二つの世界を行き来する幽霊達 第一部第一章
公開 2023/09/03 11:07
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第一節 氷の扉と忘れられた世界
かつて世界は一つだった。何事もなく進んでいたと思われていた世界は誰も真実を知らなかった。空高く存在する天界において、神は罪なき人間を捕らえていた。最後の欠片が逃げ出した現代、とある夢を繰り返し見続けていた少年はその中で、生者ながら霊となり、捕らえられた人間達を救うため、鍵を探すことになった。
見慣れない星座のチャーム、燃え散る赤い花の髪飾り、読めない葉の手紙の三つの鍵は夢の終わりを示すように一つの扉が現れ、天界に繋がっていた。天界の奥に神殿があり、そこに彼らは囚われていた。夢の中で欠片として落ちていたある世の記憶、妖精が語る勇者の姿。彼は信じていなかったが、神殿にあった鏡に映る姿は勇者そのものだった。
前世なのか、それよりも前なのかわからないが、囚われた三人と彼は出会っていた。剣士、魔法使い、僧侶、そして勇者は魔王を倒すために城へ向かい達成したが、剣士は魔族の血を浴びた呪いで魔王側に寝返り、そのせいで勇者は魔王と相打ちになり死亡した。勇者の死亡によって剣士の弱った心、魔法使いの死者蘇生、僧侶の悪夢の場面において、神が干渉した。神よりも信仰されていた彼らは神に恐れられていた。そして勇者の魂を捕らえようとしたが、魔法使いの起点により逃がされた。
それを思い出した彼は神に記憶を奪われて暴れる三人の前に勇者として現れた。三つの鍵と黄色の宝石がついた白い羽根の鍵、四つの鍵は彼らを本来の姿に戻していった。神は怒りを表し、本来の姿の彼らを再び、永遠の暗闇の中で苦しみ続けさせようとしたが、妖精の最後の力によって目覚めた。四つの鍵と彼らの力、妖精の祈り、そして全ての想いを乗せて、神が放った絶望の闇を払い、終わりを告げた。
四人は現世で目覚めたが、この世界の記憶は彼と空の霊だけを残し修正されて失われた。
最初からそこに存在していた。それは書き換えられたとも上書きされたとも認識することのできない、最初から“この世界”と記憶していた。しかし本来存在するはずの人々は全て死亡し、新しく生み出された世界にいたのは“人”の姿をした模造品であった。だがそれを完璧に理解することは出来ず、ましてや考えようともしなかった。それが正常であり、残酷な世界の始まりだった。
現れた氷の扉によってもたらされた世界は修正されて、新たな霊が生まれた。
彼らは色つき霊と呼ばれ、それぞれの場所で偽りと使命を持って動いていた。
しかしその間に生まれた“彼ら”は氷の扉の影響をもろに受けた者、または取り込まれた者。ただの人間と変わらなかった彼らは死して、感情の生贄となる。自分の感情のみならず、他者の感情さえも取り込んだ彼らは生前の記憶とそれぞれ異なる感覚を失った。
ここは忘れられた世界。感情の生贄となった彼らが住む、誰も認識することのできない場所。
第二節 静かな悲しみに生まれた雨の霊
ここには誰もいない。二つの世界の境界線に落ちた魂は行き場を失って漂っていた。どこか懐かしい場所、けれどそれを判断する記憶を彼は持ち合わせていない。
彼の死は知らぬ間に行われて、一時は地縛霊として存在していたが、悪霊に染まることもなく、色が失われるその時まで歩き続けていた。
空は晴れることなく、曇ることなく、白に染まった空が広がっていた。そして夜が来ることはなく、ずっとそれを維持していた。それを覆い隠すように灰色の建物が傾いて、風に煽られてもその形を保ち、建物群が倒れることはなかった。大きな影は涼しさを越えて、冷たくて痛くて、空に置いてきた光が温かさを届けてくれることもなく、凍り付いていた。
しかしある日、白に染まった空は一瞬にして真っ暗になり、何も見えなくなった空から雨が降った。透明な霊の体はその雨の雫を透過することなく濡れていた。そして濡れた個所から失われていた色を生み出していた。けれどそれと同時に見知らぬ悲しみが、雫という名の雨とともに流れ込んできて、彼の心にしみ込んだ。
生前に過ごしてきた最後の記憶も少しずつ失われて書き換わるように全てなくなっていく。雨の音はせず、風も吹かなければ雷もなかった。静かな雨が彼の涙と溶け合って、新たな色を生み出していく。
そして彼は悲しみを持つ“雨の霊”となった
雨の霊となり地縛霊から解放された彼は二つの世界の境界線で一つの光を見つけた。その光は未だ確立していない世界の入口と出口を示す場所だとなんとなく彼は思っていた。その光に触れてしまえば、もう二度とこの何もない世界に戻ることは出来ないだろうが、それでも彼は何かをしなければならないと考えていた。けれどその考えも自分のものではないことを理解していた。雨の霊となって別の誰かの想いを引き継いでいるだけなのか、それとも本当に自分の想いなのか、今の段階ではわからなかった。
その手は光に触れていた。体は光の中に溶けていく。目は眩み何も見えない。しかしすぐにそれはなくなり、かつて見たであろう空がその世界には存在していた。
そして彼は“雨の霊”としての意味を知ることとなった
第三節 寂しく孤独な雪の霊
降り積もる雪の影、その手に救われた白い結晶は温かさに溶けて消える。けれど彼の手は氷のように冷たく、その感覚を忘れていた。何も聞こえないこの世界を一人ぼんやりと見ていた。重さに耐え切れずに落ちた音も踏み荒らした音も全ての音が彼には届かなかった。
誰にも触れられず、誰とも重ならず、一人ぼっちの彼は知らない間に幽霊になっていた。いつ死んだのか分からないけれど、あの日、氷の扉が現れたことだけは覚えている。
幽霊となって輝きを失った体は色をなくした。薄くなってしまった体に新たな色をつけたのは空から降り注いだ雪だった。真っ白な雪だけでなく、彼の目には暗く淀んだ何かが見えていた。それをはっきりと色として認識するまで時間はかかったが、表現するには難しいと判断して半ば諦めた。
白に混じったその色が彼を新たな霊へと変えていく。でもその間に冷たくなった心は氷を溶かして水になったような気がした。しかしそれを見越していたのか、彼に別の何かが干渉した、とわかってそれを拒もうとしたが、すでに遅かった。心に植え付けられた種はその水を吸って育っていく。彼の心は少しずつ寂しさも吸い込んで、知らない誰かの孤独を受け取り始めていた。
雪が積もって寂しさが集まって彼の耳には何も届かない。少しずつ世界から遠のいて白く染まった地面を歩いていた。晴れた空も曇った空も繰り返して、彼の歩く雪は溶けることなく、けれど凍ることもなく、ただ歩き続けていた。
心に植え付けられた種は綺麗に花を咲かせることなくしおれているような気がした。寂しさを吸い続けたそれは何かを忘れている。しかしそれを思い出すことが出来なかった。霊となったあの日、生前に何が起きたのか覚えていない。
ただ“雪の霊”と呼ばれるようになったのは、この時が原因だった、と彼は思った
第四節 悲しみに沈んだ空と佇む雨の霊
明るかった空は風が吹き、雲に覆われて暗くなった。何も見えなくなった空から降り出した雨は一瞬にして地面に落ちて消えていた。寒さに変わった空気が天に上がって、雲と干渉した時、雨は少しばかりの雪となった。雪の結晶が降り始めた空は変わらなくとも、雨はその場を後にした。
死に惹かれた雨の霊はその光景を初めてみた。生前に見たかもしれないが、彼にはその記憶がない。悲しみに沈んだ心にはそれを思い出すことが出来ない。
この世界は壊れている。進むことも止まることも忘れた不完全な世界。修正される前の未来も修正された後の過去もこの世界には存在しない。氷の扉によって引き離された何も思い出せない世界。
彼を認識する者はいない。どちらの世界にも存在しない彼はすでにいないものと同じだった。それが真実で嘘偽りのない現実。それに対しての悲しみはどこにもなく、彼は一人、歩き続けていた。向かう先もない道をひたすら、死を残して歩いていた。
暗闇の空は晴れても遠くを見渡すほどの明るさはどこにもなかった。彼の歩く道に合わせて空は光を見せなかった。小雨も大雨も彼を追いかけて悲しさはついてきた。薄っすら見えていたと思っていた影は認識した途端に消え去って、残された鏡が彼の姿を映すことはない。続く道はどんどん暗くなって夜のようになって、ますます彼の姿はわからなくなった。
そして誰も思わないまま、誰も認識しないまま、終わらない世界ははじまりを嫌った。
第五節 繋がれた糸に失われたもの
助けたいと思う夢の過ちは世界を修正させるまでに陥った。それに巻き込まれたという記憶は二人を除いて失われた。一人はそれを引き起こした救済の罪人。もう一人は空に導かれた守護の生贄。彼らは世界が修正されようともその記憶を引き継いでいた。
氷の扉によって書き換えられた世界は分岐点となり、始まりの世界と終わりの世界、救済の世界と崩壊の世界、肯定の世界と否定の世界。対となる世界は存在し、また壊れていった。しかしそれに属さない世界がなかったわけもなく、切り離されて繋がることが出来なかったものもあった。
それは無の世界とは違い、完全に切り離された世界。何もなく何もある世界。
切り離されたことも知らないその世界は同じように時間が流れていた。季節も天候もいつも通り変わっていって、年も日も存在して過ぎていく。けれどそれは現実ではないが、夢とも言い難い。境界線を失ったその世界は忘れられた者が行き着く場所だった。
そこが夜なのか、昼なのか分からない。彼の目は虚ろになって光がない。見ることが出来ていたはずの生前に何があったのか分からないが、霊となった彼の目は何も見えない。不安に押しつぶされそうな雲の霊はそれでも見つけてくれる誰かを探していた。
雲に覆われた空から降り出したその雫は彼を映す鏡となっていた。失われた生前の思い出を探して彷徨う足元は、草木を枯れさせて死の道を作り出した。見知らぬ悲しみがこびりついた死と絡み合って雨の霊は取り除いてくれる誰かを探していた。
大荒れの雨に隠れて一瞬の光と直後の音。彼の無知を蝕んだ怒りは生前の記憶を切り刻んで散っていた。何のために行動しているのか知らないまま、彼はその光と音を見ていた。それでも雷の霊はあの日の勘違いに興味を持ち、誰かを探していた。
何もかも終わって静かになった空。あの氷の扉が開いた時に降ったものと同じ光景。季節外れの結晶が地面に落ちて溶ける時、彼は薄っすらと姿を現した。何も聞こえない耳が孤独だけを拾って雪の霊は消えた生前と寂しさを紛らわせる誰かを探していた。
第六節 不安に包まれた雲の霊
あの日、彼の目は見えなくなった。最後にとらえた光は氷に閉ざされて、再び開いた時には暗闇だけが広がっていた。けれどその空が変わらないのは知っている。
氷の扉によって彼の命は進む道を忘れ、透明な霊達となったその姿を覆い尽くしたのは小さな雲と大きな不安だった。
彼はただ一人、見えないままに歩き続けていた。当たるはずの痛みは物体の透過によって、その歩みを止めることはない。進み続けていることだけが彼の救いであり、それと同時に不安は募っていく。
その不安が自分のものでないことは最初から理解していた。しかしそれを発散する場所はどこにもない。静かな空は、流れていく雲は、何も教えてはくれない。
死ぬ間際に感じていたはずの記憶も不安に取り込まれて思い出すことが出来ない。他者に邪魔されてその想いも遠くに行って忘れていた。しかし完全に忘れてしまったのではないと何故か分かっていた。けれど何故分かっているのかは分からなかった。
生前に思い残したことがあるのかさえ、今の彼には
あの日、包まれた小さな雲は不安とともに大きくなり、その形を失っていく。溢れてしまった雲は取り戻したかった記憶さえ押し込んで、彼をずっとこの世界に留めようとしていた。彼もその形を変えるように、しかし目は何も見えないままに、見知らぬ不安を取り込んでいく。いつしかそれが役目だと気付いた時にはもう、彼は自分自身を失っていた。
ただ一人 歩き続けた彼は変わらない空のもと 誰かが言った “雲の霊”と
第七節 怒りに触れた雷の霊
その風景を覗いた時には眩しい光に包まれて、眩んだ目が落ち着いてきた時、体は焦げ臭くなっていた。直撃した雷が体を燃やし尽くして、透明な姿はその側にあった。
開いた扉から鳴り響いていたそれは世界を作り直して修正された。氷の扉は跡形もなく消えて、彼はそのことだけを記憶した。それ以外のことは忘れた。
誰も存在せず、取り残された世界。彼は痺れた体が動くのを待っていたが、雷は彼を追いかけるかのようについてきては、その近くに落とそうとしていた。恐怖で走り出そうとしても痺れた体のせいでうまく行動できない。そうしているうちに雷はもう一度、彼に降り注いだ。透明な姿だった彼は何も知らないまま、雷に触れてその怒りを知った。
他者の怒りが彼に流れ込んだ時、空っぽだった頭に混乱をもたらして、抑え込もうとしても乗っ取られてしまうほどに強かった。しかし何かを取り戻さなければならないことが、最後の希望となって完全な乗っ取りにはならなかった。
その世界は終わっている
誰もいないその場所こそ、知らない世界
巡り合わせの時間と違える空間
彼に手は差し伸べられた
しかしその手を彼は認識しない
雷は彼の側で鳴り続ける。その姿は他者の怒りを振りまいて、不穏な音を響かせていた。目に光があってもその心はすでに侵食されていた。免れていた時間は長かったわけでもなく、短いわけでもなかったが、何も知らない世界に残された怒りは増えていくばかりだった。それを彼だけに押し付けて、正気でいられるわけがなかった。
とっくに彼は壊れている。その“雷の霊”は世界の一部になり果てていた。
第八節 おわりとはじまりと交わる世界
忘れられた世界に取り込まれた四つの魂はそれぞれの感情に飲み込まれて霊となった。氷の扉によって引き起こされた事象を誰も認識せず、誰も知ることはなかった。
しかし彼らとは別の理由で取り込まれた少女がいた。本来彼女はその忘れられた世界に存在しない。修正される前の世界から修正された後の世界へと渡り、何も起こらないはずだった。だが一つの選択肢は全てを崩して、壊して、離れていった。
少女から生まれた守護霊達はその異変に気付いていた。何も感じなくなった少女の手は冷たくなり、目は虚ろになり、それから時間が止まっていた。
遠くの空をじっと見つめて、守護霊達の声は届かない。何度呼び掛けても変わらない。複雑な感情は砂嵐にかき消されて何もわからない。
そして少女は守護霊達の前から消えた。何も変わらない道、歩き出した足はゆっくりと、虚ろな目はゆらゆらと視界を歪めて、ただ遠くへ行きたかった。誰もいない場所へ、誰も知らない場所へ、どこでもよかった。ふと歩みを進めて空を見上げた。雲の隙間から照らされた空が凍り付いている。不思議と手を伸ばしていた。光が強くて遮るわけでもなく、この何もない世界から救ってほしくて、少女はゆっくりと震える手を伸ばしていた。
すると氷の扉は開かれて、土砂や雪崩のように大量の水が押し寄せて世界を破壊していく。少女の体はその中に飲み込まれていき、目は意識とともに閉じられた。しかし気づけば暗闇の中、少女の姿は薄くなっていたが、かすかに光を帯びていた。
修正される前の世界、守護霊達は動かなくなった少女の体を発見して抱き寄せていた
そして姿を維持できなくなった彼らは少女の体とともに消滅した
少女の記憶は永遠に失われ、思い出すことも叶わない
しかし“あの世界”に渡ることさえ出来れば、“忘れられた世界”を越えられる
そうすればまた巡り合うだろう、そして世界は
かつて世界は一つだった。何事もなく進んでいたと思われていた世界は誰も真実を知らなかった。空高く存在する天界において、神は罪なき人間を捕らえていた。最後の欠片が逃げ出した現代、とある夢を繰り返し見続けていた少年はその中で、生者ながら霊となり、捕らえられた人間達を救うため、鍵を探すことになった。
見慣れない星座のチャーム、燃え散る赤い花の髪飾り、読めない葉の手紙の三つの鍵は夢の終わりを示すように一つの扉が現れ、天界に繋がっていた。天界の奥に神殿があり、そこに彼らは囚われていた。夢の中で欠片として落ちていたある世の記憶、妖精が語る勇者の姿。彼は信じていなかったが、神殿にあった鏡に映る姿は勇者そのものだった。
前世なのか、それよりも前なのかわからないが、囚われた三人と彼は出会っていた。剣士、魔法使い、僧侶、そして勇者は魔王を倒すために城へ向かい達成したが、剣士は魔族の血を浴びた呪いで魔王側に寝返り、そのせいで勇者は魔王と相打ちになり死亡した。勇者の死亡によって剣士の弱った心、魔法使いの死者蘇生、僧侶の悪夢の場面において、神が干渉した。神よりも信仰されていた彼らは神に恐れられていた。そして勇者の魂を捕らえようとしたが、魔法使いの起点により逃がされた。
それを思い出した彼は神に記憶を奪われて暴れる三人の前に勇者として現れた。三つの鍵と黄色の宝石がついた白い羽根の鍵、四つの鍵は彼らを本来の姿に戻していった。神は怒りを表し、本来の姿の彼らを再び、永遠の暗闇の中で苦しみ続けさせようとしたが、妖精の最後の力によって目覚めた。四つの鍵と彼らの力、妖精の祈り、そして全ての想いを乗せて、神が放った絶望の闇を払い、終わりを告げた。
四人は現世で目覚めたが、この世界の記憶は彼と空の霊だけを残し修正されて失われた。
最初からそこに存在していた。それは書き換えられたとも上書きされたとも認識することのできない、最初から“この世界”と記憶していた。しかし本来存在するはずの人々は全て死亡し、新しく生み出された世界にいたのは“人”の姿をした模造品であった。だがそれを完璧に理解することは出来ず、ましてや考えようともしなかった。それが正常であり、残酷な世界の始まりだった。
現れた氷の扉によってもたらされた世界は修正されて、新たな霊が生まれた。
彼らは色つき霊と呼ばれ、それぞれの場所で偽りと使命を持って動いていた。
しかしその間に生まれた“彼ら”は氷の扉の影響をもろに受けた者、または取り込まれた者。ただの人間と変わらなかった彼らは死して、感情の生贄となる。自分の感情のみならず、他者の感情さえも取り込んだ彼らは生前の記憶とそれぞれ異なる感覚を失った。
ここは忘れられた世界。感情の生贄となった彼らが住む、誰も認識することのできない場所。
第二節 静かな悲しみに生まれた雨の霊
ここには誰もいない。二つの世界の境界線に落ちた魂は行き場を失って漂っていた。どこか懐かしい場所、けれどそれを判断する記憶を彼は持ち合わせていない。
彼の死は知らぬ間に行われて、一時は地縛霊として存在していたが、悪霊に染まることもなく、色が失われるその時まで歩き続けていた。
空は晴れることなく、曇ることなく、白に染まった空が広がっていた。そして夜が来ることはなく、ずっとそれを維持していた。それを覆い隠すように灰色の建物が傾いて、風に煽られてもその形を保ち、建物群が倒れることはなかった。大きな影は涼しさを越えて、冷たくて痛くて、空に置いてきた光が温かさを届けてくれることもなく、凍り付いていた。
しかしある日、白に染まった空は一瞬にして真っ暗になり、何も見えなくなった空から雨が降った。透明な霊の体はその雨の雫を透過することなく濡れていた。そして濡れた個所から失われていた色を生み出していた。けれどそれと同時に見知らぬ悲しみが、雫という名の雨とともに流れ込んできて、彼の心にしみ込んだ。
生前に過ごしてきた最後の記憶も少しずつ失われて書き換わるように全てなくなっていく。雨の音はせず、風も吹かなければ雷もなかった。静かな雨が彼の涙と溶け合って、新たな色を生み出していく。
そして彼は悲しみを持つ“雨の霊”となった
雨の霊となり地縛霊から解放された彼は二つの世界の境界線で一つの光を見つけた。その光は未だ確立していない世界の入口と出口を示す場所だとなんとなく彼は思っていた。その光に触れてしまえば、もう二度とこの何もない世界に戻ることは出来ないだろうが、それでも彼は何かをしなければならないと考えていた。けれどその考えも自分のものではないことを理解していた。雨の霊となって別の誰かの想いを引き継いでいるだけなのか、それとも本当に自分の想いなのか、今の段階ではわからなかった。
その手は光に触れていた。体は光の中に溶けていく。目は眩み何も見えない。しかしすぐにそれはなくなり、かつて見たであろう空がその世界には存在していた。
そして彼は“雨の霊”としての意味を知ることとなった
第三節 寂しく孤独な雪の霊
降り積もる雪の影、その手に救われた白い結晶は温かさに溶けて消える。けれど彼の手は氷のように冷たく、その感覚を忘れていた。何も聞こえないこの世界を一人ぼんやりと見ていた。重さに耐え切れずに落ちた音も踏み荒らした音も全ての音が彼には届かなかった。
誰にも触れられず、誰とも重ならず、一人ぼっちの彼は知らない間に幽霊になっていた。いつ死んだのか分からないけれど、あの日、氷の扉が現れたことだけは覚えている。
幽霊となって輝きを失った体は色をなくした。薄くなってしまった体に新たな色をつけたのは空から降り注いだ雪だった。真っ白な雪だけでなく、彼の目には暗く淀んだ何かが見えていた。それをはっきりと色として認識するまで時間はかかったが、表現するには難しいと判断して半ば諦めた。
白に混じったその色が彼を新たな霊へと変えていく。でもその間に冷たくなった心は氷を溶かして水になったような気がした。しかしそれを見越していたのか、彼に別の何かが干渉した、とわかってそれを拒もうとしたが、すでに遅かった。心に植え付けられた種はその水を吸って育っていく。彼の心は少しずつ寂しさも吸い込んで、知らない誰かの孤独を受け取り始めていた。
雪が積もって寂しさが集まって彼の耳には何も届かない。少しずつ世界から遠のいて白く染まった地面を歩いていた。晴れた空も曇った空も繰り返して、彼の歩く雪は溶けることなく、けれど凍ることもなく、ただ歩き続けていた。
心に植え付けられた種は綺麗に花を咲かせることなくしおれているような気がした。寂しさを吸い続けたそれは何かを忘れている。しかしそれを思い出すことが出来なかった。霊となったあの日、生前に何が起きたのか覚えていない。
ただ“雪の霊”と呼ばれるようになったのは、この時が原因だった、と彼は思った
第四節 悲しみに沈んだ空と佇む雨の霊
明るかった空は風が吹き、雲に覆われて暗くなった。何も見えなくなった空から降り出した雨は一瞬にして地面に落ちて消えていた。寒さに変わった空気が天に上がって、雲と干渉した時、雨は少しばかりの雪となった。雪の結晶が降り始めた空は変わらなくとも、雨はその場を後にした。
死に惹かれた雨の霊はその光景を初めてみた。生前に見たかもしれないが、彼にはその記憶がない。悲しみに沈んだ心にはそれを思い出すことが出来ない。
この世界は壊れている。進むことも止まることも忘れた不完全な世界。修正される前の未来も修正された後の過去もこの世界には存在しない。氷の扉によって引き離された何も思い出せない世界。
彼を認識する者はいない。どちらの世界にも存在しない彼はすでにいないものと同じだった。それが真実で嘘偽りのない現実。それに対しての悲しみはどこにもなく、彼は一人、歩き続けていた。向かう先もない道をひたすら、死を残して歩いていた。
暗闇の空は晴れても遠くを見渡すほどの明るさはどこにもなかった。彼の歩く道に合わせて空は光を見せなかった。小雨も大雨も彼を追いかけて悲しさはついてきた。薄っすら見えていたと思っていた影は認識した途端に消え去って、残された鏡が彼の姿を映すことはない。続く道はどんどん暗くなって夜のようになって、ますます彼の姿はわからなくなった。
そして誰も思わないまま、誰も認識しないまま、終わらない世界ははじまりを嫌った。
第五節 繋がれた糸に失われたもの
助けたいと思う夢の過ちは世界を修正させるまでに陥った。それに巻き込まれたという記憶は二人を除いて失われた。一人はそれを引き起こした救済の罪人。もう一人は空に導かれた守護の生贄。彼らは世界が修正されようともその記憶を引き継いでいた。
氷の扉によって書き換えられた世界は分岐点となり、始まりの世界と終わりの世界、救済の世界と崩壊の世界、肯定の世界と否定の世界。対となる世界は存在し、また壊れていった。しかしそれに属さない世界がなかったわけもなく、切り離されて繋がることが出来なかったものもあった。
それは無の世界とは違い、完全に切り離された世界。何もなく何もある世界。
切り離されたことも知らないその世界は同じように時間が流れていた。季節も天候もいつも通り変わっていって、年も日も存在して過ぎていく。けれどそれは現実ではないが、夢とも言い難い。境界線を失ったその世界は忘れられた者が行き着く場所だった。
そこが夜なのか、昼なのか分からない。彼の目は虚ろになって光がない。見ることが出来ていたはずの生前に何があったのか分からないが、霊となった彼の目は何も見えない。不安に押しつぶされそうな雲の霊はそれでも見つけてくれる誰かを探していた。
雲に覆われた空から降り出したその雫は彼を映す鏡となっていた。失われた生前の思い出を探して彷徨う足元は、草木を枯れさせて死の道を作り出した。見知らぬ悲しみがこびりついた死と絡み合って雨の霊は取り除いてくれる誰かを探していた。
大荒れの雨に隠れて一瞬の光と直後の音。彼の無知を蝕んだ怒りは生前の記憶を切り刻んで散っていた。何のために行動しているのか知らないまま、彼はその光と音を見ていた。それでも雷の霊はあの日の勘違いに興味を持ち、誰かを探していた。
何もかも終わって静かになった空。あの氷の扉が開いた時に降ったものと同じ光景。季節外れの結晶が地面に落ちて溶ける時、彼は薄っすらと姿を現した。何も聞こえない耳が孤独だけを拾って雪の霊は消えた生前と寂しさを紛らわせる誰かを探していた。
第六節 不安に包まれた雲の霊
あの日、彼の目は見えなくなった。最後にとらえた光は氷に閉ざされて、再び開いた時には暗闇だけが広がっていた。けれどその空が変わらないのは知っている。
氷の扉によって彼の命は進む道を忘れ、透明な霊達となったその姿を覆い尽くしたのは小さな雲と大きな不安だった。
彼はただ一人、見えないままに歩き続けていた。当たるはずの痛みは物体の透過によって、その歩みを止めることはない。進み続けていることだけが彼の救いであり、それと同時に不安は募っていく。
その不安が自分のものでないことは最初から理解していた。しかしそれを発散する場所はどこにもない。静かな空は、流れていく雲は、何も教えてはくれない。
死ぬ間際に感じていたはずの記憶も不安に取り込まれて思い出すことが出来ない。他者に邪魔されてその想いも遠くに行って忘れていた。しかし完全に忘れてしまったのではないと何故か分かっていた。けれど何故分かっているのかは分からなかった。
生前に思い残したことがあるのかさえ、今の彼には
あの日、包まれた小さな雲は不安とともに大きくなり、その形を失っていく。溢れてしまった雲は取り戻したかった記憶さえ押し込んで、彼をずっとこの世界に留めようとしていた。彼もその形を変えるように、しかし目は何も見えないままに、見知らぬ不安を取り込んでいく。いつしかそれが役目だと気付いた時にはもう、彼は自分自身を失っていた。
ただ一人 歩き続けた彼は変わらない空のもと 誰かが言った “雲の霊”と
第七節 怒りに触れた雷の霊
その風景を覗いた時には眩しい光に包まれて、眩んだ目が落ち着いてきた時、体は焦げ臭くなっていた。直撃した雷が体を燃やし尽くして、透明な姿はその側にあった。
開いた扉から鳴り響いていたそれは世界を作り直して修正された。氷の扉は跡形もなく消えて、彼はそのことだけを記憶した。それ以外のことは忘れた。
誰も存在せず、取り残された世界。彼は痺れた体が動くのを待っていたが、雷は彼を追いかけるかのようについてきては、その近くに落とそうとしていた。恐怖で走り出そうとしても痺れた体のせいでうまく行動できない。そうしているうちに雷はもう一度、彼に降り注いだ。透明な姿だった彼は何も知らないまま、雷に触れてその怒りを知った。
他者の怒りが彼に流れ込んだ時、空っぽだった頭に混乱をもたらして、抑え込もうとしても乗っ取られてしまうほどに強かった。しかし何かを取り戻さなければならないことが、最後の希望となって完全な乗っ取りにはならなかった。
その世界は終わっている
誰もいないその場所こそ、知らない世界
巡り合わせの時間と違える空間
彼に手は差し伸べられた
しかしその手を彼は認識しない
雷は彼の側で鳴り続ける。その姿は他者の怒りを振りまいて、不穏な音を響かせていた。目に光があってもその心はすでに侵食されていた。免れていた時間は長かったわけでもなく、短いわけでもなかったが、何も知らない世界に残された怒りは増えていくばかりだった。それを彼だけに押し付けて、正気でいられるわけがなかった。
とっくに彼は壊れている。その“雷の霊”は世界の一部になり果てていた。
第八節 おわりとはじまりと交わる世界
忘れられた世界に取り込まれた四つの魂はそれぞれの感情に飲み込まれて霊となった。氷の扉によって引き起こされた事象を誰も認識せず、誰も知ることはなかった。
しかし彼らとは別の理由で取り込まれた少女がいた。本来彼女はその忘れられた世界に存在しない。修正される前の世界から修正された後の世界へと渡り、何も起こらないはずだった。だが一つの選択肢は全てを崩して、壊して、離れていった。
少女から生まれた守護霊達はその異変に気付いていた。何も感じなくなった少女の手は冷たくなり、目は虚ろになり、それから時間が止まっていた。
遠くの空をじっと見つめて、守護霊達の声は届かない。何度呼び掛けても変わらない。複雑な感情は砂嵐にかき消されて何もわからない。
そして少女は守護霊達の前から消えた。何も変わらない道、歩き出した足はゆっくりと、虚ろな目はゆらゆらと視界を歪めて、ただ遠くへ行きたかった。誰もいない場所へ、誰も知らない場所へ、どこでもよかった。ふと歩みを進めて空を見上げた。雲の隙間から照らされた空が凍り付いている。不思議と手を伸ばしていた。光が強くて遮るわけでもなく、この何もない世界から救ってほしくて、少女はゆっくりと震える手を伸ばしていた。
すると氷の扉は開かれて、土砂や雪崩のように大量の水が押し寄せて世界を破壊していく。少女の体はその中に飲み込まれていき、目は意識とともに閉じられた。しかし気づけば暗闇の中、少女の姿は薄くなっていたが、かすかに光を帯びていた。
修正される前の世界、守護霊達は動かなくなった少女の体を発見して抱き寄せていた
そして姿を維持できなくなった彼らは少女の体とともに消滅した
少女の記憶は永遠に失われ、思い出すことも叶わない
しかし“あの世界”に渡ることさえ出来れば、“忘れられた世界”を越えられる
そうすればまた巡り合うだろう、そして世界は
桜詩凛の読みは「さくらしりん」で、由来は二つ。一つは元から使っていた桜子凛花が長いと思ったため、短くするために「桜」と「凛」を取り、その間に当時から書いていた「詩」をいれたもの。もう一つは『複雑な生き方をする少女』に登場する「さくら、黒蛇、シラ、理夏(りか)、ラナン」の頭文字を取ったものとなってい…
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