音の旅人と夢の支配人
公開 2025/01/26 11:51
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深い暗闇からものすごい勢いで白い光が辺りを包んで色鮮やかに染めていく。その出来事は一瞬で、脳が理解するには無理な早さであった。けれど鮮やかな色に混じって時が止まったかのように異様な赤い風景が見えたが、気のせいと言わんばかりにかき消された。
自然豊かな木々達が彼を覗き込み、太陽の光が眩しくて開けかけていた瞼は落ちようとしていた。しかし朦朧とする意識がはっきりしてきて、パッと目を覚ました時、なんでこんなところで倒れているんだろうとすぐ疑問が浮かんだ。体を起こしつつ今までのことを振り返ろうとしたが、ところどころ空白になっていて思い出せなかった。ただ目的だけは思い出し、そしてそれに必要なバイオリンが近くにないことに焦りを感じて探した。幸いなことに少し戻った先に置かれていて、ケースに砂が少し被っていたものの、中身のバイオリンには傷一つついていなかった。
少しだけ弾いてみよう、と近くにあった切株に座ってケースからバイオリンを取り出した。音に変化はないが、今まで作った曲の一部が思い出せないほど欠けていた。それでもバイオリンの破損は見られず、その音色につられていろんな鳥達が足元や肩に乗って、自然が楽しむように風が吹いていた。
鳥達や自然に別れを告げて歩き出した彼は忘れてしまった音を取り戻すために、一度訪れた街に出向いてみたが、記憶が混濁しているのか街の人々はあたかも初めて会ったかのように接してきた。違和感を感じつつ、落としてしまった音は再び彼の曲となって奏でられたが、最初に作った時と違う形で復活していた。無意識の中でこの音は使えないと作る過程で弾かれていた。
異様な経験を繰り返しながらもこの世界の音集めの旅はもう少しで終わる。しかしその最終目的地にたどり着いた時、空は異常なまでに赤く染まっていた。危険を察して引き返そうとした体は振り返る間もなく何かに押されて、道を失った暗き穴の中へと落ちていった。
気がつけばまた気絶していたが、彼の体は何の痛みもなかった。ケースはもう使い物にならないほど破損していたが、中のバイオリンは何故か無事だった。ゆっくりと立ち上がったその視線に映ったのは永遠に広がる謎の空間だった。おそるおそる歩いてみると少しずつ建物が見えてきた。しかしどれも破損した建物ばかりで、その隙間から彼を見る異様な視線が良からぬ言葉を投げかけられているのではないかと圧を感じていた。
「最果ての地 入り込んだ旅人 今宵も 楽しい演奏会」
「そして 永遠の旅へご招待 ずっと みんな一緒だよ」
変わらない風景の目の前に現れた同じ顔をした二人の子供、これは双子というべきかわからないが、一人ずつ彼に対してそう投げかけた。するとさっきまでなかった重たそうな扉が現れて。双子は両開きの片方ずつを持って軽々しく開けていた。その先は何も見えない暗闇だったが、足が動かずとも体は吸い込まれていった。
「たくさん たくさん おいしいもの 食べたいな」
「旅人さんは どんな味がするんだろう 甘いのがいいな」
その声は彼の耳には届かず、吹き荒れる風の音でかき消されていた。バイオリンを守りながらしりもちをついたその出口には多くの液晶が乱雑に配置されていた。一部には十二星座とそれ以外の星座が別々の場所で順番通りに流れては繰り返していた。
その映像を見ていると中央の液晶に謎の影が映し出された。その映像の背景は赤く、謎の影が強く表に出ていた。そこから流れ出した曲は無意識の中で捨てられた音で構成されていた。その瞬間、頭が痛くなりその場にしゃがみ込んだ。脳に浸透していく曲が周りの音を封殺し、誰かが近くに来ていると気づけなかった。そして蹴り上げられて頭を打ちつけた時に、その視線は誰かの方に向いていた。
「どうせ悪霊に変わるならあの方に出向いてもらう必要はない」
そういう者の足は凍りついており、雪のように白い円盤をとどめと言わんばかりに投げようとしていた。しかし彼が立ち上がるのを見て投げようとした手をおろした。
「いきなり……」
「あの双子と違って、こっちは仕事なんでね。演奏会に行くための正装を作ってあげようと思っただけで……」
「正装? 僕はここから出て行かなきゃいけないんだ」
「そうか……あの方に歯向かうのか。なら生かしておけないな」
彼の否定的な考えにいきなり牛のように突撃し、前に持っていたバイオリンは破壊されたかに見えたが、何一つ傷はなく彼も体の痛みを訴えることはなかったが、口から血を少し吐いていた。
「……何か、いや違う。あの方と同じはずがない」
呟く声は彼には届かないが、ふらつく体を支えるために近くにあった柱に手を当てていた。ゆっくりと近づく姿に恐れを感じたが、がむしゃらに円盤を投げた。しかしそれは謎の壁に阻まれて弾かれ、彼の手から離れていたはずのバイオリンが握られていた。どんな気力が残っているのかわからないが、バイオリンを弾き始めた。
その音色にあてられた者の動きは止まり、弾かれた円盤を取りに行くことも出来なくなった。かわりに彼の口元についた血は消えて、表情も苦しいものから解放されていた。しかし心地よく弾いている彼は辺りが水没し始めていることにすぐ気づけなかったが、それに共鳴するよう流れ始めたハープが彼を邪魔していた。
「……あなたではこの旅人を倒すことが」
「うるせぇ! まだやれる」
「いいえ、新米のあなたでは荷が重すぎる」
「攻撃も出来ないお前に何が出来る? 治療しか与えられていないのに」
「ならあなたも水没させてもいいんですよ。あなたの牛より私の水瓶(みずがめ)は」
「……わ、わかったよ」
顔の付近まで迫っていた水に彼を残して二人は姿を消した。その直後、空間が歪むように深海へ引きずり込まれた。息をする間もなく重く沈んでいく体に瞼は閉じた。
水を吐き出すように咳き込む彼が目覚めた時、ふわふわなものがたくさんある場所にいた。あらゆる色の雲がぷかぷかと浮かび、彼と同じような旅人達はすやすやと眠っていた。
「あれ? 起きちゃったんだ」
その声の主はその眠りを妨げないように小声で彼に話しかけてきた。白い雲の上に乗った子供はゆらゆらと体を揺らしていた。
「君も」
「も? あー、牛のお兄さんに会ったんだよね。大変だったね。でも安心して……」
そこで言葉を切り、彼の耳元に近づいて囁いた。「眠って」と。しかし瞬時にそれが危険なことであると彼は理解して首を振った。少しむすっとして彼から離れると言葉を続けた。
「そっかダメなんだね。じゃあ……さよなら」
「さよなら?」
その瞬間、体が重くなって動くと今まで感じなかった痛みを発していた。体には大量の剣が刺さって、ところどころから血が噴出していた。雲の上に乗っていた子供はいなくなり、そこで眠っていた旅人達は白骨化した死体へと変わっていた。さっきまで見えていたのは幻影だった。
「来てみれば弱すぎる」
死にかけの彼の頭を持ち上げて覗き込む少女は今刺さっている剣と同じものを持っていた。
「こんなのに負けたの? あの子が弱いとは思わないけど私が出る幕でもないわね」
そう言って心臓を貫き、完全に彼の息を止めた。血塗れの池が出来上がるのを少女は見ることなく、周りに漂う悪霊達に始末を任せていた。
悪霊達は少女に対して文句を垂れ流しながら彼を運んでいた。その揺れに沈んでいたはずの意識は目覚め、頭の付近にいた悪霊は驚いて手を離していた。それによってバランスを崩し、彼は地面にたたきつけられた。頭の衝撃は痛みより複雑な音が鳴り響いていた。すると悪霊達の騒ぎを聞きつけた者がそれを制していた。
「運ばれるのが遅いと思えば……ふーん」
フラスコを持っていた男がそう言っていた。爆発したような頭と汚れ腐った白衣、それから右腕は包帯が巻かれて血ではない何かが浮き出ていた。
「しかしあの毒でさえ殺せませんでしたか」
「毒?」
「あの子に差し上げた毒ですよ……私の自信作だったんですがね。一滴でも体に取り込めば死ぬ、そのように作った」
「……」
「おや? あの方と同じ匂いがしますね。これはいい実験材料になりそうだ」
そういい持っていたフラスコを彼に向かって投げるが、その前で落ちて反応が起きて大量の煙を放出させた。吸い込まないように鼻を抑えて目を閉じようとした時、背後から何かの気配がして動くと、さっき落としたフラスコのガラスの破片を踏み、かすかな音が彼を撃っていた。
「こら! まだ何も言ってない」
研究者の男は遠くの方を見て叫んでいた。その視線の先には矢筒を背に弓を持つ少年が立っていた。うるさいほどに聞こえる研究者の男の声にうんざりしつつ、未だ煙に包まれ様子が見えない彼の姿を確認しようと注視していた。
「たぶん足に当たった……次はちゃんと狙える」
そう言って弓を構えて矢尻には研究者の男が作った毒が塗られていた。薄くなった煙に彼の姿が映し出され、少年は矢を射るが軌道に乗らず、手前で折られた。彼の体のそばにはバイオリンがあり、その光が防壁となって守っていた。
「あれが……あの方の言っていた危険人物……援護しか出来ない僕には殺せない」
でも、と弓を構えて矢を射る。その矢には毒は塗られておらず、代わりにあの方の力を模したものが込められていた。その矢は防壁を貫通したが、バイオリンの絃の前で蒸発して消えた。
彼に撃たれた矢は突然現れたバイオリンによって弾かれた。手から離れて失われたはずのバイオリンが彼の目の前に浮いていた。それを手に取り奏でる音色は防壁となり、撃たれる矢も研究者の男も近づけない状態になっていた。しかし一つの矢は防壁の一部を破壊して貫通してきた。その光は彼が奏でる音によって作られた防壁と似ていたが、歪んで不協和音が響いていた。
煙が晴れて矢が放たれた方を見上げた彼は少年を視認したが、少年は弓を持ったまま柵を乗り越えて、下が見えないほどの暗さに落ちていった。驚きで音色が止まり、防壁が消えたタイミングで研究者の男は毒の瓶を彼に対して投げていた。ニヤリとしたがそれは手前で落ちて不発に終わった。なぜなら研究者の男と彼の間に天秤を持つ者が立っていた。
「は? 実験の邪魔をするな」
「遅すぎると思ったら……また」
「秤(はか)るしか出来ないお前に」
「私はあの子に言われてここに来た。それに善悪なんてすぐにわかること」
そう言って彼の方を向き、天秤は彼から見て左に傾いていた。それに驚く顔をした者は首を振って左に傾いたものを戻そうとするが、まったく動くことはなかった。
「……なんで?」
「ほら、お前じゃ無理だって……だからさっさと」
「……だから危険人物とあの方はおっしゃったのね」
「なんだよ! さっきから」
「これは異常事態ね。悪に傾けばそのまま裁けたというのに……善に傾いては私じゃどうすることも出来ない」
「話を聞け」
「うるさい……それに遅すぎるからきっとあの子が来る」
天秤を持つ者は言いながら少し上を向いていた。研究者の男もそれにつられて見ていると少しうれしそうな顔をしていた。彼が振り返ると赤い瞳を輝かせた少女が柵に足をかけて立っていた。どこからか飛んできた一つの剣が彼の足元に刺さり、後ずさりするのを一瞬で背後に回って彼を蹴り飛ばした。
「……ここは私に」
「なんて麗しい」
「あれは幻覚を見せるだけで殺せなかったのだけど……どういうこと?」
「あ……ごめんなさい。完璧なものを作って持ってきますので」
「今はいらない。私はそんなちっぽけな力に頼らない。あの方だけで十分……連れて行きなさい、秤る者」
「ええ……くれぐれも気をつけて。あなたのことだから大丈夫だと思うけど」
そう言って離れるのを嫌がる研究者の男を引き摺りながら秤る者は歩いて、道のない先の暗闇に飛び込んでいった。
蹴り飛ばされた彼を受け止めた壁は破壊されて、舞った煙に視界を奪われた。なんとか体を起こし、近くにあった置物に手をかけて立ち上がると、煙を払うように剣が振り下ろされて、揺らめいていた電球が切られて地面に落ちた。
「迷い込んだ愚か者……あの方の邪魔をするなら」
そう言うと剣が謎の黒い靄に覆われて上に掲げると、その剣の複製体が次々と作られていた。少女はその間、目を閉じていたが、剣の複製体の矛先が彼の方に向くにつれて、そ彼女が持つ剣は体の前におろして保っていた。黒い靄が剣の複数体の方に渡り、彼の足音が聞こえた瞬間に目を覚まして剣は放たれた。すでに逃げ出してその場所にいなかったにもかかわらず、その剣は追尾して彼を追い続けていた。遮蔽物に隠れながらも剣はそれを破壊して彼を追い込んでいた。飛び交う剣によって体のいろんな箇所に切り傷がつき、かなりの血が垂れるせいで逃げても逃げても少女に見つかっていた。
「倒せない理由がわからない……こんなにも弱いのに」
少女は逃げ惑い疲弊する彼を放置し立ち止まる。そして剣を地面に刺して空中に星座を書き始めた。山羊座を描き、その光はパンフルートへと姿を変えた。それを吹くと飛び交っていた剣は一つ、また一つと消えて彼は逃げるのをやめて顔の血を腕で拭っていた。チャンスだと思って近づこうとする足は悪霊達に囚われていた。少女が奏でるパンフルートに惹かれて集まってきた悪霊達は少しずつ彼の動きを止めて暗闇へと引きずり込んだ。
「さよなら……旅人」
パンフルートから口を離しそう告げる少女に彼は何もできず押し込まれるだけだった。
この世界に散らばった音を求めて、バイオリンを背に抱えて旅をしていた。あらゆる街の風景に触れつつ、そこで拾い上げた音を繋いで曲を作っていた。その曲を奏でると人々が集まって聞いていた。噂はすぐに広がり、彼は『音の旅人』と呼ばれるようになった。彼の目的は音楽を無くした世界を元に戻すこと、最果ての地に眠る厄災に対抗するための曲を作り上げることの二つが主となり、それ以外に人々の笑顔を守るために旅を続けていた。多くの曲は彼が旅する中で大きな糧となり、やっとの思いで最果ての地に辿り着いた。
しかしそこは聞いていた話とは違った。今まで明るく淡い水色に見えていた空が一瞬にして異様な赤色となり、辺り一面枯れ果てた地面となっていた。破かれそうになっている封印の石の前で多くの曲を奏でることで、その封印を強固のものへとすることが出来る、そう教えられていたが、その封印の石は見当たらなかった。
「迷い込んだ人間よ」
本来存在するであろう封印の石、その近くから声がした。辺りを見渡すが彼以外誰もいない。もしかして封印が解けてしまったのかもしれない、とバイオリンを取り出して曲を奏でようとした。
「それが無意味だとどうしてわからない」
耳元で囁かれる謎の声は彼の頭に響く。首を振って曲に集中しようとするが、力を込め過ぎたのか弦が切れて、音は少しずつ少なくなっていた。音の数が減るたびにその声は大きく聞こえるようになり、最後の弦をもってバイオリンは音を無くした。
「多くの曲は我にとって目障りだ。だがこの世界の材料としては上質なものとなった。感謝する、『音の旅人』……もう話を聞いておらぬか」
大切なバイオリンは壊されて、彼の心は捨てられた。空っぽとなった彼の体に入り込んだその厄災は消え失せた青い瞳を赤く染めた。まだかすかに抵抗する意思を見せる彼だったが、少しずつ押し潰されて最後の想いさえも心の中に閉じ込められて、この世界から消滅した。
夢のはじまりは裏世界の最果ての地。封印された石の中で作り出された厄災が生きる世界。現実から隔離された世界は厄災の思うがままに機能し、長い年月封印されていた故に現実と同じくらいの夢の空間を作り出すことが出来るようになっていた。しかし動くための体が封印の石のせいで固定されていたため、今まで干渉することすら叶わなかったが、封印を施す『音の旅人』と呼ばれる元凶を見つけて体を乗っ取ることにした。そうすれば封印はなきものとなり、現実でも暴れられると思った。しかし甘くはなく、彼が作り出した曲のせいで夢の空間を作り出したとしても、それを現実に反映させることが出来なかった。
最果ての地、そこに置かれたピアノで彼は一人曲を奏でていた。かつて彼が作った曲、だがその曲は歪み、この世界に見合うものとなっていた。それを聞きに来た迷い子達は精神を狂わされて死に至り、悪霊となりながらも彼につき従った。しかし悪霊にならず、人の姿を保っている者もいた。それを『夢の住人』と呼び、その者達に彼は曲の一部を星座に込めて渡し、力とした。
悪霊達が彼の体を押しつぶしその維持が叶わないと少女は魂の回収をするため、パンフルートで別の音を奏でようとした時、悪霊達の隙間から光が漏れ出して吹き飛ばされた。剣で切りつけた痕は完全に消え去り、手にはバイオリンが握られているが、それは今まで以上に光を放って、二度と暗闇を寄せつけないものとなっていた。
「本気になった? だからって私には勝てないし、勝たせない」
少女はそう言い、パンフルートを手から離して浮かせると勝手にその音は流れ始めた。そして地面に突き刺していた剣を抜いて、剣には再び黒い靄が現れるが、それと同時にパンフルートの影響なのだろうか、その音色が剣に乗って雷のようになっていた。振り下ろされた剣を合図に複製された剣は一斉に彼のもとへと放たれた。しかしそんなものは彼に通用しない。バイオリンを奏でていないにもかかわらず、パンフルートが奏でる音色とは別に謎の曲が流れていた。複製された剣は軌道を失って真っ逆さまに落ちていった。かろうじて彼の足を貫いてもその傷はすぐに治った。少女は少しの恐怖を感じつつ、謎の違和感が何だったのか理解していた。
「危険人物……あの方は気づいていた。私達では『殺すこと』が出来ないと……だから」
呟きつつ顔を上げる少女は遠くにいるあの方『夢の支配人』を見ていた。
『夢の支配人』は彼がここに来るまでの一部始終を見届けていた。あらゆる刺客の攻撃を避けて何度も立ち上がる姿にこの体が反応していた。バイオリンの音を目障りと思い、それを聞き流すためのピアノが覆い隠しても見えてしまう音色に共鳴が始まっていると気づいた。
「……心は新たな『音の旅人』としてやってきたか。……意味のないことを」
そして彼が半覚醒したことに気づき、その相手をしている少女では分が悪いと思いつつ、放ったのは星座に含まれた曲を回収するための非常なものだった。次々と貫かれていく『夢の住人』の力、少女も例外ではなく、パンフルートは掴まれて彼女の魂は引き抜かれる。魂と繋がってしまうほど深く刻まれた曲、少女は声も出ずにその場に倒れ、魂を握った謎の手は『夢の支配人』の体の中へと吸い込まれていった。
「……すべてが終われば、永遠に繰り返されるのなら」
旅を続けよう、と最後につけ足して、ピアノが置かれている丘へと向かった。そこは最果ての地であり、この世界のはじまりの地でもあった。椅子に座りピアノのふたを上げて、鍵盤に触れて一音鳴らす。それだけでも漂う悪霊達は目を覚まし、演奏会のはじまりだと集まってきた。それに混じる半覚醒した彼は悪霊達を引きつけず、バイオリンの光に包まれて『夢の支配人』が待つ丘へと足を踏み入れていた。悪霊達は騒ぎ、彼を止めようとするが、『夢の支配人』が敷いた結界によって入れなかった。
『夢の支配人』は彼が来てもピアノを弾き続け、その曲の歪みはこの世界の維持と再生を行っていた。止めようとバイオリンを構えて弾こうとした時、『夢の支配人』の指が止まって椅子から立ち上がった。
「……やはり必要か」
「何もかも思い出した……僕は心から生まれた想いの力。そしてその体は」
「この体は元々お前のもの。奪ったのは厄災と呼ばれた我だ。捨てた心は戻らない……そう思っていたのだが、体と心は引き寄せられるか」
「僕はもう一度」
「封印を行うか? 記憶を取り戻し思い出したところで……未完成なお前に何が出来る」
「未完成? どういう意味だ!」
「……今に分かること。我がピアノの前でそのバイオリンは意味をなさないことを」
そして『夢の支配人』は椅子に座り直し、鍵盤はいきなり和音を響かせる。それと同時にどこか聞き覚えのある音が重なっていた。それは氷に煌めく突撃、水没する暗闇のハープ、貫通した矢の願い、毒の好奇心、天秤の語り手、そして少女が奏でるパンフルートで紡がれる『夢の支配人』への想いであった。あらゆる想いが重なり、『夢の支配人』の力となっていた。たった一人の彼が弾くバイオリンでは歯が立たず、その音色に吹き飛ばされた。
魂を抜き取られて光を失った少女は何もない空を見ていた。異様な赤い空はこの世界に存在する幻影。『夢の支配人』が作り出した《永遠に繰り返される旅》。狂った魂は悪霊となって漂うだけの存在となり、魅入られた者は『夢の住人』として愚か者を殺す処刑人となった。その過程で『夢の支配人』から授かった星座の力は曲の一部から作り出したもの。
けれどそれが他者に渡り、長い年月《繰り返される旅》の中にあって回収されたのなら、それはもう『夢の支配人』だけのものじゃない。それぞれがいろんな想いを募らせて出来上がった新たな曲に変化していた。
「……たとえ届かなくても、私は……あなたを『愛している』」
命が尽きるその時まで少女は『夢の支配人』を想い続けていた。あの方においてそれが無意味なことであっても、少女はそれでも想い続けていた。
ふと『夢の支配人』はピアノを止めた。一緒に演奏会をやる時、『夢の住人』達の音色も一緒に止まっていた。しかしパンフルートの音色を筆頭に新たな曲となって響き続けた。
「何故だ? 回収しその力はすでに我へと返った。繰り返されるなら何も変わらない……はず」
「変わるんだよ」
吹き飛ばされて戻ってきた彼が『夢の支配人』に対して言い放った。
「人々の想いは少しずつ変わっていく。変わらない人なんてどこにもいない。例え何度繰り返されようとも……すべてが一緒なんて叶わない話だ」
「変わらないね……ただの間違いをしているだけだ。意味のない心など」
「ならば」
彼はバイオリンを構えてゆっくりと弾き始めた。その音色は少女の想いを汲み取り、それに合わせるようにその他の音も彼を包み込んでいた。そしてそれは一つの曲となり、彼の想いの力となった。それを聞いていた悪霊達は『夢の支配人』から解き放たれたかのように少しずつ消えていた。
「……取り込めば終わること、その曲もバイオリンも」
怒りをあらわにした『夢の支配人』は乱雑なピアノの弾き方でその音色を聞くにはあまりにも酷いものとなっていた。しかし曲としての原型は保っており、彼はそれをあの日、最果ての地で弾いた曲だと理解した。だから彼は今の心で奏でる未来の曲として書き直した。『夢の支配人』が奏でる過去の自分自身を壊すことなく、『音の旅人』としての未来の形を綴る新しい曲を作り出した。
最後の音が鳴り響き、青々とした葉が風に舞う。淡い水色を飛ぶ鳥達がどこか遠くに旅立とうとしていた。自然豊かな風景に一枚の楽譜だけが落ちていた。
深い暗闇からものすごい勢いで白い光が辺りを包んで色鮮やかに染めていく。その出来事は一瞬で、脳が理解するには無理な早さであった。けれど鮮やかな色に混じって時が止まったかのように異様な赤い風景が見えたが、気のせいと言わんばかりにかき消された。
自然豊かな木々達が彼を覗き込み、太陽の光が眩しくて開けかけていた瞼は落ちようとしていた。しかし朦朧とする意識がはっきりしてきて、パッと目を覚ました時、なんでこんなところで倒れているんだろうとすぐ疑問が浮かんだ。体を起こしつつ今までのことを振り返ろうとしたが、ところどころ空白になっていて思い出せなかった。ただ目的だけは思い出し、そしてそれに必要なバイオリンが近くにないことに焦りを感じて探した。幸いなことに少し戻った先に置かれていて、ケースに砂が少し被っていたものの、中身のバイオリンには傷一つついていなかった。
少しだけ弾いてみよう、と近くにあった切株に座ってケースからバイオリンを取り出した。音に変化はないが、今まで作った曲の一部が思い出せないほど欠けていた。それでもバイオリンの破損は見られず、その音色につられていろんな鳥達が足元や肩に乗って、自然が楽しむように風が吹いていた。
鳥達や自然に別れを告げて歩き出した彼は忘れてしまった音を取り戻すために、一度訪れた街に出向いてみたが、記憶が混濁しているのか街の人々はあたかも初めて会ったかのように接してきた。違和感を感じつつ、落としてしまった音は再び彼の曲となって奏でられたが、最初に作った時と違う形で復活していた。無意識の中でこの音は使えないと作る過程で弾かれていた。
異様な経験を繰り返しながらもこの世界の音集めの旅はもう少しで終わる。しかしその最終目的地にたどり着いた時、空は異常なまでに赤く染まっていた。危険を察して引き返そうとした体は振り返る間もなく何かに押されて、道を失った暗き穴の中へと落ちていった。
気がつけばまた気絶していたが、彼の体は何の痛みもなかった。ケースはもう使い物にならないほど破損していたが、中のバイオリンは何故か無事だった。ゆっくりと立ち上がったその視線に映ったのは永遠に広がる謎の空間だった。おそるおそる歩いてみると少しずつ建物が見えてきた。しかしどれも破損した建物ばかりで、その隙間から彼を見る異様な視線が良からぬ言葉を投げかけられているのではないかと圧を感じていた。
「最果ての地 入り込んだ旅人 今宵も 楽しい演奏会」
「そして 永遠の旅へご招待 ずっと みんな一緒だよ」
変わらない風景の目の前に現れた同じ顔をした二人の子供、これは双子というべきかわからないが、一人ずつ彼に対してそう投げかけた。するとさっきまでなかった重たそうな扉が現れて。双子は両開きの片方ずつを持って軽々しく開けていた。その先は何も見えない暗闇だったが、足が動かずとも体は吸い込まれていった。
「たくさん たくさん おいしいもの 食べたいな」
「旅人さんは どんな味がするんだろう 甘いのがいいな」
その声は彼の耳には届かず、吹き荒れる風の音でかき消されていた。バイオリンを守りながらしりもちをついたその出口には多くの液晶が乱雑に配置されていた。一部には十二星座とそれ以外の星座が別々の場所で順番通りに流れては繰り返していた。
その映像を見ていると中央の液晶に謎の影が映し出された。その映像の背景は赤く、謎の影が強く表に出ていた。そこから流れ出した曲は無意識の中で捨てられた音で構成されていた。その瞬間、頭が痛くなりその場にしゃがみ込んだ。脳に浸透していく曲が周りの音を封殺し、誰かが近くに来ていると気づけなかった。そして蹴り上げられて頭を打ちつけた時に、その視線は誰かの方に向いていた。
「どうせ悪霊に変わるならあの方に出向いてもらう必要はない」
そういう者の足は凍りついており、雪のように白い円盤をとどめと言わんばかりに投げようとしていた。しかし彼が立ち上がるのを見て投げようとした手をおろした。
「いきなり……」
「あの双子と違って、こっちは仕事なんでね。演奏会に行くための正装を作ってあげようと思っただけで……」
「正装? 僕はここから出て行かなきゃいけないんだ」
「そうか……あの方に歯向かうのか。なら生かしておけないな」
彼の否定的な考えにいきなり牛のように突撃し、前に持っていたバイオリンは破壊されたかに見えたが、何一つ傷はなく彼も体の痛みを訴えることはなかったが、口から血を少し吐いていた。
「……何か、いや違う。あの方と同じはずがない」
呟く声は彼には届かないが、ふらつく体を支えるために近くにあった柱に手を当てていた。ゆっくりと近づく姿に恐れを感じたが、がむしゃらに円盤を投げた。しかしそれは謎の壁に阻まれて弾かれ、彼の手から離れていたはずのバイオリンが握られていた。どんな気力が残っているのかわからないが、バイオリンを弾き始めた。
その音色にあてられた者の動きは止まり、弾かれた円盤を取りに行くことも出来なくなった。かわりに彼の口元についた血は消えて、表情も苦しいものから解放されていた。しかし心地よく弾いている彼は辺りが水没し始めていることにすぐ気づけなかったが、それに共鳴するよう流れ始めたハープが彼を邪魔していた。
「……あなたではこの旅人を倒すことが」
「うるせぇ! まだやれる」
「いいえ、新米のあなたでは荷が重すぎる」
「攻撃も出来ないお前に何が出来る? 治療しか与えられていないのに」
「ならあなたも水没させてもいいんですよ。あなたの牛より私の水瓶(みずがめ)は」
「……わ、わかったよ」
顔の付近まで迫っていた水に彼を残して二人は姿を消した。その直後、空間が歪むように深海へ引きずり込まれた。息をする間もなく重く沈んでいく体に瞼は閉じた。
水を吐き出すように咳き込む彼が目覚めた時、ふわふわなものがたくさんある場所にいた。あらゆる色の雲がぷかぷかと浮かび、彼と同じような旅人達はすやすやと眠っていた。
「あれ? 起きちゃったんだ」
その声の主はその眠りを妨げないように小声で彼に話しかけてきた。白い雲の上に乗った子供はゆらゆらと体を揺らしていた。
「君も」
「も? あー、牛のお兄さんに会ったんだよね。大変だったね。でも安心して……」
そこで言葉を切り、彼の耳元に近づいて囁いた。「眠って」と。しかし瞬時にそれが危険なことであると彼は理解して首を振った。少しむすっとして彼から離れると言葉を続けた。
「そっかダメなんだね。じゃあ……さよなら」
「さよなら?」
その瞬間、体が重くなって動くと今まで感じなかった痛みを発していた。体には大量の剣が刺さって、ところどころから血が噴出していた。雲の上に乗っていた子供はいなくなり、そこで眠っていた旅人達は白骨化した死体へと変わっていた。さっきまで見えていたのは幻影だった。
「来てみれば弱すぎる」
死にかけの彼の頭を持ち上げて覗き込む少女は今刺さっている剣と同じものを持っていた。
「こんなのに負けたの? あの子が弱いとは思わないけど私が出る幕でもないわね」
そう言って心臓を貫き、完全に彼の息を止めた。血塗れの池が出来上がるのを少女は見ることなく、周りに漂う悪霊達に始末を任せていた。
悪霊達は少女に対して文句を垂れ流しながら彼を運んでいた。その揺れに沈んでいたはずの意識は目覚め、頭の付近にいた悪霊は驚いて手を離していた。それによってバランスを崩し、彼は地面にたたきつけられた。頭の衝撃は痛みより複雑な音が鳴り響いていた。すると悪霊達の騒ぎを聞きつけた者がそれを制していた。
「運ばれるのが遅いと思えば……ふーん」
フラスコを持っていた男がそう言っていた。爆発したような頭と汚れ腐った白衣、それから右腕は包帯が巻かれて血ではない何かが浮き出ていた。
「しかしあの毒でさえ殺せませんでしたか」
「毒?」
「あの子に差し上げた毒ですよ……私の自信作だったんですがね。一滴でも体に取り込めば死ぬ、そのように作った」
「……」
「おや? あの方と同じ匂いがしますね。これはいい実験材料になりそうだ」
そういい持っていたフラスコを彼に向かって投げるが、その前で落ちて反応が起きて大量の煙を放出させた。吸い込まないように鼻を抑えて目を閉じようとした時、背後から何かの気配がして動くと、さっき落としたフラスコのガラスの破片を踏み、かすかな音が彼を撃っていた。
「こら! まだ何も言ってない」
研究者の男は遠くの方を見て叫んでいた。その視線の先には矢筒を背に弓を持つ少年が立っていた。うるさいほどに聞こえる研究者の男の声にうんざりしつつ、未だ煙に包まれ様子が見えない彼の姿を確認しようと注視していた。
「たぶん足に当たった……次はちゃんと狙える」
そう言って弓を構えて矢尻には研究者の男が作った毒が塗られていた。薄くなった煙に彼の姿が映し出され、少年は矢を射るが軌道に乗らず、手前で折られた。彼の体のそばにはバイオリンがあり、その光が防壁となって守っていた。
「あれが……あの方の言っていた危険人物……援護しか出来ない僕には殺せない」
でも、と弓を構えて矢を射る。その矢には毒は塗られておらず、代わりにあの方の力を模したものが込められていた。その矢は防壁を貫通したが、バイオリンの絃の前で蒸発して消えた。
彼に撃たれた矢は突然現れたバイオリンによって弾かれた。手から離れて失われたはずのバイオリンが彼の目の前に浮いていた。それを手に取り奏でる音色は防壁となり、撃たれる矢も研究者の男も近づけない状態になっていた。しかし一つの矢は防壁の一部を破壊して貫通してきた。その光は彼が奏でる音によって作られた防壁と似ていたが、歪んで不協和音が響いていた。
煙が晴れて矢が放たれた方を見上げた彼は少年を視認したが、少年は弓を持ったまま柵を乗り越えて、下が見えないほどの暗さに落ちていった。驚きで音色が止まり、防壁が消えたタイミングで研究者の男は毒の瓶を彼に対して投げていた。ニヤリとしたがそれは手前で落ちて不発に終わった。なぜなら研究者の男と彼の間に天秤を持つ者が立っていた。
「は? 実験の邪魔をするな」
「遅すぎると思ったら……また」
「秤(はか)るしか出来ないお前に」
「私はあの子に言われてここに来た。それに善悪なんてすぐにわかること」
そう言って彼の方を向き、天秤は彼から見て左に傾いていた。それに驚く顔をした者は首を振って左に傾いたものを戻そうとするが、まったく動くことはなかった。
「……なんで?」
「ほら、お前じゃ無理だって……だからさっさと」
「……だから危険人物とあの方はおっしゃったのね」
「なんだよ! さっきから」
「これは異常事態ね。悪に傾けばそのまま裁けたというのに……善に傾いては私じゃどうすることも出来ない」
「話を聞け」
「うるさい……それに遅すぎるからきっとあの子が来る」
天秤を持つ者は言いながら少し上を向いていた。研究者の男もそれにつられて見ていると少しうれしそうな顔をしていた。彼が振り返ると赤い瞳を輝かせた少女が柵に足をかけて立っていた。どこからか飛んできた一つの剣が彼の足元に刺さり、後ずさりするのを一瞬で背後に回って彼を蹴り飛ばした。
「……ここは私に」
「なんて麗しい」
「あれは幻覚を見せるだけで殺せなかったのだけど……どういうこと?」
「あ……ごめんなさい。完璧なものを作って持ってきますので」
「今はいらない。私はそんなちっぽけな力に頼らない。あの方だけで十分……連れて行きなさい、秤る者」
「ええ……くれぐれも気をつけて。あなたのことだから大丈夫だと思うけど」
そう言って離れるのを嫌がる研究者の男を引き摺りながら秤る者は歩いて、道のない先の暗闇に飛び込んでいった。
蹴り飛ばされた彼を受け止めた壁は破壊されて、舞った煙に視界を奪われた。なんとか体を起こし、近くにあった置物に手をかけて立ち上がると、煙を払うように剣が振り下ろされて、揺らめいていた電球が切られて地面に落ちた。
「迷い込んだ愚か者……あの方の邪魔をするなら」
そう言うと剣が謎の黒い靄に覆われて上に掲げると、その剣の複製体が次々と作られていた。少女はその間、目を閉じていたが、剣の複製体の矛先が彼の方に向くにつれて、そ彼女が持つ剣は体の前におろして保っていた。黒い靄が剣の複数体の方に渡り、彼の足音が聞こえた瞬間に目を覚まして剣は放たれた。すでに逃げ出してその場所にいなかったにもかかわらず、その剣は追尾して彼を追い続けていた。遮蔽物に隠れながらも剣はそれを破壊して彼を追い込んでいた。飛び交う剣によって体のいろんな箇所に切り傷がつき、かなりの血が垂れるせいで逃げても逃げても少女に見つかっていた。
「倒せない理由がわからない……こんなにも弱いのに」
少女は逃げ惑い疲弊する彼を放置し立ち止まる。そして剣を地面に刺して空中に星座を書き始めた。山羊座を描き、その光はパンフルートへと姿を変えた。それを吹くと飛び交っていた剣は一つ、また一つと消えて彼は逃げるのをやめて顔の血を腕で拭っていた。チャンスだと思って近づこうとする足は悪霊達に囚われていた。少女が奏でるパンフルートに惹かれて集まってきた悪霊達は少しずつ彼の動きを止めて暗闇へと引きずり込んだ。
「さよなら……旅人」
パンフルートから口を離しそう告げる少女に彼は何もできず押し込まれるだけだった。
この世界に散らばった音を求めて、バイオリンを背に抱えて旅をしていた。あらゆる街の風景に触れつつ、そこで拾い上げた音を繋いで曲を作っていた。その曲を奏でると人々が集まって聞いていた。噂はすぐに広がり、彼は『音の旅人』と呼ばれるようになった。彼の目的は音楽を無くした世界を元に戻すこと、最果ての地に眠る厄災に対抗するための曲を作り上げることの二つが主となり、それ以外に人々の笑顔を守るために旅を続けていた。多くの曲は彼が旅する中で大きな糧となり、やっとの思いで最果ての地に辿り着いた。
しかしそこは聞いていた話とは違った。今まで明るく淡い水色に見えていた空が一瞬にして異様な赤色となり、辺り一面枯れ果てた地面となっていた。破かれそうになっている封印の石の前で多くの曲を奏でることで、その封印を強固のものへとすることが出来る、そう教えられていたが、その封印の石は見当たらなかった。
「迷い込んだ人間よ」
本来存在するであろう封印の石、その近くから声がした。辺りを見渡すが彼以外誰もいない。もしかして封印が解けてしまったのかもしれない、とバイオリンを取り出して曲を奏でようとした。
「それが無意味だとどうしてわからない」
耳元で囁かれる謎の声は彼の頭に響く。首を振って曲に集中しようとするが、力を込め過ぎたのか弦が切れて、音は少しずつ少なくなっていた。音の数が減るたびにその声は大きく聞こえるようになり、最後の弦をもってバイオリンは音を無くした。
「多くの曲は我にとって目障りだ。だがこの世界の材料としては上質なものとなった。感謝する、『音の旅人』……もう話を聞いておらぬか」
大切なバイオリンは壊されて、彼の心は捨てられた。空っぽとなった彼の体に入り込んだその厄災は消え失せた青い瞳を赤く染めた。まだかすかに抵抗する意思を見せる彼だったが、少しずつ押し潰されて最後の想いさえも心の中に閉じ込められて、この世界から消滅した。
夢のはじまりは裏世界の最果ての地。封印された石の中で作り出された厄災が生きる世界。現実から隔離された世界は厄災の思うがままに機能し、長い年月封印されていた故に現実と同じくらいの夢の空間を作り出すことが出来るようになっていた。しかし動くための体が封印の石のせいで固定されていたため、今まで干渉することすら叶わなかったが、封印を施す『音の旅人』と呼ばれる元凶を見つけて体を乗っ取ることにした。そうすれば封印はなきものとなり、現実でも暴れられると思った。しかし甘くはなく、彼が作り出した曲のせいで夢の空間を作り出したとしても、それを現実に反映させることが出来なかった。
最果ての地、そこに置かれたピアノで彼は一人曲を奏でていた。かつて彼が作った曲、だがその曲は歪み、この世界に見合うものとなっていた。それを聞きに来た迷い子達は精神を狂わされて死に至り、悪霊となりながらも彼につき従った。しかし悪霊にならず、人の姿を保っている者もいた。それを『夢の住人』と呼び、その者達に彼は曲の一部を星座に込めて渡し、力とした。
悪霊達が彼の体を押しつぶしその維持が叶わないと少女は魂の回収をするため、パンフルートで別の音を奏でようとした時、悪霊達の隙間から光が漏れ出して吹き飛ばされた。剣で切りつけた痕は完全に消え去り、手にはバイオリンが握られているが、それは今まで以上に光を放って、二度と暗闇を寄せつけないものとなっていた。
「本気になった? だからって私には勝てないし、勝たせない」
少女はそう言い、パンフルートを手から離して浮かせると勝手にその音は流れ始めた。そして地面に突き刺していた剣を抜いて、剣には再び黒い靄が現れるが、それと同時にパンフルートの影響なのだろうか、その音色が剣に乗って雷のようになっていた。振り下ろされた剣を合図に複製された剣は一斉に彼のもとへと放たれた。しかしそんなものは彼に通用しない。バイオリンを奏でていないにもかかわらず、パンフルートが奏でる音色とは別に謎の曲が流れていた。複製された剣は軌道を失って真っ逆さまに落ちていった。かろうじて彼の足を貫いてもその傷はすぐに治った。少女は少しの恐怖を感じつつ、謎の違和感が何だったのか理解していた。
「危険人物……あの方は気づいていた。私達では『殺すこと』が出来ないと……だから」
呟きつつ顔を上げる少女は遠くにいるあの方『夢の支配人』を見ていた。
『夢の支配人』は彼がここに来るまでの一部始終を見届けていた。あらゆる刺客の攻撃を避けて何度も立ち上がる姿にこの体が反応していた。バイオリンの音を目障りと思い、それを聞き流すためのピアノが覆い隠しても見えてしまう音色に共鳴が始まっていると気づいた。
「……心は新たな『音の旅人』としてやってきたか。……意味のないことを」
そして彼が半覚醒したことに気づき、その相手をしている少女では分が悪いと思いつつ、放ったのは星座に含まれた曲を回収するための非常なものだった。次々と貫かれていく『夢の住人』の力、少女も例外ではなく、パンフルートは掴まれて彼女の魂は引き抜かれる。魂と繋がってしまうほど深く刻まれた曲、少女は声も出ずにその場に倒れ、魂を握った謎の手は『夢の支配人』の体の中へと吸い込まれていった。
「……すべてが終われば、永遠に繰り返されるのなら」
旅を続けよう、と最後につけ足して、ピアノが置かれている丘へと向かった。そこは最果ての地であり、この世界のはじまりの地でもあった。椅子に座りピアノのふたを上げて、鍵盤に触れて一音鳴らす。それだけでも漂う悪霊達は目を覚まし、演奏会のはじまりだと集まってきた。それに混じる半覚醒した彼は悪霊達を引きつけず、バイオリンの光に包まれて『夢の支配人』が待つ丘へと足を踏み入れていた。悪霊達は騒ぎ、彼を止めようとするが、『夢の支配人』が敷いた結界によって入れなかった。
『夢の支配人』は彼が来てもピアノを弾き続け、その曲の歪みはこの世界の維持と再生を行っていた。止めようとバイオリンを構えて弾こうとした時、『夢の支配人』の指が止まって椅子から立ち上がった。
「……やはり必要か」
「何もかも思い出した……僕は心から生まれた想いの力。そしてその体は」
「この体は元々お前のもの。奪ったのは厄災と呼ばれた我だ。捨てた心は戻らない……そう思っていたのだが、体と心は引き寄せられるか」
「僕はもう一度」
「封印を行うか? 記憶を取り戻し思い出したところで……未完成なお前に何が出来る」
「未完成? どういう意味だ!」
「……今に分かること。我がピアノの前でそのバイオリンは意味をなさないことを」
そして『夢の支配人』は椅子に座り直し、鍵盤はいきなり和音を響かせる。それと同時にどこか聞き覚えのある音が重なっていた。それは氷に煌めく突撃、水没する暗闇のハープ、貫通した矢の願い、毒の好奇心、天秤の語り手、そして少女が奏でるパンフルートで紡がれる『夢の支配人』への想いであった。あらゆる想いが重なり、『夢の支配人』の力となっていた。たった一人の彼が弾くバイオリンでは歯が立たず、その音色に吹き飛ばされた。
魂を抜き取られて光を失った少女は何もない空を見ていた。異様な赤い空はこの世界に存在する幻影。『夢の支配人』が作り出した《永遠に繰り返される旅》。狂った魂は悪霊となって漂うだけの存在となり、魅入られた者は『夢の住人』として愚か者を殺す処刑人となった。その過程で『夢の支配人』から授かった星座の力は曲の一部から作り出したもの。
けれどそれが他者に渡り、長い年月《繰り返される旅》の中にあって回収されたのなら、それはもう『夢の支配人』だけのものじゃない。それぞれがいろんな想いを募らせて出来上がった新たな曲に変化していた。
「……たとえ届かなくても、私は……あなたを『愛している』」
命が尽きるその時まで少女は『夢の支配人』を想い続けていた。あの方においてそれが無意味なことであっても、少女はそれでも想い続けていた。
ふと『夢の支配人』はピアノを止めた。一緒に演奏会をやる時、『夢の住人』達の音色も一緒に止まっていた。しかしパンフルートの音色を筆頭に新たな曲となって響き続けた。
「何故だ? 回収しその力はすでに我へと返った。繰り返されるなら何も変わらない……はず」
「変わるんだよ」
吹き飛ばされて戻ってきた彼が『夢の支配人』に対して言い放った。
「人々の想いは少しずつ変わっていく。変わらない人なんてどこにもいない。例え何度繰り返されようとも……すべてが一緒なんて叶わない話だ」
「変わらないね……ただの間違いをしているだけだ。意味のない心など」
「ならば」
彼はバイオリンを構えてゆっくりと弾き始めた。その音色は少女の想いを汲み取り、それに合わせるようにその他の音も彼を包み込んでいた。そしてそれは一つの曲となり、彼の想いの力となった。それを聞いていた悪霊達は『夢の支配人』から解き放たれたかのように少しずつ消えていた。
「……取り込めば終わること、その曲もバイオリンも」
怒りをあらわにした『夢の支配人』は乱雑なピアノの弾き方でその音色を聞くにはあまりにも酷いものとなっていた。しかし曲としての原型は保っており、彼はそれをあの日、最果ての地で弾いた曲だと理解した。だから彼は今の心で奏でる未来の曲として書き直した。『夢の支配人』が奏でる過去の自分自身を壊すことなく、『音の旅人』としての未来の形を綴る新しい曲を作り出した。
最後の音が鳴り響き、青々とした葉が風に舞う。淡い水色を飛ぶ鳥達がどこか遠くに旅立とうとしていた。自然豊かな風景に一枚の楽譜だけが落ちていた。
桜詩凛の読みは「さくらしりん」で、由来は二つ。一つは元から使っていた桜子凛花が長いと思ったため、短くするために「桜」と「凛」を取り、その間に当時から書いていた「詩」をいれたもの。もう一つは『複雑な生き方をする少女』に登場する「さくら、黒蛇、シラ、理夏(りか)、ラナン」の頭文字を取ったものとなってい…
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