遺物に侵食された世界(5/10)
公開 2024/02/24 13:51
最終更新
2024/02/24 14:14
(空白)
呼びかける声が二つ、呼び止める声が一つ、蒼徨の頭に浮かぶ言葉が重なり続けた。しかしその意味を彼は理解できなかった。何かが軋む音が聞こえて、その声達は消えていった。ゆっくりと目を覚ますと見慣れない天井がそこにはあった。
「ここは……」
「おや、起きたか」
まだぼやけていてちゃんと聞き取れていなかったが、声というか音がした方を見ると雨夜が何かしていた。
「ちょっと待ってろ」
「……ここは一体」
「ここは隠れ家だ……風花と俺の」
「……! 風花さんは!?」
「安心しろ。疲れて別の部屋で寝ているから」
「……そうでしたか」
「お前もまだ立つなよ。体力戻ってないんだろ」
雨夜はそう言いながら手にお椀を持って机に置いた。お椀に装ったご飯とみそ汁、次に卵焼きとサラダを持ってきた。近くの棚から皿と箸を取り、ベッドから降りて座り込む蒼徨の前に置いた。
「食え」
「え?」
「お腹空いているんじゃないのか? あんなに動き回れば」
「……」
「毒なんか入ってねぇよ。風花に教えてもらった通りに作っただけで」
「……それなら……いただきます」
恐る恐る箸を持って、卵焼きを掴みご飯に乗せた。じっと見てくる雨夜に怯えつつ、巻ききれていない卵焼きを食べると中にはしらすが入っていた。
「……おいしい」
「お! そうか」
「今まで雨夜さんのこと怖い人だと思っていました。でも違ったんですね」
「怖い人か、そうか。俺はそこまで悪くなったか」
「もしかして気分を害されましたか」
「いや、それでいいんだよ。俺は悪いままで……風花を守れるなら」
「……雨夜さんって悪魔なんですか?」
「堕天使の時の話か? 丸十が言っていた」
「はい」
「話してやってもいいが、今は食べろ。冷める前にな」
そう言われて雨夜は口を閉じた。蒼徨はのどに詰まらせない程度に急いで食べた。台所に食べ終わった皿やお椀を雨夜が持って行って、汚れを洗い流してかごに置いていた。手伝おうとしたが、動くなの一点張りで蒼徨はずっと雨夜が戻るまで座っていた。
「それじゃ何から聞きたい」
「さっき言った悪魔のことで……」
「俺は悪魔だよ。人間から悪魔になった」
「えっ……元人間」
「まぁこれに関してはいろいろ事情があるが……今から話す内容を誰にも言わないというのなら話してやってもいい」
「誰にも言いません」
「なら話そう。これは風花にもかかわる話だ」
それは空から降り注いだ遺物が落ちて、世界が侵食し始めた頃の話。研究者達はこぞって遺物の研究を始めた。しかしその裏では実験達として多くの貧民や孤児がその材料となっていた。連れてこられた子供達の中に彼はいた。実験という文言を入れずに、能力という言葉を埋め込んで憧れさせて連れ去った。彼はその時、正直能力なんていらなかった。ただそこに行けば衣食住が保護されると聞いたからついて行っていた。
研究者達も驚くほどの人数が集まってしまったために、順番待ちという形を取り、溢れた者達は孤児院に入れられた。彼はそこで暮らしていたが、ある日、二人の研究者に出会った。二人は他の研究者達と違って、遺物の研究をしていなかった。薬草を積んで調合し、怪我をした子供達の世話をしていた。彼も世話になり、少しずつ二人に懐いていた。
それから少し経って彼は青年と呼べるくらいの年齢になっていた。孤児院から出なければならなくなり、実験の順番はまだ来ない。一人でどこかに行かなればとなった時、二人の研究者と再開した。そこには足に隠れる幼い子がいた。
『理久(りく)……行く場所がないのなら私達のところに来ない?』
二人の研究者のうち、女性の研究者が彼の名前を呼び、理久は静かに頷いた。
遺物の研究は進み、能力という名の異質な存在はいつの間にか広がっていた。しかし理久は二人の研究者とあの日出会った幼き子とともに暮らしていた。幼き子は二人の研究者から生まれた子供だった。二人が忙しく研究をしている中、その子の相手を理久は任されていた。だがしょっちゅう脱走して、その日も目を離した瞬間にいなくなっていた。でもいつも行く場所は分かっていた。そこは両親である二人がいる研究室だった。
『お母さん! お父さん!』
『あらあら……もう少しだから』
『むー』
『ごめんなさい……また』
『いいんだよ、理久』
『本当にもう少し?』
『そうよ……だから風花、理久お兄さんと遊んでいてくれる?』
『うん、約束』
風花と呼ばれた子供と母親である研究者はゆびきりげんまんをして、彼女は理久の手を取って引っ張ろうとしていた。部屋に戻ってからは追いかけっこしたり積み木遊びをしたりしていたが、お絵描きしている時に、風花の絵には四人が描かれていた。
『何を描いているんだ?』
『お母さんとお父さんと私と理久お兄さんだよ。ずっと一緒にいられますように』
『……』
『どうしたの?』
『僕はいていいのか』
『分からないけど……理久お兄さんもお母さんやお父さんと同じくらい大切だよ。……どうして泣いているの?』
『え?』
理久は気づかないうちに泣いていた。何も言えない感情がこみ上げて涙が止まらなくなっていた。風花は「痛いの痛いの飛んでいけ」と何度も言っていた。このまま幸せな時間が続けばいいと思っていた。
しかしそんな時間が長く続くわけもなく、遺物の研究は進んで多くの実験の結果、遺物の中に大いなる力を秘めた「贈り物」と呼ばれるものが含まれていたことを知る。そしてその力を引き出そうとして、忘れかけていた順番待ちが理久のところまでやってきていた。能力のことなど眼中になく、すぐに断りを入れようとしたが、研究者達はお構いなしに大量の薬品を注射などで投与し、昏睡状態に陥れられた。気づけば台の上に寝かされて、動かないように固定されていた。
『ごめんね、待ちくたびれただろう』
『先生! この方は適性がありそうです』
『そうか……じゃあ、これを入れて見たらどうなるだろうか?』
先生と呼ばれた研究者の一人が理久の腕に注射器を打った。体に入り込む謎の液体の痛みはあるが、それから何時間経とうと何も起こらなかった。しびれを切らした彼らは固定具を外し、『また明日も来るように』と言っていなくなってしまった。若干の痛みがまだ残り続けていたが、帰れないほどではなかったため、二人の研究者と風花のもとへ戻ってきた。三人の様子を見て安心したのもつかの間、視界が揺らぎ、二人は理久を支えていた。風花は心配そうに彼を見ていた。
気づいた時にはいつものベッドの上にいて、風花が横で寝ていた。起き上がろうとする体は思うように動かず、眠る風花の頭を撫でてあげるくらいしか出来なかった。電気は消されていて、閉め切ったカーテンを開けるとすでに夜だった。すると硝子同士がぶつかる音がして、その方を見るとそこだけ明かりがついていた。体は重いが、どうしても気になったから無理をして明かりのついた部屋へ向かい、そこには風花の母親が薬品の確認をしていた。
『あっ、もしかして起こしちゃった?』
『いや……夜分に何をして』
『片付けが終わってなくてね。それをやっていたの。まだ体はつらいでしょ』
『まぁ』
『遺物の実験なんて酷いことをするもんだわ。私は……あの人もそうだけど反対したのに』
『……』
『みんな遺物を見てから変わってしまった。魅入られた様に実験を繰り返している。まるで誰かに操られたかのように』
『……』
『そうね。……理久には話しておきたいことがあったの。立ち話はつらいから座りましょうか』
風花の母親は薬品を棚に直し終わると、こっち、と手で招いて理久はそこにあった椅子に座った。風花の母親は急須とコップを持ってきた。少し待って急須からコップにお茶を注ぎ入れて、理久に『熱いから気をつけてね』と言って渡した。
『あなたに話しておきたいことは実験のこと』
『能力実験のことですか?』
『そう……無理やり連れて行かれたらしいからすごく心配で』
『……』
『多くの薬品を投与されたみたいだから、あの研究者にはもうやめてって言ったんだけど、まったくいうことを聞いてくれなくて、話題をそらされてしまったの』
『それって皆が遺物に魅入られているから』
『かもしれない。彼らから見れば私達が異常なの。狂気じみた目をするから怖くて強く言えなかった』
『……』
『実験は行かなくていいよ。今度こそ私が』
『いや行きます』
『どうして? 実験を続ければ人ではなくなってしまう可能性があるのに』
『それは聞きました。研究所の地下には化け物が檻の中で暴れていると……でもだからこそ……手に入れる必要がある』
『なんで必要か聞いてもいい?』
『大切な人を救うためです。母さん、父さん、そして風花を……遠くに逃げて誰も見つからない場所で幸せな時間を続けたい』
『そのために……ありがとね。でも無理に能力まで求める必要はないわ』
風花の母親は驚きつつも感謝を述べ、でも心配と否定を乗せていた。三人に救われてから能力なんていらないと思っていた。しかし遺物に魅入られていないが故に、その者達から監視され続けて逃げることは叶わなかった。だから能力を手に入れて逃げ出す算段を考え、三人に恩返しをしようとしていた。
繰り返される実験に理久は耐え続けた。能力の兆候はまったく見えないが、適正が高いが故に死に追い込むようなことはしなかった。実験に参加する頻度が上がり、理久に会えない時間が増えると風花は寂しそうにしていた。
ある実験の日、開始時間まで少し間があったから風花のそばにいた。風花は心配そうに理久を見ていた。どうやら顔がやつれているらしく、寝ていないのがすぐにばれた。
『理久お兄さん……寝ないの? 私は大丈夫だから』
『僕も平気』
『無理しちゃだめだよ』
『分かっている』
『……お兄さん』
『どうした』
『死なないでね』
『何を言うかと思えばそんなこと……』
言葉は紡げなかった。何故なら風花が理久を見て泣いていたからだった。涙のせいで下に置いていた絵は滲み、ぐちゃぐちゃになっても泣き続けていた。
『だってお母さんが……』
『風花』
理久は呼び掛けて風花の体を抱き寄せた。幼き体は彼に収まるような大きさで、彼は泣き止むように頭を撫でてあげたが、彼女の涙は止まらなかった。
『お兄さん……』
『大丈夫。ゆっくりでいいから』
『……ずっと一緒にいたい』
『……』
『だから死なないで……約束』
震えるながら風花は右手の小指を理久の方へ向けた。彼はそれがゆびきりげんまんだとすぐに理解し、小指を差し出して結んだ。ゆっくりと約束の言葉を紡いで、その指は離れた。彼女の涙はまだ枯れてはいなかったが、少しは落ち着いたようだった。
落ち着いても風花は理久の腕を離そうとはしなかった。しかし時間は無常にも訪れる。行かなくてもいいことは分かっているが、救うと決めたからには必ず手に入れる。そのために仕方がないが、風花の手を取った。
能力実験場に来た理久はすぐに寝かされて固定された。いつものように検査を行った後、大量の薬の投与が始まるはずだった。しかし何か騒ぎが起きたらしく、その会話の中に遺物の一つが盗まれたのだという。盗んだ犯人は未だ分かっていないが、遺物が盗まれたとなって、それに魅入られていた研究者は引き寄せられてどこかに行ってしまった。理久を管理している研究者は別にもいたので、騒ぎになっていても実験は続けられた。
『今日はこれを入れる』
研究者は無の空間を指差していた。何を言っているかわからなかったが、そこに遺物があるらしく、魅入られていないから見えないのか、理久には意味不明だった。薬の投与があらかた終わった時、異変が訪れた。普段なら耐えきっていたはずの薬の量でさえ、今までの負担のせいで体が重くなっていた。意識はおぼろげになって、閉じたくない目は落とされる。眠りたくないのに、生きなければならないのに、その瞼は落ちていた。
『こいつもダメですね』
『適性が高かったから勿体ないな』
『また別の個体でも探すか』
研究者の道具にしかしていない発言が、最後に耳に届いた言葉だった。
遺物を盗み逃げ出したのは二人の研究者と風花だった。遺物の魅力に気づかず、変な実験を繰り返すがあまり、異常な行動をとりかねないとして監視していた。しかし彼らも研究者であり、逃げ出すことなど容易であった。能力実験の時間を利用し、監視の目が少なくなった瞬間に、使われていない遺物を盗み逃げ出した。その遺物に繋がっている研究者の目によって場所はすぐに特定されていた。車で何とか逃げ出した三人だったが、大きな橋を渡っていたところ、魅入られた者達からの突撃により、前が見えなくなりガードレールに衝突。速度も出ていたため、その衝撃で二人の研究者は即死した。その後、車は引火し始め、風花は頑張って抜け出そうとしていたが、足が車に挟まって動けなくなっていた。
『助けて……』
燃え盛る炎の中、震える手を上にあげて助けを求めた。弱々しい声がもっと小さくなっていた。
意識は深い闇の中に落ちて行く。理久はそれが死だとすぐに理解した。能力を手に入れられず、約束も守れない者なんて何も出来なかったんだ。この意識が切れたらもう皆に会えないのかと思うと怖くなってきたが、力はまったく入らなかった。
もう少しで完全な死を迎える時、何かが聞こえた。しかし遠すぎるのか小さすぎるのかわからないがよく聞こえなかった。その声をよく聞きたい思いで、意識は少しだけ回復するが、現実の体を動かすほどにはまだ遠かった。
『助けて……』
少し近づいた時、それが風花の声であると気づいた。まさか研究者に何かされているのかと恐怖と怒りが混じった感情が湧き上がってきた。体が完全に動かなくなってしまったのはもうわかっていたが、意識はまだ生きていた。憎しみは膨れ上がり、その姿は人を失っていた。
なんでもいい。風花を救うことさえ出来れば、その姿が化け物になろうと構わない。
遺物に魅入られた者達による攻撃で引火した車は爆発した。しかしその爆発をものともせず、黒い影が風花を包み込んでいた。
『……お兄さん……なの』
風花は戸惑っていたが、優しい声が彼であることは分かっていた。その姿が悪魔に変わろうとも、安心していた。しかし遺物に魅入られている者達は風花を狙っていた。
『約束は果たせなかったが、ずっと一緒にいるから』
風花を抱えながら引火する車から現れた彼を魅入られた者達は襲っていたが、悪魔となった彼にかなう者はいなかった。すべては影にのまれ、事故という名の殺人の跡だけが残されていた。二人の研究者である風花の両親はすでに死亡しており、助ける手段はなかった。風花はそれを知って泣き叫んでいた。幼くして両親を失った悲しみは計り知れない。数時間前まで話していたはずの幸せはもうなかった。
「という話があってだな」
「……」
「おい」
「何も言えませんよ。こんなこと聞いたら」
「普通の人間ならそうだろうな」
「……でも雨夜さんってもともと『理久』と呼ばれていたのにどうして」
「あっ、その話してなかった。……『理久』という弱い人間は死んだから。切り捨てる……そんな感じだ」
「それで名前を」
「この話にはまだ続きがある。ただこれはこの危険区域という場所で起こった事件だが」
「事件?」
「聞くか? まだ風花は起きてこないようだし」
「はい……気になるので」
呼びかける声が二つ、呼び止める声が一つ、蒼徨の頭に浮かぶ言葉が重なり続けた。しかしその意味を彼は理解できなかった。何かが軋む音が聞こえて、その声達は消えていった。ゆっくりと目を覚ますと見慣れない天井がそこにはあった。
「ここは……」
「おや、起きたか」
まだぼやけていてちゃんと聞き取れていなかったが、声というか音がした方を見ると雨夜が何かしていた。
「ちょっと待ってろ」
「……ここは一体」
「ここは隠れ家だ……風花と俺の」
「……! 風花さんは!?」
「安心しろ。疲れて別の部屋で寝ているから」
「……そうでしたか」
「お前もまだ立つなよ。体力戻ってないんだろ」
雨夜はそう言いながら手にお椀を持って机に置いた。お椀に装ったご飯とみそ汁、次に卵焼きとサラダを持ってきた。近くの棚から皿と箸を取り、ベッドから降りて座り込む蒼徨の前に置いた。
「食え」
「え?」
「お腹空いているんじゃないのか? あんなに動き回れば」
「……」
「毒なんか入ってねぇよ。風花に教えてもらった通りに作っただけで」
「……それなら……いただきます」
恐る恐る箸を持って、卵焼きを掴みご飯に乗せた。じっと見てくる雨夜に怯えつつ、巻ききれていない卵焼きを食べると中にはしらすが入っていた。
「……おいしい」
「お! そうか」
「今まで雨夜さんのこと怖い人だと思っていました。でも違ったんですね」
「怖い人か、そうか。俺はそこまで悪くなったか」
「もしかして気分を害されましたか」
「いや、それでいいんだよ。俺は悪いままで……風花を守れるなら」
「……雨夜さんって悪魔なんですか?」
「堕天使の時の話か? 丸十が言っていた」
「はい」
「話してやってもいいが、今は食べろ。冷める前にな」
そう言われて雨夜は口を閉じた。蒼徨はのどに詰まらせない程度に急いで食べた。台所に食べ終わった皿やお椀を雨夜が持って行って、汚れを洗い流してかごに置いていた。手伝おうとしたが、動くなの一点張りで蒼徨はずっと雨夜が戻るまで座っていた。
「それじゃ何から聞きたい」
「さっき言った悪魔のことで……」
「俺は悪魔だよ。人間から悪魔になった」
「えっ……元人間」
「まぁこれに関してはいろいろ事情があるが……今から話す内容を誰にも言わないというのなら話してやってもいい」
「誰にも言いません」
「なら話そう。これは風花にもかかわる話だ」
それは空から降り注いだ遺物が落ちて、世界が侵食し始めた頃の話。研究者達はこぞって遺物の研究を始めた。しかしその裏では実験達として多くの貧民や孤児がその材料となっていた。連れてこられた子供達の中に彼はいた。実験という文言を入れずに、能力という言葉を埋め込んで憧れさせて連れ去った。彼はその時、正直能力なんていらなかった。ただそこに行けば衣食住が保護されると聞いたからついて行っていた。
研究者達も驚くほどの人数が集まってしまったために、順番待ちという形を取り、溢れた者達は孤児院に入れられた。彼はそこで暮らしていたが、ある日、二人の研究者に出会った。二人は他の研究者達と違って、遺物の研究をしていなかった。薬草を積んで調合し、怪我をした子供達の世話をしていた。彼も世話になり、少しずつ二人に懐いていた。
それから少し経って彼は青年と呼べるくらいの年齢になっていた。孤児院から出なければならなくなり、実験の順番はまだ来ない。一人でどこかに行かなればとなった時、二人の研究者と再開した。そこには足に隠れる幼い子がいた。
『理久(りく)……行く場所がないのなら私達のところに来ない?』
二人の研究者のうち、女性の研究者が彼の名前を呼び、理久は静かに頷いた。
遺物の研究は進み、能力という名の異質な存在はいつの間にか広がっていた。しかし理久は二人の研究者とあの日出会った幼き子とともに暮らしていた。幼き子は二人の研究者から生まれた子供だった。二人が忙しく研究をしている中、その子の相手を理久は任されていた。だがしょっちゅう脱走して、その日も目を離した瞬間にいなくなっていた。でもいつも行く場所は分かっていた。そこは両親である二人がいる研究室だった。
『お母さん! お父さん!』
『あらあら……もう少しだから』
『むー』
『ごめんなさい……また』
『いいんだよ、理久』
『本当にもう少し?』
『そうよ……だから風花、理久お兄さんと遊んでいてくれる?』
『うん、約束』
風花と呼ばれた子供と母親である研究者はゆびきりげんまんをして、彼女は理久の手を取って引っ張ろうとしていた。部屋に戻ってからは追いかけっこしたり積み木遊びをしたりしていたが、お絵描きしている時に、風花の絵には四人が描かれていた。
『何を描いているんだ?』
『お母さんとお父さんと私と理久お兄さんだよ。ずっと一緒にいられますように』
『……』
『どうしたの?』
『僕はいていいのか』
『分からないけど……理久お兄さんもお母さんやお父さんと同じくらい大切だよ。……どうして泣いているの?』
『え?』
理久は気づかないうちに泣いていた。何も言えない感情がこみ上げて涙が止まらなくなっていた。風花は「痛いの痛いの飛んでいけ」と何度も言っていた。このまま幸せな時間が続けばいいと思っていた。
しかしそんな時間が長く続くわけもなく、遺物の研究は進んで多くの実験の結果、遺物の中に大いなる力を秘めた「贈り物」と呼ばれるものが含まれていたことを知る。そしてその力を引き出そうとして、忘れかけていた順番待ちが理久のところまでやってきていた。能力のことなど眼中になく、すぐに断りを入れようとしたが、研究者達はお構いなしに大量の薬品を注射などで投与し、昏睡状態に陥れられた。気づけば台の上に寝かされて、動かないように固定されていた。
『ごめんね、待ちくたびれただろう』
『先生! この方は適性がありそうです』
『そうか……じゃあ、これを入れて見たらどうなるだろうか?』
先生と呼ばれた研究者の一人が理久の腕に注射器を打った。体に入り込む謎の液体の痛みはあるが、それから何時間経とうと何も起こらなかった。しびれを切らした彼らは固定具を外し、『また明日も来るように』と言っていなくなってしまった。若干の痛みがまだ残り続けていたが、帰れないほどではなかったため、二人の研究者と風花のもとへ戻ってきた。三人の様子を見て安心したのもつかの間、視界が揺らぎ、二人は理久を支えていた。風花は心配そうに彼を見ていた。
気づいた時にはいつものベッドの上にいて、風花が横で寝ていた。起き上がろうとする体は思うように動かず、眠る風花の頭を撫でてあげるくらいしか出来なかった。電気は消されていて、閉め切ったカーテンを開けるとすでに夜だった。すると硝子同士がぶつかる音がして、その方を見るとそこだけ明かりがついていた。体は重いが、どうしても気になったから無理をして明かりのついた部屋へ向かい、そこには風花の母親が薬品の確認をしていた。
『あっ、もしかして起こしちゃった?』
『いや……夜分に何をして』
『片付けが終わってなくてね。それをやっていたの。まだ体はつらいでしょ』
『まぁ』
『遺物の実験なんて酷いことをするもんだわ。私は……あの人もそうだけど反対したのに』
『……』
『みんな遺物を見てから変わってしまった。魅入られた様に実験を繰り返している。まるで誰かに操られたかのように』
『……』
『そうね。……理久には話しておきたいことがあったの。立ち話はつらいから座りましょうか』
風花の母親は薬品を棚に直し終わると、こっち、と手で招いて理久はそこにあった椅子に座った。風花の母親は急須とコップを持ってきた。少し待って急須からコップにお茶を注ぎ入れて、理久に『熱いから気をつけてね』と言って渡した。
『あなたに話しておきたいことは実験のこと』
『能力実験のことですか?』
『そう……無理やり連れて行かれたらしいからすごく心配で』
『……』
『多くの薬品を投与されたみたいだから、あの研究者にはもうやめてって言ったんだけど、まったくいうことを聞いてくれなくて、話題をそらされてしまったの』
『それって皆が遺物に魅入られているから』
『かもしれない。彼らから見れば私達が異常なの。狂気じみた目をするから怖くて強く言えなかった』
『……』
『実験は行かなくていいよ。今度こそ私が』
『いや行きます』
『どうして? 実験を続ければ人ではなくなってしまう可能性があるのに』
『それは聞きました。研究所の地下には化け物が檻の中で暴れていると……でもだからこそ……手に入れる必要がある』
『なんで必要か聞いてもいい?』
『大切な人を救うためです。母さん、父さん、そして風花を……遠くに逃げて誰も見つからない場所で幸せな時間を続けたい』
『そのために……ありがとね。でも無理に能力まで求める必要はないわ』
風花の母親は驚きつつも感謝を述べ、でも心配と否定を乗せていた。三人に救われてから能力なんていらないと思っていた。しかし遺物に魅入られていないが故に、その者達から監視され続けて逃げることは叶わなかった。だから能力を手に入れて逃げ出す算段を考え、三人に恩返しをしようとしていた。
繰り返される実験に理久は耐え続けた。能力の兆候はまったく見えないが、適正が高いが故に死に追い込むようなことはしなかった。実験に参加する頻度が上がり、理久に会えない時間が増えると風花は寂しそうにしていた。
ある実験の日、開始時間まで少し間があったから風花のそばにいた。風花は心配そうに理久を見ていた。どうやら顔がやつれているらしく、寝ていないのがすぐにばれた。
『理久お兄さん……寝ないの? 私は大丈夫だから』
『僕も平気』
『無理しちゃだめだよ』
『分かっている』
『……お兄さん』
『どうした』
『死なないでね』
『何を言うかと思えばそんなこと……』
言葉は紡げなかった。何故なら風花が理久を見て泣いていたからだった。涙のせいで下に置いていた絵は滲み、ぐちゃぐちゃになっても泣き続けていた。
『だってお母さんが……』
『風花』
理久は呼び掛けて風花の体を抱き寄せた。幼き体は彼に収まるような大きさで、彼は泣き止むように頭を撫でてあげたが、彼女の涙は止まらなかった。
『お兄さん……』
『大丈夫。ゆっくりでいいから』
『……ずっと一緒にいたい』
『……』
『だから死なないで……約束』
震えるながら風花は右手の小指を理久の方へ向けた。彼はそれがゆびきりげんまんだとすぐに理解し、小指を差し出して結んだ。ゆっくりと約束の言葉を紡いで、その指は離れた。彼女の涙はまだ枯れてはいなかったが、少しは落ち着いたようだった。
落ち着いても風花は理久の腕を離そうとはしなかった。しかし時間は無常にも訪れる。行かなくてもいいことは分かっているが、救うと決めたからには必ず手に入れる。そのために仕方がないが、風花の手を取った。
能力実験場に来た理久はすぐに寝かされて固定された。いつものように検査を行った後、大量の薬の投与が始まるはずだった。しかし何か騒ぎが起きたらしく、その会話の中に遺物の一つが盗まれたのだという。盗んだ犯人は未だ分かっていないが、遺物が盗まれたとなって、それに魅入られていた研究者は引き寄せられてどこかに行ってしまった。理久を管理している研究者は別にもいたので、騒ぎになっていても実験は続けられた。
『今日はこれを入れる』
研究者は無の空間を指差していた。何を言っているかわからなかったが、そこに遺物があるらしく、魅入られていないから見えないのか、理久には意味不明だった。薬の投与があらかた終わった時、異変が訪れた。普段なら耐えきっていたはずの薬の量でさえ、今までの負担のせいで体が重くなっていた。意識はおぼろげになって、閉じたくない目は落とされる。眠りたくないのに、生きなければならないのに、その瞼は落ちていた。
『こいつもダメですね』
『適性が高かったから勿体ないな』
『また別の個体でも探すか』
研究者の道具にしかしていない発言が、最後に耳に届いた言葉だった。
遺物を盗み逃げ出したのは二人の研究者と風花だった。遺物の魅力に気づかず、変な実験を繰り返すがあまり、異常な行動をとりかねないとして監視していた。しかし彼らも研究者であり、逃げ出すことなど容易であった。能力実験の時間を利用し、監視の目が少なくなった瞬間に、使われていない遺物を盗み逃げ出した。その遺物に繋がっている研究者の目によって場所はすぐに特定されていた。車で何とか逃げ出した三人だったが、大きな橋を渡っていたところ、魅入られた者達からの突撃により、前が見えなくなりガードレールに衝突。速度も出ていたため、その衝撃で二人の研究者は即死した。その後、車は引火し始め、風花は頑張って抜け出そうとしていたが、足が車に挟まって動けなくなっていた。
『助けて……』
燃え盛る炎の中、震える手を上にあげて助けを求めた。弱々しい声がもっと小さくなっていた。
意識は深い闇の中に落ちて行く。理久はそれが死だとすぐに理解した。能力を手に入れられず、約束も守れない者なんて何も出来なかったんだ。この意識が切れたらもう皆に会えないのかと思うと怖くなってきたが、力はまったく入らなかった。
もう少しで完全な死を迎える時、何かが聞こえた。しかし遠すぎるのか小さすぎるのかわからないがよく聞こえなかった。その声をよく聞きたい思いで、意識は少しだけ回復するが、現実の体を動かすほどにはまだ遠かった。
『助けて……』
少し近づいた時、それが風花の声であると気づいた。まさか研究者に何かされているのかと恐怖と怒りが混じった感情が湧き上がってきた。体が完全に動かなくなってしまったのはもうわかっていたが、意識はまだ生きていた。憎しみは膨れ上がり、その姿は人を失っていた。
なんでもいい。風花を救うことさえ出来れば、その姿が化け物になろうと構わない。
遺物に魅入られた者達による攻撃で引火した車は爆発した。しかしその爆発をものともせず、黒い影が風花を包み込んでいた。
『……お兄さん……なの』
風花は戸惑っていたが、優しい声が彼であることは分かっていた。その姿が悪魔に変わろうとも、安心していた。しかし遺物に魅入られている者達は風花を狙っていた。
『約束は果たせなかったが、ずっと一緒にいるから』
風花を抱えながら引火する車から現れた彼を魅入られた者達は襲っていたが、悪魔となった彼にかなう者はいなかった。すべては影にのまれ、事故という名の殺人の跡だけが残されていた。二人の研究者である風花の両親はすでに死亡しており、助ける手段はなかった。風花はそれを知って泣き叫んでいた。幼くして両親を失った悲しみは計り知れない。数時間前まで話していたはずの幸せはもうなかった。
「という話があってだな」
「……」
「おい」
「何も言えませんよ。こんなこと聞いたら」
「普通の人間ならそうだろうな」
「……でも雨夜さんってもともと『理久』と呼ばれていたのにどうして」
「あっ、その話してなかった。……『理久』という弱い人間は死んだから。切り捨てる……そんな感じだ」
「それで名前を」
「この話にはまだ続きがある。ただこれはこの危険区域という場所で起こった事件だが」
「事件?」
「聞くか? まだ風花は起きてこないようだし」
「はい……気になるので」
桜詩凛の読みは「さくらしりん」で、由来は二つ。一つは元から使っていた桜子凛花が長いと思ったため、短くするために「桜」と「凛」を取り、その間に当時から書いていた「詩」をいれたもの。もう一つは『複雑な生き方をする少女』に登場する「さくら、黒蛇、シラ、理夏(りか)、ラナン」の頭文字を取ったものとなってい…
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