誰も知らない現世を生きる二人の幽霊 第二章 動き出した世界はもう戻りはしない(2/2)
公開 2024/10/09 11:09
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第五節 彼岸に囁く気配に怪しげな断片
静かな風に揺れる草木が夜を照らす月と重なる。その光を見つめる陰影の幽霊 ルティは立っていた。包帯が巻かれていた足はほどけて傷が見えており、痛々しい姿は見るも無残に見えざる者達を引きつけていた。しかしその側に一輪の黄色い彼岸花が咲いていて、それ以上近づこうとしなかった。毒がしたたり落ち、それが地面を伝って見えざる者達の動きを止めていた。
『どこか懐かしく けれど何もわからない』
ルティはそう思い、月を見続けていた。すると見えざる者達の気配が薄まり、いつもの風がルティの側に辿り着いた。空夜が来て彼女の体をゆすった。その目は本当に月が映っていたのかわからない瞳の色をしていた。
「相変わらず……生き霊風情が」
「……」
「ルティ」
「……」
「おい!」
「……空夜? ごめんね……何か、何かを、わからないけど」
「記憶の断片みたいなものか……その花が教えてくれたのか」
「うん」
「……彼岸花か。毒があるから触れるなよ……って言っても足がもうついてやがる。どうせ痛くないんだろう」
「痛く……ない。それよりもどこかに行こうとしていたんじゃないの?」
「え、ああ……墓に行こうと思ってさ。ルティも来るか?」
ルティは頷くものの、何故今なのかわからなかった。空夜曰く、お彼岸と呼ばれている頃に値するらしい。彼はルティの墓を探していたものの、存在そのものが固定化していないせいなのか、見つけられなかった。しかしルティの放つ気配というものは記憶を失っているとはいえ、何かと繋がってはいた。その墓には何もされずに放置されて、腐り始めてもおかしくないのだが、何かしらの力に守られている気がした。
「ここを掃除するの?」
「ああ。ルティは待っていていいからな」
「どうして?」
「そんな傷だらけで手伝えなんて言えないが」
「でも何かしたいよ」
「……掃除は難しいから、線香を上げる時だけな」
「それってほとんど終わった後じゃ……」
「そうだが」
「……」
墓の様子を見るに木々が生い茂って、手伝うより邪魔になりそうだとわかりつつもしょんぼりしていた。空夜は黙々と木々を伐採し、少し苔むした墓を掃除しようとバケツに水を入れて戻ってきた。石が綻(ほころ)んでヒビが入っているが、その墓石が倒れることはなく固定されていた。コップに水を入れて、花立に赤色の彼岸花を供えたがまだ咲いていなかった。暑さが原因でまだ開くことを思い出せていなかった。
ざわめきはなく静かな風が吹いていた。夜を照らすのは月の光のみで、その光に照らされた水は反射して、灯火のような明るさを作り出していた。線香に火をつけて、その一本をルティに渡した。椅子代わりとして座っていた収納庫から立ち上がり、墓に線香を立てた。手を合わせて目を閉じるが、記憶もなく空っぽなルティには何を思えばいいのかわからなかった。
綺麗になった墓には読めるほどの刻み文字は残されていなかった。のっぺらぼうのような墓だが、空夜には何かが見えていた。
墓から出ていつもの場所に戻るさなか、月は傾いて夜の終わりを告げる。まだやり終えていないことが山ほどあるのに、空夜はルティを抱えて走り出した。いきなりのことで驚いていたが、ルティは暴れることなく身を任せてじっとしていた。しかしあと少しというところで藍色は過ぎ去っていた。
重さが一気に軽くなり、空夜は走ることをやめた。朝の日が別れを告げさせることなく残酷に現れた。彼はあの墓に刻まれた文字を思い出して呟いていた。
『繋ぎ 願い 幸せ 過去は未来になく 未来にその姿は無い』
第六節 触れる闇が導く恐怖の瞳
夕日流れる空、見慣れない土地。土瀝青を隠すのは生い茂る森。ひっそりと存在する家は点々とし、その静かさに驚きを隠せない。夜が来るその時間にクラールは立っていた。迷い込んだような感覚に襲われて、光もない暗闇に招かれた彼は逃げるための出口を探して浮いていた。
ふと人影が通り、それが一つの場所に集まっていた。茂る森の中、一人の幽霊がそこに座っていた。傷だらけの体に巻かれた包帯が今にも解けてしまいそうな破れようで、ところどころ赤く滲んでいた。それ以外は暗くてよく見えなかったが、近づいて見ようともお思わなかった。地上に降りてから穢れを受けてしまったクラールは少しでも白いままでいようと、良くないと思われるものに触れることを拒んでいた。
するとその人影がその幽霊に触れようとした時、誰かの声がした。その声に驚いて人影はみるみるうちに姿をくらませていなくなっていた。
「またか……」
「空夜?」
「大丈夫か、ルティ」
「うん」
その声の主は妖怪だった。その幽霊と親しく話す姿は先ほどまでの威圧はなく、やわらかく安心した声になっていた。二人がどこかに行くまで静かに待っていたが、風が少し拭いた時に草木が揺れて体に当たり動いてしまった。
「誰だ!?」
「どうしたの」
「まだいるかもしれないから見てくる」
そう言ってクラールの方に向かってくる妖怪だったが、間一髪というところで逃げ出した。しかし妖怪の目には一瞬であったが、クラールの姿が映っていた。
妖怪から逃げ出すその時、舌打ちが聞こえて振り返らずにずっと飛び続けていた。恐怖に怯えていたが、気配が遠くなるのを感じて止まったらもう追っては来ていなかった。逃げ出した先にも人影はいたが、クラールに興味を示すことなく通り過ぎていった。夜はまだ始まったばかり、深い闇から抜け出すにはまだ時間が必要だった。
第七節 重なる光が導く出会いの道
温かな光を放つ空、見慣れない土地。緑色を忘れた土瀝青の地面。木々は住宅街に追いやられて、空夜は神社に立っていた。神頼みをするような性格ではないのだが、その他の妖怪からの頼まれごとで訪れていた。鳥居をくぐり、本殿までの長い階段を上っていた。その途中、観光に来たいろいろな者達の声が聞こえていた。その中に天使を連れた幽霊がいた。
「ここの記憶は幼い頃のものだけ……それ以外は何もわからない」
通り過ぎる中でそれしか聞き取れなかったが、『記憶』という言葉にルティのことを思い出していた。しかし頼まれごとを遂行するため、一度そのことは忘れることにした。頼まれごとといっても、ただ御守りを買ってきてほしいということだった。
お参りをした後、せっかくだから辺りを散策してみることにした。すると茶屋と噴水があった。そういえばおはぎを買ってきてほしいとか言ったやつがいたな、と思って御守りとついでに買ってやることにした。噴水は細い水がかなり高く上がっていた。大量のさまざまな色をした鯉が泳いでいたが、苔に塗れているのか水は濁っていた。自然豊かで静かな噴水を眺めているといつの間にか鳩が集まっていた。
「この風景をルティにも見せてやりたいな」
夜の間しか行動できない彼女にこんな遠くの場所の風景はどうやっても見せられなかった。いろんな場所を訪れて記憶を取り戻す手助けをしたいと思っていたが、その心とは反対に離れたくない気持ちも持ち合わせていた。
そう呟いていると背後で音がした。小石で作られた道を歩いていたのはさっきの幽霊と天使だった。しかし二人は空夜の姿が見えていないらしく、気づかないまま通り過ぎてしまった。だがその足取りは止まり、天使が幽霊の名前を呼んでいた。
「なんか食べていこうよー、リフォ」
「なんで? ただクラールが休みたいだけでしょ」
「だって……?」
「どうしたの? あっちになんかいるの?」
「……ううん、鳩が飛んでいたから」
そう誤魔化しているが、どうやら天使には空夜の姿が映っているようだった。幽霊は首を傾げるがすぐに、天使の要望も聞かずに神社から離れていった。空夜を確認しつつも置いていかれると思った天使は急いで幽霊について行った。空夜はその二人を追おうとしたのだが、噴水から小石の道に出た時にはその姿を確認することができなかった。
第八節 日の光に照らされて
物置に置かれたベッドが赤く染まったのは恐怖でしかなかった。まるでそこで人が死んだような形を残した赤色。部屋の奥に置かれ、取り出すにもそこに行くにもその他の荷物を運ばないと道がないのに、どうやってあんなものが出来上がったのかわからなかった。
しかしそれが錯覚であったかのように消えてしまったのはすぐのことだった。誰もベッドのことなど覚えていなかった。だから「あれは夢だったんだ」と思うことしか出来なかった。でも忘れてはいけない気がして、ずっと頭の隅にその記憶が残り続けていた。
『砂嵐はずっと頭の中に渦巻いて離れない』
ふと「こんなだっけ?」と迷う日々が増えた。今まで感じていたものが少しだけズレているような気がした。あのベッドを見てからずっと何か違和感を感じていた。けれどそれが何なのか分からないまま、気のせいだと流すしかなかった。
その部屋に訪れるたびに思い出しても、もうそこに実物はなかった。けれど床には血だまりが残っていた。靴下に染み込んだ赤色が腐臭を取り込み、風のない空気が気持ち悪さを増幅させて吐き出そうとしていた。しかしすぐに「そんなことはなかった」と赤色はなく、血だまりの床は埃がたまっているだけの普通の床になっていた。
『砂嵐は虚ろな瞳を映しては消える』
幻覚に押しつぶされ、今生きているこの記憶さえ本物かどうかわからなくなっていた。けれどあれ以来、変なことは起きなくなった。だから気にとめなかった、そんなこと忘れていた。しかしそれが嘘であったと気づいたのは思い出せない空白の時間だった。
認識を阻害されていた空白の記憶、「そこに誰かいた」という違和感がほどける。砂嵐が映し出すのは本物の記憶で、この世界はすでにズレてしまっていた。しかしどうしてそんなことに気づいたのかわからない。それもよりによって何故「私」なのかと。
『砂嵐は再来し その空白がすべてを隠す』
残されたという感覚もなく、それはいつの間にか変わっていた。二つの世界に分裂したと気づいたのはあの飴玉だった。けれどそれさえも偽物の記憶でしかなかった。砂嵐に覆われた本物の記憶は空白の時間の中で変わってしまった。何もかも手遅れだった。
静かな風に揺れる草木が夜を照らす月と重なる。その光を見つめる陰影の幽霊 ルティは立っていた。包帯が巻かれていた足はほどけて傷が見えており、痛々しい姿は見るも無残に見えざる者達を引きつけていた。しかしその側に一輪の黄色い彼岸花が咲いていて、それ以上近づこうとしなかった。毒がしたたり落ち、それが地面を伝って見えざる者達の動きを止めていた。
『どこか懐かしく けれど何もわからない』
ルティはそう思い、月を見続けていた。すると見えざる者達の気配が薄まり、いつもの風がルティの側に辿り着いた。空夜が来て彼女の体をゆすった。その目は本当に月が映っていたのかわからない瞳の色をしていた。
「相変わらず……生き霊風情が」
「……」
「ルティ」
「……」
「おい!」
「……空夜? ごめんね……何か、何かを、わからないけど」
「記憶の断片みたいなものか……その花が教えてくれたのか」
「うん」
「……彼岸花か。毒があるから触れるなよ……って言っても足がもうついてやがる。どうせ痛くないんだろう」
「痛く……ない。それよりもどこかに行こうとしていたんじゃないの?」
「え、ああ……墓に行こうと思ってさ。ルティも来るか?」
ルティは頷くものの、何故今なのかわからなかった。空夜曰く、お彼岸と呼ばれている頃に値するらしい。彼はルティの墓を探していたものの、存在そのものが固定化していないせいなのか、見つけられなかった。しかしルティの放つ気配というものは記憶を失っているとはいえ、何かと繋がってはいた。その墓には何もされずに放置されて、腐り始めてもおかしくないのだが、何かしらの力に守られている気がした。
「ここを掃除するの?」
「ああ。ルティは待っていていいからな」
「どうして?」
「そんな傷だらけで手伝えなんて言えないが」
「でも何かしたいよ」
「……掃除は難しいから、線香を上げる時だけな」
「それってほとんど終わった後じゃ……」
「そうだが」
「……」
墓の様子を見るに木々が生い茂って、手伝うより邪魔になりそうだとわかりつつもしょんぼりしていた。空夜は黙々と木々を伐採し、少し苔むした墓を掃除しようとバケツに水を入れて戻ってきた。石が綻(ほころ)んでヒビが入っているが、その墓石が倒れることはなく固定されていた。コップに水を入れて、花立に赤色の彼岸花を供えたがまだ咲いていなかった。暑さが原因でまだ開くことを思い出せていなかった。
ざわめきはなく静かな風が吹いていた。夜を照らすのは月の光のみで、その光に照らされた水は反射して、灯火のような明るさを作り出していた。線香に火をつけて、その一本をルティに渡した。椅子代わりとして座っていた収納庫から立ち上がり、墓に線香を立てた。手を合わせて目を閉じるが、記憶もなく空っぽなルティには何を思えばいいのかわからなかった。
綺麗になった墓には読めるほどの刻み文字は残されていなかった。のっぺらぼうのような墓だが、空夜には何かが見えていた。
墓から出ていつもの場所に戻るさなか、月は傾いて夜の終わりを告げる。まだやり終えていないことが山ほどあるのに、空夜はルティを抱えて走り出した。いきなりのことで驚いていたが、ルティは暴れることなく身を任せてじっとしていた。しかしあと少しというところで藍色は過ぎ去っていた。
重さが一気に軽くなり、空夜は走ることをやめた。朝の日が別れを告げさせることなく残酷に現れた。彼はあの墓に刻まれた文字を思い出して呟いていた。
『繋ぎ 願い 幸せ 過去は未来になく 未来にその姿は無い』
第六節 触れる闇が導く恐怖の瞳
夕日流れる空、見慣れない土地。土瀝青を隠すのは生い茂る森。ひっそりと存在する家は点々とし、その静かさに驚きを隠せない。夜が来るその時間にクラールは立っていた。迷い込んだような感覚に襲われて、光もない暗闇に招かれた彼は逃げるための出口を探して浮いていた。
ふと人影が通り、それが一つの場所に集まっていた。茂る森の中、一人の幽霊がそこに座っていた。傷だらけの体に巻かれた包帯が今にも解けてしまいそうな破れようで、ところどころ赤く滲んでいた。それ以外は暗くてよく見えなかったが、近づいて見ようともお思わなかった。地上に降りてから穢れを受けてしまったクラールは少しでも白いままでいようと、良くないと思われるものに触れることを拒んでいた。
するとその人影がその幽霊に触れようとした時、誰かの声がした。その声に驚いて人影はみるみるうちに姿をくらませていなくなっていた。
「またか……」
「空夜?」
「大丈夫か、ルティ」
「うん」
その声の主は妖怪だった。その幽霊と親しく話す姿は先ほどまでの威圧はなく、やわらかく安心した声になっていた。二人がどこかに行くまで静かに待っていたが、風が少し拭いた時に草木が揺れて体に当たり動いてしまった。
「誰だ!?」
「どうしたの」
「まだいるかもしれないから見てくる」
そう言ってクラールの方に向かってくる妖怪だったが、間一髪というところで逃げ出した。しかし妖怪の目には一瞬であったが、クラールの姿が映っていた。
妖怪から逃げ出すその時、舌打ちが聞こえて振り返らずにずっと飛び続けていた。恐怖に怯えていたが、気配が遠くなるのを感じて止まったらもう追っては来ていなかった。逃げ出した先にも人影はいたが、クラールに興味を示すことなく通り過ぎていった。夜はまだ始まったばかり、深い闇から抜け出すにはまだ時間が必要だった。
第七節 重なる光が導く出会いの道
温かな光を放つ空、見慣れない土地。緑色を忘れた土瀝青の地面。木々は住宅街に追いやられて、空夜は神社に立っていた。神頼みをするような性格ではないのだが、その他の妖怪からの頼まれごとで訪れていた。鳥居をくぐり、本殿までの長い階段を上っていた。その途中、観光に来たいろいろな者達の声が聞こえていた。その中に天使を連れた幽霊がいた。
「ここの記憶は幼い頃のものだけ……それ以外は何もわからない」
通り過ぎる中でそれしか聞き取れなかったが、『記憶』という言葉にルティのことを思い出していた。しかし頼まれごとを遂行するため、一度そのことは忘れることにした。頼まれごとといっても、ただ御守りを買ってきてほしいということだった。
お参りをした後、せっかくだから辺りを散策してみることにした。すると茶屋と噴水があった。そういえばおはぎを買ってきてほしいとか言ったやつがいたな、と思って御守りとついでに買ってやることにした。噴水は細い水がかなり高く上がっていた。大量のさまざまな色をした鯉が泳いでいたが、苔に塗れているのか水は濁っていた。自然豊かで静かな噴水を眺めているといつの間にか鳩が集まっていた。
「この風景をルティにも見せてやりたいな」
夜の間しか行動できない彼女にこんな遠くの場所の風景はどうやっても見せられなかった。いろんな場所を訪れて記憶を取り戻す手助けをしたいと思っていたが、その心とは反対に離れたくない気持ちも持ち合わせていた。
そう呟いていると背後で音がした。小石で作られた道を歩いていたのはさっきの幽霊と天使だった。しかし二人は空夜の姿が見えていないらしく、気づかないまま通り過ぎてしまった。だがその足取りは止まり、天使が幽霊の名前を呼んでいた。
「なんか食べていこうよー、リフォ」
「なんで? ただクラールが休みたいだけでしょ」
「だって……?」
「どうしたの? あっちになんかいるの?」
「……ううん、鳩が飛んでいたから」
そう誤魔化しているが、どうやら天使には空夜の姿が映っているようだった。幽霊は首を傾げるがすぐに、天使の要望も聞かずに神社から離れていった。空夜を確認しつつも置いていかれると思った天使は急いで幽霊について行った。空夜はその二人を追おうとしたのだが、噴水から小石の道に出た時にはその姿を確認することができなかった。
第八節 日の光に照らされて
物置に置かれたベッドが赤く染まったのは恐怖でしかなかった。まるでそこで人が死んだような形を残した赤色。部屋の奥に置かれ、取り出すにもそこに行くにもその他の荷物を運ばないと道がないのに、どうやってあんなものが出来上がったのかわからなかった。
しかしそれが錯覚であったかのように消えてしまったのはすぐのことだった。誰もベッドのことなど覚えていなかった。だから「あれは夢だったんだ」と思うことしか出来なかった。でも忘れてはいけない気がして、ずっと頭の隅にその記憶が残り続けていた。
『砂嵐はずっと頭の中に渦巻いて離れない』
ふと「こんなだっけ?」と迷う日々が増えた。今まで感じていたものが少しだけズレているような気がした。あのベッドを見てからずっと何か違和感を感じていた。けれどそれが何なのか分からないまま、気のせいだと流すしかなかった。
その部屋に訪れるたびに思い出しても、もうそこに実物はなかった。けれど床には血だまりが残っていた。靴下に染み込んだ赤色が腐臭を取り込み、風のない空気が気持ち悪さを増幅させて吐き出そうとしていた。しかしすぐに「そんなことはなかった」と赤色はなく、血だまりの床は埃がたまっているだけの普通の床になっていた。
『砂嵐は虚ろな瞳を映しては消える』
幻覚に押しつぶされ、今生きているこの記憶さえ本物かどうかわからなくなっていた。けれどあれ以来、変なことは起きなくなった。だから気にとめなかった、そんなこと忘れていた。しかしそれが嘘であったと気づいたのは思い出せない空白の時間だった。
認識を阻害されていた空白の記憶、「そこに誰かいた」という違和感がほどける。砂嵐が映し出すのは本物の記憶で、この世界はすでにズレてしまっていた。しかしどうしてそんなことに気づいたのかわからない。それもよりによって何故「私」なのかと。
『砂嵐は再来し その空白がすべてを隠す』
残されたという感覚もなく、それはいつの間にか変わっていた。二つの世界に分裂したと気づいたのはあの飴玉だった。けれどそれさえも偽物の記憶でしかなかった。砂嵐に覆われた本物の記憶は空白の時間の中で変わってしまった。何もかも手遅れだった。
桜詩凛の読みは「さくらしりん」で、由来は二つ。一つは元から使っていた桜子凛花が長いと思ったため、短くするために「桜」と「凛」を取り、その間に当時から書いていた「詩」をいれたもの。もう一つは『複雑な生き方をする少女』に登場する「さくら、黒蛇、シラ、理夏(りか)、ラナン」の頭文字を取ったものとなってい…
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