誰も知らない現世を生きる二人の幽霊 第一章 交わらない二つの魂が行きゆく果て(2/2)
公開 2024/06/26 10:01
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第五節 雨降る朝の温かな白い花
はじまりは曇り空、雨が降りそうなそんな景色に陽光の幽霊 リフォは目覚める。ぼやけた窓に水滴が残り、すでに降り終わったようにも見えたが、まだ空は怪しかった。少しの休憩時間を取っているかもしれない。そんな感じが風を通して伝わってきた。かすかに明るさを残して朝を伝えたカラスも電線から消えていた。
人の気配はなく、車も雨が原因か音が少なかった。空を見上げて今後の天気をうかがっていると、いつの間にかクラールがそばにいた。何も言わずに立っているリフォに対して、クラールも何も言わなかった。
目覚めた場所は一つの家。かつて住んでいた家に似ている気がするが、その記憶があっているのかわからない。空白の存在が歪んで見えなくなっているが、それ以外にもその存在をなくすために周りの記憶も変化していた。そこから見える畑だったところに咲くいろんな花達。今は白い紫陽花が咲いていた。そう考えるとこの雨も梅雨の時期だからなのだろう、とリフォは思っていた。
「珍しいね……紫陽花って桃とか青とか」
「……そうだね」
「何か悪いこと言った?」
「ううん。実際に咲いているのを見たのが少なかったから」
「それはどういうこと?」
「写真で見たの……でも思い出せない。誰が撮ったのか……おそらく空白の存在だけど。人物を撮るより風景を撮る方が好きだった気がする」
「そうなんだ! 僕も撮ってもらいたい!」
「人物は撮らないって言ったよ。それにクラールって写るのかな」
「わからないけど……きっと写るよ」
「そうだといいね」
そんな会話をしていると止まっていた雨は少しずつ強くなり、ぽつりぽつりと始まった雫はすぐに大雨に変わってしまった。雨宿りをするために家の中に入るが、電気がなく暗くてよく見えなかった。かろうじて扉を開けて、かすかに入った明るさで対処してみるが、それでもあまり変わらなかった。それに風も相まって雨が酷くなり、扉を閉めなければならない状態になっていた。
「暗いよー、怖いよー」
「……」
「リフォは怖くないの?」
「別に」
「そうだ! こうやったら……ほら」
クラールはおもむろに目を閉じて、両手を組んで祈り始めた。すると彼を中心に少しだけ明るくなった。リフォは少し驚いた顔をしたが、クラールが彼女の方を見た時にはいつも通りの顔に戻っていた。
「そんなことで出来たんだ」
「……教えてもらったこと実践しただけだよ」
「そう」
「なんか冷たいよ」
「雨のせい……かもね……!?」
「ならあったかくしてあげるね」
「いらない」
「手……冷たいよ。僕の手はあったかいよ」
「……」
悪気もなしにクラールはリフォの手を取っていた。彼女は黙っていたが、頭の中では何かが動いていた。ほとんど砂嵐の映像に一か所、手の感覚だけが残されていた。今の二人の立場が逆転した状態で、リフォが空白の存在の手を温めていた。
『あったかいね』
そんな声が頭をよぎった時、リフォは握られていた手を振り払った。いきなりのことでクラールもびっくりしていたが、思いつめた表情をするリフォに何も出来なかった。
「ごめんね……」
「大丈夫」
「また何か見えた?」
「ちょっと……ね」
「今日はもう……ううん、もうすぐ」
曇り空でほとんど確認できないが、クラールは夜が訪れるのを感じていた。祈って明るくなっていた空間も少しずつ収まって暗くなり、何も見えなくなりそうになっていた。深い夜がやってきて、その姿は維持できなくなる。祈りの光が完全に消え失せた時、リフォの姿は消えてしまった。
第六節 それは長い長い夜のはじまり
夜の雨は嫌いだった。人間達が寝静まった絶好の機会なのに何も出来なくなる雨が嫌いだった。だからそんな日は外に出ないで、その家に置かれていた本を読んで過ごしていた。けれどあの日は不安定な空を示していた。小雨と大雨と曇り空を繰り返して、知り合い達はどこかでまた酒を飲んでいた。誘われたが気分が悪かったので断り、いつものように本を読んでいたが、何度も繰り返して読み続けた本に飽きて、暇になったから少し外に出て見ることにした。雨が強くなったら戻ってこよう、そんな程度に傘を持って外に出た。
朝の風景と変わった点はなく、ただ色が藍色へと変わったくらいだった。星や月の光だけではすべてを照らすことは叶わず、暗い道を慣れた足で進んでいた。すると何かが一瞬映って足が止まった。少し戻ってみると誰かが座り込んでいた。こんなところで座り込んでいるやつなど飲み潰れているだけだろうと思ったが違った。頭に包帯を巻いた幽霊がそこにいた。
目から光が失われており、動く様子もなかった。傘を置いて一度見えやすいところに引っ張っていた。普段なら濡れるからそんなことしないのに考えるより先に手が出ていた。その包帯は頭だけでなく、服から見える肌の部分のほとんどに巻かれていた。白の無地のワンピースは泥で汚れてしまって、怪我したのか一部赤く染まっていた。
「これは……いったい?」
呟いたその声に今まで動かなかった幽霊はその方を見ていた。いきなり動いてビクッとしたが、それによって右目も包帯で隠されていることに気づいた。
「だ……れ」
「……俺は空夜。この山に住んでいる妖怪だよ」
「私……は……わから……ううん、確か……ルティ。それが……私の……名前」
「ルティ……か。どうしてここにいる?」
「わからない……何も……思い出せない」
「そうか……他のやつらに見つかったら厄介だな。歩けそうにないし、運ぶか」
空夜はそう言い、傘を折りたたんでルティを抱きかかえた。驚く様子もなくそのまま眠りにつくルティを気にせず、空夜は見つからないように家に戻ってきた。小雨だった天気はいつの間にか大雨になって二人ともびしょぬれになっていた。ルティをベッドに寝かせて、空夜はさっさと着替えた。ルティの所に戻ってくると彼女は目覚めて、ベッドを椅子のようにして座っていた。
「ここは……どこ?」
「俺が使っている家だ」
「い……え?」
「それすらわからないのか」
「わからない……覚えているのは……名前だけ」
「生前の記憶がないのか」
「記憶……」
「生きていた頃の記憶のことさ。幽霊っていうのは未練があれば残り続ける。ルティも何かあるんだろう」
「そう……なの?」
「知り合いがそう言っていたから俺は詳しく知らねぇ。だが記憶がないとすれば……難しいかもしれないな。何が目的なのかわからねぇから」
「……そうだね」
「ただ方法がないわけじゃない。会話と言うものは何かを解く暗示になることもある」
「会話……誰と」
「誰って……俺はただ助けただけで……!?」
それ以外のことは何もしない、と続けようとしたが、何かしら恐怖を感じたのか、ルティの体が震えて目から涙があふれていた。空夜は悪いことをしたとすぐに理解して、ルティの体を抱き寄せて背中をさすっていた。
「悪かったから泣くなよ」
「……わからないけど、すごく……こわかった」
「記憶はなくとも、感情は……何かを知っているのかもしれないな」
「感情?」
「嬉しかったことや楽しかったこと、悲しかったことに苦しかったこと……感情は記憶に結びついていることがあるから、大切にしておくといい」
「……うん」
ルティが落ち着いたのを見計らって少し離れようとする空夜の手を彼女は握っていた。まだ少し恐怖があるようで離れてほしくなかったようだった。空夜もそれを感じてルティの手を握り返すと彼女は少し驚いていた。
「あのね。名前以外思い出せないって言ったけど……一つだけ思い出したことがあるの」
「なんだ……記憶か?」
「記憶というには違うような気がするけど、ずっと暗いんだよね」
「暗い?」
「うん、空がずっと暗いの」
「夜だから暗いだろ」
「そうじゃなくて……なんて言ったらいいんだろう。朝が来ないんだよ」
「え? 何を言っているんだ」
「わからないよね」
「わからねぇ……だが、朝には消えてしまう、夜にしか現れない幽霊ってことか?」
「……」
「当たりかよ」
「うん……びっくりして何も言えなかった」
「そんな幽霊、初めて聞いたが」
「なんでかはわからないの。でも生前の記憶がないことと関係があるとすれば」
「……残された時間は……もうないか」
「そうかもね」
ルティは自分の姿が消えかかっていることに気づき、朝がそこまで来ていることに恐怖を覚えていた。また知らない場所で目覚めるかもしれないと思うと、空夜との出会いが無意味になりかねないと考えていた。
「目覚める場所は決まっているのか?」
「……どうして」
「今更、引き離すつもりか」
「……ありがとう。でもごめんね、わからない」
「そうか、じゃあ探しに行くよ」
「待っている」
ルティがその言葉を告げた時、太陽の光が挨拶して出てきていた。藍色の空が白く、淡い水色に変わろうとしていた。空夜の握っていたルティの手は薄くなり、少し寂しそうにしたが、その顔を見せないようにした。ルティはその顔に微笑み返し、明るさが家を照らす時、彼女の姿は消えてしまった。
第七節 幼い天使の新たな希望の朝
雲の上から「こんにちは」と告げるその姿に誰もが身震いした。けれど彼は何も思っていなかった。通り過ぎる天使達が役目を与えられて動いているのに、彼はまだ生まれてまもなかったこともあって、役目を与えられていなかった。幼い天使は自由気ままに雲の上を歩いていた。
ある日、そんな行為をよく思っていない者達がやってきて、彼に危害を加えようとした。しかしそれを守るように現れた大天使は告げる。その言葉に彼以外の天使は驚いて逃げ出した。彼はその言葉を理解できなかった。
『神になりうる存在を穢す者は 罪となり 地獄へ追放される』
自由奔放な彼は地上を見るのが好きだった。いろんな生き物達が様々な行動を繰り返していて、見ていて飽きることはなかった。けれど一つのことを見つけた辺りからそれを追うようになっていた。可視化した状態の目で見た時、浮遊する幽霊の中、無作為に現れる者がいた。同じ場所に現れることはなく、いつも違う場所にいた。それも朝にしか現れない不思議な幽霊だった。
「会ってみたい」
そう彼は呟いていた。その声を大天使は偶然にも聞いていた。会いたい人物が誰なのか知るために大天使も地上を覗いてみたが、その目にその幽霊は映らなかった。
「クラール? 誰のことを言っているの……」
大天使はそう言うがクラールには届いておらず、彼はずっと地上を見てその幽霊を追っていた。
『神になりうる存在 見えざる者に手を差し伸べる』
ふと、彼は姿を消した。突然のことで大天使は驚き、彼を探し続けていた。その他の天使達も探していたが、よく思っていなかった者も少なからず存在していたため、探し出す前に諦めて役目に戻っていた。
「まさか……穢れた地上に降りてしまったというの」
大天使はもう一度、地上を覗き込んだ。あの日、クラールが見ていたものを見てみたいと願った。けれど大天使が見たのは地上に浮遊する彼の姿だった。
もう手遅れだった。地上の穢れを知ってしまったら最後、天使であろうが神であろうが、もう戻れはしない。白い翼が黒ずんでいき、純粋な心が壊れていくだけだった。
多くの天使が彼を知り、雲の上から抜け出すことができなかった未来も存在していた。けれどあの幽霊を見つけて興味を持ったから、役目を与えられていなかったから、彼は知りたいと思った。朝にしか現れない幽霊の謎を。
足は地上へ踏み出していた。快晴の空に舞う羽根とともに、クラールは翼を広げて飛んでいた。あの幽霊に会って話がしたい。そう思って探し続けた。けれどすぐには見つからず、いろんな場所を飛び回っていた。その間に多くの幽霊を会話したが、あの幽霊を知っている者はいなかった。無作為に、それも朝にしか現れないからか目撃情報が少なく、探すのに一苦労だった。
「どこー?」
地上に足を触れさせることを恐れて飛び続けていたが、さすがに疲れて木々の上に座っていた。太陽の光が強い日のことだった。探し求めていた幽霊がそこに立っていた。しかし声も出せないほど疲れ果てて、呼び止めることは叶わず、その幽霊は歩き出してしまった。頑張って羽ばたかせて動こうとしたが、その衝撃で木の枝が折れて地面に落ちた。
「いたた」
クラールが頭をさすっていると、その幽霊は足を止めて彼を見ていたが、近づくことはなかった。一定の距離を保ったまま、クラールとその幽霊はお互いを視認していた。
第八節 終なき境界
夜にしか現れない陰影の幽霊 ルティと朝にしか現れない陽光の幽霊 リフォ。失ったものと歪んだもの、それぞれの記憶が終わらない世界を作り続ける。重なる運命から遠ざかった二つの魂が行きゆく果てはどこにもない未来。修正を免れたから起こった最奥に眠る深い心。
別れを告げたあの日からすべてははじまり、終わりは紛れもなく死に至る。その記憶が続く限り、永遠に出会うことができない。そう願った者がいる。そう祈った者がいる。
伸ばした手は月を隠した。新月の夜に葬った命は見えないものを映し出した。流れた血は目を閉じ消え去った。
「さよなら、世界」
誰かが告げるその言葉に、安堵とともに存在はその世界から失われた。
はじまりは曇り空、雨が降りそうなそんな景色に陽光の幽霊 リフォは目覚める。ぼやけた窓に水滴が残り、すでに降り終わったようにも見えたが、まだ空は怪しかった。少しの休憩時間を取っているかもしれない。そんな感じが風を通して伝わってきた。かすかに明るさを残して朝を伝えたカラスも電線から消えていた。
人の気配はなく、車も雨が原因か音が少なかった。空を見上げて今後の天気をうかがっていると、いつの間にかクラールがそばにいた。何も言わずに立っているリフォに対して、クラールも何も言わなかった。
目覚めた場所は一つの家。かつて住んでいた家に似ている気がするが、その記憶があっているのかわからない。空白の存在が歪んで見えなくなっているが、それ以外にもその存在をなくすために周りの記憶も変化していた。そこから見える畑だったところに咲くいろんな花達。今は白い紫陽花が咲いていた。そう考えるとこの雨も梅雨の時期だからなのだろう、とリフォは思っていた。
「珍しいね……紫陽花って桃とか青とか」
「……そうだね」
「何か悪いこと言った?」
「ううん。実際に咲いているのを見たのが少なかったから」
「それはどういうこと?」
「写真で見たの……でも思い出せない。誰が撮ったのか……おそらく空白の存在だけど。人物を撮るより風景を撮る方が好きだった気がする」
「そうなんだ! 僕も撮ってもらいたい!」
「人物は撮らないって言ったよ。それにクラールって写るのかな」
「わからないけど……きっと写るよ」
「そうだといいね」
そんな会話をしていると止まっていた雨は少しずつ強くなり、ぽつりぽつりと始まった雫はすぐに大雨に変わってしまった。雨宿りをするために家の中に入るが、電気がなく暗くてよく見えなかった。かろうじて扉を開けて、かすかに入った明るさで対処してみるが、それでもあまり変わらなかった。それに風も相まって雨が酷くなり、扉を閉めなければならない状態になっていた。
「暗いよー、怖いよー」
「……」
「リフォは怖くないの?」
「別に」
「そうだ! こうやったら……ほら」
クラールはおもむろに目を閉じて、両手を組んで祈り始めた。すると彼を中心に少しだけ明るくなった。リフォは少し驚いた顔をしたが、クラールが彼女の方を見た時にはいつも通りの顔に戻っていた。
「そんなことで出来たんだ」
「……教えてもらったこと実践しただけだよ」
「そう」
「なんか冷たいよ」
「雨のせい……かもね……!?」
「ならあったかくしてあげるね」
「いらない」
「手……冷たいよ。僕の手はあったかいよ」
「……」
悪気もなしにクラールはリフォの手を取っていた。彼女は黙っていたが、頭の中では何かが動いていた。ほとんど砂嵐の映像に一か所、手の感覚だけが残されていた。今の二人の立場が逆転した状態で、リフォが空白の存在の手を温めていた。
『あったかいね』
そんな声が頭をよぎった時、リフォは握られていた手を振り払った。いきなりのことでクラールもびっくりしていたが、思いつめた表情をするリフォに何も出来なかった。
「ごめんね……」
「大丈夫」
「また何か見えた?」
「ちょっと……ね」
「今日はもう……ううん、もうすぐ」
曇り空でほとんど確認できないが、クラールは夜が訪れるのを感じていた。祈って明るくなっていた空間も少しずつ収まって暗くなり、何も見えなくなりそうになっていた。深い夜がやってきて、その姿は維持できなくなる。祈りの光が完全に消え失せた時、リフォの姿は消えてしまった。
第六節 それは長い長い夜のはじまり
夜の雨は嫌いだった。人間達が寝静まった絶好の機会なのに何も出来なくなる雨が嫌いだった。だからそんな日は外に出ないで、その家に置かれていた本を読んで過ごしていた。けれどあの日は不安定な空を示していた。小雨と大雨と曇り空を繰り返して、知り合い達はどこかでまた酒を飲んでいた。誘われたが気分が悪かったので断り、いつものように本を読んでいたが、何度も繰り返して読み続けた本に飽きて、暇になったから少し外に出て見ることにした。雨が強くなったら戻ってこよう、そんな程度に傘を持って外に出た。
朝の風景と変わった点はなく、ただ色が藍色へと変わったくらいだった。星や月の光だけではすべてを照らすことは叶わず、暗い道を慣れた足で進んでいた。すると何かが一瞬映って足が止まった。少し戻ってみると誰かが座り込んでいた。こんなところで座り込んでいるやつなど飲み潰れているだけだろうと思ったが違った。頭に包帯を巻いた幽霊がそこにいた。
目から光が失われており、動く様子もなかった。傘を置いて一度見えやすいところに引っ張っていた。普段なら濡れるからそんなことしないのに考えるより先に手が出ていた。その包帯は頭だけでなく、服から見える肌の部分のほとんどに巻かれていた。白の無地のワンピースは泥で汚れてしまって、怪我したのか一部赤く染まっていた。
「これは……いったい?」
呟いたその声に今まで動かなかった幽霊はその方を見ていた。いきなり動いてビクッとしたが、それによって右目も包帯で隠されていることに気づいた。
「だ……れ」
「……俺は空夜。この山に住んでいる妖怪だよ」
「私……は……わから……ううん、確か……ルティ。それが……私の……名前」
「ルティ……か。どうしてここにいる?」
「わからない……何も……思い出せない」
「そうか……他のやつらに見つかったら厄介だな。歩けそうにないし、運ぶか」
空夜はそう言い、傘を折りたたんでルティを抱きかかえた。驚く様子もなくそのまま眠りにつくルティを気にせず、空夜は見つからないように家に戻ってきた。小雨だった天気はいつの間にか大雨になって二人ともびしょぬれになっていた。ルティをベッドに寝かせて、空夜はさっさと着替えた。ルティの所に戻ってくると彼女は目覚めて、ベッドを椅子のようにして座っていた。
「ここは……どこ?」
「俺が使っている家だ」
「い……え?」
「それすらわからないのか」
「わからない……覚えているのは……名前だけ」
「生前の記憶がないのか」
「記憶……」
「生きていた頃の記憶のことさ。幽霊っていうのは未練があれば残り続ける。ルティも何かあるんだろう」
「そう……なの?」
「知り合いがそう言っていたから俺は詳しく知らねぇ。だが記憶がないとすれば……難しいかもしれないな。何が目的なのかわからねぇから」
「……そうだね」
「ただ方法がないわけじゃない。会話と言うものは何かを解く暗示になることもある」
「会話……誰と」
「誰って……俺はただ助けただけで……!?」
それ以外のことは何もしない、と続けようとしたが、何かしら恐怖を感じたのか、ルティの体が震えて目から涙があふれていた。空夜は悪いことをしたとすぐに理解して、ルティの体を抱き寄せて背中をさすっていた。
「悪かったから泣くなよ」
「……わからないけど、すごく……こわかった」
「記憶はなくとも、感情は……何かを知っているのかもしれないな」
「感情?」
「嬉しかったことや楽しかったこと、悲しかったことに苦しかったこと……感情は記憶に結びついていることがあるから、大切にしておくといい」
「……うん」
ルティが落ち着いたのを見計らって少し離れようとする空夜の手を彼女は握っていた。まだ少し恐怖があるようで離れてほしくなかったようだった。空夜もそれを感じてルティの手を握り返すと彼女は少し驚いていた。
「あのね。名前以外思い出せないって言ったけど……一つだけ思い出したことがあるの」
「なんだ……記憶か?」
「記憶というには違うような気がするけど、ずっと暗いんだよね」
「暗い?」
「うん、空がずっと暗いの」
「夜だから暗いだろ」
「そうじゃなくて……なんて言ったらいいんだろう。朝が来ないんだよ」
「え? 何を言っているんだ」
「わからないよね」
「わからねぇ……だが、朝には消えてしまう、夜にしか現れない幽霊ってことか?」
「……」
「当たりかよ」
「うん……びっくりして何も言えなかった」
「そんな幽霊、初めて聞いたが」
「なんでかはわからないの。でも生前の記憶がないことと関係があるとすれば」
「……残された時間は……もうないか」
「そうかもね」
ルティは自分の姿が消えかかっていることに気づき、朝がそこまで来ていることに恐怖を覚えていた。また知らない場所で目覚めるかもしれないと思うと、空夜との出会いが無意味になりかねないと考えていた。
「目覚める場所は決まっているのか?」
「……どうして」
「今更、引き離すつもりか」
「……ありがとう。でもごめんね、わからない」
「そうか、じゃあ探しに行くよ」
「待っている」
ルティがその言葉を告げた時、太陽の光が挨拶して出てきていた。藍色の空が白く、淡い水色に変わろうとしていた。空夜の握っていたルティの手は薄くなり、少し寂しそうにしたが、その顔を見せないようにした。ルティはその顔に微笑み返し、明るさが家を照らす時、彼女の姿は消えてしまった。
第七節 幼い天使の新たな希望の朝
雲の上から「こんにちは」と告げるその姿に誰もが身震いした。けれど彼は何も思っていなかった。通り過ぎる天使達が役目を与えられて動いているのに、彼はまだ生まれてまもなかったこともあって、役目を与えられていなかった。幼い天使は自由気ままに雲の上を歩いていた。
ある日、そんな行為をよく思っていない者達がやってきて、彼に危害を加えようとした。しかしそれを守るように現れた大天使は告げる。その言葉に彼以外の天使は驚いて逃げ出した。彼はその言葉を理解できなかった。
『神になりうる存在を穢す者は 罪となり 地獄へ追放される』
自由奔放な彼は地上を見るのが好きだった。いろんな生き物達が様々な行動を繰り返していて、見ていて飽きることはなかった。けれど一つのことを見つけた辺りからそれを追うようになっていた。可視化した状態の目で見た時、浮遊する幽霊の中、無作為に現れる者がいた。同じ場所に現れることはなく、いつも違う場所にいた。それも朝にしか現れない不思議な幽霊だった。
「会ってみたい」
そう彼は呟いていた。その声を大天使は偶然にも聞いていた。会いたい人物が誰なのか知るために大天使も地上を覗いてみたが、その目にその幽霊は映らなかった。
「クラール? 誰のことを言っているの……」
大天使はそう言うがクラールには届いておらず、彼はずっと地上を見てその幽霊を追っていた。
『神になりうる存在 見えざる者に手を差し伸べる』
ふと、彼は姿を消した。突然のことで大天使は驚き、彼を探し続けていた。その他の天使達も探していたが、よく思っていなかった者も少なからず存在していたため、探し出す前に諦めて役目に戻っていた。
「まさか……穢れた地上に降りてしまったというの」
大天使はもう一度、地上を覗き込んだ。あの日、クラールが見ていたものを見てみたいと願った。けれど大天使が見たのは地上に浮遊する彼の姿だった。
もう手遅れだった。地上の穢れを知ってしまったら最後、天使であろうが神であろうが、もう戻れはしない。白い翼が黒ずんでいき、純粋な心が壊れていくだけだった。
多くの天使が彼を知り、雲の上から抜け出すことができなかった未来も存在していた。けれどあの幽霊を見つけて興味を持ったから、役目を与えられていなかったから、彼は知りたいと思った。朝にしか現れない幽霊の謎を。
足は地上へ踏み出していた。快晴の空に舞う羽根とともに、クラールは翼を広げて飛んでいた。あの幽霊に会って話がしたい。そう思って探し続けた。けれどすぐには見つからず、いろんな場所を飛び回っていた。その間に多くの幽霊を会話したが、あの幽霊を知っている者はいなかった。無作為に、それも朝にしか現れないからか目撃情報が少なく、探すのに一苦労だった。
「どこー?」
地上に足を触れさせることを恐れて飛び続けていたが、さすがに疲れて木々の上に座っていた。太陽の光が強い日のことだった。探し求めていた幽霊がそこに立っていた。しかし声も出せないほど疲れ果てて、呼び止めることは叶わず、その幽霊は歩き出してしまった。頑張って羽ばたかせて動こうとしたが、その衝撃で木の枝が折れて地面に落ちた。
「いたた」
クラールが頭をさすっていると、その幽霊は足を止めて彼を見ていたが、近づくことはなかった。一定の距離を保ったまま、クラールとその幽霊はお互いを視認していた。
第八節 終なき境界
夜にしか現れない陰影の幽霊 ルティと朝にしか現れない陽光の幽霊 リフォ。失ったものと歪んだもの、それぞれの記憶が終わらない世界を作り続ける。重なる運命から遠ざかった二つの魂が行きゆく果てはどこにもない未来。修正を免れたから起こった最奥に眠る深い心。
別れを告げたあの日からすべてははじまり、終わりは紛れもなく死に至る。その記憶が続く限り、永遠に出会うことができない。そう願った者がいる。そう祈った者がいる。
伸ばした手は月を隠した。新月の夜に葬った命は見えないものを映し出した。流れた血は目を閉じ消え去った。
「さよなら、世界」
誰かが告げるその言葉に、安堵とともに存在はその世界から失われた。