絵描きの少女と化け物の瞳(2/2)
公開 2025/04/27 22:32
最終更新
2025/05/27 17:02
(空白)
安静にしていた日々を越えて、コトリは依頼をこなしていた。そしてやっとあの依頼に辿り着いた。『街の風景』を描くため、美術館から一人で出ようとしていた。歩くにはまだ少し痛むが、よくしてくれるクレンにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない、とノートと鉛筆、下書き用の色鉛筆を色鉛筆を持って街の方に出た。少しでも絵の具の匂いがしない服を着て、噴水がある中心までやってきた。高く聳(そび)える城が見えたが、それを描くのは難しいと判断して別の場所へ行く。ふとどれくらいの大きさの絵を描いたらいいのか、聞くのを忘れていたのを思い出した。普段はイーゼルに乗るくらいの大きさで描いているが、たまにそれ以上の大きさを所望する依頼者もいた。
「……どうしよう」
そう呟いていたが、そんなことよりどの風景を描くか決めることに重きを置いて、ノートを開いた。さっと描かれた下書きが複数枚出来上がり、そのたびにいろんな風景で立ち止まっていた。
そのせいでぶつかっても仕方なかったが、コトリの瞳には化け物しか映らず、謝るという思考に辿り着かずに過ぎていった。しかしとある感覚がしてそれを見ようとした目が違和感を覚えた。最初は探しに来た館長かクレンかと思ったが、そうではなくそれが完全に人の姿に見えた。でも一瞬の出来事だったからコトリは気のせいだと流していた。
戻ってきた時には夕方になっていた。ノートは最後のページまで埋まっていた。さっそくその下書き絵から選んで本番絵である水彩画を描いていく。技法は何も言われていなかったから、コトリの中で一番描きやすい水彩画を選んだ。以前も似た依頼を受けたことがあり、それと被らないように別の場所を選んだつもりが、結局少し似た場所になった。
「……あれは一体」
水彩画を描きながら気のせいだと流していたあの出来事を思い出した。化け物に囲まれたその隙間に現れた人の姿。館長ですら完全に心を許していないのに、不気味な存在に忘れかけていた恐怖が溢れてきて筆が止まった。
「よかった」
その声が聞こえてハッとしたコトリは振り返った。描きかけの水彩画を覗き込むようにクレンが立っていた。
「いや……急に団長に呼ばれて……でも朝から出かけていたって聞いた時、足のこともあったから心配していたけど」
「……ありがとう」
「え? 僕は何も」
「来てくれて」
「……何かあった……!?」
筆をおいてすぐにコトリはクレンに抱き着いた。クレンはびっくりしていたが、すすり泣くコトリを突き放すことはせず、その背を撫でていた。
静かになったのは夜の空に星が見え始めた頃だった。恐怖から流した涙を落ち着かせて、息を整えたコトリはさっきまでの行為に恥ずかしくなっていた。なんでそんなことをしたんだろう、ってくらいに。クレンと出会った時間はまだ短いのに、優しすぎる彼に心を開きすぎている気がした。彼の姿はもう人に近く、あと瞳だけがまだ正常ではなかった。ちゃんと目を合わせることが怖かった。それを表すように心はまだすべてを許さなかった。
「……ごめんなさ」
「大丈夫、びっくりしたけど……」
「人がいたの」
「それは化け物ってこと?」
「ううん……人の形をした者がいたの。きっと気のせいだよね。そんなのいるわけ」
「影が重なってそう見えた……とか」
「そうだよね! そうだよ……うん」
そう思うしかないコトリと彼女に迫る危険を取り除かなければと考えるクレン。二人の思考がバラバラになって、止まっても動いても時間は過ぎていくだけだった。
不安を抱えたまま描き続けた『街の風景』はその人に見えた形を含んでいた。化け物に見える人々を取り除いてもそれだけは絵の中で生きていた。描き直すことも考えたが、時間は待ってはくれなかった。クレンが言うには忙しい団長がこの美術館に足を踏み入れる時間が少ないとして、早く描き上げてほしいと無理難題を突きつけてきた。だから描き直すことは出来なかった。
かすかに美術館の扉の音がして、コトリはその絵を持って立ち上がった。しかし部屋を出ようとすると館長が立っていて、彼女の持っていた水彩画を取って行ってしまった。コトリはいつも依頼者に出会うことが出来ない。コトリの瞳に映る人の姿が化け物になるということを館長は知らないはずなのに、何故か人から遠ざけられていた。
その絵の完成度に驚いた団長は嬉しそうにしていたらしいが、時間がなさ過ぎてすぐに美術館から去ることとなった。クレンは団長を送るために一旦、美術館から離れて、館長はコトリの部屋にやってきた。部屋はカーテンが開いて明るく、そして珍しく窓も開いていた。換気のために開いたわけではなく、コトリは外の様子を見るために開けていた。化け物を送るクレンの姿に寂しさを覚えて、彼の姿が見えなくなるまでずっと見ていた。
「早く帰ってきてね」
その呟きは温かさに消えて、館長のもとまで届かない。描く絵が少しずつ変わっていくのを館長は感じていた。
数時間後、クレンは何かを持って美術館に帰ってきた。それは団長がコトリに充てた感謝の手紙と有名菓子店の詰め合わせだった。見たことないお菓子もあってコトリは少し嬉しそうに、楽しそうにしていたが、一つずつ取った後、館長がその箱を取り上げて冷蔵庫の方へ持って行ってしまった。残りはまた後で、というみたいに。コトリは食べる前に手紙を読んでいた。こんな手紙をもらうことはめったになく、お菓子というお返しはもっとなかった。
お菓子を食べ終わった後、コトリは美術館に飾られた一枚の絵を見ていた。それは彼女がよく思ってなく、館長が一番いいと思って飾った水彩画。誰からの依頼でもなく、描く気もなかった絵。筆が勝手に進めて描かれたもので、記憶にない思い出が映し出されていた。
「……いい絵だね」
「私はそう思わない……!?」
「驚かせてしまったようで申し訳ない。君には人に見えているんだね、あの瞳のせいで」
いつの間にかコトリの横に立っていたのはあの日街で見た人の形をした姿の者だった。気のせいだと流したかったその姿がそこにはあった。悲鳴を上げようとしたコトリの口を塞いだが少し漏れて、その声を聞いたクレンと館長は急いでやってきた。館長はそれを見てしりもちをついて動けなくなり、クレンは「離せ!」と叫んで剣を抜いた。
「そうか……彼らには届かないか」
二人には正常な姿の化け物として見えている。そしてその言葉を理解することは出来ない。だからコトリに対して危害を与えているようにしか見えなかった。
「コトリ」
「……どうして私を」
「すべては終わったことだった。しかしその瞳が君に宿ってしまったから」
コトリを抱き寄せて「大丈夫」と静かに呟き、彼女の瞳を隠した。そして頭を撫でているとコトリは眠りにつき、少し経つと泣いていた。
それは化け物と呼ばれる形をしていた。背が高く黒色に支配された体、ぼやける姿が正確性を求めないまま、長く伸ばした手が触れるとそこには血だまりが出来ていた。他の生き物をへし折ってしまう。その感覚は残らなかった。
見つからないように隠れて過ごしていた。草木に隠れる私を見つけた人間がいた。気づけば自身の姿が人間に近しいものとなっていた。ずっと見ていたからだろうか。しかし触れてしまえばまた繰り返される。その手を取ろうとしなかったが、その人間は私の腕を掴んで走りだした。
人間の生活を知る中で壁にかけられた絵というものに興味を持った。有名に程遠いがその絵は大切な人が描いた大事なものらしい。見よう見まねで描いてみるもどう見ても下手だったが、人々は「味がある絵」だと言っていた。それが褒めているのかけなしているのか、私は理解できていなかった。
絵の興味は広がり、その勉強をするために多くの世界を渡り歩くことにした。人間のことだけではなく、それぞれの生き物が感じるものを描きたいと思うようになっていた。それは絵だけでなく、自らの姿も変化していった。生き物達に合わせるようにそれぞれの形や姿となって近づき、会話という鳴き声が響き渡る場所で描き続けた絵は何とも言えないものばかりだった。しかし多くの世界を渡り歩いていたことで、人々の噂から広まった私の絵は個展を開くまでになっていた。どんな感情でその絵を見ているのか、静かな空間に響く声はなく、言葉は発せられないが、みんな満足して出ていった。
しかし順調だった私の絵描き人生は突然終わりを告げる。どんな世界を行こうともその筆が新たな絵を生み出すことはなかった。しかし求められるものは多くなり過ぎた。期待と言うものは化け物である私でさえ苦しめる重荷となっていた。だから人になることをやめた。そうして逃げた、どこか、誰も知らない世界で静かに暮らすために。
ある世界に辿り着いた。変わり映えのしない人間達の住む世界だが、そこで行われていた小さな個展に飾られていた絵。その絵を描いたのは幼い少女だった。久しぶりに人の姿となり、その絵に足が止まり見続けていた。しかし私以外誰もその絵に興味はなくてただ通り過ぎていた。その足音が響いているのに私の耳にはそんな雑音は届いていなかった。
個展を後にして別の世界へと行こうとしていた時、すれ違った道でその絵を描いた幼い少女の姿を見た。通り過ぎた後で振り返って「あの子だ」と確信した私はいろんな姿を駆使して家に辿り着いた。入り込む際に小さなネズミのような姿をとり、幼い少女に近づいた。しかしその彼女の両親に見つかり、害獣扱いとして殺されかけたが、逃げた先は彼女の部屋であった。両親は怒鳴り散らしていたが、彼女は怖がりつつも、私よりも描き終わっていない絵の方が気になってそっちを優先して描いていた。
彼女としゃべることはしなかった。たまに出てきてその絵を見るネズミをどう思っていたかはわからない。けれどその絵に対して両親が言った言葉は「やめろ」ばかりであった。才能があるといろんな人から言われ続けてもそれは邪魔なものだった。そんなゴミのような才能が開花した所で、ちゃんとした未来に進んでほしいと願った両親にとって、そんなものは不要なものと判断しても仕方なかった。彼女はそういう思いを汲み取ることが出来ず、描いた絵を両親に見せていたが、言動から察するにその絵は捨てられていた。
心が少しずつ蝕まれていくのを感じながら、絵が壊れる前に、未来が遮られる前に彼女を助けたかった。例えネズミの姿が剥がれて化け物の姿が露わになったとしても、恐怖の対象となって拒まれたとしても、彼女の未来が救われるのならば、私がどうなろうと関係なかった。
想いは最後まで通じなかった。両親は彼女の絵を破り捨てた。両親と少女が一緒に描かれた家族絵なのに、気持ち悪がって彼女の前で破って、散らばった紙はただのゴミになった。それを偶然、私は見てしまった。ネズミの姿を見せないように極力、彼女の部屋から出ることをしなかった私を出したのは、その後に行われた暴力による彼女の悲鳴が原因だった。言葉で心を傷つけただけにとどまらず、次の手段として体を傷つけることにしたのか、その痛みは私を怒りに導くには十分すぎる動機だった。だから振り下ろされた手を切り飛ばした。
彼女の両親は悲鳴にならない叫びを上げて私を見ていた。私は両親を見下ろしていた。ネズミから解き放たれた本当の姿が父親の胸ぐらを掴み、どこかの壁の方に投げ飛ばした。その勢いは頭を強く打つにはちょうど良く、壁にはべっとりと血がついていた。母親は逃げようと玄関の方に向かって扉を開けようとしたが、パニックに陥って普段行っているようなことが出来なくなっていた。「開いて! 開いてよ!」と叫び続けてもそもそも鍵は開いていない。迫りくる私に加速する混乱の中、その命を狩り取った。
彼女は病院に運ばれて入院することになった。私というともう寿命が迫っていた。両親を殺してもそうでなくても、もう長くは生きられなかった。ならば傷ついた心だけでも取り除けないだろうか、と思って誰もいなくなった彼女の病室に入り込んだ。未だねむり続ける彼女に対して手をかざし、私との思い出を消した。その過程で両親が殺されたこと、それにまつわる周囲の記憶改竄を行い、私は最後の力を使い果たした。
その体は崩れ落ちたが、命はまだ残っていた。私は別の化け物として再生した。新しい目覚めとともに、記憶改竄を行っている際に感じた手の異様な感覚を思い出した。記憶を消すというあまりにも悲しい現実に心打たれていたから気づいていなかったこと。それはかつて人から生まれた化け物が持っていた呪いの瞳。人を化け物として認識してしまうもの。その異様な感覚は少女の瞳に汚染して宿ってしまったことを表していた。
その力を取り除かなければと思ったが、この新しくなった体には難点があった。それは透過能力があっても変身能力がなかった。そしてもっと困ったのが、見つけられたとしても彼女は美術館という檻の中に閉じ込められているということ。透過能力を使って毎日のように美術館に張り込んで絵を眺めていたが、たまに来る人のせいで彼女に干渉できなかった。
閉じた目を再び開いてコトリは化け物の本来の姿を見た。人の姿は剥がれ落ち、触れる手は黒い靄で揺れていた。化け物の記憶が流れ込み、そこで忘れていたコトリの記憶が紐づく。化け物が父親の腕を切った時、その瞳はすでに宿っていた。見知らぬ人が化け物を殺し、噴き出した血が壁に染み込んで赤色となり、変わり果てる惨劇に脳が処理できずに気絶していた。入院して目覚めた時、人が化け物に見えて恐怖に支配されて叫び続けた。けれどそこに置かれていた絵だけは信じられて、絵を描き続けることを選んだ。記憶が消去されて改竄されている、それに気づかなくてもずっと待ち続けていたのかもしれない。
「……もう君は苦しまない。その瞳は私が」
「……」
「……大丈夫。君には大切な人がいる。私よりも」
化け物はコトリに語りかけるが、瞳の効果を失ってしまった彼女にはその言葉の意味を理解することが少しずつできなくなっていた。それに薄々気づき始めた化け物はクレンの方を見て、口を動かしていた。本来その言葉を理解することが出来ないはずだが、その時だけクレンは分かった。
『コトリを……彼女に幸せを』
その言葉に剣をおろし、下を向いていた。化け物は寂しそうにコトリの方に向き直し、その手に何かを預けて姿を消した。触れられている感覚を失ったコトリがその手を開くと、小さなクレヨンが握られていた。幼い頃、家族絵を描いた時に使っていたもので、すべての惨劇のはじまりを作ってしまった原因。けれどそのクレヨンは唯一、記憶が失われても探し続けていた思い出の品でもあった。
自然豊かな風景、流れる雲は晴れた空を隠し、明暗を繰り返した。涼しい風が吹いて、甘く止めていた金具が少しズレた。「あっ」と呟いてちゃんとイーゼルと紙を固定して、下書きの鉛筆は走っていた。コトリは記憶を取り戻した後、本当にやりたかったことを思い出した。それはいろんな世界を旅しながら絵を描くこと。かつて恩師が行っていたことと一緒だった。館長は止めたが、それが自分のためであると理解していた彼女は首を振って外に出た。依頼以外で外に出たのはもう何年前のことか、コトリは覚えていなかった。
「……コトリ! そろそろお昼にしないかって」
「もう少し描いていてもいい?」
「それさっきも聞いたな」
「あれ、そうだっけ?」
「……もらってくるか。次、僕がここに戻ってきたら」
「うん、わかっているって」
「……わかってんのかな」
そう呟きつつもクレンは相変わらずコトリに甘く、よくしてくれる村の方々にお願いしに行った。クレンもまた騎士をやめてコトリについていくことにした。団長には怒られると思ったが、新しい門出に優しく送り出してくれた。
その様子を遥か遠くから眺める存在がいた。それを見て嬉しそうにまた姿を消した。
安静にしていた日々を越えて、コトリは依頼をこなしていた。そしてやっとあの依頼に辿り着いた。『街の風景』を描くため、美術館から一人で出ようとしていた。歩くにはまだ少し痛むが、よくしてくれるクレンにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかない、とノートと鉛筆、下書き用の色鉛筆を色鉛筆を持って街の方に出た。少しでも絵の具の匂いがしない服を着て、噴水がある中心までやってきた。高く聳(そび)える城が見えたが、それを描くのは難しいと判断して別の場所へ行く。ふとどれくらいの大きさの絵を描いたらいいのか、聞くのを忘れていたのを思い出した。普段はイーゼルに乗るくらいの大きさで描いているが、たまにそれ以上の大きさを所望する依頼者もいた。
「……どうしよう」
そう呟いていたが、そんなことよりどの風景を描くか決めることに重きを置いて、ノートを開いた。さっと描かれた下書きが複数枚出来上がり、そのたびにいろんな風景で立ち止まっていた。
そのせいでぶつかっても仕方なかったが、コトリの瞳には化け物しか映らず、謝るという思考に辿り着かずに過ぎていった。しかしとある感覚がしてそれを見ようとした目が違和感を覚えた。最初は探しに来た館長かクレンかと思ったが、そうではなくそれが完全に人の姿に見えた。でも一瞬の出来事だったからコトリは気のせいだと流していた。
戻ってきた時には夕方になっていた。ノートは最後のページまで埋まっていた。さっそくその下書き絵から選んで本番絵である水彩画を描いていく。技法は何も言われていなかったから、コトリの中で一番描きやすい水彩画を選んだ。以前も似た依頼を受けたことがあり、それと被らないように別の場所を選んだつもりが、結局少し似た場所になった。
「……あれは一体」
水彩画を描きながら気のせいだと流していたあの出来事を思い出した。化け物に囲まれたその隙間に現れた人の姿。館長ですら完全に心を許していないのに、不気味な存在に忘れかけていた恐怖が溢れてきて筆が止まった。
「よかった」
その声が聞こえてハッとしたコトリは振り返った。描きかけの水彩画を覗き込むようにクレンが立っていた。
「いや……急に団長に呼ばれて……でも朝から出かけていたって聞いた時、足のこともあったから心配していたけど」
「……ありがとう」
「え? 僕は何も」
「来てくれて」
「……何かあった……!?」
筆をおいてすぐにコトリはクレンに抱き着いた。クレンはびっくりしていたが、すすり泣くコトリを突き放すことはせず、その背を撫でていた。
静かになったのは夜の空に星が見え始めた頃だった。恐怖から流した涙を落ち着かせて、息を整えたコトリはさっきまでの行為に恥ずかしくなっていた。なんでそんなことをしたんだろう、ってくらいに。クレンと出会った時間はまだ短いのに、優しすぎる彼に心を開きすぎている気がした。彼の姿はもう人に近く、あと瞳だけがまだ正常ではなかった。ちゃんと目を合わせることが怖かった。それを表すように心はまだすべてを許さなかった。
「……ごめんなさ」
「大丈夫、びっくりしたけど……」
「人がいたの」
「それは化け物ってこと?」
「ううん……人の形をした者がいたの。きっと気のせいだよね。そんなのいるわけ」
「影が重なってそう見えた……とか」
「そうだよね! そうだよ……うん」
そう思うしかないコトリと彼女に迫る危険を取り除かなければと考えるクレン。二人の思考がバラバラになって、止まっても動いても時間は過ぎていくだけだった。
不安を抱えたまま描き続けた『街の風景』はその人に見えた形を含んでいた。化け物に見える人々を取り除いてもそれだけは絵の中で生きていた。描き直すことも考えたが、時間は待ってはくれなかった。クレンが言うには忙しい団長がこの美術館に足を踏み入れる時間が少ないとして、早く描き上げてほしいと無理難題を突きつけてきた。だから描き直すことは出来なかった。
かすかに美術館の扉の音がして、コトリはその絵を持って立ち上がった。しかし部屋を出ようとすると館長が立っていて、彼女の持っていた水彩画を取って行ってしまった。コトリはいつも依頼者に出会うことが出来ない。コトリの瞳に映る人の姿が化け物になるということを館長は知らないはずなのに、何故か人から遠ざけられていた。
その絵の完成度に驚いた団長は嬉しそうにしていたらしいが、時間がなさ過ぎてすぐに美術館から去ることとなった。クレンは団長を送るために一旦、美術館から離れて、館長はコトリの部屋にやってきた。部屋はカーテンが開いて明るく、そして珍しく窓も開いていた。換気のために開いたわけではなく、コトリは外の様子を見るために開けていた。化け物を送るクレンの姿に寂しさを覚えて、彼の姿が見えなくなるまでずっと見ていた。
「早く帰ってきてね」
その呟きは温かさに消えて、館長のもとまで届かない。描く絵が少しずつ変わっていくのを館長は感じていた。
数時間後、クレンは何かを持って美術館に帰ってきた。それは団長がコトリに充てた感謝の手紙と有名菓子店の詰め合わせだった。見たことないお菓子もあってコトリは少し嬉しそうに、楽しそうにしていたが、一つずつ取った後、館長がその箱を取り上げて冷蔵庫の方へ持って行ってしまった。残りはまた後で、というみたいに。コトリは食べる前に手紙を読んでいた。こんな手紙をもらうことはめったになく、お菓子というお返しはもっとなかった。
お菓子を食べ終わった後、コトリは美術館に飾られた一枚の絵を見ていた。それは彼女がよく思ってなく、館長が一番いいと思って飾った水彩画。誰からの依頼でもなく、描く気もなかった絵。筆が勝手に進めて描かれたもので、記憶にない思い出が映し出されていた。
「……いい絵だね」
「私はそう思わない……!?」
「驚かせてしまったようで申し訳ない。君には人に見えているんだね、あの瞳のせいで」
いつの間にかコトリの横に立っていたのはあの日街で見た人の形をした姿の者だった。気のせいだと流したかったその姿がそこにはあった。悲鳴を上げようとしたコトリの口を塞いだが少し漏れて、その声を聞いたクレンと館長は急いでやってきた。館長はそれを見てしりもちをついて動けなくなり、クレンは「離せ!」と叫んで剣を抜いた。
「そうか……彼らには届かないか」
二人には正常な姿の化け物として見えている。そしてその言葉を理解することは出来ない。だからコトリに対して危害を与えているようにしか見えなかった。
「コトリ」
「……どうして私を」
「すべては終わったことだった。しかしその瞳が君に宿ってしまったから」
コトリを抱き寄せて「大丈夫」と静かに呟き、彼女の瞳を隠した。そして頭を撫でているとコトリは眠りにつき、少し経つと泣いていた。
それは化け物と呼ばれる形をしていた。背が高く黒色に支配された体、ぼやける姿が正確性を求めないまま、長く伸ばした手が触れるとそこには血だまりが出来ていた。他の生き物をへし折ってしまう。その感覚は残らなかった。
見つからないように隠れて過ごしていた。草木に隠れる私を見つけた人間がいた。気づけば自身の姿が人間に近しいものとなっていた。ずっと見ていたからだろうか。しかし触れてしまえばまた繰り返される。その手を取ろうとしなかったが、その人間は私の腕を掴んで走りだした。
人間の生活を知る中で壁にかけられた絵というものに興味を持った。有名に程遠いがその絵は大切な人が描いた大事なものらしい。見よう見まねで描いてみるもどう見ても下手だったが、人々は「味がある絵」だと言っていた。それが褒めているのかけなしているのか、私は理解できていなかった。
絵の興味は広がり、その勉強をするために多くの世界を渡り歩くことにした。人間のことだけではなく、それぞれの生き物が感じるものを描きたいと思うようになっていた。それは絵だけでなく、自らの姿も変化していった。生き物達に合わせるようにそれぞれの形や姿となって近づき、会話という鳴き声が響き渡る場所で描き続けた絵は何とも言えないものばかりだった。しかし多くの世界を渡り歩いていたことで、人々の噂から広まった私の絵は個展を開くまでになっていた。どんな感情でその絵を見ているのか、静かな空間に響く声はなく、言葉は発せられないが、みんな満足して出ていった。
しかし順調だった私の絵描き人生は突然終わりを告げる。どんな世界を行こうともその筆が新たな絵を生み出すことはなかった。しかし求められるものは多くなり過ぎた。期待と言うものは化け物である私でさえ苦しめる重荷となっていた。だから人になることをやめた。そうして逃げた、どこか、誰も知らない世界で静かに暮らすために。
ある世界に辿り着いた。変わり映えのしない人間達の住む世界だが、そこで行われていた小さな個展に飾られていた絵。その絵を描いたのは幼い少女だった。久しぶりに人の姿となり、その絵に足が止まり見続けていた。しかし私以外誰もその絵に興味はなくてただ通り過ぎていた。その足音が響いているのに私の耳にはそんな雑音は届いていなかった。
個展を後にして別の世界へと行こうとしていた時、すれ違った道でその絵を描いた幼い少女の姿を見た。通り過ぎた後で振り返って「あの子だ」と確信した私はいろんな姿を駆使して家に辿り着いた。入り込む際に小さなネズミのような姿をとり、幼い少女に近づいた。しかしその彼女の両親に見つかり、害獣扱いとして殺されかけたが、逃げた先は彼女の部屋であった。両親は怒鳴り散らしていたが、彼女は怖がりつつも、私よりも描き終わっていない絵の方が気になってそっちを優先して描いていた。
彼女としゃべることはしなかった。たまに出てきてその絵を見るネズミをどう思っていたかはわからない。けれどその絵に対して両親が言った言葉は「やめろ」ばかりであった。才能があるといろんな人から言われ続けてもそれは邪魔なものだった。そんなゴミのような才能が開花した所で、ちゃんとした未来に進んでほしいと願った両親にとって、そんなものは不要なものと判断しても仕方なかった。彼女はそういう思いを汲み取ることが出来ず、描いた絵を両親に見せていたが、言動から察するにその絵は捨てられていた。
心が少しずつ蝕まれていくのを感じながら、絵が壊れる前に、未来が遮られる前に彼女を助けたかった。例えネズミの姿が剥がれて化け物の姿が露わになったとしても、恐怖の対象となって拒まれたとしても、彼女の未来が救われるのならば、私がどうなろうと関係なかった。
想いは最後まで通じなかった。両親は彼女の絵を破り捨てた。両親と少女が一緒に描かれた家族絵なのに、気持ち悪がって彼女の前で破って、散らばった紙はただのゴミになった。それを偶然、私は見てしまった。ネズミの姿を見せないように極力、彼女の部屋から出ることをしなかった私を出したのは、その後に行われた暴力による彼女の悲鳴が原因だった。言葉で心を傷つけただけにとどまらず、次の手段として体を傷つけることにしたのか、その痛みは私を怒りに導くには十分すぎる動機だった。だから振り下ろされた手を切り飛ばした。
彼女の両親は悲鳴にならない叫びを上げて私を見ていた。私は両親を見下ろしていた。ネズミから解き放たれた本当の姿が父親の胸ぐらを掴み、どこかの壁の方に投げ飛ばした。その勢いは頭を強く打つにはちょうど良く、壁にはべっとりと血がついていた。母親は逃げようと玄関の方に向かって扉を開けようとしたが、パニックに陥って普段行っているようなことが出来なくなっていた。「開いて! 開いてよ!」と叫び続けてもそもそも鍵は開いていない。迫りくる私に加速する混乱の中、その命を狩り取った。
彼女は病院に運ばれて入院することになった。私というともう寿命が迫っていた。両親を殺してもそうでなくても、もう長くは生きられなかった。ならば傷ついた心だけでも取り除けないだろうか、と思って誰もいなくなった彼女の病室に入り込んだ。未だねむり続ける彼女に対して手をかざし、私との思い出を消した。その過程で両親が殺されたこと、それにまつわる周囲の記憶改竄を行い、私は最後の力を使い果たした。
その体は崩れ落ちたが、命はまだ残っていた。私は別の化け物として再生した。新しい目覚めとともに、記憶改竄を行っている際に感じた手の異様な感覚を思い出した。記憶を消すというあまりにも悲しい現実に心打たれていたから気づいていなかったこと。それはかつて人から生まれた化け物が持っていた呪いの瞳。人を化け物として認識してしまうもの。その異様な感覚は少女の瞳に汚染して宿ってしまったことを表していた。
その力を取り除かなければと思ったが、この新しくなった体には難点があった。それは透過能力があっても変身能力がなかった。そしてもっと困ったのが、見つけられたとしても彼女は美術館という檻の中に閉じ込められているということ。透過能力を使って毎日のように美術館に張り込んで絵を眺めていたが、たまに来る人のせいで彼女に干渉できなかった。
閉じた目を再び開いてコトリは化け物の本来の姿を見た。人の姿は剥がれ落ち、触れる手は黒い靄で揺れていた。化け物の記憶が流れ込み、そこで忘れていたコトリの記憶が紐づく。化け物が父親の腕を切った時、その瞳はすでに宿っていた。見知らぬ人が化け物を殺し、噴き出した血が壁に染み込んで赤色となり、変わり果てる惨劇に脳が処理できずに気絶していた。入院して目覚めた時、人が化け物に見えて恐怖に支配されて叫び続けた。けれどそこに置かれていた絵だけは信じられて、絵を描き続けることを選んだ。記憶が消去されて改竄されている、それに気づかなくてもずっと待ち続けていたのかもしれない。
「……もう君は苦しまない。その瞳は私が」
「……」
「……大丈夫。君には大切な人がいる。私よりも」
化け物はコトリに語りかけるが、瞳の効果を失ってしまった彼女にはその言葉の意味を理解することが少しずつできなくなっていた。それに薄々気づき始めた化け物はクレンの方を見て、口を動かしていた。本来その言葉を理解することが出来ないはずだが、その時だけクレンは分かった。
『コトリを……彼女に幸せを』
その言葉に剣をおろし、下を向いていた。化け物は寂しそうにコトリの方に向き直し、その手に何かを預けて姿を消した。触れられている感覚を失ったコトリがその手を開くと、小さなクレヨンが握られていた。幼い頃、家族絵を描いた時に使っていたもので、すべての惨劇のはじまりを作ってしまった原因。けれどそのクレヨンは唯一、記憶が失われても探し続けていた思い出の品でもあった。
自然豊かな風景、流れる雲は晴れた空を隠し、明暗を繰り返した。涼しい風が吹いて、甘く止めていた金具が少しズレた。「あっ」と呟いてちゃんとイーゼルと紙を固定して、下書きの鉛筆は走っていた。コトリは記憶を取り戻した後、本当にやりたかったことを思い出した。それはいろんな世界を旅しながら絵を描くこと。かつて恩師が行っていたことと一緒だった。館長は止めたが、それが自分のためであると理解していた彼女は首を振って外に出た。依頼以外で外に出たのはもう何年前のことか、コトリは覚えていなかった。
「……コトリ! そろそろお昼にしないかって」
「もう少し描いていてもいい?」
「それさっきも聞いたな」
「あれ、そうだっけ?」
「……もらってくるか。次、僕がここに戻ってきたら」
「うん、わかっているって」
「……わかってんのかな」
そう呟きつつもクレンは相変わらずコトリに甘く、よくしてくれる村の方々にお願いしに行った。クレンもまた騎士をやめてコトリについていくことにした。団長には怒られると思ったが、新しい門出に優しく送り出してくれた。
その様子を遥か遠くから眺める存在がいた。それを見て嬉しそうにまた姿を消した。
桜詩凛の読みは「さくらしりん」で、由来は二つ。一つは元から使っていた桜子凛花が長いと思ったため、短くするために「桜」と「凛」を取り、その間に当時から書いていた「詩」をいれたもの。もう一つは『複雑な生き方をする少女』に登場する「さくら、黒蛇、シラ、理夏(りか)、ラナン」の頭文字を取ったものとなってい…
最近の記事
タグ
