誰も知らない現世を生きる二人の幽霊 第三章 儚く散ったものは消えゆくだけに過ぎない
公開 2025/06/26 09:55
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第一節 星屑が語る命の綻び
最初から気づいていたことだった。それを受け入れることが出来なかっただけで、現実から目を背けていた。生きることも死ぬことも初めから関係なかった。この命がそれを示すこともなく、ただ時間だけが過ぎていくだけだった。
この体が指し示す未来なんて、最初から消え去っているにも関わらず、縋るように生きようとするのは何故なのか。それを問う頭は意味もなくボーっとしている。その死が終わりを告げる結末だとしても、絶望からは逃れられない。どうしたって生まれ直る時、罪は重なったまま続いていくのだから。
影を追うのも“この世界”から消えるのも、存在そのものを認識させないようにするのも、現実からかけ離れた願いに過ぎない。それでも願ってしまった。誰かのためでもなく自分のためだけに、最初はそうだった。だがそうとも言ってられない。この体が不必要とするならば、命の価値を否定するならば、私が生きようとした時間は無駄なのだと思い知らされる。
きっとそのまま断つことも“この世界”は知っていたことなんだ。その滴る血が地面に落ちる前にこの体の意味を知る。知った瞬間に存在が抹消されても、最初からなかったものに価値などないのだから。
第二節 寒さが晴れた花散る桜
長い寒さが終わって春になりかけた朝、その目覚めは突然現れる。陽光(ようこう)の幽霊 リフォはその側で眠っているクラールの頭をなでると白色に覆われていた空を見ていた。そこに淡い水色はなく、太陽の光が薄っすらと見え隠れを繰り返しているだけだった。
暖かさに反応して閉じていた蕾は花を開き、失っていた色は少しずつ鮮やかになっていた。そこに聞こえてくる無慈悲な機械音、道からこぼれたものは刈り取られる。咲き始めた枝を切り、妨げを回避しようとする行為は春という季節を台無しにしていた。
リフォが立ち上がって遠くを散策していると、クラールは置いていかれたと思って急いで追いついてきた。「おいて行かないでよ!」と泣きそうになる顔はほっといて、風に舞った桜の花びらが道路に落ちていることに気づいた。坂を上っていくとそれは増えていき、山の方に続く道に桜が大量に咲いていた。
「すごーい」
その声を発していたのはもちろんクラールの方でリフォはその中でも一本の木を見ていた。初めて来たはずなのに知っている桜の木、その記憶は誰かが撮った写真。思い出すことが出来ない空白の人物が黒く塗りつぶされる。「わからない」と呟きながらその木に近づいて、まだ散っていない桜の花びらに触れた。
暖かさは薄れ、まだ寒さが残る春の景色。その中でも咲いている桜は儚くも綺麗なものだった。地面は桃色の絨毯といわんばかりに、風に吹かれた桜の花びらが散っていた。それを厚くするように風が吹き、花びらが雪のように舞う。クラールはその花びらを取ろうとするが、風の気まぐれに翻弄されてすり抜けていた。けれど「やったー!」という声とともにクラールはリフォのもとにやってきて、一枚の花びらを見せてきた。きっと褒めてほしいのだろう、とリフォは思ったが、「そう」と彼を切り捨てていた。それを聞いてクラールはもっと花びらを集めたら喜んでくれるかもしれない、と勘違いして舞う花びらの中に入っていった。
桜の木は山の方に続いていた。その舗装された道も道路同様に桜の花びらで覆われていた。だが山の方は手入れが甘いのか、歩くには少々危険が伴うものになっていた。しかしリフォは山の方に入ることはなく、桜の木の方へと戻った。何かを感じ取ったわけではないが、足を踏み入れることが出来なかった。すると悲鳴のようなものが遠くで聞こえて戻ってみると、坂から滑り落ちていたクラールが倒れていた。
「いたた……」
「大丈夫?」
「リフォが心配してくれている」
それを聞いてあきれてリフォはクラールから離れた。離れる途中、桜の花びらが岩のくぼみにできた小さな水たまりに落ちた。その岩は少し濡れていて、前日かそれよりも前に雨が降ったのではないかと思い、クラールが足を滑らせた原因なのかと気づいた。気づいてからクラールを見て「ごめんね」と小さく呟いたが、彼は気づく様子もなくゆっくりと立ち上がっていた。
第三節 満月に照らされた影桜
夕暮れの橙色が消えて、藍色の深い夜に変わる。無音の中、月の光が現れて陰影(いんえい)の幽霊 ルティを照らしていた。ゆっくりと目を覚まして空を眺めていたが、包帯で巻かれた右目は何も見えない真っ暗なままだった。体中の傷が癒えることはなく、赤く滲む血を隠す包帯は少しずつ濁っていた。
満月、星々の輝きを奪い、我が物顔で明かりを支配する。ルティの姿を暗く染めるほどの深い影が彼女を隠していた。そこはいつもとは少し離れた場所で、彼女は少し不思議に思っていた。ふと風が吹き、小さな何かがひらひらと舞っていた。それは繰り返されて、偶然にも手の中に捕らえることが出来た。しかし暗さが故に、手に乗った感覚だけでは何かわからなかった。
立ち上がり明るい場所まで歩いていくと、その道が草木に囲まれた坂であり、少々滑りやすくなっていたことを、ルティが足を踏み外した時に気づいた。転びかけて足をくじくが彼女には痛みはなかった。けれど手に乗っていた何かが地面に落ちて、草木の中に紛れてしまった。
「何だったんだろう……でも」
深い影に覆われていたところを抜けて、満月に照らされたその場所には大量の桜が咲いていた。しかしルティにはそれが木々に咲いている花でしかなく、種類までは記憶になかった。そよ風に舞った花びらが地面に落ちて桃色の絨毯を作っていた。
とある一つの木に近づき、包帯が解けかけた手でまだ散っていない花に触れようとすると空夜(くうや)の声がした。
「ルティも来ていたのか」
「空夜……その手に持っているのは何?」
「うん? あっ、そうか……花見がわからないか」
「花見?」
「そうだ。桜を見ながらその下で宴をすること……というか本来はその年の豊作を願って桜の木の下で宴会をするらしいってどこかの本に書いてあったな」
「桜?」
「もしかしてそこからか……この木に咲いている花は桜、種類まではわかんねぇけど。春に咲く有名な花だ」
「そうなんだ」
「……しかしこんな近くに桜が咲く場所があるとは知らなかった。他のやつらも知らねぇだろうな」
「じゃあ、さっき手に乗ったのは桜の花びらだったのかな」
「……ここに来る前に何かあったのか?」
「風に舞った何かが手に乗ったんだけど、足をくじいた時に落ちちゃった」
「くじいたって、痛くないからいいのか……だとしても気をつけろ。前日に雨が降って滑りやすくなっているからな。朝は晴れていたようだが」
「……それおいしい?」
ルティが指さした弁当箱の中身に対して空夜は頷いた。それを与える彼に彼女は少し怯えつつ口に入れて甘いと感じていた。
満月を取り囲むように桜の木が空を覆い尽くす。二人を包み込むように風は止み、散った花びらはルティの頭の上に乗っていた。
第四節 忘却に消去された存在
春の陽気に照らされて目覚める陽光の幽霊 リフォは古びた家の前に立っていた。それは後の雨の日にクラールと雨宿りすることとなる場所だが、この時はまだ一人で探し続けていた頃だった。古びたと言ってもリフォにはそこに住んでいた頃の記憶があった。しかし砂嵐に覆われた人影が一瞬現われたり消えたりする間に、どこか不快な気持ちになっていた。
玄関の扉を開けようとしたがやめて周りを見渡した。古びた家の前には坂があって本来はそこを上らなければ辿り着くことが出来ない。坂には柵があってその両端には畑があった。今はもう放置されて草木が伸びきっていた。しかしそれでも咲いている黄色い花の低木があった。
「……レンギョウ」
その名前を口に出し、遡った記憶は実際見たことのない写真の姿だった。その写真を撮ったのは空白の人物だった。毎年咲いているにもかかわらず、その花の名前も誰が植えたのかも知らなかった。何故実際見たことがなかったのかというと、その時期に彼女はその場所に存在していなかったためであった。いつも見ていたのは枯れた後の枝の姿だけだった。
多くの花があれ果てた草木に覆われて見えづらくなっている中、錆びついた柵に体当たりをするウリ坊の姿があった。それはイノシシの子供のことで、柵がなかった頃はよく山から降りてきて警戒心なく人に寄っていた。しかし親のイノシシがいることは明白で、どうしても恐怖をぬぐえなかったため、柵を設置して入れないようにしたものの、一時はその柵の下を掘って入ってくるという力技を披露していた。だがもう柵はその役目を終わろうとしている。錆びついた上にウリ坊の力ですら突破できそうな揺らぎ具合はいつ破壊されてもおかしくなかった。
家の周りをあらかた見回し、今一度玄関に戻ってきた彼女は扉を開けて中に入った。陽の光に照らされて少し薄暗くとも見える程度に収まっていた。記憶の中にある見慣れた風景に疑問が浮かぶのはただ一つの空白だけだった。階段を上ればかつて使っていた自分の部屋があって、その横は物置部屋になっていたはずだった。しかしその部屋は本棚とベッド、机があって一瞬だけ何かと目が合った気がした。閉じられたカーテンから差し込む光のせいだろうか、と彼女は思って恐怖に首を振った。
「誰もが忘れてしまった本当の記憶……きっとそれを見せたんだ」
そう呟いて部屋の扉を閉めた。その後は家の散策をしているうちに日が傾き、夕暮れにさしかかっていた。いつもように姿は消える。どうして朝の間にしか行動できないのかわからない。でももし空白の存在を認識出来たら、何か変わるのかもしれないと考えるしかなかった。
第五節 なくした思い出に残る心的外傷
目を覚ましているはずなのに映っているのは真っ暗な場所だった。目を慣れさせても少し見えるくらいになって暗いのは変わらなかった。何かを背にして座っていた彼女の下にあったのは古びた布のようなものだった。立ち上がろうとしたら何かにぶつかり、そのまま歩き出した足は壁にぶつかって静止した。しかし取っ手を見つけて開けると道は続いていた。
その床を踏み外して階段だったものから転げ落ちた。転げ落ち終わると近くに光が見えたが、そっちにはいかずに暗闇が広がる方へとふらつきながら歩いていた。包帯から滲んだ血が少しだけ床に落ちていた。真っ暗な場所をぶつかりつつも散策していたが、記憶のない彼女に理解できるようなものはなかった。そして光の方へ戻ってきて、その扉を開けた。その先は見慣れた外だった。
少し離れたところに坂があり、そこから少し下り振り返って全体を見ると、前に空夜が言っていた『家』というものだと理解した。空夜の住んでいる家に似ているような気がしたが、あまりわからなかった。そのまま坂を下り、いつものようにどこか歩くだけを繰り返すはずだったが、何かの黄色い花が咲いていた。手入れもされていない木々が生い茂る場所にもかかわらず、その花だけは綺麗に咲いていた。低木に咲く不思議なものに彼女は手を伸ばした。すると一瞬、変なものが映って怖くなり手を引っ込めた。
「……空夜じゃない……誰?」
空っぽの記憶に残されていないはずの生前のこと。けれど体で感じたことは今でも何かを示すように彼女を苦しめていた。「わからない」と呟きながらもその恐怖の対象は何かを伝えようとしていた。それが届くことは一生ないとは言えないが、今の彼女には届かなかった。
次会った時、空夜に聞いてみようと思いつつ、彼女はこの夜を忘れたいとも思った。
第六節 置き去りにした歪曲の記憶とともに
それは解放されたものに残された残酷な運命。祝福の先に待っていたのは希望という名の絶望だった。誰も知らない存在を失うことがこんなにも恐ろしいということを初めて実感したのはすべてが終わった後だった。
記憶の隅に存在する異物、原因不明の血だまり。恐怖を煽った現象は未だに頭にこびりついて離れない。聞きまわる行為は記憶違いの中で、変な目を向けられた。気のせいは逃げることと変わらない。けれどこれ以上掴むことも叶わなかった。
長い年月が経って、記憶が朧気になる中、それでも奥に取り残されていたその記憶は夢の中で問いかけてきた。動いている口に声はついていないものの、その動きははっきりと視認できた。どれだけ大事な記憶であろうとも忘れてしまったのに、それだけは覚えている。
風に吹かれて葉が落ちる。その色を目は認識できない。枯れ始めた心は命と直結して少しずつ意識を奪っていた。朝の光に目覚める瞼は開かず、眩しさは暗闇の中で沈んでいた。
気づいた時には遅く、記憶はすでに歪んでいた。目は閉じられ、火の中に燃える体。骨となった姿を見た後、彼女の視界は暗転した。次に目を覚ました時、見覚えのあるようなそうではないような場所に立っていた。手を伸ばし薄くなった体を見て、幽霊と呼ばれる存在になったのだと理解した。おそらく未練は歪んでしまった記憶にいたはずの空白。願いは奥に仕舞い込んだ誰も知らない存在に再び巡り会うことだった。
砂嵐に覆われた空白の人物を探し出す。しかしどれくらいの時間がかかるのかわからない。似て非なる世界で彼女は歩みを止めることはなかった。
第七節 何もないはじまりの欠けた月
目を覚ました時、いつも夜が広がっていた。腕には無数の包帯、いや体全体に張り巡らされた白色と滲んで染まった赤色の血。しかしその瞳は見えにくく、特に右目は包帯で覆われているからか、何も見えなかった。座り込んでいた体から立って、歩いた地面は草の中。優しさの欠片もない棘や刃の草で足元は怪我を増やしていた。けれど何も思わず、その痛みは感じなかった。ガラスの破片を踏み抜こうとも足から血が出ていようとも何も思わなかった。
ふと月を見た、欠けた月だった。星は雲に覆われてよく見えないが、月は欠けても異様に光り輝いていた。それを隠すように手を伸ばして握り潰した。しかし手を下げると何も変わらない欠けた月があった。何故そんなことをしたのか、彼女にはわからなかった。
夜の世界を歩き続けた。しかしその道はすでに繰り返された。目覚める場所は異なっても必ず辿り着くのは途方に暮れた森の中。そこから抜け出すことは出来なかった。静かな時も騒がしい時もいつだって変わらない。頼りになる光は月しかなく、錆びついた光は森まで届かなくて点滅していた。
満月を認識した日、その光を見た時、あの日と同じように月を握り潰した。すると光は弱まり、欠けた月へと変わった。何もない心が嫌だと感じ、何もない記憶が混乱をもたらした。何も覚えていないと気がついた彼女はそれ以上何も思わなかった。
ただ名前だけはそこにあった。何も覚えていない記憶の中に記されたもの。繰り返した夜の中で忘れかけたこともあった。しかしこの体が消えないように、縛られているかのように、その名前だけは刻まれていた。
第八節 終わりのない二人の運命
表世界と裏世界の境界に存在するこの世界、追い求める者と消去された者
永遠に出会うことが叶わないとわかっていても探し続ける運命にある
表世界に残された者は頭の奥に仕舞い込んだ空白の存在を覚えていた。それ故に未練の形となり、この世界に迷い込んだ。砂嵐に覆われ黒に塗り潰された存在を探す、それが行動理念となっていた。生前の記憶を持ちつつ、それが真実だと理解できずに悩み続けた。
《恐怖に立ち向かわなければ辿り着けない》
幸せを願って自らの存在を抹消した者は裏世界からずっと見守っていた。元凶となる存在が消えさえすれば、何も考えなくなると思ってその命を断った。忘れられた者が辿り着く裏世界において、その者はいらないものを吐き出した。それはあの子と過ごした少女の記憶。その者から切り離された少女という名の真実の姿に過ぎなかった。
傷だらけで包帯まみれの体が意味するのは何も感じたくない。生前の記憶がないのは何も考えたくない。それすらも覚えていないのが今の姿だった。
《恐怖に背かなければ辿り着けない》
二つの姿が見つける先にどんな世界が待っていようとも、答えは終わらない。それ故に希望も絶望もない。過去も現在も未来も、歪んだ時空間においてこの世界は機能しているのだから。
最初から気づいていたことだった。それを受け入れることが出来なかっただけで、現実から目を背けていた。生きることも死ぬことも初めから関係なかった。この命がそれを示すこともなく、ただ時間だけが過ぎていくだけだった。
この体が指し示す未来なんて、最初から消え去っているにも関わらず、縋るように生きようとするのは何故なのか。それを問う頭は意味もなくボーっとしている。その死が終わりを告げる結末だとしても、絶望からは逃れられない。どうしたって生まれ直る時、罪は重なったまま続いていくのだから。
影を追うのも“この世界”から消えるのも、存在そのものを認識させないようにするのも、現実からかけ離れた願いに過ぎない。それでも願ってしまった。誰かのためでもなく自分のためだけに、最初はそうだった。だがそうとも言ってられない。この体が不必要とするならば、命の価値を否定するならば、私が生きようとした時間は無駄なのだと思い知らされる。
きっとそのまま断つことも“この世界”は知っていたことなんだ。その滴る血が地面に落ちる前にこの体の意味を知る。知った瞬間に存在が抹消されても、最初からなかったものに価値などないのだから。
第二節 寒さが晴れた花散る桜
長い寒さが終わって春になりかけた朝、その目覚めは突然現れる。陽光(ようこう)の幽霊 リフォはその側で眠っているクラールの頭をなでると白色に覆われていた空を見ていた。そこに淡い水色はなく、太陽の光が薄っすらと見え隠れを繰り返しているだけだった。
暖かさに反応して閉じていた蕾は花を開き、失っていた色は少しずつ鮮やかになっていた。そこに聞こえてくる無慈悲な機械音、道からこぼれたものは刈り取られる。咲き始めた枝を切り、妨げを回避しようとする行為は春という季節を台無しにしていた。
リフォが立ち上がって遠くを散策していると、クラールは置いていかれたと思って急いで追いついてきた。「おいて行かないでよ!」と泣きそうになる顔はほっといて、風に舞った桜の花びらが道路に落ちていることに気づいた。坂を上っていくとそれは増えていき、山の方に続く道に桜が大量に咲いていた。
「すごーい」
その声を発していたのはもちろんクラールの方でリフォはその中でも一本の木を見ていた。初めて来たはずなのに知っている桜の木、その記憶は誰かが撮った写真。思い出すことが出来ない空白の人物が黒く塗りつぶされる。「わからない」と呟きながらその木に近づいて、まだ散っていない桜の花びらに触れた。
暖かさは薄れ、まだ寒さが残る春の景色。その中でも咲いている桜は儚くも綺麗なものだった。地面は桃色の絨毯といわんばかりに、風に吹かれた桜の花びらが散っていた。それを厚くするように風が吹き、花びらが雪のように舞う。クラールはその花びらを取ろうとするが、風の気まぐれに翻弄されてすり抜けていた。けれど「やったー!」という声とともにクラールはリフォのもとにやってきて、一枚の花びらを見せてきた。きっと褒めてほしいのだろう、とリフォは思ったが、「そう」と彼を切り捨てていた。それを聞いてクラールはもっと花びらを集めたら喜んでくれるかもしれない、と勘違いして舞う花びらの中に入っていった。
桜の木は山の方に続いていた。その舗装された道も道路同様に桜の花びらで覆われていた。だが山の方は手入れが甘いのか、歩くには少々危険が伴うものになっていた。しかしリフォは山の方に入ることはなく、桜の木の方へと戻った。何かを感じ取ったわけではないが、足を踏み入れることが出来なかった。すると悲鳴のようなものが遠くで聞こえて戻ってみると、坂から滑り落ちていたクラールが倒れていた。
「いたた……」
「大丈夫?」
「リフォが心配してくれている」
それを聞いてあきれてリフォはクラールから離れた。離れる途中、桜の花びらが岩のくぼみにできた小さな水たまりに落ちた。その岩は少し濡れていて、前日かそれよりも前に雨が降ったのではないかと思い、クラールが足を滑らせた原因なのかと気づいた。気づいてからクラールを見て「ごめんね」と小さく呟いたが、彼は気づく様子もなくゆっくりと立ち上がっていた。
第三節 満月に照らされた影桜
夕暮れの橙色が消えて、藍色の深い夜に変わる。無音の中、月の光が現れて陰影(いんえい)の幽霊 ルティを照らしていた。ゆっくりと目を覚まして空を眺めていたが、包帯で巻かれた右目は何も見えない真っ暗なままだった。体中の傷が癒えることはなく、赤く滲む血を隠す包帯は少しずつ濁っていた。
満月、星々の輝きを奪い、我が物顔で明かりを支配する。ルティの姿を暗く染めるほどの深い影が彼女を隠していた。そこはいつもとは少し離れた場所で、彼女は少し不思議に思っていた。ふと風が吹き、小さな何かがひらひらと舞っていた。それは繰り返されて、偶然にも手の中に捕らえることが出来た。しかし暗さが故に、手に乗った感覚だけでは何かわからなかった。
立ち上がり明るい場所まで歩いていくと、その道が草木に囲まれた坂であり、少々滑りやすくなっていたことを、ルティが足を踏み外した時に気づいた。転びかけて足をくじくが彼女には痛みはなかった。けれど手に乗っていた何かが地面に落ちて、草木の中に紛れてしまった。
「何だったんだろう……でも」
深い影に覆われていたところを抜けて、満月に照らされたその場所には大量の桜が咲いていた。しかしルティにはそれが木々に咲いている花でしかなく、種類までは記憶になかった。そよ風に舞った花びらが地面に落ちて桃色の絨毯を作っていた。
とある一つの木に近づき、包帯が解けかけた手でまだ散っていない花に触れようとすると空夜(くうや)の声がした。
「ルティも来ていたのか」
「空夜……その手に持っているのは何?」
「うん? あっ、そうか……花見がわからないか」
「花見?」
「そうだ。桜を見ながらその下で宴をすること……というか本来はその年の豊作を願って桜の木の下で宴会をするらしいってどこかの本に書いてあったな」
「桜?」
「もしかしてそこからか……この木に咲いている花は桜、種類まではわかんねぇけど。春に咲く有名な花だ」
「そうなんだ」
「……しかしこんな近くに桜が咲く場所があるとは知らなかった。他のやつらも知らねぇだろうな」
「じゃあ、さっき手に乗ったのは桜の花びらだったのかな」
「……ここに来る前に何かあったのか?」
「風に舞った何かが手に乗ったんだけど、足をくじいた時に落ちちゃった」
「くじいたって、痛くないからいいのか……だとしても気をつけろ。前日に雨が降って滑りやすくなっているからな。朝は晴れていたようだが」
「……それおいしい?」
ルティが指さした弁当箱の中身に対して空夜は頷いた。それを与える彼に彼女は少し怯えつつ口に入れて甘いと感じていた。
満月を取り囲むように桜の木が空を覆い尽くす。二人を包み込むように風は止み、散った花びらはルティの頭の上に乗っていた。
第四節 忘却に消去された存在
春の陽気に照らされて目覚める陽光の幽霊 リフォは古びた家の前に立っていた。それは後の雨の日にクラールと雨宿りすることとなる場所だが、この時はまだ一人で探し続けていた頃だった。古びたと言ってもリフォにはそこに住んでいた頃の記憶があった。しかし砂嵐に覆われた人影が一瞬現われたり消えたりする間に、どこか不快な気持ちになっていた。
玄関の扉を開けようとしたがやめて周りを見渡した。古びた家の前には坂があって本来はそこを上らなければ辿り着くことが出来ない。坂には柵があってその両端には畑があった。今はもう放置されて草木が伸びきっていた。しかしそれでも咲いている黄色い花の低木があった。
「……レンギョウ」
その名前を口に出し、遡った記憶は実際見たことのない写真の姿だった。その写真を撮ったのは空白の人物だった。毎年咲いているにもかかわらず、その花の名前も誰が植えたのかも知らなかった。何故実際見たことがなかったのかというと、その時期に彼女はその場所に存在していなかったためであった。いつも見ていたのは枯れた後の枝の姿だけだった。
多くの花があれ果てた草木に覆われて見えづらくなっている中、錆びついた柵に体当たりをするウリ坊の姿があった。それはイノシシの子供のことで、柵がなかった頃はよく山から降りてきて警戒心なく人に寄っていた。しかし親のイノシシがいることは明白で、どうしても恐怖をぬぐえなかったため、柵を設置して入れないようにしたものの、一時はその柵の下を掘って入ってくるという力技を披露していた。だがもう柵はその役目を終わろうとしている。錆びついた上にウリ坊の力ですら突破できそうな揺らぎ具合はいつ破壊されてもおかしくなかった。
家の周りをあらかた見回し、今一度玄関に戻ってきた彼女は扉を開けて中に入った。陽の光に照らされて少し薄暗くとも見える程度に収まっていた。記憶の中にある見慣れた風景に疑問が浮かぶのはただ一つの空白だけだった。階段を上ればかつて使っていた自分の部屋があって、その横は物置部屋になっていたはずだった。しかしその部屋は本棚とベッド、机があって一瞬だけ何かと目が合った気がした。閉じられたカーテンから差し込む光のせいだろうか、と彼女は思って恐怖に首を振った。
「誰もが忘れてしまった本当の記憶……きっとそれを見せたんだ」
そう呟いて部屋の扉を閉めた。その後は家の散策をしているうちに日が傾き、夕暮れにさしかかっていた。いつもように姿は消える。どうして朝の間にしか行動できないのかわからない。でももし空白の存在を認識出来たら、何か変わるのかもしれないと考えるしかなかった。
第五節 なくした思い出に残る心的外傷
目を覚ましているはずなのに映っているのは真っ暗な場所だった。目を慣れさせても少し見えるくらいになって暗いのは変わらなかった。何かを背にして座っていた彼女の下にあったのは古びた布のようなものだった。立ち上がろうとしたら何かにぶつかり、そのまま歩き出した足は壁にぶつかって静止した。しかし取っ手を見つけて開けると道は続いていた。
その床を踏み外して階段だったものから転げ落ちた。転げ落ち終わると近くに光が見えたが、そっちにはいかずに暗闇が広がる方へとふらつきながら歩いていた。包帯から滲んだ血が少しだけ床に落ちていた。真っ暗な場所をぶつかりつつも散策していたが、記憶のない彼女に理解できるようなものはなかった。そして光の方へ戻ってきて、その扉を開けた。その先は見慣れた外だった。
少し離れたところに坂があり、そこから少し下り振り返って全体を見ると、前に空夜が言っていた『家』というものだと理解した。空夜の住んでいる家に似ているような気がしたが、あまりわからなかった。そのまま坂を下り、いつものようにどこか歩くだけを繰り返すはずだったが、何かの黄色い花が咲いていた。手入れもされていない木々が生い茂る場所にもかかわらず、その花だけは綺麗に咲いていた。低木に咲く不思議なものに彼女は手を伸ばした。すると一瞬、変なものが映って怖くなり手を引っ込めた。
「……空夜じゃない……誰?」
空っぽの記憶に残されていないはずの生前のこと。けれど体で感じたことは今でも何かを示すように彼女を苦しめていた。「わからない」と呟きながらもその恐怖の対象は何かを伝えようとしていた。それが届くことは一生ないとは言えないが、今の彼女には届かなかった。
次会った時、空夜に聞いてみようと思いつつ、彼女はこの夜を忘れたいとも思った。
第六節 置き去りにした歪曲の記憶とともに
それは解放されたものに残された残酷な運命。祝福の先に待っていたのは希望という名の絶望だった。誰も知らない存在を失うことがこんなにも恐ろしいということを初めて実感したのはすべてが終わった後だった。
記憶の隅に存在する異物、原因不明の血だまり。恐怖を煽った現象は未だに頭にこびりついて離れない。聞きまわる行為は記憶違いの中で、変な目を向けられた。気のせいは逃げることと変わらない。けれどこれ以上掴むことも叶わなかった。
長い年月が経って、記憶が朧気になる中、それでも奥に取り残されていたその記憶は夢の中で問いかけてきた。動いている口に声はついていないものの、その動きははっきりと視認できた。どれだけ大事な記憶であろうとも忘れてしまったのに、それだけは覚えている。
風に吹かれて葉が落ちる。その色を目は認識できない。枯れ始めた心は命と直結して少しずつ意識を奪っていた。朝の光に目覚める瞼は開かず、眩しさは暗闇の中で沈んでいた。
気づいた時には遅く、記憶はすでに歪んでいた。目は閉じられ、火の中に燃える体。骨となった姿を見た後、彼女の視界は暗転した。次に目を覚ました時、見覚えのあるようなそうではないような場所に立っていた。手を伸ばし薄くなった体を見て、幽霊と呼ばれる存在になったのだと理解した。おそらく未練は歪んでしまった記憶にいたはずの空白。願いは奥に仕舞い込んだ誰も知らない存在に再び巡り会うことだった。
砂嵐に覆われた空白の人物を探し出す。しかしどれくらいの時間がかかるのかわからない。似て非なる世界で彼女は歩みを止めることはなかった。
第七節 何もないはじまりの欠けた月
目を覚ました時、いつも夜が広がっていた。腕には無数の包帯、いや体全体に張り巡らされた白色と滲んで染まった赤色の血。しかしその瞳は見えにくく、特に右目は包帯で覆われているからか、何も見えなかった。座り込んでいた体から立って、歩いた地面は草の中。優しさの欠片もない棘や刃の草で足元は怪我を増やしていた。けれど何も思わず、その痛みは感じなかった。ガラスの破片を踏み抜こうとも足から血が出ていようとも何も思わなかった。
ふと月を見た、欠けた月だった。星は雲に覆われてよく見えないが、月は欠けても異様に光り輝いていた。それを隠すように手を伸ばして握り潰した。しかし手を下げると何も変わらない欠けた月があった。何故そんなことをしたのか、彼女にはわからなかった。
夜の世界を歩き続けた。しかしその道はすでに繰り返された。目覚める場所は異なっても必ず辿り着くのは途方に暮れた森の中。そこから抜け出すことは出来なかった。静かな時も騒がしい時もいつだって変わらない。頼りになる光は月しかなく、錆びついた光は森まで届かなくて点滅していた。
満月を認識した日、その光を見た時、あの日と同じように月を握り潰した。すると光は弱まり、欠けた月へと変わった。何もない心が嫌だと感じ、何もない記憶が混乱をもたらした。何も覚えていないと気がついた彼女はそれ以上何も思わなかった。
ただ名前だけはそこにあった。何も覚えていない記憶の中に記されたもの。繰り返した夜の中で忘れかけたこともあった。しかしこの体が消えないように、縛られているかのように、その名前だけは刻まれていた。
第八節 終わりのない二人の運命
表世界と裏世界の境界に存在するこの世界、追い求める者と消去された者
永遠に出会うことが叶わないとわかっていても探し続ける運命にある
表世界に残された者は頭の奥に仕舞い込んだ空白の存在を覚えていた。それ故に未練の形となり、この世界に迷い込んだ。砂嵐に覆われ黒に塗り潰された存在を探す、それが行動理念となっていた。生前の記憶を持ちつつ、それが真実だと理解できずに悩み続けた。
《恐怖に立ち向かわなければ辿り着けない》
幸せを願って自らの存在を抹消した者は裏世界からずっと見守っていた。元凶となる存在が消えさえすれば、何も考えなくなると思ってその命を断った。忘れられた者が辿り着く裏世界において、その者はいらないものを吐き出した。それはあの子と過ごした少女の記憶。その者から切り離された少女という名の真実の姿に過ぎなかった。
傷だらけで包帯まみれの体が意味するのは何も感じたくない。生前の記憶がないのは何も考えたくない。それすらも覚えていないのが今の姿だった。
《恐怖に背かなければ辿り着けない》
二つの姿が見つける先にどんな世界が待っていようとも、答えは終わらない。それ故に希望も絶望もない。過去も現在も未来も、歪んだ時空間においてこの世界は機能しているのだから。
桜詩凛の読みは「さくらしりん」で、由来は二つ。一つは元から使っていた桜子凛花が長いと思ったため、短くするために「桜」と「凛」を取り、その間に当時から書いていた「詩」をいれたもの。もう一つは『複雑な生き方をする少女』に登場する「さくら、黒蛇、シラ、理夏(りか)、ラナン」の頭文字を取ったものとなってい…
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