ってすぐ鞄に入れた。周りに時計はなく、腕時計を見てルジオは立ち上がった。「忙しそうですね」とセオンは言い、「ごめんね」とルジオは返して扉から出て行った。そしてすぐにセオンも個室から出て、マスターにお礼を言うと小さな蝶のブローチをもらった。藍色の深い青が光に照らされながらも暗く沈んでいた。
それから数日後、病院では桜陰(さくらかげ)リイノの退院祝いを称して多くの人が集まって病室内には大量のお祝い品が置かれていた。本来なら夏祭りが始まる前に退院できたはずだったが、いろいろな事件が重なって安全性が保障されるまでかなりの時間を要してしまった。
「リイノちゃん、退院おめでとう」
「ありがとう、スイリア」
「……」
「大丈夫だよ。まだ薬をもらうために通院はするし……」
「そうだよね。てかたくさん電話してよ! ソルヒのことが嫌になったら家に来てもいいからね」
「おい」
「だって心配だよ。一緒に住むなんて」
「心配性にもほどがあるだろう」
そんな会話を繰り広げながらも退院までの準備は怠らず、リイノも手伝おうとしたが二人に止められておとなしくしていた。車椅子なしで立ち上がることが出来て歩くことは可能になったが、長距離移動はまだ体のふらつきがあったため、まだ車椅子は離せない状態だった。
病室を出てリイノの車椅子はスイリアが押していた。ソルヒは荷物を運んでいたが、退院祝いに贈られたプレゼントばかりで、何度か往復しなければならないほどの量があった。それを見たスイリアは「送っていこうか?」と問いかけたが、リイノは首を振って「来てくれるから」と言っていた。しかし病院の入り口付近で待っていたが誰も来ず、ソルヒは近くの自動販売機であったかい飲み物を買ってこようと一度リイノから離れた。その間にリイノは見つけて「こっち」と声を出すと気づいて近づいてきた。
「あれ? びっくりさせようと思ったのに」
「ソルヒなら飲み物買いに行っちゃった」
「なんだよ。まぁ、退院おめでとう」
「ありがとうございます、セオンさん」
「それにしても寒すぎだろ」
「あまり外に出てなかったこともあってわからなくて……手袋とかマフラーとかしたけど寒い」
「カイロ持ってないのか? ならやるよ」
「え? セオンさんも寒いんじゃ」
「俺は別に」
「……あったかい」
「リイノ! お茶買ってき……え? なんでいるんだよ」
「なんでって……約束したから」
「約束?」
「お前がいない時に退院するって話と車椅子移動が大変だって聞いたから。どうせ病院から家までかなり距離あるだろう? なら俺の『転移』はさぞ便利だろうなって」
「……まさか」
「何を考えているかはわかる。この大量のお祝い品はお前の仕業かって。半分当たりで半分は違う。宛先をよく見ろ……この街以外の住所も含まれているはずだから」
「それって……みんなが……孤児院の……生きていたんだ」
ソルヒとセオンが寒空の下で言い争いをしている中、大量の祝い品の住所を見たリイノは驚きつつ嬉しそうにしながら少し涙を流していた。
寒空に晒されるのもいい加減にしたいと思ったセオンはお祝い品に触れて次々と送っていた。そして最後の一つになった時、リイノの手を取ってソルヒを置き去りに『転移』を使って家に飛んだ。車椅子も一緒に来たからリイノは座ったまま移動していた。玄関の前に立つ二人だったが、「鍵は?」と問うセオンに対して「ソルヒが持っているはず」とリイノが返した。仕方ない、とため息をつきながらセオンはソルヒを連れて戻ってきた。家の鍵を使って扉を開けたが、車椅子が通るには少々狭く無理だった。寒そうにするリイノを見てソルヒは彼女をおんぶして、近くに置いていたソファーに座らせた。
「先に渡しとけよ」
「お前が来るってわかっていたならな。リイノ……今暖房つけたからもう少しであったかくなると思う」
「うん」
「……これで運びたいものはすべて」
「ありがとう。お茶入れるから」
「いや、俺は行かなきゃいけないから……そうだ。リイノさんに伝言があって」
「伝言?」
「ここに来る前にミヒシさんのお店に寄ってきて」
「ミヒシさんって夏祭りの屋台の?」
「そう、以前そのこと話して、食べに来てくれないかなって言っていたけど。リイノさんの退院の話も知っていたみたいで『もし時間があれば来てくれないかな?』って」
「……でも今日って休みの日じゃなかったか? それなのに押し掛けたのか」
「違う。ちょっと用があって……それはいいや。それでどうかな? 良かったら今ミヒシさんに電話するけど」
「……休みなんですよね。食べてみたいけど……」
「じゃあ電話する。どうせ、ソルヒも夕食のことなんて何も考えていないんだろう?」
「考えてないけど」
「なら決まりだな。まぁ俺は行けないんだけど」
「なんかあったのか?」
「俺はお前と違って忙しいんだよ……それとお茶いらねぇから、じゃあ」
そう言ってセオンはスマホを耳に当てて電話をしながら『転移』でいなくなってしまった。その数分後、ソルヒのスマホにメッセージが届き、特別な開店時間が書かれていた。
プレゼントの整理をしている間に夕日を忘れてすっかり夜になっていた。送られてきた開店時間まではまだ大丈夫だが、車椅子を押していくから間に合うか少し心配だった。ミヒシは『遅くなっても大丈夫』と返事はしてきたものの、やはり『時計』の能力を使わなければ予定通りにはいかないと思った。一人で行動するなら負担は軽いが、二人でかなりの距離をそれも車椅子を押しながらだからゆっくり歩かなきゃいけなかった。『式神システム』で能力の制御は出来ても、その百舌(もず)にどれくらいの負担が行くのかわからない。今は元気そうに飛び回っているが、店につく頃にはぐったりしているかもしれない。
準備を済ませて一度、車椅子を外に出してリイノを座らせた後、ソルヒは車椅子を押しながら『時計』を使用した。人体に触れなくとも車椅子に座っている間はリイノも止まらずにソルヒの様子を見ていた。「大丈夫?」とリイノの心配する声に「平気」とソルヒは答えるが、百舌は早々にリイノのところに行って手袋の両手に包まれて縮こまっていた。
けれど『時計』が途切れることはなく、ミヒシのお店から少し離れた場所で能力を切った。腕時計を見るとここからゆっくり歩いても十分時間は足りると思った。辿り着いてお店の扉を開けようとしたら、ミヒシが開けてくれて「寒くなかった?」と扉が閉じないようにしてくれた。お店に入ると普段置かれている椅子が一か所なくなっていて、車椅子のまま机に辿り着けるようにしてあった。
「いらっしゃい。そしてリイノさんは初めましてだね。冬茜(ふゆあかね)ミヒシ、この店で飲食をやっているよ」
「初めまして、桜陰リイノです。この子達は……」
「知っているよ。能力のことは心配しなくていいからね」
「え?」
「実は能力持ちで……元々『守護』と呼ばれる力を持っていたけど、《呪われた血》で『結射(けっしゃ)』という能力に変異した」
「変異? ……というより《呪われた血》で能力を得たわけじゃない!?」
「そういえば、変異に関してはソルヒにも言ってなかったな」
「……でも能力を持っていたのならどうして」
「打ったか? まぁ……自分で打ってないんだ。能力を行使している際にやられて……どうやら実験も兼ねて打たれたようだが」
ミヒシは話しながら料理を作っていたが、集中したいことが出来たのか一旦会話が途切れた。リイノはミヒシの様子を見ていたが、二匹の蛇は自由に動いていた。特に黒い蛇は赤いしいたけの置き物を見つけて、その頭に噛み付こうとしていたが、「こら」とリイノに言われて噛まなかったが不思議そうにじっと見ていた。机いっぱいに運ばれてきた料理を見て、リイノはこんなにあっても食べられないよ、と思いながら「どうしよう」と呟いていると、「残ったら持って帰れるようにしておくよ」とミヒシが大量の保存容器を用意していた。
「……この卵焼き」
「気づいた? 普段はだしを多めに入れたものを作っているけど、たまに甘い卵焼きを注文する人がいるから。リイノさんはどっちが好きかな」
「どっちもおいしいです。特に甘い方は懐かしさを感じて……」
「懐かしさ?」
「孤児院がまだ平和な時に、みんなで卵焼き作ろうってなって……」
「大丈夫?」
「え? あっ……」
リイノは無意識のうちに涙を流していて、甘いはずの卵焼きが少ししょっぱくなっていた。それを見ていたソルヒは退院時に医師から聞かされていたことを思い出した。リイノの記憶はほとんど取り戻していたが、最後の一欠片としてソルヒが孤児院に入る前に彼女が持っていたはずの記憶が消去に近い形で思い出すことが困難になっているかもしれない、と言われていた。黒い蛇の『破壊』や白い蛇の『封印』に関する記憶も出会う前の出来事のはずだが、おそらく能力としての判定を受けているせいで、除外されている可能性があるということ。医師は無理に思い出すことはない、と言ってくれたが、ふとした瞬間に忘れていた方がよかった記憶が見つかったら、自分の知るリイノが消えてしまうのではないかと少し恐怖していた。
何も見えない深い夜を静かに白く染める雪が降る。ゆっくりとした足取りは息を吸った瞬間に何も聞こえなくなった。遠ざかる悲鳴が破裂音に変わる時、そこに広がっていたのは影よりも濃くなった黒い液体だった。耳に届かない小さな声は呟いた。精神を狂わせるその音は生死の選択を無に帰した。
歩みは止まらず、「化け物」だと罵られても次の瞬間、その声は失われた。積もり始めた雪は白さで埋め尽くす前に、血飛沫が舞って赤く染まって穢されていた。
不気味な空、灰色の大地。その山頂に立っていた。雲一つないその風景を眺めていた瞳は飛び立った無数のカラスに驚く様子はなく、それどころか羽ばたく音も耳には届いていなかった。その視線はゆっくりと下へ向かい、自分の姿もまた灰色であると認識した時、広げられた両手には赤色が飛び散っていた。恐怖を覚えた瞬間、頭の中に流れ込んだ映像は掠れながらも悲鳴と血だまりの連続だった。しかし「違う」と呟いて首を横に振り、後ずさりした足が地面とは違う何かを踏んだ。そこにあったのは白骨化しかけていた死体だった。その死体を見たことで周りを認識し、山を下ろうとした地面のすべては死体で埋まっていた。そして腐敗した顔は皆こちらを向いていた。
朝を告げる目覚ましの音がする前にその目は開いていた。隙間から流れた冷たい空気が顔に当たっていたが、それを蒸発させるかのような大量の汗をかいていた。息苦しくなっていて深呼吸を繰り返し、ゆっくり起き上がった水鏡(すいきょう)コタラはうるさく鳴り続ける目覚ましを止めた。
「……またあの夢か」
そう呟いて服を着替えて顔を洗い、ご飯を軽く済ませて寒くないようにコートを着て外に出た。長い夏が終わって秋で落ち着くかと思いきや、暖かさと寒さの喧嘩を繰り返した天気を得て冬になっていた。一日の間で気温の変化が大きく、体調の管理も難しい状態だった。今日はかなり寒いが雪は降らず、歩いて仕事に向かう彼はカイロを持って手を温めていた。
役所に到着し、準備を済ませて自分の席につく。そして彼は机に顔を伏せていた。最近、あの夢を繰り返し見るようになった。あれはまだ『亡心(ぼうしん)』の能力の制御が上手くいかなかった頃に起きた最悪の出来事、それを再現した夢だった。何をきっかけにしてその夢が繰り返されるようになったのかわからないが、そのせいで眠っている感覚がなく寝不足に陥っていた。それは病院に行こうと考えるまでになっていた。
「……予約、取らないと……スマホ……あれ? どこいった」
いつもならズボンのポケットに入っているはずのスマホがなくて、ゆっくりと顔を上げて机を見た。すると大量の紙に覆われたスマホが少しだけ見えていた。無意識なうちに出していたのかもしれない。「あっ……あった」とスマホに手をかけて、ぼやける目をこすりながら病院への予約をした。そこまでは覚えていたが、いつの間にか気絶していたらしく、再び目を覚ましたのは玄関のガラス扉が自動開閉をした時だった。何度か瞬きして、誰かが来たんだろう、と思ってかすかに聞こえる足音を頼りにその方を見た。
「……初めまして、水鏡コタラさん」
「?」
「その様子だと頭が回っていないようだ」
「……」
「まぁ、あんな悪夢を見続ければそうなりますよね」
「!? お前が……何のために」
「何のため? それはあなたを壊すため……精神を壊し、能力を暴走させる」
「暴走なんて……」
「しないと思っていますか? そうですね……ならこの蝶は見覚えありませんか」
その者が右手を差し出すと上に青色の蝶が飛んでいた。それを見たコタラはびっくりしながら立ち上がり、よく見るために少しだけ近づいた。しかし体はふらつき、近くの柱に寄せなければ立っていられなかった。
「何故? という顔をしてらっしゃる」
「それは……あいつの能力」
「ええ」
「でもあいつはそんなこと……いや、そもそももう」
「いないのに……ね」
「うっ……頭が痛い」
「限界のようですね。寝不足によって疲労も回復しない状態じゃ、まともに能力を使えるとは思えない」
「……」
「だからあなたに安らぎを与えましょう。永遠の幸福(あくむ)の中で眠り続けるといい」
寄りかかって立っていたコタラの体は限界を迎えて座り込み、意識が朦朧としていた。そんな中で青色の蝶はコタラの方に飛びながら少しずつ紺色へと変化して、彼の体に取り込まれた。そしてコタラは完全に意識を失って倒れて少し経った。しかし起き上がった彼の目は希望なく虚ろで、深い悲しみを背負った紺色の瞳へと変わっていた。
「さぁ……始めましょう。新たな……え?」
その者はコタラの様子を見て、高らかに宣言しようとしたが、心臓を抜き取られて潰された。一瞬の出来事で判断が出来ず、その者は大量の血の中で倒れていた。その血をものともせず、コタラはゆっくりと歩き出して市役所から出ていった。
同時刻、甘雨(かんう)セオンは朝寒(あささむ)ルジオの電話のもと、小さな喫茶店で待ち合わせをしていた。合言葉を決めて、それ以外を通さないシステムで情報屋がよく使っている場所。喫茶店のマスターは元情報屋にもかかわらず、噂話の絶えない場所になっていた。二人は個室に案内されて、マスターが扉を閉めて静まりかえった後、ルジオは鞄からファイルを取り出した。ファイルを開いてルジオが話そうとしたが、セオンは首を振って遮断して話し始めた。
「ある程度の情報はこっちにあるが、一つ分からないことがあって」
「それは?」
「《呪われた血》の入った最後の注射器……だったもの。地下の研究所で保管されていた」
「でも中身がない」
「ああ、かわりばんこで見張っていたんだが、一日だけ誰も見れない日があって……その日に使われた」
「ちなみに何があったんですか?」
「俺は闇市から逃げ延びたやつらを調べていた。『転移』で街外に飛ばしたにもかかわらず、生きて戻ってきたやつらもいた。その中で見たことない名前を見つけた」
「それがこの前電話で言っていた」
「雨水影狼(うすいかげろう)という男だ」
「その男についてはこちらで調べました。街外から闇市の調査に来ていたようで、どうやらこの街以外にも闇市の被害に遭われた方の生死の確認にいらしたようです。しかしその後、消息不明になっていて捜索届も出ていました。何があったんでしょうか……」
「《呪われた血》を取り込んだ……それが理由だろう。そしてもう一つ理由があるなら、闇市のやつらと接触した。どっちであろうと危険人物になったと考えた方がいい」
「そうですね」
「……」
「どうかしました?」
「いや、今気づいたが、地下の研究所からペンギンが逃げ出していたなって」
「それって」
「俺の鳩やルジオさんの小さな熊みたいな能力の制御を行ってくれる存在。俗にいう『式神システム』」
「じゃあ、やっぱり」
「能力を所有しているのは確定だろうな。問題は何の能力を持っているか……ああ、もうすぐ退院できるって話だったのに」
「それなら予定通りに」
「そっか」
「本当は延期するはずでした。しかし病院側もこれ以上は無理だと言われまして……」
「本来なら冬を迎える前に……だったからな。……少し脱線したな、話を戻すが、闇市のやつらはまた同じことを繰り返すと思うか?」
「え……? あっ、いきなりでびっくりしました。えっと……思います」
「俺はあれ以上のことが起きると思っている。《呪われた血》はもうない……というのは嘘で、もしその血を複製できる可能性があるのなら……なんて考えた。そうなれば誰もが能力を得ることになる」
「でも『式神システム』がなければ制御は」
「それすらも不要にできるならば? 暴走する原因を取り除けたら?」
「……こわいですよ、セオンくん」
「まぁ、これはただの想像に過ぎない。しかし警戒は怠らないように。俺もまだ調べるし、ルジオさんも調べる際は気をつけて」
「はい。雨水影狼に関する資料はこのファイルに詳しく書いていますので」
「じゃあ、俺はこれを」
そう言ってセオンは一枚の紙を取り出した。そこにはQRコードが描かれていてスマホで読み取る形になっていた。紙の裏にはパスワードを入れるためのクイズが載っていた。
「簡単なクイズなんで、ルジオさんは大丈夫だと思います」
「“私にしか解けない”簡単なクイズだよね」
「そりゃ、他の人に渡すわけないですし」
悪い笑いをするセオンに対してルジオはその紙を受け取ってすぐ鞄に入れた。周りに時計はなく、腕時計を見てルジオは立ち上がった。「忙しそうですね」とセオンは言い、「ごめんね」とルジオは返して扉から出て行った。そしてすぐにセオンも個室から出て、マスターにお礼を言うと小さな蝶のブローチをもらった。藍色の深い青が光に照らされながらも暗く沈んでいた。
それから数日後、病院では桜陰(さくらかげ)リイノの退院祝いを称して多くの人が集まって病室内には大量のお祝い品が置かれていた。本来なら夏祭りが始まる前に退院できたはずだったが、いろいろな事件が重なって安全性が保障されるまでかなりの時間を要してしまった。
「リイノちゃん、退院おめでとう」
「ありがとう、スイリア」
「……」
「大丈夫だよ。まだ薬をもらうために通院はするし……」
「そうだよね。てかたくさん電話してよ! ソルヒのことが嫌になったら家に来てもいいからね」
「おい」
「だって心配だよ。一緒に住むなんて」
「心配性にもほどがあるだろう」
そんな会話を繰り広げながらも退院までの準備は怠らず、リイノも手伝おうとしたが二人に止められておとなしくしていた。車椅子なしで立ち上がることが出来て歩くことは可能になったが、長距離移動はまだ体のふらつきがあったため、まだ車椅子は離せない状態だった。
病室を出てリイノの車椅子はスイリアが押していた。ソルヒは荷物を運んでいたが、退院祝いに贈られたプレゼントばかりで、何度か往復しなければならないほどの量があった。それを見たスイリアは「送っていこうか?」と問いかけたが、リイノは首を振って「来てくれるから」と言っていた。しかし病院の入り口付近で待っていたが誰も来ず、ソルヒは近くの自動販売機であったかい飲み物を買ってこようと一度リイノから離れた。その間にリイノは見つけて「こっち」と声を出すと気づいて近づいてきた。
「あれ? びっくりさせようと思ったのに」
「ソルヒなら飲み物買いに行っちゃった」
「なんだよ。まぁ、退院おめでとう」
「ありがとうございます、セオンさん」
「それにしても寒すぎだろ」
「あまり外に出てなかったこともあってわからなくて……手袋とかマフラーとかしたけど寒い」
「カイロ持ってないのか? ならやるよ」
「え? セオンさんも寒いんじゃ」
「俺は別に」
「……あったかい」
「リイノ! お茶買ってき……え? なんでいるんだよ」
「なんでって……約束したから」
「約束?」
「お前がいない時に退院するって話と車椅子移動が大変だって聞いたから。どうせ病院から家までかなり距離あるだろう? なら俺の『転移』はさぞ便利だろうなって」
「……まさか」
「何を考えているかはわかる。この大量のお祝い品はお前の仕業かって。半分当たりで半分は違う。宛先をよく見ろ……この街以外の住所も含まれているはずだから」
「それって……みんなが……孤児院の……生きていたんだ」
ソルヒとセオンが寒空の下で言い争いをしている中、大量の祝い品の住所を見たリイノは驚きつつ嬉しそうにしながら少し涙を流していた。
寒空に晒されるのもいい加減にしたいと思ったセオンはお祝い品に触れて次々と送っていた。そして最後の一つになった時、リイノの手を取ってソルヒを置き去りに『転移』を使って家に飛んだ。車椅子も一緒に来たからリイノは座ったまま移動していた。玄関の前に立つ二人だったが、「鍵は?」と問うセオンに対して「ソルヒが持っているはず」とリイノが返した。仕方ない、とため息をつきながらセオンはソルヒを連れて戻ってきた。家の鍵を使って扉を開けたが、車椅子が通るには少々狭く無理だった。寒そうにするリイノを見てソルヒは彼女をおんぶして、近くに置いていたソファーに座らせた。
「先に渡しとけよ」
「お前が来るってわかっていたならな。リイノ……今暖房つけたからもう少しであったかくなると思う」
「うん」
「……これで運びたいものはすべて」
「ありがとう。お茶入れるから」
「いや、俺は行かなきゃいけないから……そうだ。リイノさんに伝言があって」
「伝言?」
「ここに来る前にミヒシさんのお店に寄ってきて」
「ミヒシさんって夏祭りの屋台の?」
「そう、以前そのこと話して、食べに来てくれないかなって言っていたけど。リイノさんの退院の話も知っていたみたいで『もし時間があれば来てくれないかな?』って」
「……でも今日って休みの日じゃなかったか? それなのに押し掛けたのか」
「違う。ちょっと用があって……それはいいや。それでどうかな? 良かったら今ミヒシさんに電話するけど」
「……休みなんですよね。食べてみたいけど……」
「じゃあ電話する。どうせ、ソルヒも夕食のことなんて何も考えていないんだろう?」
「考えてないけど」
「なら決まりだな。まぁ俺は行けないんだけど」
「なんかあったのか?」
「俺はお前と違って忙しいんだよ……それとお茶いらねぇから、じゃあ」
そう言ってセオンはスマホを耳に当てて電話をしながら『転移』でいなくなってしまった。その数分後、ソルヒのスマホにメッセージが届き、特別な開店時間が書かれていた。
プレゼントの整理をしている間に夕日を忘れてすっかり夜になっていた。送られてきた開店時間まではまだ大丈夫だが、車椅子を押していくから間に合うか少し心配だった。ミヒシは『遅くなっても大丈夫』と返事はしてきたものの、やはり『時計』の能力を使わなければ予定通りにはいかないと思った。一人で行動するなら負担は軽いが、二人でかなりの距離をそれも車椅子を押しながらだからゆっくり歩かなきゃいけなかった。『式神システム』で能力の制御は出来ても、その百舌(もず)にどれくらいの負担が行くのかわからない。今は元気そうに飛び回っているが、店につく頃にはぐったりしているかもしれない。
準備を済ませて一度、車椅子を外に出してリイノを座らせた後、ソルヒは車椅子を押しながら『時計』を使用した。人体に触れなくとも車椅子に座っている間はリイノも止まらずにソルヒの様子を見ていた。「大丈夫?」とリイノの心配する声に「平気」とソルヒは答えるが、百舌は早々にリイノのところに行って手袋の両手に包まれて縮こまっていた。
けれど『時計』が途切れることはなく、ミヒシのお店から少し離れた場所で能力を切った。腕時計を見るとここからゆっくり歩いても十分時間は足りると思った。辿り着いてお店の扉を開けようとしたら、ミヒシが開けてくれて「寒くなかった?」と扉が閉じないようにしてくれた。お店に入ると普段置かれている椅子が一か所なくなっていて、車椅子のまま机に辿り着けるようにしてあった。
「いらっしゃい。そしてリイノさんは初めましてだね。冬茜(ふゆあかね)ミヒシ、この店で飲食をやっているよ」
「初めまして、桜陰リイノです。この子達は……」
「知っているよ。能力のことは心配しなくていいからね」
「え?」
「実は能力持ちで……元々『守護』と呼ばれる力を持っていたけど、《呪われた血》で『結射(けっしゃ)』という能力に変異した」
「変異? ……というより《呪われた血》で能力を得たわけじゃない!?」
「そういえば、変異に関してはソルヒにも言ってなかったな」
「……でも能力を持っていたのならどうして」
「打ったか? まぁ……自分で打ってないんだ。能力を行使している際にやられて……どうやら実験も兼ねて打たれたようだが」
ミヒシは話しながら料理を作っていたが、集中したいことが出来たのか一旦会話が途切れた。リイノはミヒシの様子を見ていたが、二匹の蛇は自由に動いていた。特に黒い蛇は赤いしいたけの置き物を見つけて、その頭に噛み付こうとしていたが、「こら」とリイノに言われて噛まなかったが不思議そうにじっと見ていた。机いっぱいに運ばれてきた料理を見て、リイノはこんなにあっても食べられないよ、と思いながら「どうしよう」と呟いていると、「残ったら持って帰れるようにしておくよ」とミヒシが大量の保存容器を用意していた。
「……この卵焼き」
「気づいた? 普段はだしを多めに入れたものを作っているけど、たまに甘い卵焼きを注文する人がいるから。リイノさんはどっちが好きかな」
「どっちもおいしいです。特に甘い方は懐かしさを感じて……」
「懐かしさ?」
「孤児院がまだ平和な時に、みんなで卵焼き作ろうってなって……」
「大丈夫?」
「え? あっ……」
リイノは無意識のうちに涙を流していて、甘いはずの卵焼きが少ししょっぱくなっていた。それを見ていたソルヒは退院時に医師から聞かされていたことを思い出した。リイノの記憶はほとんど取り戻していたが、最後の一欠片としてソルヒが孤児院に入る前に彼女が持っていたはずの記憶が消去に近い形で思い出すことが困難になっているかもしれない、と言われていた。黒い蛇の『破壊』や白い蛇の『封印』に関する記憶も出会う前の出来事のはずだが、おそらく能力としての判定を受けているせいで、除外されている可能性があるということ。医師は無理に思い出すことはない、と言ってくれたが、ふとした瞬間に忘れていた方がよかった記憶が見つかったら、自分の知るリイノが消えてしまうのではないかと少し恐怖していた。
何も見えない深い夜を静かに白く染める雪が降る。ゆっくりとした足取りは息を吸った瞬間に何も聞こえなくなった。遠ざかる悲鳴が破裂音に変わる時、そこに広がっていたのは影よりも濃くなった黒い液体だった。耳に届かない小さな声は呟いた。精神を狂わせるその音は生死の選択を無に帰した。
歩みは止まらず、「化け物」だと罵られても次の瞬間、その声は失われた。積もり始めた雪は白さで埋め尽くす前に、血飛沫が舞って赤く染まって穢されていた。
桜詩凛の読みは「さくらしりん」で、由来は二つ。一つは元から使っていた桜子凛花が長いと思ったため、短くするために「桜」と「凛」を取り、その間に当時から書いていた「詩」をいれたもの。もう一つは『複雑な生き方をする少女』に登場する「さくら、黒蛇、シラ、理夏(りか)、ラナン」の頭文字を取ったものとなってい…
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