誰も知らない現世を生きる二人の幽霊 第二章 動き出した世界はもう戻りはしない(1/2)
公開 2024/10/09 11:06
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第一節 月の影に照らされて
 簡単にことが済めば何もなかったのに、その心はすでに汚染されていた。正常な判断はとうの昔に置いてきてしまった。気づいたのは外からの視線だった。けれど伝える手段はもう途絶えて、その涙は枯れていた。
 暗い部屋に流れ落ちる雫が透明かなんて誰も分からない。カーテンから差し込んだ月の光が照らす肌は赤く染まっていた。無意識に切りつけたもの、自ら傷を増やしたもの、その数はわからない。少なからず自然治癒で消え去った傷もあったから正確な数は分からない。けれどその赤色は止まることを知らない。
 最初の痛みはとうになかった。傷だらけの体に躊躇くなくカッターで切りつけた。血塗れになっても何も気にしなかった。視界が歪んで瞼が落ちる。それを繰り返し、痕は少しずつ消えなくなった。

 生まれた時からこの世界に絶望していた。生きている意味がわからない。その魂が宿っているだけの体が朽ちて、その考えは何度も恐怖を与えていた。いつか人は死ぬ、ただそれが早まっただけに過ぎない。普通には生きられず、変わり者と突き放され、苦しみは蓄積して受け止められなかった心は破裂した。
 その傷は生きている証、その血は痛みを感じるためのものだった。しかし今となっては意味をなさないほど傷つき、壊れた感情は死ぬことを否定しなかった。

『裏世界への招待状』

 血塗れのベッドの上、まだ汚れていない白い封筒にはそう書かれていた。窓は開いていない。ゆっくりと伸ばす手は封筒に触れるが、指に付着する血で字が滲んだ。虚ろな目がその文字を追い、少しずつ月の光が入ってきた。

『ここに存在する記録を引き換えに 絶望から解き放つ』

 滲んだ字はそれ以上読み進められない。けれどそれだけで十分だった。しかしひとつ心残りがあった。それだけはすべてを忘れても叶えなければならなかった。
「……あの子だけは幸せに……苦しみはすべて私が引き受けてもっていくから」

 重い瞼が閉じて体は倒れる。血塗れの体は一瞬砂嵐が起きてすぐに消えた。ベッドに残った血が謎の形で残っているだけだった。

第二節 小さな公園に隠された消えかけの記憶
 進み続ける世界。朝が訪れて夜になる。夜が深くなって朝を告げる光が挨拶をする。それをずっと繰り返していた。その姿は朝にしか見ることができず、陽光の幽霊 リフォは不可解な夢の後に目を覚ます。砂嵐に隠された空白の存在を探すために、情報を得ながら紐解かれる生前の記憶はまだ見つからなかった。

 どの道も知っているような気がするだけで、生前の記憶頼りに進んでいた。けれど見慣れない風景は奥に仕舞い込んだ幼い頃の記憶に似ていた。その記憶さえ砂嵐で覆われ、空白の存在となってしまった人物は一瞬姿を現すものの、すぐに消え去ってなかった者にされた。その表情は何も読み取れず、ただリフォはそれを見つけたいと願うだけだった。

『迷い霊 誓いは遠くに 会わぬ方が良いと知らずに』

 とある歩道、走り去る車で聞こえない自然と鳥達の声。影となった足元に狗尾草(エノコログサ)が揺れていた。綺麗な緑色を失って枯れて茶色になりかけていた。明るい空の光を通さない影が広がった道を進み終えると、急に日差しが強くなって目を眩ませた。
 いつの間にか狗尾草を取っていた天使のクラールは浮遊しながらリフォについてきていた。近くに公園の入り口が見えるが、リフォは興味なく過ぎ去ってしまおうとしていた。
「公園だ!」
「……びっくりした。何?」
「少し遊んでいこうよ」
「意味のないことしたくない」
「でも……それなら休もうよ。ずっと考えていても疲れちゃうよ」
「それもそうだけど」
「僕は遊ぶから、リフォは休んでいて!」
 無邪気な子供のようにクラールは公園の方に行ってしまった。呼び止める暇もなく、リフォは呆れながら歩いて公園へ入っていく。少し坂を上った後にある公園は知っている場所だった。入ってすぐ見えるのは何もない平地の地面。その横に金網柵で仕切られた場所にブランコや滑り台があった。しかし記憶の中に存在していたターザンロープは危険と判断されたためか撤去されており、そこは何もない空間になっていた。小さなベンチに座って、遊ぶクラールを見ていた。さながら親のように見張っていたため、結局休めるほどの時間はなかった。
 だが少しだけ砂嵐で覆われた記憶の一部に色が足されて紐解かれる。幼い頃の記憶、一緒にいたあの日、ターザンロープで遊ぶ彼女を見ていたその姿は少し心配そうにしていた。紐を強く握って擦り切れて火傷し、痛くなった手に水をかけていた。活発だった彼女とは正反対に静かでおとなしいその姿は楽しいという表情があまり読み取れなかった。
「……ごめん」
「リフォ……泣いている!? もしかして僕のせい」
「ううん、違う」
「思い出したの?」
「そう……かも。でも……まだ少しだけ」
「……痛いの痛いの」
 クラールはそう言ってリフォの頭を撫でようとするが、砂場で遊んでいたのか手には大量の砂がつきっぱなしで、すぐに彼女は気づいて頭に触れる前に彼の腕を掴んでいた。

 少しだけ休憩がてら遊ぶはずが、思い出して泣いていたこともあってその場から動けなくなっていた。公園の自然は誰も手を加えないまま勝手に伸びて森が作られ始めていた。遊具も錆びついていたから、もう誰も使っていないのだろうとリフォは思っていた。そんなこと考えながら公園の敷地を歩いてみた。明るい空は変わらないけど、過ぎ去った時間の分だけ周りは変わっていく。それは失われつつある生前の記憶にも言えることだった。

第三節 眠る夜の名月に招く甘い団子
 長かった夕日は少しずつ傾きが早くなっていた。夏の暑さはまだ残りつつも、夜の景色は深い闇へと招くように長くなっていた。静かな森の中で鈴虫が鳴いて、秋を告げる風は涼しく、揺れる草木はたまった熱を追い出そうとしていた。
 晴れていた空を隠すように雲が現れて、藍色を消し去ろうとしていた。しかしその月の輝きは雲の上から覗かせていた。一人の少女を照らすように、彼女が現れるの合図するかのように。陰影の幽霊 ルティは長く伸びた草に腰かけたまま目を覚ました。
ぼやけた月を眺めるルティを通り過ぎる不確かな影。認識を歪めたわけでもなく、その姿は夜を徘徊する見えざる者達。妖怪とは異なる、人だったもののなれの果て。幽霊とも違うその形をルティは知らず、彼らもまたルティを知らなかった。
「今日は良くないものが溢れている」
 座ったままのルティを見て話しかけるのは空夜(くうや)だった。その手には串に刺さった団子を持っていた。
「団子?」
「名月……中秋の名月って知らないか」
「わからない」
「失った記憶の中にあったのか、それとも元から知らないか……まぁそんなとこか」
「それで団子持っているんだ」
「……供えた分の残りだけどな」
 そう言って空夜はルティにその団子の一つを食べるように近づけた。影で黒くなった団子を恐る恐る食べてみた。知っているような味がするが、何か物足りない気がした。
「おいしいけど何か足りないような」
「味はかろうじて覚えている感じか」
「覚えているかはわからないけど……そんな感じがする」
「ただの白い団子だしな。甘いものは置いてきたし」
「甘いもの?」
「白と黒と、それからみたらし……知り合いの妖怪がさ、持ってきて……まだ残っているから、ルティも食べるか?」
「食べてみたい」
「なら行くか。こんなところにいても危ないし」
 団子を持っている手とは別の手をルティに差し出し、彼女はその手を握って並び歩いていた。通り過ぎる見えざる者達は空夜を見るな否や、その姿をくらませていた。

 廃墟にしか見えない空夜の家に到着し、ルティは供えられた団子を見ていた。きれいな形に積み上げられていたが、一番上に乗っている団子は歪な形をしていた。眺めているルティをよそに、空夜は涼しい場所に置いていた白餡や黒餡、みたらしが入った容器、作りすぎた団子を光が当たる机に乗せていた。
「これでよし」
「ねぇ」
「どうした?」
「どうして団子なの? 月だから?」
「そうだよ。月に見立てて丸い団子を供える。そしてお月見が終わったらそれを食べるんだよ。食べると健康と幸せを得られると考えられていたからさ」
「そうなんだ」
「その風習がただ続いているだけだが、名月というくらいだ……いいものなんだろう。変な者が湧くくらいだし」
「あれは空夜の知り合いじゃないの?」
「違う……あれはなんて言ったらいいんだ。夜を徘徊する生き霊……が一番近いか」
「生き霊? ってことは幽霊なの」
「位置づけ的にはそうかもしれないが、詳しくは俺も知らないからな。ただ見つかると厄介ってことだけは知っている。まぁ分かっているみたいで妖怪には近づかないけどな」
「だからいなくなったんだね」
「徘徊しているのに気づいたから、早めにルティを見つけられてよかったよ。何が起こるかわからないから……さてこんな話はもういい。食べよう」
 そう言って空夜は黒餡を取って団子に乗せた。ルティも見よう見まねで白餡を乗せてみる。食べるとほとんど柔らかいとしか感じなかった団子に甘さが追加されておいしくなっていた。それから黒餡、白餡と繰り返していたが、みたらし用に団子を取り分けて、空夜は少し離れて団子を焼くことにした。
「あれ? おいしい」
「黒餡が気に入ったか?」
「うん、なんだか懐かしい味がする」
「……なんか思い出さないか?」
「うーん……でも誰かは黒も白も食べられなかったんだよ」
「どういうことだ」
「え? 誰かって一体誰だろう……分からない」
「無理に思い出そうとしなくていい。何か見えたのかもしれない、逆に気のせいかもしれないからな」
「……もしすべての記憶が戻って空夜と離れることになったら」
「ルティはどうしたい? 離れたとて出会う前と変わらないと思っているが、俺はまだ離れたくないな。むしろこのままいてほしいくらいに」
「それは興味があるから」
「危なっかしいからだ。どんな記憶を持っているとしても、そんな傷じゃろくでもないだろうし。楽しいことも悲しいことも記憶というのは何もかも覚えてしまう。だから思い出す反動で良からぬことが起きるかもしれない」
「それなら今のまま……」
「それが本当の望みなら構わない。だが少しでも思い出したいというのなら」
「……食べていい?」
「あっ、熱いから気をつけろよ。って話を」
「わからないから今は何も考えずに団子を食べたいな」
「……それもそうだな。月が見えなくなる前に供えている団子もどうにかしないと」
 照らす名月が少しずつ落ち始めて、深い闇の夜は色を薄くして朝の陽気に変わろうとしていた。まだ時間が残っていると考えても、すぐに来てしまう別れの時。空夜はいつもその時を寂しそうに思っていた。記憶が戻ってしまえばそれさえも叶わなくなる。

 ルティはみたらし団子を持って、月の光に導かれて空を見上げていた。星の輝きは月に負けて何も見えなかった。雲がかかっているわけでもないが、朝日が少しずつ明るさを取り戻し、その数分が早く感じられた。食べ終わった時には月は太陽に変わろうとしていた。ルティの姿が薄れ、手に持っていた棒が床に落ちた。

第四節 秋空に辿り着く謎めいた本
 目覚めは遅く、その光は頂点にあった。雨が枯れて空が淡い水色になったのを陽光の幽霊 リフォは見ていた。秋の涼しさはまだ夏の暑さで隠れて、不完全なまま過ぎていた。青々とした木々が色づき始めるまでは少々時間がかかっていた。風の音(ね)に合わせて鳴いていた鳥達も暑さに負けて静まりかえっていた。
 歩き出す足は重々しく、流れ込んでくる記憶は多くを語らない砂嵐で、空白の存在は未だ見つからない。それでも少しずつ紐解かれて、埋まっていく欠片はリフォに恐怖を与えていた。あの雨の日、白い紫陽花が咲いていた家で見たものを筆頭に、生前の記憶の空白を取り戻していいものか、と考えるようになっていた。

 考え続けるリフォにつき添うクラールは何も言わなかった。飛び続ける天使は変わり続ける風景のことばかりを考えていた。自然の風景を切り取り、人工的な建物群に辿り着いて、クラールは浮遊しながら止まっていた。静かな羽根の音(おと)が消えて、リフォも止まった。そこは本屋でクラールは何も言わずに入っていった。
 その本屋は人ならざる者が経営する、見えざる者だけが立ち寄ることができる。そんな場所に引き寄せられたクラールは店主と話していた。リフォが足を踏み入れると、店主は彼女の方に行き、一冊の本を進めてきた。リフォは拒否するように首を振るが、店主に圧しつけられてしまった。

 その本を開いてみるとどうやら短編をまとめたものらしい。多くの話が詰め込まれているが、一つだけ知っている話を見つけた。生前の記憶の中にあるどこかで見た話、それを読んでみると少女と黒い影の話だった。読み終わって題名を確認しようとしたが、何故か擦り切れて読めなくなっていた。それどころかさっきまで読んでいた話は最初から無く、その他の話はまだ読める状態だった。
 本に集中している間に店主も本屋も最初から存在していなかったかのように消えていた。渡された本だけが残り、クラールも不思議がっていた。
「あれ? 何していたんだろう」
「……気のせい」
「リフォは何か見たの?」
「何も」
 とっさに本を隠してクラールに見えないようにした。クラールは首を傾げるが何もわからないまま、リフォについていくことしか出来なかった。街を出る頃には夕方を迎えようとしていて、隠していた本を再び開いた。クラールが覗いたが、ただの白紙の本にしか見えなかった。
「何も書いていない」
「……見えないんだね」
「リフォには見えるの?!」
「見える、ただの本だけどね……」
「読んでよ!」
「もう時間がないから次の機会にね」
 長かった夕暮れの時間は秋になるにつれて短くなっていた。だから少し会話をしただけで傾いた空はすぐに藍色に変わる。リフォの姿はみるみるうちに薄くなり、そのまま姿は消えた。
桜詩凛の読みは「さくらしりん」で、由来は二つ。一つは元から使っていた桜子凛花が長いと思ったため、短くするために「桜」と「凛」を取り、その間に当時から書いていた「詩」をいれたもの。もう一つは『複雑な生き方をする少女』に登場する「さくら、黒蛇、シラ、理夏(りか)、ラナン」の頭文字を取ったものとなってい…
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