『新しい幽霊の形』 第一章 感情の音と闇の子
公開 2023/09/02 12:41
最終更新 2023/09/02 12:46
ベッドからゆっくりと体を起こして、カーテンから溢れた光に照らされて、眩しさに負けて目をこすっていた。開閉を繰り返した目がはっきりとしてきた時、小鳥の声が聞こえてきた。しかし彼に聞こえていたのはそれだけではなかった。小鳥の声に重なって、多くの感情の音が溢れて、彼を押しつぶしてしまうほどの雑音が耳を襲っていた。
 生まれた時からそうなったわけじゃない。事故に巻き込まれたからでもない。ふとした時からその音は聞こえて、いつの間にか感情の対象は人以外にも広がっていた。本当に聞こえている音に覆いかぶさって、上書きされた感情の音はたびたび道を外して怪我をした。
 けれどそれじゃいけないと思って、少しずつ制御し始めた。最初はどの状況でそれが発生してしまうのか検証しようとして失敗し、それでも諦めずに感情を取り除いていった。しかしそのせいで彼は自分の感情が分からなくなった。

 制御していたはずの意識は朝だけ機能しなくて、脳がはっきり理解するまでの時間はいつも爆音であらゆる音が響いていた。朝ご飯を食べている時にはある程度、制御が可能となって、普通に聞こえている声と少量の音だけが耳に響くようにしていた。彼が残した少量の音の中には家族や友達などの人に対するものが含まれていた。花火が開いたような楽しい音、雨が降り続くような悲しい音、紙が破れたような怒りの音など様々なものに変換されて、彼の耳に届いた。そしてそれは少しずつ音を変えて、次の日には違う音になっていた。
 朝ご飯を済ませて時間を見ると、針は動いていなかった。彼はその状況に驚いたが、そもそも休みであることを思い出して、早く起きる必要もなかったな、と少し後悔した。しかし昼まで何もすることがなかったので、外に出て少し散歩することにした。その間も聞こえる範囲を狭めて、感情の音は少量でとどめていた。
 寒さが酷かったせいでいつもより桜の開花が遅く、未だに満開になる様子はない。それだというのに雨が降って桜の花びらは散って地面に落ちていた。色を埋められた土の中、花びらは引き裂かれていた。犬の散歩をする人、運動がてら走っている人などいろんな人が彼とすれ違っていた。しかし遮断していた音の感情が彼の意思とは関係なしに暴走し、その場に座り込んだ。誰もそこに人はいなくて、彼は一人うずくまっていた。
 降り続ける雨の中、最も強く発せられた涙の音は不安と重なった複雑な感情。それを発している原因を見つけようと、痛む頭に手を当てながら立ち上がった。すると彼の方に向かって少女が歩いてきた。しかしその子が身に着けていたのは病衣だった。彼は違和感を覚えてゆっくり近づこうとすると、少女の姿は貫通して通り抜けた。寒気がして振り返ってみると、彼と同じように他の人もその少女は通り抜けて姿を消そうとしていた。あれはおそらく幽霊だろうか、と彼は思っていたが、今まで見えなかったこともあってすぐには信じられなかった。
 彼以外にその少女の姿は見えていないらしく、彼女は遠くへ行ってしまう。彼はついていこうとも考えたが、感情の音のせいで厄介事に巻き込まれた経験から一度は踏みとどまった。しかしその足は走り始めていた。干渉してきたということは何かあるのではないか、と勝手に思って少女を追いかけた。

 少女が止まった場所はコンサートホールだった。彼の足はそこで止まった。足音に気づいたのか、少女は振り返って彼のことを見たが、何も気にせずにコンサートホールの中に入っていった。休館日なのか、人が誰もいなかったが、扉は招いているかのように勝手に開いた。
 どの扉も彼が近づくと勝手に開いていた。少女は不安の音を残して、彼はそれを追っていた。すると一つのホールに少女は吸い込まれて消えた。その扉だけ自力で開けなければならなかった。重い扉を開けるとそこは他のホールとは比べると小さいものだった。辺りを見回すと誰もいない席の側の階段を降り続けて、舞台の方に向かう少女の姿があった。彼はそれを見つけて少し遠目で追っていたが、前の方へ向かうたびに足が重くなっていった。先に少女が舞台に上がって、中央にあった黒いピアノに触れた。すると彼の体は言うことを利かなくなって、シューボックス型の前から三列目の真ん中の席に座らされた。ここが何を意味するのか今の彼にはわからなかった。
「私は」
 少女が口を開いて何かを言おうとしていた時、舞台の明かりがついて席の方は暗くなった。そして荒いパラパラ漫画のようにぎこちない動きをする映像と呼べない写真が彼の視界に入った。ピアノを弾いている少女。静かな舞台に響く一台のピアノの音色。しかし曲の終わりを告げずに少女の体は傾き、椅子から転げ落ちて頭を強く打って動かなくなった。
「誰かがいたの」
 少女の声に彼の意識は現実に戻された。さっきのは少女が見せた幻覚だったのかと思った。しかし妙に現実味していた所と彼にはピアノの音以外の何かが聞こえていた。
『邪魔』
 ただその一言。少女が倒れる前に聞こえた声。姿の見えない何かが彼が座る席を見ていた。彼の上に幽体する者の悲鳴。その者は同時に少女の名を叫んでいた。無理やり舞台に上がろうとするその者を止める人。何が起きたとざわつく人々。騒ぎは大きくなり幕がおろされて少女の姿は隠された。
「あれは……」
 彼は呟き、少女は黙っていた。しかしその音は長く封じられることはなかった。少女がピアノの鍵盤に手をかけて押した音は、さっき幻覚で見せた曲の最後だった。しかし表情は曇っていたが、音が止まってその顔は少し和らいでいた。彼の声に反応して舞台から降りてくるものの、ホールから出ていってしまった。少女が出ていくと体の自由が利くようになり、舞台の明かりは消えたが、席の方は暗いままだった。


 それは間違いだった。ずっと二つの間を保っていればよかった。手を貸さなければ崩れることはなかったのに、すでに傾いていた。
 けれど傾いたものを元に戻すことは出来ずに、その姿を失った。
『探しに行こう』
 たった一つの願いのために、全てを投げ打っても守ると決めた。


 コンサートホールを後にして少女を追おうとしたが、すでに姿を消していた。少女が無意識に落としていた音も聞こえなくなっていた。その場から少し離れた時、大量の人とそれに見合った音が溢れていた。さっきまで誰もいなかったのに、その状況になって驚いたが、今はそんなことどうでもよかった。
 一度、家に戻るか、と考えて歩いていたが、ふと少女が来ていた病衣のことを思い出した。そして病院に行けば何かわかるのではないかと思い走り始めた。街に入って多くの人をかき分けていたが、ふとテレビの音が聞こえてニュースが流れていた。
 それは幼くして天才と呼ばれたピアノ少女の話だった。そしてその映像の中で彼は目を疑った。その顔はあの幽霊だった。とある事故に巻き込まれて病院で入院している、とその病院の前で話していた。

 偶然の産物で病院の場所が分かった彼はそこへ向かった。その病院は街で一番大きい病院で多くの病気の治療を行っていることから救急車の出入りも多い。悲しみも苦しみも、痛みも、何もかも複雑に絡み合った音が彼の脳には届いていた。
 ガラスの扉の前までやってきて覗いていると誰もいなかった。忙しく白衣の医者や看護師、その他受付人など、病院に通う患者もその付き添いさえ、誰もいなかった。コンサートホールのことを考えると消されているのかとも思ったが、それは都合のいいことだとも彼は思っていた。ガラスの扉は人が近づいてきたからと反応して、彼は病院の中に入っていった。
 病院の受け付けを過ぎて入院棟へ向かった。入院棟へ向かう廊下には風景画が飾られていて、まるで写真のように見えるものもあった。その廊下を過ぎるとエレベーターがあり、乗り込んだが階数がわからなかった。適当に押そうとした時、その彼の右手は五階のボタンを押していた。エレベーターは動き出して五階にたどり着いたが、やはり看護師も患者も誰一人いない静かに冷たい空間が漂っていた。扉を開いて誰かいないか、としらみつぶしに探してみたが、何の音も聞こえなかった。間違えたのかと道を戻っている途中、談話室に少女の姿があった。しかし、いた、と思って入ると一瞬にして少女の姿は消えていた。
「私は愛されていない」
 談話室を出てすぐその声が聞こえて見てみると、遠くの部屋に入ろうとする少女の姿があった。彼は少女の方へ歩いて、さっき彼女がいた部屋の前に立ってその扉を開けると、その部屋は大きく、本来なら四台のベッドが入りそうなところだが、一つのベッドしかなかった。そこに眠っている少女の頭には左目にかけて包帯が巻かれていた。口には呼吸器が当てられて、右腕には点滴が打たれていた。しかしその呼吸はほとんど聞こえない。

《この子は起きますよね、先生》
《私達も尽くしましたが、彼女はおそらく目覚めることはないでしょう》
《なんで……やっとだったのに》
 眠っている少女を見ていると幻覚のように部屋が覚えている記憶が流れ込んできた。少女の母親と担当医の会話は淡々と繰り返されていた。呼吸器も点滴も追加されて、大量の薬の投与。衰弱していくにもかかわらず、少女をまるで金稼ぎの道具にしか見ていない母親の目。
《私にはこの子が大事なのに》
 大事なのはお金のため。あの者の音は鳴ったとしても響きはしない。感情として機能していない空っぽの音。軽い音に少女の言う愛情があるように見えない。

 彼はいつの間にか部屋で倒れていた。目を覚まして起き上がろうとすると霊体の少女がそれを見ていた。ビクッとしていると少女はクスッと笑った。
「君は」
「知っている」
「え?」
「あなたの言うことと私が知っていることは多分違う」
「……」
「どうしてわかったの?」
「何を」
「私のこと」
「えっと……」
「あなたは不思議な人なんだね」
「へっ?」
「聞こえていたの? あのピアノの音」
「音……ってあのホールのやつか」
「そうじゃなくて、ここの音」
「いや」
「そっか……」
 楽しそうな顔をしていた少女の表情がいきなり暗くなってしょぼんとしていた。彼はその様子に慌てて、とにかく別の話に移そうとして、少女に会った時の話をした。
「ただ音はした。雨が降り続けるような涙の音は聞こえた」
「どういうこと?」
「君が感じている不安の音」
「私の感情の音?」
「僕にはそういう音が聞こえる変な人だ」
 そう言って少女から離れようとしたが、何故か足は動かなくなっていた。その話を聞いた少女は泣きそうになっていた。
「あっ、僕が悪かったから」
「違うの……やっとわかってくれる人が来てくれたって思って……うれしくて」
 少女の涙は溢れてその雫は頬を伝って床に落ちた。すると彼の足は動くようになっていて、彼女の近くに行ってしゃがみ頭をなでようとした手は貫通することなく、ちゃんと感覚が分かるようにそこで止まり、驚きつつなでていた。


 あの日、離してしまった手を再び取るまで時間はかからなかった。慣れない手つきで鳴らしていたピアノの音に引き寄せられて、彼は見つけることが出来た。
 誰もいないホールの中で鳴り響いたピアノの音とあの子の笑顔が彼にとってやっと手に入れた幸せだった。しかし幸せは長くは続かなかった。
『まただ』
 人間どもはあの子の演奏を邪魔して、椅子を奪った。それが何度も繰り返されていた。


 泣き止み落ち着いた少女の目は少し充血したまま、何度か瞬きしながら彼を見て言った。
「優勝しちゃったのが全ての始まりだった。好きなまま弾くことが出来なくなった」
 そう言ってまた泣きそうになった心をとどめて、ゆっくり深呼吸して振り返って窓の方を向き外を見た。
「私はただ楽しくピアノを弾いていたいだけだったのに、なのに」
「……」
「でももう私には弾けない。目覚めることは出来ても、体に支障がなくても、私には」
 受け皿にたまっていた少女の感情はいつの間にか満タンになって、溢れて重くなってそれを持ち続ける力もなく落ちた。落ちた音はガラスの割れる音に似て、激流のようになった水が現実の涙としてまた反映されていた。
 彼はどうしていいか分からなかった。頭をなで続けても何も解決しないと知っていても、行動しようにも状況を打破する方法は見つからなかった。しかしふと頭に浮かんだ言葉が彼の口から洩れていた。
「僕が聞いているよ」
「えっ?」
 突拍子もないことだと理解するまで時間がかかったのは言うまでもないが、少女は驚き彼の方を見た。
「君が演奏している音もそれ以上の音も僕なら聞き取れる」
「……」
「誰かを説得することすらできない僕だけど、今も君の感情の音は聞こえている」
「……あなたはやっぱり不思議な人。どうしようもできないはずなのに、少しだけ落ち着いてきた」
 少女の涙は少し引いて、けれど体はまだ恐怖心で震えていた。流れ落ちた水が少々乾いた地面に伸び始めた蕾をつけた花はまだその色を知らない。雲に覆われていた温かな太陽が少しずつ照らしていた。恐怖に打ち勝とうとする音と取り残された気持ちが混ざり合って、彼の耳に届いていた。
「お兄さん、聞いてほしい」
「お、お兄さん!? ……あっ、びっくりしただけ」
「ふふ。あのね、聞いてほしいの」
「何を?」
「ピアノを弾いているのを」
「……ああ。しかし病院にはさすがにないんじゃないのか」
「だから行くの」
「行くって……まさか」
「そのまさかだよ」
 少女が言っていることが本当なら、彼はまた歩かなければならないのかと思って少し嫌になっていたが、それを察せられないようにした。しかしその顔が映ってしまったのか、少女はむっと少し怒っていた。
「わかった。行くから怒らないでくれよ」
 そう言うと少女は起こっていた顔をやめて、ニコッとしていた。


 病院から出た時、少女の姿は消えていた。まさか一人で行かなければならなくなるとは思っていなかった。しかしその足は軽く、走ってもそんなに疲れなかった。
 コンサートホールの周辺にいた人はまたいなくなって静かになっていた。扉は招くように勝手に開いて、少女はすでにホールの席に座っていた。彼はそれに気づいて横に座ると少女は話し始めた。
「本当はね、このホール入れないの。黄色いテープでピアノも舞台も張られているの。でも私がここに来ると何故か、それらはなくなって弾くことが出来た。あの日、弾いた曲を最後までやろうとした。けれどあの日と同じ場所で、同じように背後からの攻撃を受けて弾けなくなった。でも今日は違った。そこにお兄さんがやってきたから」
「最初から気づいていたのか?」
「もちろん。でも生者か死者か分からない私が触れてはいけないと思って……」
「だが、先に干渉してきたのは君だよ。それは無意識だったかもしれない」
「……ごめんなさい。でも不思議な音がしたの。だからだと思う」
「音?」
「反響した普通とは違う音……って言ったらわかるのかな。自然とも人工とも言えない音が、お兄さんからしたの。その音を聞いて」
「……そうか」
「怒らないの?」
「何も知らなければ怒っていたかもしれないが、もうここまで聞いたんだ。それに過去にも似たようなことはあったから。まぁ幽霊が見えたのは初めてだったが」
「……ありがとう」
 少女はそう言って、席を立ち舞台の方へ歩いていく。彼も近くで見たいと思ったのか、席を立って、ちゃんと少女が見える位置且つちょうどいい音の場所で聞くことにした。
 しかし少女がピアノの椅子に座り、舞台の明かりがついた時だった。彼はまた音の感情に引っ張られて、少女を視界の中に入れることが出来なくなった。


 何度も繰り返されてきた。我慢をしてきたがもう限界だ。
 見えないからわからない。それは単なる言い訳だ。見ようとしない愚か者はいらない。
 かつて人の身を持っていた彼だったが、一つの幸せのためにその姿を捨てた。
『邪魔』
 だからあの時、誰でもよかった。椅子を奪った人間を陥れるなら誰でもよかった。
 光を失った彼は闇の中でしか姿を現さない。それを利用として殴れるものを手に取った。
 そのものさえ、彼の手に落ちてしまえば姿を消し、強い光の前では見ることが出来ない。


「大丈夫?」
 声をかけられて彼は気がついた。あれはいったい何だったのだろうかと思いながら、心配そうにする少女に、平気だと伝えた。
「……ダメだったら言ってね」
「少し寝不足だったかもしれないが、もう大丈夫だ」
「もう、心配して損しちゃった。次はちゃんと聞いていてね」
「さっきは何を弾いていたんだ?」
「単なる練習曲だよ。指を慣らしておこうと思って……だから次が本番。最後まで弾くから聞いてね」
 少女が舞台に戻ってピアノの椅子に座り弾き始めた。それは音の感情の中で聞いた音色と変わらないが、曇っていた少女の感情は豊かになり、彼に向けているものだとはっきりした。静かに響くホールの中、音の伸びと強弱、それを楽しむ余韻まで天才と呼ばれているだけあると思ったが、少しずつ音色が広がってそれ以上のものに変わっていく。
 しかし最後の転調に向けて、少女がピアノの鍵盤に触れようとした時、彼は近づいてくる何かに気がついた。静かだったホールに響く彼の足音に少女は気づかず弾き続ける。舞台に上り、少女の後ろに立った彼の前に現れたのは、さっき見た者だった。
「お前はいったい……」
 その声に少女のピアノの音は止まった。何があったのかと振り返ろうとしたが、何故か少女の首は動かせなくなっていた。そして少女の声も徐々に彼の耳に届かなくなっていた。


 それから何度もここに足を運んでは最後まで弾こうとした。だが邪魔をした。
 ここはお前の場所じゃないと、理解させようとしたが、無意味だった。
 何をやってもここにきて最後の音を奏でようとする。
 その音は彼女のものだというのに
『お前も邪魔をするのか』
 そしてその人間の邪魔をするあれが彼の前に立っていた。
 しかし彼は違和感を覚えた。近く、けれど遠い気配を感じてあれから離れた。

 そいつはヒトじゃない。ヒト化けた何かだ。
 ヒトになりそこないの音無し様だ。
 彼はその名を口にした。だがあれには届かなかったようだ。


 背後で少女の悲鳴が聞こえたような気がして振り返ったが、そこには彼女もピアノも存在しない。それどころか舞台もホールもない。光の強さで姿を失った誰かの気配もない。
 暗く淀んだ真っ暗な空間が漂っていた。また音の感情に引っ張られたのかと思って意識を保とうとしたが、それも本物か分からなくなってきた。現実と幻覚の区別がはっきりとせず、理解が追い付いてこない。
 ただ出口は見つけた。そこに行けばきっと少女に会える。そう思っていた。

 目が覚めてみるとそこは病院だった。包帯が巻かれているのか視界が悪く何も見えない。ただ指は動き、それに反応したのか声が聞こえた。
「お兄さん?」
 それは少女の声だった。しかしその声は震えていた。包帯に巻かれてよく見えない姿を見れば誰だって恐怖するだろうと思った。だが何故病院にいるのか分からない。舞台に上がって何かを見たまでは覚えているが、それから後のことはなにも思い出せない。
「よかった。あれからずっと待っていた」
「僕は……」
 巻かれた包帯を少しずつ慣れない手つきで取ろうとする少女を手伝って、やっと少女の姿を視認することが出来た。しかしその姿は薄くなった幽霊ではなかった。人としての感覚を取り戻して、少女は成長して少し大人びていた。
「あれから五年経ったんだよ。ずっと眠っていた」
「えっ……」
「私の演奏を聞いてからホールを出て、病院に戻ろうとしていた時、いきなり倒れて運ばれたんだよ。私は何も出来なくて……でも人はいたから気づけたんだ。それからずっと眠り続けていた。感情の音が邪魔をして、死に引きずろうとしているんじゃないかって思って、私は人として再び目覚めた。家族は嬉しそうだったよ」
「でも君はそれでよかったのか」
「もちろん私を道具として使おうとしていたみたいだけど、私にはお兄さんを取り戻す目的があったから、他の曲をほっといてずっとあの曲だけを弾いていた。怒られたけど無視していたら、諦めてくれたみたい。そして謝られたよ、ごめんなさい、って。今日もここで演奏することが決まっていたの。そしたらお医者さんが……」
「そうだったのか」
 彼がそう言っている時には少女の目から涙がこぼれそうになっていた。しかしその涙を彼の手は阻止した。
「今から演奏するんだろう。泣いちゃダメじゃないか」
「だって……」
「僕はここで聞いているから」
「それじゃダメなの」
 少女は頬を膨らませて少し怒って、病室から出て戻ってくると車椅子を借りてきた。まだ左手には点滴が刺さっていたからゆっくりと動かして、彼は車椅子に座って点滴台に手をかけて、少女はそれを押して談話室に向かった。談話室には多くの人が集まり、その中心にあの日と同じ黒いピアノがあった。
 彼の座っている車椅子は演奏する少女の横に置かれた。一緒に弾いているような所で少女は嬉しそうにピアノの椅子に座って演奏を始めた。降り続けていた雨の悲しい音はもうなくて、軽やかに心地よい音は楽しさに変わり、少女の感情は晴れていた。

『それはいらない

 頭に一瞬流れた言葉を脳が理解する前に、ピアノの音が埋め尽くして
 彼はそれを模索するのはやめて、今は感情の音を閉じた
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