『新しい幽霊の形』 第二章 光の子と運命の歯車
公開 2023/09/02 12:46
最終更新 2023/09/02 12:49
彼が目にした最初の記憶は母親の死だった。まだ幼く泣いてばかりの彼を引き離すかのように切り裂いた体から赤い液体が溢れていた。泣きわめく彼を抱えて連れていかれた闇の中、幽霊達が集まる場所を通り抜けていこうとした者はその手を切られて消滅した。反動で投げ飛ばされた彼は転んで立ち上がると背後に幽霊の大群が迫ってきていた。恐怖のあまり泣くことさえ忘れて逃げ出した。誰も知らない遠くの場所へ、ただ走り続けていた。
 光の中に潜む暗闇、闇の中に滲んだ光。二つの側面を持つ彼は人間と幽霊の血を引く存在だった。幼くして両親を失った彼に待っていたのは死だけだった。人間からも幽霊からも非難されて、生まれた意味さえも否定し始めていた。しかし少しずつ、人間と幽霊の姿を制御することが出来るようになった。昼間は光に照らされて人間として、夜間は闇に沈み幽霊として、二つの世界を行き来するようになっていた。そして知らないうちに幽霊達の間で、人間の姿をした彼を『光の子』、幽霊の姿をした彼を『闇の子』と呼ぶようになっていた。


 彼はふらっと現れて、消えていくようなそんな感じで暮らしていた。同じ場所に長居しないように転々とし、誰の記憶に残らないように、最初からいなかったように暮らしていた。だから何も知らない人間や幽霊達は彼の姿を覚えていなかった。
 高校の名簿にも名前はないはずなのに、誰もそれを不思議がらなかった。いつもいて、空気のように消えていく。彼はそんな人で今日もそのはずだった。
 その音が聞こえたのは隣のクラスだった。授業が終わって解放された生徒達が自由にしていた頃、投げつけられた黒板消しは一人の少女の制服を白にした。周りの生徒達は関わらないように知らんぷりして、首謀者とその仲間達は何も言わない少女に向かって悪口を吐き捨てた。見せしめのようにその者達は筆箱を上に持ってきて、少女の頭に次々と落としていた。そして机に何かを書き残して、その者達は何もなかったかのように教室から出ていった。それからその少女に近づく者はいなかった。
しかし彼は少女の前に立って、その手を取ろうとした。だが少女は首を振って拒否し、ふらふらと教室を出ていってしまった。

 授業が始まって先生の声が響く中、そこに彼の姿はなかった。教室に戻らない少女を探しに行っていた。今までのことから人間に興味などなかったのに、何故か少女のことだけは気になった。足音は響いていた。けれどその姿を誰も知らない。
 階段の上から風の気配がした。上へ行くたびにその感覚は増えていった。屋上の扉に着き、その近くにドアノブを動かさないための鎖が落ちていた。ドアノブは回り、鍵もかかっていなかった。扉を開けると光り輝く太陽と強い風に吹かれて目を閉じたが、少しずつ開いてみるとあの少女がいた。近づいてみるとその手は鉄柵を掴んでいた。
「私はどうして……」
 空を眺めながら、少女は一人呟いていた。ここにはメッシュフェンスがない。少女の握る鉄柵だけが屋上の柵として機能していた。しかしそれも少女にとって無意味だった。腰ぐらいまでしかないその鉄柵を乗り越えてそのまま落ちるつもりだった。
 だが少女が飛び降りる前、鉄柵を握っていた手の上に彼は手を乗せた。風によって冷たくなっていた手に突然感じた温かさに驚いて、少女は足を滑らせて鉄柵から手を離してしまった。しかし彼はとっさに少女の腕をつかみ、そのまま引き上げた。その間に少女の体が浮いていたため、近くから悲鳴のようなものが聞こえたが、彼は気にせずに屋上まで引き上げた反動でバランスを崩して倒れた。少女の体は彼の上に乗って、気がついて下りた。
「大丈夫?」
 彼は心配そうに少女に問いかけた。少女は黙っていた。強い風が吹いていた屋上は音を無くして静かになった。
「……なんで? 私は死んでいいのに。なんで助けたの? 私なんかいらないのに」
「……君は」
「あなただって! ただ……」
 言葉に詰まった少女はそのまま泣き崩れた。彼は少女のことを抱き寄せていた。その行動の意味を脳で理解しないまま、彼はそうしていた。いきなり抱き寄せられて、少女は離れようとしたが、彼の力ではどうすることもできずに、顔を隠すように彼の肩にうずめて泣いていた。


『落ちてこなかった。見えない何かに邪魔された』
 少女の思いを乗せてさっさと終わらせようとした。けれど見えない何かを察知することは出来なかった。屋上の方へ目をやると、一生懸命救おうとする誰かの姿が見えた。
『あれのせいか』
 誰かは落ちるはずだった少女の腕をつかんで引き上げてしまった。屋上から少女と誰かの姿が消えていた。中央へ引き下がってしまったのだろうと考えた。
『……でも、まだ』
 浮遊して屋上を覗き込み、少女が泣き、誰かの顔は見えていた。目を合わせるようにしたが、その目が映すことはなかった。


 その日から彼は少女のもとへ行くようになった。けれども人間と幽霊の境界線となる放課後には姿を消した。だから夕方に何かが起きようとも彼が知る由もなかった。そんな生活の中、学校での彼の姿を見つけることが出来ても、それは空気のように、最初からなかったように、存在しているという事実を確定させることは少女以外できなかった。
 自由時間になると教室から少女の姿は消えていた。少女をいじめていた首謀者やその仲間達が不思議がる中、彼は少女と話をしていた。
「今日は」
「ごめん。先生に呼ばれているの」
「……そっか」
「でもすぐに終わるから……いつもの場所で」
 彼の返事も待たずに少女は立ち上がって教室から出ていった。少女を追おうとしたが、背後で何かが壊れる音がした。首謀者とその仲間達が少女がいなくなった途端に暴れ出した。少女の机をひっくり返したかと思えば、教科書をゴミ箱に捨て、鞄を窓の外へ投げようとしていた。その間も周りは知らんぷりを突き通し、少女の悪口だけが響いていた。
 彼は首謀者が少女の鞄を投げようとしていた時、その背後に立って鞄を取り上げた。しかしその様子を目に映していた生徒はいなくて、突然消えたと大声で叫んでいた。そのうるささには周りも怒り、何を言っているか分からないほどの雑音になっていた。彼は誰にも見つからないことをいいことに、ゴミ箱に捨てられた教科書を取って、埃を払って折れた個所を綺麗にして、ひっくり返された机をもとの場所へ置いた。取り戻した鞄も横にかけて、首謀者とその仲間達に少しちょっかいをかけることにした。しかし首謀者は彼に鞄を取られた時点で何故か少し震えていて、行動を起こそうとしていた足も止まっていた。


『また邪魔されたか』
 鞄を持った男が怒鳴って投げつけるのを見ようとしたが、背後から現れたあれによって取り上げられてしまったのを、面白くないな、と思って見ていた。
『もう少し強くする必要があるか』
 目を閉じて数分、再び目は開かれる。運命から逃げるというなら足掻けばいい。


 それから少女が戻ってきても、彼以外気づくことなく雑音だけが響いていた。昼休みが終わったからの時間の進みは何故か異様に早かった。夕暮れになるのに気づいて彼は少女から離れようとしていた。しかし少女が教室に残って何かをしているのを知らないふりするわけにもいかず、その手伝いをすることにした。
「ごめん」
「謝らなくていいよ」
「やらなきゃいけなかったのに逃げられちゃったの」
「……」
 少女を助けてくれる人はいない。彼がいなければそれ以上に酷いことが起きていたかもしれない。彼女は手伝ってくれることをうれしく思っていたが、彼は時計を見て時間を気にしていた。そのせいで謝られてしまい、違うと返したら逆に困らせてしまった。
 少女が職員室で先生と話している間、彼はその近くの廊下で待っていた。
「失礼しました」
「……終わったか」
「うん」
 そう言って教室に戻り、荷物を取って玄関に行った。校門を越えて、先生がいないことを確認しながら携帯を開いて、バス停で時間を見ると、次のバスが来るのはかなり後だった。少女がそれを見て困っていると、彼はとある提案をした。
「少し歩かないか」
「……遠いよ」
「いや、バス停? によっては違うバスが出ている可能性が……ないのか」
「それはあるかもしれないけど」
「行ったことないなら行こう」
「……この先って知っている?」
「知らないが」
「坂になっているんだよ。それでも行くの?」
 彼はそう言われてはっとした。いつもなら夜になって暗くなるこの場所では幽霊となって浮いているから気にしていなかった。
「やっぱりやめるか」
「……」
 賢明な判断だと少女も思ったのか、バス停の近くに設置された小屋の中でバスが来るのを待っていた。
 数時間経って、橙色の空が藍色に染まりかける時、少女は彼の手の感覚に違和感を覚えた。肌の感覚というより小屋の板の冷たさが伝わってきて、まるで貫通しているような気がしたが、暗くなってきてはっきりそれを確認することが出来なかった。しかしそれが現実だと理解したのはすぐのことだった。一緒に待っていた彼の姿が消えていたから驚いて叫んでしまった。誰もいなかったので騒がれることはなかったが、彼はびっくりしていた。
「どこ行っちゃったの?」
「……俺はここにいるんだけど」
「えっ!? 何が起きているの!?」
 彼の声に困惑して完全にパニック状態になった少女を止めようと、夜だというのに人の姿を現した。
「俺はここにいるよ。ただ時間切れなんだ」
「……!」
「怖いのはわかるよ。ずっと隠してきたから」
「幽霊……なの……」
「うーん、半分当たりで半分違う」
「どういうこと?」
「人でもあるし幽霊でもある。いわば半人半霊だ。だから人にも幽霊にも嫌われてきた」
「……でも家族は? いるんでしょう」
「いや、もう死んでる。俺が記憶している最初の出来事は両親の死だったから」
「……そんなのあんまりじゃない。私よりもずっと」
「そんなことないさ。もう慣れたから」
 そう言いつつも少女はその突きつけられた現実に耐え切れなくて泣いていた。
「君が泣くことじゃない」
「……そうだけど……ごめん、今は無理だよ」
 彼はその涙を拭き取ろうとしたが、夜が深まり光が失われつつある暗さになって、人の姿を保つことが困難になって消えようとしていた。


 彼の事情を知ったことにより少女は一層我慢するようになっていた。それをよしとした首謀者と周りの奴らはますます酷いことをしてきた。しかし先生が気づいていないわけもなく、度々注意されていた。それでも少女に対するいじめが終わることはなかった。
 何も言わない少女に対して痺れを切らしたのか、本人に向かって怒鳴りつけたが、肩をビクッとさせるだけで何もしなかった。
「まったく邪魔な奴らだ」
「……」
「どこか静かな場所で話をしようか」
 彼がそう言って少女が席を立つと、首謀者は少し驚いて後ずさりして机に当たっていた。奴の目には彼の姿をはっきり認識する能力はなく、少女がいきなり立ち上がったとしか思えなかった。そして教室から出ていった少女を追って廊下に出たが、それ以上彼女の姿を追えなかった。何かがその場を否定している気がして、恐怖を覚えたからだった。
 先に少女が教室を出るのを確認して、彼が出ようとすると首謀者が廊下に行った。嫌な予感がして奴の前に立ち、奴の体に触れてやった。
「これ以上やるのなら容赦はしないからな」
 そう言ってやったが、首謀者には聞こえないだろうと思って、少女の後を追った。


『あれはもう使い物にならないな』
 立ち止まった首謀者の後ろに立っていた。誰かを初めて認識した。目的のためにここまでやってきたが、奴ではもう意味がない。
 運命は動き出し、その歯車はすでに回収済みだ。かみ合わないこの場所に救いは来ない。
『さてと、どうやって殺すか』


 梅雨の酷い雨を越えて、よく晴れた太陽の光に照らされた地面から跳ね返った暑さが、風も吹かないこの時期に漂っていた。教室に冷房はあっても、対応していない別の場所に行くと暑さで授業もまともに聞いていられないほどになっていた。彼はというと半霊のせいか、あまり暑さを感じることはなく平気だった。うるさい蝉の声が響いて、それに対して愚痴を言うほど元気であった。
 期末試験の結果を待たずして夏休みに入った学校は部活動生徒だらけになって、それ以外の生徒も一部、補修というわけで勉強していた。彼と少女はそんな目に合うことなく、図書館に行って宿題を終わらせようとしていた。終わらせようとしているのは少女だけで、彼はその様子を横から見ていただけだった。
 そして登校日が来て、返ってきた期末試験の結果を見て騒ぎつつ、その後半に〈あの日〉のことを聞いた感想を書いて、昼のうちに終わった。
「どこか行こうか」
 彼は少女が帰る前に提案した。途中でバスを降りて移動という算段だった。しかし少女はその提案に乗らず断った。
「ううん、ごめんね。今日は午後から予定があって……明日なら大丈夫だよ」
「そうか。じゃあ明日」
「あっ、でも待ち合わせどうしよう」
「あの図書館で待っている」
「……わかった。じゃあ明日ね」
 そう言い、少女と別れた彼は一人小屋の中にいた。バスに乗り込む生徒達をよそに彼はゆっくりと人の姿を失わせていった。


 一人の運命のために本当の目的を忘れたとしても彼は貫いていた
 閉ざされた未来を奪った奴らに復讐を果たして終わらせる
 ただそのために全てを狂わせても、今の彼には関係ないことだった 


 朝の光が現れる前、彼は幽霊の姿から人の姿へと変化して、待ち合わせ場所にした図書館で待っていた。出入りを繰り返す人々に認識されないまま、昼が過ぎようとしていた。すると少女が手を振りながら走ってきた。
「もしかして待った?」
「……少し」
「時間言ってなかったからね……ごめんね」
「別に」
「怒っている?」
「いや……いつもと違うから少し驚いているだけだ」
「そうかな。でもあなたはいつもと変わらないね」
 私服の少女と学生服の彼、二人は少し見合って黙っていたが、人通りの多い図書館の出入り口にいつまでもいるわけにもいかず移動することにした。
 二人横に歩いていたが、その他の人に映る風景は少女一人が歩いているものだった。歩いている二人の間に会話はなく、多くの人々が通る中、少女は周りを見ていた。知っている人が歩いていたらどうしようと考えているのか、その表情は少し強張っていた。彼は少女のことを気にしながら前を向いていた。すると前から二人の男女が手を繋いで歩いていた。それを見て不安そうにする少女に対して彼は左手で少女の右手を取り握った。
「えっ!? これじゃまるで」
 小声だったが少女の声が漏れていた。少女の顔が少し赤くなっているのに気づかないまま、彼は手を引いて小さな喫茶店に入った。飲み物を注文して二人で待っていると店員が不思議そうに二つとも少女の方へ置いていった。
「俺はいるんだけどな」
「見えていないんじゃないの」
「いや、見えている。ただあの店員は来るのが早すぎた」
「え?」
「この喫茶店は入ったことなかったから、姿を現しても何の影響もないと思った」
「でもそれじゃ驚かれるんじゃ」
「だから、誰も見ていないうちに認識できるようにした。ただここは薄暗いから……」
「見える範囲が限られているってこと」
「そういうことだ。それにしても疲れた」
「どこに行こうか何も決めてなかったから……」
「……それについては俺も悪い」
「行きたいところってある?」
「俺は別にないが……」
「うーん。ただ歩いているだけだとこんな暑さじゃ……。私は水族館に行ってみたい」
「じゃあそこに行こう」
「いいの?」
「俺はいいよ。もしかして遠いのか」
「少し遠いってくらい。行ったことないの」
「そうか……まぁ行ってみようか」
 少女の意見に彼は賛成して飲み干すと少し休憩して喫茶店を出た。少女が携帯でその水族館までの地図を調べて歩き出そうとした彼女の手を彼は握っていた。人混みが酷くなって離れないようにの意味を込めていた彼は握っていたが、少女は恥ずかしそうにしていた。

 歩いて数分というところで無事に水族館にたどり着いた。海のような薄暗い空間に分かれた水槽と多くの魚達。少女は嬉しそうにしていたが、彼は何が楽しいのか分かっていなかった。ただ涼しい気がして彼はその部分だけいいなと思っていた。
 多くの水槽を眺めて歩いていた少女の目にとまったのはペンギンだった。
「かわいい」
「……好きなのか」
「あっ、もしかして楽しくない? 無理している?」
「いや……分からないけど、なんか取られている気がしてさ」
「……ペンギンは好きだよ。小さい頃からずっと」
「そっか」
 少女は少し困惑しているようで、彼はそれを違うと首を横に振った。そうすると少女はほっとして次の水槽の方へ歩いていた。
 ある程度水槽をまわって休憩するために近くにあった椅子に座っていた。
「疲れちゃった……」
「……」
「やっぱり無理していたんでしょう」
「いや……そういうつもりじゃない」
「……でもつまらなそうな顔していたよ」
「楽しそうにしているなって思って、だけどその笑顔を誰にも邪魔されたくなくて、いろいろ考えていたから」
「心配してくれていたの……ごめんなさい、それに気づかなくて」
「謝る必要ないし、俺がそうしていただけだし。気にすることはないよ」
「それでも……」
 少女の気を重くしてしまったようで彼も言わなきゃよかったと思った。しかし彼はポケットから小さな袋を取り出して少女に渡した。
「これは?」
「さっき買ってきた」
「……ペンギンのキーホルダー」
「好きだって言っていたから」
「……じゃあ、お礼しないと」
 少女がバッグから取り出した小さな袋を彼に渡し、その中に入っていたのは彼が渡したものと同じペンギンのキーホルダーで違う点は色だけだった。少女が桃色に対して、彼は青色だった。
「これ」
「被るとは思ってなかったからびっくりしちゃった。好きなもの分からないからどうしようって思って……」
 少女が不安そうに彼に言っていたが、彼はそのペンギンのキーホルダーを受け取って不思議な感覚に襲われていた。どう返事を返したらいいのか分からなくなっていた。


『もういらないだろう』
 幸せの空間に飽き飽きしていた彼は終わりを告げる鐘を鳴らす
 そして切り裂かれるのは誰かの未来と閉じ込められた運命


 少女と彼は水族館を出て、その時刻はもう夕暮れをさしていた。夜になりかけの橙色の空が太陽に別れを告げるように、彼の姿もまた歪んでいく。
「楽しかった」
「えっ? 本当に」
「ずっと疑問形だな」
「だって……でも私も楽しかった。久しぶりに幸せって思ったから」
「幸せ?」
「うん、一緒にいられてうれしかった」
 少女がそう言った時だった。歩きながら話を繰り返す彼らの前に通り過ぎた何者かは辺りの悲鳴を残しながら消えていった。横にいた少女の視線が低くなったに彼が気づいた時には倒れていた。何者かは切り裂き魔だった。切り裂いた場所が悪かったのか少女の体から大量の血が出てきて、それを止めようにも止血する道具もなく、けれど少女の携帯から救急車を呼ぼうとした。
「ごめんね」
「喋らないでくれ……すぐに助けを呼ぶから」
「ううん、私はもういいの」
「何故?」
「幸せ、を、感じた、ば、つ、だか、ら」
「そんな罰どこにあるんだよ」
「……幽霊、に、なれば……私も、あなたも、きっと」
 頑張って彼の顔に手を当てようとしていた腕は力を失って落ち、少女の瞼はゆっくり閉じられた。あのペンギンのキーホルダーの桃色が血の赤で染まっていた。
「やっと俺はわかったのに……」
 橙色の空が藍色に染まり暗くなった夜に彼の姿はなかった。光をなくし人としての心を失い砕かれた彼はもう人間になることは出来なかった。深く傷ついた心と愛する心だけを残して、彼は幽霊となって、体から抜けてしまった少女の姿を追いかけた。


『最初からそうすればよかった』
 運命を作り出す彼から逃れられない。生きるも死ぬも彼が選ぶ道に未来はない。
 復讐は成し遂げられて、全てが終わった。しかしまた始まり、続いていく。

 それを一人の少女は見ていた。かつて優しかった彼を取り戻すためにそこにいた。
 けれど彼は少女を認識することが出来ないほどに暗く飲み込まれていた。
『どうして……私はあなたといることだけが幸せなのに』
 その声も彼には届かない。そう……今までなら届かなかった。

 彼の頬に触れた雫は目からの涙だった。彼にとって意味不明なそれはかすかな温かさ。
『……何か……忘れて』
 しかしもう少しのところで運命の歯車は振り出しに戻った。
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