『霊の話』 絵描きの空
公開 2023/08/19 21:00
最終更新 2023/08/19 21:06
青い空に流れぬ雲、風吹く暑さは本格的な夏を表していた。土瀝青を踏む足は影を求めて走り出し、その汗が頬を伝って水を求めた。蝉の鳴き声が響く日々を繰り返し、涼しい場所に身を乗せて動くことを忘れていた。
 それでも人々は盆になれば墓参りを欠かさなかった。多くの人が訪れるのを一人の霊は見ていた。通り抜けて何も見えていなくても彼はそこにいた。

 白い雲に覆われていたはずの空、一瞬の空白に黒い物体が落ちた

 空を見上げた彼の目に映るのはあの日の記憶。瞬きの後に示したのは悲劇の出来事。灰色の空から落ちたそれが人々を苦しめて鮮やかな色を失わせた元凶。影となった人々、虹色に反射する水を飲んだ人々、朦朧とする人型を失いつつある人々。墓を訪れる人々がすべてそのように見えていた。
「また見える……何度も、ただ一瞬だけ」
 恐怖という感情はあの日以前の出来事から置いてきていた。けれど一瞬とはいえ、ずっと見え続けているのは余りにも苦行であった。霊となった彼の体では喉の渇きも照らす太陽の暑さも感じなかった。彼は目を閉じて何も見ないように、かすかに吹く風を感じながら人の気配が消える夜を待ち続けた。

 星きらめく涼しい風が吹く夜を描いた絵、幼い頃の幸せな記憶

 苦行を繰り返しながらも明るい空は藍色に変わって夜となった。目を覚ました彼は気配を感じて振り返る。そこには灰の霊が立っていた。
「やはりここにいたか」
「……すぐに戻りますから」
「いや、星を眺めたいと思ってね。ここに来た」
「……元気にしているといいですね」
「何がだ?」
「この前、幽霊達から聞きました」
「あ……、あの話を聞いたのか。そうだな……もう私の姿は見えないだろうが。それよりも……フィークよ」
「……はい。まだ慣れませんね」
「生前の名前よりはこっちの方がいいと言ったのは君の方だ」
「そうでしたね」
「何故か分からないが、この名を呼ぶと懐かしいと思うのだ。君を知っているわけでもないのに」
「それでも僕はあなたに感謝していますから」
「……紅い霊 フィークよ」
「何でしょう?」
「この狐火の印が何かを示しているのだとすれば、ここには多くの霊が訪れるのかもしれない」
「それがどうしました」
「私はおそらく動けなくなるだろう。この森は墓を飲み込まないとしても広がりはするだろう。その度に動ける範囲が狭まっている気がしてならない。だから訪れた者達への案内を任せてもいいだろうか」
「……断ることはしません。ただまだあなた以外を信じることが出来ません」
「それでいい。少しずつでいい」
 そう言い、灰の霊は彼とともに星を眺めていた。涼むことを忘れた夜の空は少し蒸し暑く、ざわめく風はどこかへ消えてしまった。


 それから彼は灰の霊に頼まれた案内人をしながら、霧の森の奥にある墓石を見ていた。一つは灰の霊を示したもので、それを囲むように五つの石があった。彫られているのは紅い霊としての彼のものと風の霊 トゥーリと呼ばれる者の二つだけだった。しかし何度かその地に訪れるたびに、その五つの石を囲むように八つの石が新たに現れていた。その八つの石には何か彫られているようだったが、彼はその文字を読むことが出来なかった。
 そして五つの石にも変化が起きていた。石にもたれかかった眠りについていた傷だらけで包帯を巻いていた少年の霊は水の霊 ルーレとなり、彼を認識して怯えた学生の霊は黄の霊 レッカとなって、二人とも狐火の印を持っていた。何か関係するのだと思いながらも、生前のことを考えて踏み込めずにいた。
 霧の森が広がり、灰の霊が思うように動けなくなり始めた頃、ルーレは凍りついた湖の近くの木にもたれかかって眠りについていることが多くなった。レッカは霊達との関係をたちきり、綺麗な花畑のお世話をするようになった。そしてその花畑は季節関係なく異常な気象のせいですべての花が咲くようになった。彼はというと案内人として動いていたが、二人との関係は全く動いていなかった。

 霧の森にいる霊は彼らだけでなく、様々な幽霊が何かを抱えてとどまっていた。そのせいで多くの出来事が霧の森の中で行われて、変化するとともに維持もされた。生前にやっていた行動を繰り返す幽霊の中に絵を描いている者がいた。彼は最初、何をやっているのか覗きに行く程度だったが、その幽霊の方が気づいて彼の絵を描いてくれた。
「若いのにご苦労なことだ」
「……いえ」
「ほら、ここに座りなさい。休憩がてら君の絵を描いてあげよう」
「……」
「遠慮はいらんよ。むしろ描いてみたいとずっと思っておったのじゃ」
「……はい」
 彼はそう言われて仕方なく椅子に腰かけた。老爺の幽霊は彼が座ったのを確認しながら、画架を設置して帆布を置いた。そしていろんな濃さを持つ鉛筆を取り出して座って描き始めた。会話もなく静かな空間が流れていたが、少しだけ感じる風の気配とそれによってもたらされる草木の重なる音が眠気を誘うような安らぎを与えていた。
 疲れからか彼の瞼はいつの間にか落ちていて眠りについていた。しかし老爺の幽霊は関係なく、鉛筆から筆に持ち替えて、調色板に絵の具を出していた。眠っている彼の顔が見えなくなっているにもかかわらず、老爺の幽霊は気にせずにその筆を止めることはなかった。
「……はっ」
「よく眠っておった」
「すみません!」
「いいんじゃ、それだけ疲れておるんじゃろう。それにわしの描く絵は人物画ではない」
「えっ?」
「わしが描くのは抽象画のような何も言えないものなのじゃ」
 そう言って老爺の幽霊は画架を動かして彼に見せてきた。

 人物を残して染まる灰色の空と溶け合う黒い雨、あの日感じた悲劇の記憶

 彼はその絵を見て目を背けた。何度も繰り返し、一瞬の時でさえ苦しんだ風景を見せられているという現状に、その絵を燃やしたくなった。
「……その絵はいりません」
「うん? あっ、これじゃないわい。これは別の誰かじゃったかな。えっと……あ、これじゃ!」
 そう言って老爺の幽霊はさっきの絵を取り上げて、違う絵を置いた。それはさっきと違っていた。

 幼き子と読み聞かせの母、囲まれた絵は彼女の趣味

 それは彼の幼い頃の記憶を写し取ったと思われる絵だった。彼は驚きつつ、その絵を見て気づかないうちに泣いていた。
「ずっと苦しかったんじゃな」
「……」
「おぬし、戦争に参加しておったようじゃな。心が濁っておった」
「心……?」
「それも深い傷じゃ……でもそんな状態でも穢されていなかったものがあった」
「それがこの絵」
「そうじゃ」
「あの」
「言わんでもやるわい。嫌な記憶の中でも忘れることのなかった大切なものじゃからな」
「でも」
「いい経験が出来た。それだけでいいんじゃ! そうじゃ! おぬし……絵に興味はないか?」
「絵ですか? うーん」
「考えるということは興味あるんじゃな」
「えっ あっ」
「この画材達をおぬしにやろうと思ってな」
「どうして?」
「もう少しで迎えが来るのじゃ……だから受け取ってほしい」
 老爺の幽霊が差し出した画材達が彼のもとに渡った。すると老爺の幽霊は安らかなほほえみとともにその姿をくらませた。瞼が閉じる前に消えてしまった老爺の幽霊を彼は探していたが、その空間には最初から誰もいなかったかのように静かになっていた。しかし老爺の幽霊が描き続けたと思われる絵だけが、その存在を認識させていた。


 老爺の幽霊が残していった画材を手に彼は下手ながら絵を描いていた。幼い頃、彼の母はよく絵を描く人だった。その絵が上手かどうか幼い頃の彼にはわからなかったが、風景画も人物画も描いては部屋に飾っていた。それは引き裂かれる前の幸せな記憶。
 ずっと奥に仕舞い込んでいた記憶は呼び起こされて、紅い霊 フィークとなった彼はその筆を取っていた。案内人の役目も少し落ち着き、時間が出来てから何枚もの絵が出来上がったが、それは抽象画と呼べるか怪しいものばかりだった。
 同じような出来になる絵を見てため息をついていると、風がないのに草木の音がしてその方を見ると、黄の霊 レッカがいた。見つかったと思ったのか、逃げ出した跡には鮮やかな色の花びらがたくさん落ちていた。それを追うと近くでしゃがんでずっと謝っていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい。邪魔してごめんなさい」
「……大丈夫だ」
「えっ」
「え? って……こちらこそ集中してて気づかなかった。どうかしたか」
「あの……灰の霊がフィークを探して来いって。伝言は言ったから……ぼ、僕はもういいよね」
 そう言って礼をするとレッカは走り去ってしまい、彼は伝えてくれたことに対する感謝を言えずに立っているだけだった。
 ひとまず画材を片付けて彼は灰の霊のもとへ向かった。霧の森が広がった原因で思うように動けなくなった灰の霊はその森の中心地点に部屋という名の家を作り、彼や狐火の印を持った霊を介して、他の幽霊達との会話をするようになっていた。彼を呼ぶということは他の幽霊達に何かあったのかもしれないと考えていた。
 扉を軽くたたいて灰の霊の返事が返ってきて、少し重い扉を開けて入った。
「遅くなりました」
「いや……早かったよ。まだお茶も入れていない。それよりも絵を描いているらしいじゃないか」
「あっ……そうですね。老爺の幽霊が画材をくれたので、お試しですが描いています」
「その絵を飾りたいと思っているのだがどうかね」
「……」
「失敗作でも構わん。私が選ぶのだから……もしかして枚数が多いか?」
「まぁ、かなり……描きましたね」
「時間はたっぷりある。それに一人で運ぶのが無理であれば、そこら辺にいる幽霊達に頼むとよい。それくらいはやってくれるだろう」
「……わかりました」
 そう言い、彼は隠していた絵の場所へ向かい、枚数を確認していると幽霊達が集まってきた。灰の霊に言われたのか、そうでないのかわからないが、じっと見ていた。
〈運んでいくよ 手伝うよ まだ人いる?〉
 声は重なりながら、一つずつの言葉を放っていた。彼は集まってきた幽霊達ひとりひとりに絵を持たせた。彼が先頭に立つとそれに幽霊達はついてきた。
「道は大丈夫なのか?」
〈大丈夫……だよね 行ったことあるから知っている たぶん平気〉
 幽霊達の意見が一致していなかったから彼は不安になっていた。するとレッカが花束を持って彼のもとに来た。
「何……やっているの?」
「レッカもどうした?」
「綺麗に咲いたから……って言ったら、灰の霊が飾りたいって……この幽霊達は?」
「絵を運んでもらっているんだけど、これから灰の霊の場所に戻ろうとしていて、幽霊達が結構いるから、はぐれそうで」
「……僕で良かったら、最後尾にいるよ」
「いいのか!」
「うん……。だから進んでいていいよ」
 まだ少し怯えながらもレッカは彼のことを信用できる霊として置いていた。ルーレとの関係性はまだまだかかりそうだが、彼は少しレッカに心を許してもいいと思い始めていた。

 レッカのおかげもあって、幽霊達がはぐれることなく彼の絵をすべて運ぶことに成功した。灰の霊は心底喜んでいたが、かなりの時間を要すると言って、彼とレッカは扉の外に出された。レッカは花束を届けることが出来たために、花畑に戻っていった。一人残された彼は扉の近くで待ち続けた。
 すると扉が動いて彼の背に当たって少し驚いた。灰の霊が出てきたが、足にはいつの間にか枷がついていて、重々しい音が鳴っていた。
「……」
「枷が気になるか?」
「あっ、いや……」
「これも霧の森が広がった原因かね。今は片方だけだが、両方に、手にも鎖が繋がるかもしれない」
「どうして」
「わからないが……記憶をなくしている私に関係があるのだろう。それよりも飾ってみたのだがどうだろうか」
 灰の霊は頑張って足を動かしつつ、部屋に戻ろうとしていた。それに彼もついて行って部屋にたどり着くと、灰の霊が座る椅子の後ろの壁に一枚の絵が飾られていた。

 揺れ動く心に曇り多く 灰色の空が見え隠れしたその日々の記憶

 それは彼が老爺の幽霊から譲り受けた画材で書いた最初の絵だった。老爺の幽霊の絵を見て、真似をしてみたはいいものの、あまりにも色がなく、あの日の灰色の風景に似てしまった絵だった。
「どうしてこの絵を選んだんですか?」
「うん? これがいいと思ったからだ」
「……そうですか」
 彼の暗い返事に灰の霊は疑問をかけようとした。しかし彼の生前のことを思い、それ以上のことを問うことはなかった。だがその代わりに何かを握らされた。それは空色の絵の具だった。ただ彼にはそれが空色には見えなかった。
「これは?」
「老爺の幽霊が言っていたのだが、その人によって色の見え方が違うらしい。その顔だと君には別の色に見えているのか?」
「別の色? はっきりとはわかりませんが、ほんのり青く、ほとんど白に見えます」
「そうか……そうだな。良い頃合いだろう」
「何がですか?」
「霧の森から出る許可書を上げよう」
「出て行けというのですか!?」
「そういうわけではない。この絵も他の絵もそうだが、君はとらわれすぎている。自由に絵を描きたいと思わないかい?」
「自由に……でも案内人の役は誰がやるんですか」
「あの子達は十分成長しただろう」
「それは誰のこと……まさかさっきの」
「そうだ。あの幽霊達だよ。あの子達なら、まぁ少し心配だが役目は果たしてくれるだろう。それに君を信じた霊は他にもいるだろう」
「……」
「何かあれば、あの日のように声を通して導くことは出来るだろう」
「心配ですが、少しだけ甘えようと思います。数日の外出許可が……」
「数日じゃなくていいぞ。かわりにだが、完成した絵は見せてほしいな」
「……はい、頑張ります」
 灰の霊に送り出されてしまった彼の前に現れたのはあの幽霊達だった。彼を見てその顔が一致すると画材と帳面を持っていた。両手を上にあげて彼に届くようにしていたが、足の均衡が崩れて転びそうになるのを他の幽霊達が支えていた。
〈頑張るよ 大丈夫 無理しないで〉
 画材と帳面を渡しながら幽霊達が放つ言葉はこれからの役目に対するものと彼に向けられた想いだった。
「ありがとう……行ってきます」
 彼は幽霊達に一言告げると渡された画材を持って、霧の森の入り口までやってきた。

 永遠の日 夕暮れと夜の境界線 藍と橙に飛ぶ白き鳥


 暑い日差しが照りつけて、影も薄くなった場所に座り込む人々。手をうちわのようにして風を送ろうとしても、涼しい風はなく、暑さで覆われた温風しか吹かなかった。それを素通りしていく紅い霊 フィークは汗一つかかずにいた。太陽に照らされた黒い石にもたれかかって、帳面を開いて鉛筆で下書きしていた。雲一つない快晴の空だが、一瞬の瞬きが灰色の空へと変えた。未だに起こる現象のせいで、鉛筆は止まり帳面は閉じられた。
 人だかりを避けていろんな場所へと赴いた。かつての戦場の痕跡は残っていなかった。しかしあの日の記憶を映し出してしまう目はすべてを廃墟へと変えた。そして見ることを恐れた人々さえ、その原型をとどめることなく近づいてくる時、彼の姿が見えていないとしても恐怖を置き去りにしたはずなのにしゃがんでずっと目を閉じていた。

 崩れゆく顔は溶けだした氷のよう 灰色の影はいつまでも残り続ける

 すべての風景があの日の記憶に置き換えられる。それを思いながら彼はいつしか海に来ていた。ごみ一つない綺麗な砂浜に青い諧調の海、遠くに見える島のような黒い影を覆うような白く見える空。実際は太陽の光に照らされ過ぎて、水色のはずの空は白くなっていた。自然あふれる木々から零れ落ちる風が心地よく、静かな空間に流れ着く波の音が彼を癒していた。
 彼は疲れからその風景を見ながら瞬きしてしまった。しかし風景は何も変わらなかった。何度それを繰り返しても変わることはなかった。ここなら描けるかもしれないと思って帳面を開いていると誰かの気配がした。そこにいたのは少女だったが、その姿は薄く、おそらく幽霊だろうと彼は思った。
「……何描いているの? なんで隠すの?」
「君は誰だ」
「わからない。でも最後に見たのは眩しい光だけだったよ」
「光? 太陽でも見たのか」
「ううん、違う。黒い物体だった」
「黒い……物体」
「うん、そうだよ」
「それは……」
「お兄さんは知っているの?」
「……」
「知っているんでしょう。あなたの心が言っている」
「読めるのか?」
「うーん、そうなのかな? 深く傷ついた心にしおれた花があったから……色を失った花があったから」
「花?」
「うん……眩しい光がすべてを覆いつくしてしまった後、私にはそれが見えるようになった。そしてずっとここにいるの。一度は色を失ってしまったけれど、海は再生した。空と海は繋がっていて、いろんな色を見せてくれる」
 少女は会話を広げる中で嬉しそうに彼に話していた。彼はそれを聞いているだけだったが、自分が死んでいるという事実を少女は知っているのか疑問に思った。しかしそれを問いかけることはなく、会話は途切れて少女は砂浜を走っていた。
 彼は帳面を開いて二つに折ると、ちょうどあった石の階段に座った。下書き用に取り出したいろんな濃さの鉛筆で、彼の目に映る風景を描いていた。そこに少女もいて、動き回るから邪魔と思っていたが、風景の一部として取り入れるにはちょうど良かった。
 しかし下書きがある程度完成したと思った時、瞬きの後に広がっていたのはあれが落ちる瞬間だった。それも少女が見ていたと思われる風景そのものだった。綺麗な砂浜も諧調の海もなく、辺り一面灰色に染まっていた。
「お兄さん? 大丈夫?」
「……はっ」
 少女に話しかけられて、現実の風景に戻っていた。克服したと思われていたものはただの偶然に過ぎなかったのかもしれないと冷や汗をかいていた彼の背中を少女はさすっていた。
「いたいの いたいの とんでいけー」
「……」
「お兄さん」
「……もう、大丈夫だ」
「本当に? まだ苦しそうだよ」
「僕の花はどう見える」
「赤い液体が花から流れている。透明じゃないから水じゃない……」
「血か」
「怪我しているなら治癒しないと死んじゃうよ」
「僕はもう死んでいるよ」
「違うの! 花が死んだら心がなくなっちゃうの」
「え?」
「だから止めなきゃ……でも心の怪我ってどうやって治したらいいの」
「安静にするほかないんじゃないか?」
「そうかも? でも目を閉じて大丈夫なの」
「……」
「お兄さん……私がそばにいてあげる。だから大丈夫」
「何の保証が」
「わからない……でもそばにいたいからいるだけ。邪魔はしないから」
「そうか……」
 彼は話しつつもその瞼は重くなり、意識は暗転した。少女は彼の手と取り、握って祈っていた。

 海を越えた遠くの世界 幼き夢は描き手の想いを繋ぐ

 快晴の空、日差しの強い朝。彼の姿は幼く、その姿を見ていたのは母だった。小さな村で暮らしていた。父に関する記憶は砂嵐で覆われて何もわからないけれど、母はいつもその人に関して話をしてくれた。けれどその人の名前はいつも消されていた。
 母は趣味で絵を描いていた。彼が遊びに行っている間も眠っている間も、少しずつ絵は描かれていた。風景画が多くを占めていたけれど、村の人に頼まれて人物画も描いていた。絵が上手いと評判に上がったわけではないが、村の人は喜んで彼女に頼んでいた。彼もそれを見て絵を描きたいと母に言ったら、すごく喜んでくれたことを思い出した。
 夢の中で幸せだった風景を一枚一枚、絵に起こして飾られた空間は少しずつ色を失って、かわりに血みどろになっていく。戦争の影が彼を苦しめる。しかし彼の目の前に浮かぶ空色の絵の具が血みどろを消していた。

 砂浜走る少女 諧調の海はどこまでも続く それが未来の道

 彼が目覚めるとその瞳から流れ落ちた涙が頬を伝った。揺るぐ視界はそのせいだと気づいた。少女は彼の手を握ったまま祈り続けていた。その痛みはないが、明らかにその姿は消えかけていた。
「よかった……これでもう大丈夫だね」
「……消えかかっているじゃないか」
「? あれ……」
「気づいていなかったのか」
「うん……でももうあなたの花が枯れることはない」
「どうしてそう言い切れる」
「苦しむ必要がないからだよ。空っぽになった絵の具はもう役目を終えたから」
「えっ」
「持っているんでしょう? 空色の絵の具。見る人によって色が変わる絵の具」
「僕にはほとんど白に見えた」
「そう、それが求めた色。忘れたいと願った色。でも少しはまだ青いままで、すべてが白に染まることはなかった。全てを忘れてしまったら、幸せだったことも思い出せなくなることを恐れた」
「……どこまで知って」
「私は知らないよ。でも花は教えてくれた……もう見えなくなってきたけど」
 少女の姿はかろうじて見えている状態になりながらも話し続けていた。帳面の下書きはまだ色がつかない白黒のままのはずだったが、空だけは薄っすらと色がついていた。
 彼は少しだけ目を閉じた。もうあの日の風景が映ることはないが、かわりに少女の花が見えた。しおれることなく自立した白い花が何枚も花びらを散らしても綺麗に咲き続けていた。悲しみで花びらを散らしているはずなのに、少女は涙を流すことなく彼を見続けていたのだった。彼は目を開けて、帳面に色をつけ始めた。迷いは何もなかった。
「お兄さん?」
「やる」
「この絵いいの?」
「悲しみで散るよりはましだろう」
「……もしかしてお兄さんも見えるようになった?」
「花の話か……どうやらそうみたいだ」
「そっか」
「悪いか」
「そうじゃないよ……嬉しかったんだよ」
 そう言い少女は初めて彼に涙を見せた。帳面に描いた絵にその涙が落ちることなく蒸発し、風に流れて消えていく。しかし受け取った手は徐々に形を失い、その絵は少女とともに消えなかった。
「でも持っていけないみたい」
「……」
「じゃあ、いつかあなたが」
 言いかけた少女は完全に消えてしまった。でもその口は最後の言葉を彼に告げていた。

 絵描きの空に想いを 再会の鬼灯に 会いたいと願うなら


 雲一つない空、快晴というべきかどうかその日々が続いていた。暑さに負けて影に涼まる意味をなさない熱風が吹いて、水分補給の飲み物もすぐになくなった。日差しが暮れて夜になっても暑さが残り続けた。
 紅い霊 フィークは霧の森に戻ってきていた。あの出来事のおかげであの日の記憶を見続けることはなくなったが、かわりに少女が宿していた心の花を見ることが出来る力を得てしまった。別の意味で苦しくなったが、すぐにそれは制御できたから、むやみに見ることはなかった。
 あれから絵を描くことはやめてしまったが、たまに幽霊達に頼まれて描くことはあった。幽霊達は彼の案内役の補助をよくやってくれていた。
〈描いて ダメだよ邪魔しちゃ お願い まだ〉
 幽霊達は気ままに彼に頼んできた。肯定も否定も聞こえる中、彼の絵を楽しみにしていた。

 紅い向日葵が咲く灰色の世界 白い花が咲く諧調の海と砂浜

 二つの絵は帳面に書かれた唯一の絵だった。紅い向日葵の絵はあの日の記憶を、白い花はあの出来事を映しとったものだった。
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