『新しい幽霊の形』 第四章 終わりの記録と奪われた音
公開 2023/09/02 12:52
最終更新
-
手に握られた筆の先に綴った文字を書き続けた記録。今というこの世界に起きた出来事を毎日書き続けていた。彼は大人達に囲まれて一人、それを強いられていた。
歴史を記す者として選ばれた彼は一人ぼっちだった。生まれて間もない時に両親から引き離された彼は勉強ばかりの日々で、後から生まれた弟達を羨ましくも恨み、愛情もろくに受けることが出来なかった。子供ながらして後継者となった彼には護衛がつくようになった。しかしそれは彼が逃げ出さないようにするためだとわかっていた。
遊びということも会話をすることも出来ない彼のもとに現れた少女。彼女は護衛の目を盗んで屋敷に侵入し、彼のことを気にかけた幼馴染と呼んでも差し支えない子だった。本当は彼女も歴史を記す者として選ばれるはずだったが、とある支障が見つかり、彼が気づかないうちに外されていた。その支障は徐々に耳が聞こえなくなるものだった。今はまだかすかに聞こえているが、いつでも対応できるよう、和紙に筆で書いていた。
〈また忍び込んできたのか〉
〈うん、でもすぐにばれそう〉
〈いつものことだからきっともう〉
〈でも数日ぶりだからいいよね〉
〈僕は構わないよ。でも大人達は許さないから〉
〈筆が止まっていることに怒るの?〉
〈わからない。それもあるかもしれないが、君のことも〉
〈私はもう慣れているから。怖い顔して怒っている。けど聞こえないってわかってない人もいるから、ちょっと笑いそうになる〉
そう少女は書いて笑っていた。彼もつられて笑いそうになるが、彼女の背後に護衛がいることを見てしまい固まった。少女も気づき振り向くと、護衛は呆れた顔をしていた。
「ご飯の時間を知らせに来たと思えば、また君は」
護衛が言うその言葉に少女は首を傾げていた。理解できないのではなく、よく聞き取れなかっただけだが、その護衛は少女の耳が悪いことを知らなかった。
「だから君はここに来ちゃいけない」
「?」
「あっ」
彼は残った和紙に筆で文字を書いて、少女の肩を軽く触れた。何? と首をこちらに向けて彼は書いた和紙を手渡した。それを読んでやっと理解したように、その和紙の開いた空間に書き足し、護衛に見せた。
「なんだ? ……君は馬鹿にしているのか」
しかし護衛の反応は悪いものだった。和紙は破られて捨てられて、大声で怒鳴り始めて他の護衛達も気づいたのか集まってきた。少女は怖くなって彼の後ろに隠れると、護衛の声を上書きするように一言言い放った人物がいた。
「何事か!」
それはこの屋敷にいる護衛達を指揮し、彼の専属護衛である男だった。彼と少女の様子とその護衛の反応を見て、すぐに理解すると深いため息をつき、その護衛の頭をたたいた。何故たたかれたのか理解できずにいる護衛を無視して、彼と少女の前に来た。
「ご……」
〈違う。私のせいだから〉
謝ろうとする彼に気づき、少女は書いて男に見せた。和紙を受け取り破ることなく折りたたんだ男は近くにあった和紙と彼が差し出した筆で文字を書いた。
〈この件は私の不届きであったことをお許しください。後であの護衛は叱っておきます。ただ主とこれ以上会うことを避けてほしいのだが〉
それを読んだ少女は首を横に振り、いや、と口から出た言葉で言った。男も分かっていた様子だったが、少女の腕を引っ張り強制的に連れ去ってしまった。しかし何かを言い忘れていたのか、止まって彼に言った。
「歴史を記さなければ……わかっていますね」
そう言い残して再び歩き始めた。集まった護衛達は男に道を開けるようにはけていた。そして護衛達は元の持ち場に戻るためにいなくなった。怒られた護衛は彼を見て、嫌そうな顔をして睨みつけて、他の者と同様に去っていった。
一人残された彼は少女との会話をした和紙を片付けて、手記を開いて途中だった歴史を綴り始めた。
聞いた話は文字を起こすまで頭の中に残り続ける。それが彼を歴史を記す者として選んだ理由の一つであった。言葉を知ったあの日から彼の頭にはあらゆる話が記録として残されていた。しかし文字に起こしてしまうと空っぽになり忘れてしまう。だから選ばれてから彼の中にあった思い出は全て、歴史として書かされてしまい、何も覚えていなかった。頭に残った映像だけ残された記憶も徐々に、新しい記録に上書きされて消えていく。だから両親の顔も彼は覚えていなかった。
手記は増えていく。歴史は嘘偽りなく彼によって綴られていく。屋敷から見える風景もきれいな紅葉を散らして枝だけになった木々が寂しく映し出されているだけだった。暖かいと思える日々ももう少なく、冬になるのは時間の問題だった。しかし彼にとって関係なく、季節に行われる行事になんて行くことすら許されなかった。ただ屋敷の外に出ないわけでもなかった。しかし一人で出れば逃げたと思われて、いつも護衛の男がそばにいた。町に出ればお偉いさんだと思われて、人々はいろんなものをくれた。彼は嫌な顔一つせずにそれを受け取っていたが、その度に内心嫌になっていた。一部にならない悪口の声が聞こえて、それが本当の声だと彼は理解していたが、護衛は聞き取ると捕まえて処罰した。
子供が泣いている。うるさいと親がたたいている。周りは気づかないその音。そこに一人座っていた。その二つの音を隔離して触れた音は奪われた。
『いらない』
悲しみと怒りを含んだ音は奪われた。その音を感じ取ることは出来なくなった。
護衛の男に連れられた後、少女は彼のもとに現れなくなった。彼は手記に綴りながらも彼女のことが気になって筆が止まっていた。護衛の男はその度に声をかけて書くように促したが、止まる回数が増えるばかりだった。
〈どこに行ったんだ〉
彼は見えないようにそう書き、手記は終わっていないのに閉じられた。それを見た護衛の男はため息をつき、離れようと立ち上がり縁側に出ようとした時、驚いた声を発していた。彼はその声にビクッとしながら立ち上がって縁側の方へ行くと少女が立っていた。
「見つかっちゃった」
少女はそう声を発して、護衛の男を見るな否や逃げようとしたが、彼が出てきたので足が止まってしまった。止まった時間を動かしたのは男だった。
〈何をやっている〉
すでに書いていたのか男は懐から取り出した紙を開いて少女に見せた。少女は少々ビビりながら近づいてその紙を取り見て頷いた。そのまま紙に返事を書き、男ではなく彼に渡した。
〈会いたかった〉
その答えに反応しようとして部屋から筆を持って来ようとしたが、横目で男に見られていたのか止められた。
「主様は戻ってください」
男は彼を部屋に無理やり戻そうと押して襖を閉めた。押されて体はバランスを崩して倒れた。月夜に照らされていた部屋は真っ暗になり、襖の隙間から漏れ出した光を頼りに痛む体を押さえながら近づいてみた。しかし襖は固く締められて彼の力では開けることが出来なかった。
「どうして?」
少女の弱々しい声が響いていた。男の筆記する音が聞こえて、音が止むとまた少女の声が聞こえる会話を繰り返していた。
〈主様にはやってもらわなければなりません。そのためには多くの関係は不要〉
「わからないよ」
〈子供にはわからないかもしれません。ですが主様の記憶に嘘を植え付けるわけには〉
「でも私は……話したいよ」
〈あなたは言ってしまえば不用品。この屋敷に入ってはならない存在。ですからもうここにきてはならない〉
「……なんで」
〈だからもう〉
「なんでわからないの!」
少女の怒った声に男も、襖越しに聞いていた彼も驚いていた。驚いていたがその反動で襖の近くで物音がした。筆が落ちる程度の軽い音ではなく、木の板が動いたような重い音がした。今なら開けられるかもしれない、と彼はゆっくり襖に手をかけて開けた。
「私は……」
少女は怒りながらも何かを言おうとしていたが、それを口にしようとした時、襖が開いて彼が出てきた。それと同時に男は気づいたが、無理やり戻そうとはしなかった。そして少女もそれに気づいて口に出そうとしていた言葉を言うことはなかった。
歌を聞きに来たはずの子供達は不思議そうにしていた。口は開いて動いているのにその音は聞こえない。怒りだしたり、泣き出したり、楽しいはずの空間は崩れ去った。
一人の影がそれを見ていた。彼はただそれを見ていた。
『ここも』
怒りも悲しみも彼のものだったが、まだ拾い切れていなかったらしく、その音は少しずつ無へ侵食していった。無音になった場所から生まれたのは別の感情だった。
燃えるような音はみるみるうちにそこにいた人達に広がった。つらい、苦しい、と嘆く声が響いていた。
『そっか』
彼にとってそれはいらないもの。だから一番動きが激しい人に触れた。音は消え、その人は動かなくなった。目は虚ろに瞼は閉じられた。
『……』
悲しみと怒り、楽しさと苦しみを含んだ音は奪われた。彼は静かになる空を心地よく思っていた。
歴史は綴られていく。その度に彼の記憶は失われていく。手記に書いたことを読み返してもそれが本当だったのか、忘れられた彼の脳では理解できない。一つを起点として残された過去の記憶以外新しく入った記憶はなかったものにされて消えていった。
最近、屋敷は何故か荒々しい。それはとある噂が広まっているからだった。その噂を耳にしたのはまた怒られるのを承知で忍び込んできた少女からだった。しかしその時、護衛の男は怒らず、ただ許可が下りたとだけ伝えてその場を去っていった。
〈何があった?〉
〈私は何もしてないよ。でもきっと噂のせい〉
〈噂?〉
〈噂というか病気というか、私もよくわからない〉
〈それは何だ?〉
〈音が消えていく病気〉
〈は?〉
〈私も最初、その反応だったよ。でも音というか声が奪われた、って聞いたよ〉
〈それは不安が原因だと聞くが違うのか〉
〈うーん、でもその子は前の日まで声が出てたらしいけど、次の日になっていきなりでなくなったって。元気で不安を抱えているような子じゃなかったって〉
〈原因不明か〉
〈そうだね。それに涙は出て泣いているけど声がない赤ん坊や私みたいに耳が聞こえなくなった人もいる〉
〈だがそれもいきなりか〉
〈そうみたい。私みたいに徐々にじゃなくて、いきなり……〉
〈本当に病気なのか?〉
〈わからないけど私は違うと思う。幽霊って知っている?〉
〈それくらいは〉
〈とある人が霊障じゃないかって、霊がとりついて悪さしているんじゃないかって〉
〈しかしそれでは〉
〈そう、あまりにも多すぎる〉
〈もし霊が悪いとして、何かやらかしたんじゃないだろうな〉
〈どういうこと?〉
〈雪まつりの会場付近で訪問していた人が勝手に歌っていたという話を聞いたが〉
〈それは許可をもらったらしいよ。でも確かその場所って〉
〈過去の歴史を記す者が書いていた手記を見たが、その場所は〉
その場所を書こうとした時、護衛の男に筆を止められてしまった。どうやら少女との会話に使っていた和紙が尽き、横にあった手記に書こうとしていたらしい。
「終わりです。主様」
〈終わり……か〉
〈えー〉
「ただ主様。私は急用が出来ましたので、行ってまいります」
「何か起きたのですか」
「少々面倒なことになりまして、それを片付けてくるだけです」
護衛の男はそう言って部屋から出ようとして少女が目に入り、一緒に連れていく形で出ていった。少女は彼に手を振りつつ、引っ張られていった。許可が下りたとはいえ、時間切れということなのだろうと彼は思った。
その日の夜、護衛の男が戻ってくることはなかった。その他の護衛も男のように向かったようだが、誰ひとり戻ってこなかった。彼は心配になって縁側の月を眺めながら待っていたが、光は雲に覆われて雨の代わりに雪が降り始めた。それを見た他の者が彼に声をかけて部屋に戻された。
誰もが寝静まった時、彼はまだ眠れずにいた。横になっていた体を起こし、暗くなった部屋には誰もいない。暗さに目が慣れるまで待って、ゆっくりと歩き始めた。畳の部屋から出て縁側の木の床を踏んだ。しかし軋む音はしなかった。
暗さのあまり危ないと考え、灯篭の火をつけて外に出た。音に反応して誰か追ってくるかと思ったが、誰も来ないどころか、所々音が聞こえなくなる現象に見舞われた。雪は積もり始め、地面は凍っていく。滑らないようにゆっくりと道に出た彼だったが、突然手に持っていた灯篭の火が消えた。明かりを無くし暗くなった道に聞こえる謎の音。砂嵐のような雑音と虚ろな目をした何かが彼の方を見ていた。
「あれは……」
何かと目が合い、恐怖で逃げ出そうとした足は固まって動けなくなっていた。その様子を気にせず、何かはゆらゆらと彼に近づいてくる。
「……」
彼は助けを呼ぼうと叫んでいた。しかし口は動いているのに、その音は消えていた。彼の耳にもその声は届いていなかったが、恐怖で混乱していたため気づいていなかった。
『お前にその音はいらない』
何かが彼の耳元で呟き通り過ぎるのと同時に彼の意識は失われた。
夜の月に降る雪。その雪はすでに地面を白くしていた。誰もいない静かな夜。彼はその道を歩いていた。けれど雪を踏んだ音はなかった。
多くの音は奪われて消えた。悲しみと怒り、楽しさと苦しみ、その他の感情に関する音も全て彼の手によって奪われた。この地は無音になる。何もかも奪われて彼は笑うことなく、無表情だった。
『あの者は』
ただ最後に手にしたその音は今まで感じたことのないものだった。存在という音を奪った彼の手に少しの温かさを感じていた。それはどこかで置きてきた音。
そして彼は何かを
しかしそれは影によってまた無へと戻っていく
歴史を記す者として選ばれた彼は一人ぼっちだった。生まれて間もない時に両親から引き離された彼は勉強ばかりの日々で、後から生まれた弟達を羨ましくも恨み、愛情もろくに受けることが出来なかった。子供ながらして後継者となった彼には護衛がつくようになった。しかしそれは彼が逃げ出さないようにするためだとわかっていた。
遊びということも会話をすることも出来ない彼のもとに現れた少女。彼女は護衛の目を盗んで屋敷に侵入し、彼のことを気にかけた幼馴染と呼んでも差し支えない子だった。本当は彼女も歴史を記す者として選ばれるはずだったが、とある支障が見つかり、彼が気づかないうちに外されていた。その支障は徐々に耳が聞こえなくなるものだった。今はまだかすかに聞こえているが、いつでも対応できるよう、和紙に筆で書いていた。
〈また忍び込んできたのか〉
〈うん、でもすぐにばれそう〉
〈いつものことだからきっともう〉
〈でも数日ぶりだからいいよね〉
〈僕は構わないよ。でも大人達は許さないから〉
〈筆が止まっていることに怒るの?〉
〈わからない。それもあるかもしれないが、君のことも〉
〈私はもう慣れているから。怖い顔して怒っている。けど聞こえないってわかってない人もいるから、ちょっと笑いそうになる〉
そう少女は書いて笑っていた。彼もつられて笑いそうになるが、彼女の背後に護衛がいることを見てしまい固まった。少女も気づき振り向くと、護衛は呆れた顔をしていた。
「ご飯の時間を知らせに来たと思えば、また君は」
護衛が言うその言葉に少女は首を傾げていた。理解できないのではなく、よく聞き取れなかっただけだが、その護衛は少女の耳が悪いことを知らなかった。
「だから君はここに来ちゃいけない」
「?」
「あっ」
彼は残った和紙に筆で文字を書いて、少女の肩を軽く触れた。何? と首をこちらに向けて彼は書いた和紙を手渡した。それを読んでやっと理解したように、その和紙の開いた空間に書き足し、護衛に見せた。
「なんだ? ……君は馬鹿にしているのか」
しかし護衛の反応は悪いものだった。和紙は破られて捨てられて、大声で怒鳴り始めて他の護衛達も気づいたのか集まってきた。少女は怖くなって彼の後ろに隠れると、護衛の声を上書きするように一言言い放った人物がいた。
「何事か!」
それはこの屋敷にいる護衛達を指揮し、彼の専属護衛である男だった。彼と少女の様子とその護衛の反応を見て、すぐに理解すると深いため息をつき、その護衛の頭をたたいた。何故たたかれたのか理解できずにいる護衛を無視して、彼と少女の前に来た。
「ご……」
〈違う。私のせいだから〉
謝ろうとする彼に気づき、少女は書いて男に見せた。和紙を受け取り破ることなく折りたたんだ男は近くにあった和紙と彼が差し出した筆で文字を書いた。
〈この件は私の不届きであったことをお許しください。後であの護衛は叱っておきます。ただ主とこれ以上会うことを避けてほしいのだが〉
それを読んだ少女は首を横に振り、いや、と口から出た言葉で言った。男も分かっていた様子だったが、少女の腕を引っ張り強制的に連れ去ってしまった。しかし何かを言い忘れていたのか、止まって彼に言った。
「歴史を記さなければ……わかっていますね」
そう言い残して再び歩き始めた。集まった護衛達は男に道を開けるようにはけていた。そして護衛達は元の持ち場に戻るためにいなくなった。怒られた護衛は彼を見て、嫌そうな顔をして睨みつけて、他の者と同様に去っていった。
一人残された彼は少女との会話をした和紙を片付けて、手記を開いて途中だった歴史を綴り始めた。
聞いた話は文字を起こすまで頭の中に残り続ける。それが彼を歴史を記す者として選んだ理由の一つであった。言葉を知ったあの日から彼の頭にはあらゆる話が記録として残されていた。しかし文字に起こしてしまうと空っぽになり忘れてしまう。だから選ばれてから彼の中にあった思い出は全て、歴史として書かされてしまい、何も覚えていなかった。頭に残った映像だけ残された記憶も徐々に、新しい記録に上書きされて消えていく。だから両親の顔も彼は覚えていなかった。
手記は増えていく。歴史は嘘偽りなく彼によって綴られていく。屋敷から見える風景もきれいな紅葉を散らして枝だけになった木々が寂しく映し出されているだけだった。暖かいと思える日々ももう少なく、冬になるのは時間の問題だった。しかし彼にとって関係なく、季節に行われる行事になんて行くことすら許されなかった。ただ屋敷の外に出ないわけでもなかった。しかし一人で出れば逃げたと思われて、いつも護衛の男がそばにいた。町に出ればお偉いさんだと思われて、人々はいろんなものをくれた。彼は嫌な顔一つせずにそれを受け取っていたが、その度に内心嫌になっていた。一部にならない悪口の声が聞こえて、それが本当の声だと彼は理解していたが、護衛は聞き取ると捕まえて処罰した。
子供が泣いている。うるさいと親がたたいている。周りは気づかないその音。そこに一人座っていた。その二つの音を隔離して触れた音は奪われた。
『いらない』
悲しみと怒りを含んだ音は奪われた。その音を感じ取ることは出来なくなった。
護衛の男に連れられた後、少女は彼のもとに現れなくなった。彼は手記に綴りながらも彼女のことが気になって筆が止まっていた。護衛の男はその度に声をかけて書くように促したが、止まる回数が増えるばかりだった。
〈どこに行ったんだ〉
彼は見えないようにそう書き、手記は終わっていないのに閉じられた。それを見た護衛の男はため息をつき、離れようと立ち上がり縁側に出ようとした時、驚いた声を発していた。彼はその声にビクッとしながら立ち上がって縁側の方へ行くと少女が立っていた。
「見つかっちゃった」
少女はそう声を発して、護衛の男を見るな否や逃げようとしたが、彼が出てきたので足が止まってしまった。止まった時間を動かしたのは男だった。
〈何をやっている〉
すでに書いていたのか男は懐から取り出した紙を開いて少女に見せた。少女は少々ビビりながら近づいてその紙を取り見て頷いた。そのまま紙に返事を書き、男ではなく彼に渡した。
〈会いたかった〉
その答えに反応しようとして部屋から筆を持って来ようとしたが、横目で男に見られていたのか止められた。
「主様は戻ってください」
男は彼を部屋に無理やり戻そうと押して襖を閉めた。押されて体はバランスを崩して倒れた。月夜に照らされていた部屋は真っ暗になり、襖の隙間から漏れ出した光を頼りに痛む体を押さえながら近づいてみた。しかし襖は固く締められて彼の力では開けることが出来なかった。
「どうして?」
少女の弱々しい声が響いていた。男の筆記する音が聞こえて、音が止むとまた少女の声が聞こえる会話を繰り返していた。
〈主様にはやってもらわなければなりません。そのためには多くの関係は不要〉
「わからないよ」
〈子供にはわからないかもしれません。ですが主様の記憶に嘘を植え付けるわけには〉
「でも私は……話したいよ」
〈あなたは言ってしまえば不用品。この屋敷に入ってはならない存在。ですからもうここにきてはならない〉
「……なんで」
〈だからもう〉
「なんでわからないの!」
少女の怒った声に男も、襖越しに聞いていた彼も驚いていた。驚いていたがその反動で襖の近くで物音がした。筆が落ちる程度の軽い音ではなく、木の板が動いたような重い音がした。今なら開けられるかもしれない、と彼はゆっくり襖に手をかけて開けた。
「私は……」
少女は怒りながらも何かを言おうとしていたが、それを口にしようとした時、襖が開いて彼が出てきた。それと同時に男は気づいたが、無理やり戻そうとはしなかった。そして少女もそれに気づいて口に出そうとしていた言葉を言うことはなかった。
歌を聞きに来たはずの子供達は不思議そうにしていた。口は開いて動いているのにその音は聞こえない。怒りだしたり、泣き出したり、楽しいはずの空間は崩れ去った。
一人の影がそれを見ていた。彼はただそれを見ていた。
『ここも』
怒りも悲しみも彼のものだったが、まだ拾い切れていなかったらしく、その音は少しずつ無へ侵食していった。無音になった場所から生まれたのは別の感情だった。
燃えるような音はみるみるうちにそこにいた人達に広がった。つらい、苦しい、と嘆く声が響いていた。
『そっか』
彼にとってそれはいらないもの。だから一番動きが激しい人に触れた。音は消え、その人は動かなくなった。目は虚ろに瞼は閉じられた。
『……』
悲しみと怒り、楽しさと苦しみを含んだ音は奪われた。彼は静かになる空を心地よく思っていた。
歴史は綴られていく。その度に彼の記憶は失われていく。手記に書いたことを読み返してもそれが本当だったのか、忘れられた彼の脳では理解できない。一つを起点として残された過去の記憶以外新しく入った記憶はなかったものにされて消えていった。
最近、屋敷は何故か荒々しい。それはとある噂が広まっているからだった。その噂を耳にしたのはまた怒られるのを承知で忍び込んできた少女からだった。しかしその時、護衛の男は怒らず、ただ許可が下りたとだけ伝えてその場を去っていった。
〈何があった?〉
〈私は何もしてないよ。でもきっと噂のせい〉
〈噂?〉
〈噂というか病気というか、私もよくわからない〉
〈それは何だ?〉
〈音が消えていく病気〉
〈は?〉
〈私も最初、その反応だったよ。でも音というか声が奪われた、って聞いたよ〉
〈それは不安が原因だと聞くが違うのか〉
〈うーん、でもその子は前の日まで声が出てたらしいけど、次の日になっていきなりでなくなったって。元気で不安を抱えているような子じゃなかったって〉
〈原因不明か〉
〈そうだね。それに涙は出て泣いているけど声がない赤ん坊や私みたいに耳が聞こえなくなった人もいる〉
〈だがそれもいきなりか〉
〈そうみたい。私みたいに徐々にじゃなくて、いきなり……〉
〈本当に病気なのか?〉
〈わからないけど私は違うと思う。幽霊って知っている?〉
〈それくらいは〉
〈とある人が霊障じゃないかって、霊がとりついて悪さしているんじゃないかって〉
〈しかしそれでは〉
〈そう、あまりにも多すぎる〉
〈もし霊が悪いとして、何かやらかしたんじゃないだろうな〉
〈どういうこと?〉
〈雪まつりの会場付近で訪問していた人が勝手に歌っていたという話を聞いたが〉
〈それは許可をもらったらしいよ。でも確かその場所って〉
〈過去の歴史を記す者が書いていた手記を見たが、その場所は〉
その場所を書こうとした時、護衛の男に筆を止められてしまった。どうやら少女との会話に使っていた和紙が尽き、横にあった手記に書こうとしていたらしい。
「終わりです。主様」
〈終わり……か〉
〈えー〉
「ただ主様。私は急用が出来ましたので、行ってまいります」
「何か起きたのですか」
「少々面倒なことになりまして、それを片付けてくるだけです」
護衛の男はそう言って部屋から出ようとして少女が目に入り、一緒に連れていく形で出ていった。少女は彼に手を振りつつ、引っ張られていった。許可が下りたとはいえ、時間切れということなのだろうと彼は思った。
その日の夜、護衛の男が戻ってくることはなかった。その他の護衛も男のように向かったようだが、誰ひとり戻ってこなかった。彼は心配になって縁側の月を眺めながら待っていたが、光は雲に覆われて雨の代わりに雪が降り始めた。それを見た他の者が彼に声をかけて部屋に戻された。
誰もが寝静まった時、彼はまだ眠れずにいた。横になっていた体を起こし、暗くなった部屋には誰もいない。暗さに目が慣れるまで待って、ゆっくりと歩き始めた。畳の部屋から出て縁側の木の床を踏んだ。しかし軋む音はしなかった。
暗さのあまり危ないと考え、灯篭の火をつけて外に出た。音に反応して誰か追ってくるかと思ったが、誰も来ないどころか、所々音が聞こえなくなる現象に見舞われた。雪は積もり始め、地面は凍っていく。滑らないようにゆっくりと道に出た彼だったが、突然手に持っていた灯篭の火が消えた。明かりを無くし暗くなった道に聞こえる謎の音。砂嵐のような雑音と虚ろな目をした何かが彼の方を見ていた。
「あれは……」
何かと目が合い、恐怖で逃げ出そうとした足は固まって動けなくなっていた。その様子を気にせず、何かはゆらゆらと彼に近づいてくる。
「……」
彼は助けを呼ぼうと叫んでいた。しかし口は動いているのに、その音は消えていた。彼の耳にもその声は届いていなかったが、恐怖で混乱していたため気づいていなかった。
『お前にその音はいらない』
何かが彼の耳元で呟き通り過ぎるのと同時に彼の意識は失われた。
夜の月に降る雪。その雪はすでに地面を白くしていた。誰もいない静かな夜。彼はその道を歩いていた。けれど雪を踏んだ音はなかった。
多くの音は奪われて消えた。悲しみと怒り、楽しさと苦しみ、その他の感情に関する音も全て彼の手によって奪われた。この地は無音になる。何もかも奪われて彼は笑うことなく、無表情だった。
『あの者は』
ただ最後に手にしたその音は今まで感じたことのないものだった。存在という音を奪った彼の手に少しの温かさを感じていた。それはどこかで置きてきた音。
そして彼は何かを
しかしそれは影によってまた無へと戻っていく
桜詩凛の読みは「さくらしりん」で、由来は二つ。一つは元から使っていた桜子凛花が長いと思ったため、短くするために「桜」と「凛」を取り、その間に当時から書いていた「詩」をいれたもの。もう一つは『複雑な生き方をする少女』に登場する「さくら、黒蛇、シラ、理夏(りか)、ラナン」の頭文字を取ったものとなってい…
最近の記事
タグ
