ごぉるでんでぇもん④
公開 2024/07/20 01:06
最終更新
2024/07/24 13:22
第六章
その翌々日のこと。宮は貫一に勧められて医者の診察を受け、胃病だろうとのことで一瓶の水薬を処方された。貫一は医者の言葉を信じていたが、当の患者は決して胃の病なんかであるものかと思いながらその薬を服用していた。胃薬をいくら飲んでも、懊悩に沈み、その辛さに押し潰されそうな宮の容体は少しも変わらない。しかし彼女の胸の中にある水と火のようなものがせめぎ合う苦痛は、ますます募るばかりであった。
貫一は宮の憎からず想う人ではなかったのか。何故だろう、宮はこの頃そんな憎からぬ人と会うことが恐ろしいのだ。彼の姿を見なければ会いたくなるのに、顔を合わせると冷や汗が噴き出すような恐ろしさが湧き上がってくる。優しい言葉を掛けられると、その身を斬られるような心地がする。宮は貫一の優しい心を見るのが恐ろしくてしかたなかった。
宮が鬱ぎ込むようになってからの貫一の優しさは、平素よりも一層深いものであった。優しくされればされるほど、死ぬに死ねず、生きた心地もせず。悩み乱れる彼女はとうとうその辛さに堪えられなくなった。
遂に宮はこの苦しみを両親に切々と訴えたのだろう。ある日突然、母と娘はにわかに身支度を整えて、せかせかと人力車に乗って家を出ていった。そこそこの大きさの旅鞄を携えて。
大風が吹き荒れた後にポツンと一軒だけ取り残された家のように、侘しげに留守を守る主の隆三は独り碁盤に向かって碁経を開いた。歳は六十にはまだまだ遠いが、頭は白髪だらけで、長く生やした髭なども六割がた白い。体は痩せているがまだ老いの衰えも見えず、眉目は温厚にして泰然自若とした風格の親爺である。
やがて学校から戻った貫一はおやと思い、母娘の不在を隆三に尋ねた。隆三は静かに長い髭を撫でながら薄く笑みを浮かべつつ、
「二人はのぅ、今朝新聞を見ると急に思い付いて熱海へ出掛けたよ。何でも昨日、医者が湯治がいいと言うてしきりに勧めたらしいのだ。いやぁもう急の思いつきで…足元から鳥が飛び立つような騒ぎで、十二時三十分の汽車で。あぁ、ちょうど独りで寂しかったんだ。まあ茶でも淹れよう」
貫一はそんな馬鹿なと眉をひそめた。
「はぁ、それは…。何だか夢のようですね」
「はぁ、わしもそんな塩梅でな」
「しかし湯治は効くでしょうね。幾日ほどあちらへ逗留のおつもりで?」
「まぁ、どんなだかなぁ…四、五日というので着の身着のまま出かけたのだが、なぁに直に飽きてしもうて四、五日も居られるものか。出養生よりも内養生の方が楽だ。何か美味いものでも食べようじゃないか。わしら二人で、のう」
貫一は制服を着替えるために書斎に帰った。熱海に行く前に、宮が何か書き置きでもしていっただろうかと書斎を探してみたが見当たらない。例の炬燵の間にも行ってみたが何もない。
(…急いで出ていったならそんなものか。明日にはきっと手紙でも寄越すだろうし…)
そう考えてみたものの、さすがにひと言もないのは面白くない。彼が六時間の学校を終えて帰ってくるのは、彼女の美しい面影に会いたくて会いたくて堪らない一心からなのだ。貫一は虚しく飢えた心を抱え、書き置きひとつない机に向かった。
「…本当に水臭いな。いくら急いで出掛けたからって、何かひと言くらい書き置いて行きそうなものじゃないか。ちょっとそこへ出たのじゃなし、四、五日でも旅は旅だ。第一書き置きする・しないよりも、湯治に行くなら行くと始めに話がありそうなものだ。急に思いついた?いくら急に思いついたって、すぐに行かなきゃいけないような場所じゃあるまいに。俺が帰るのを待って、話をして、明日行くのが順序だろ。四・五日会えないぐらいなら、顔を見ずに出ていってもあの人は平気なんだろうか…。
だいたい女というものは、男よりも情が深くあるべきなんだ。情が深くないなら、愛していないとしか考えられない。まさかあの人が俺を愛していないとは思えないが…いや万が一にもそんなことない。けれど心から愛しているというほどあの人の情が深いとも思えないな。
…いや、元来ミイさんの性質は冷淡さ。それだから所謂『娘らしい』ところがあまりないんだ。俺が考えるような情の深さが感じられないのも、実はそのせいなのかもしれないが。確かに子供の時分からそういう傾向はあったけれど、今ほどではなかったと思うけどな。しかしまだ愛も恋も知らぬ子供時代がそうであったなら、許嫁となった今は尚更情が深くあって然るべきなんだ。そう考えるとミイさん…疑うよ、君の心を疑わざるを得ない!
それに引き替え自分だ。俺はミイさんを心から愛している。殆ど…いや殆どではない、どっぷりだ。どっぷり溺れているんだ。自分でも『どうしてこんなに』と思うほどあの人に溺れている!
俺がこれほど想っているのだから、あの人だって俺をもっと想ってくれなければならんのだ。なのに時々、ミイさんは本当に水臭いことがある。今日のことなんか随分酷い話だ。これが互いに愛し合っている仲のすることか?深く愛しているだけに、こんなことをされると実に憎らしい。
小説的かもしれないけど、八犬伝の浜路だ。信乃が明日発ってしまうからと、親の目を忍んで夜更けに会いに来る、あの情愛でなければ。いや、妙だ!俺の身の上も信乃に似ている。子供の頃に親と死に別れてこの鴫沢の世話になっていて、そこの娘と許嫁……似てる。似ている。
それにしても我が家の浜路は困ったもんだ。信乃にばかり気を揉ませて酷いや、あんまり素っ気ないやり方じゃないか。これから手紙を書いて言いたいことみんな言ってやろうか。うぅん…憎いは憎いけど病気ではあるし、病人に心配させるのも可哀想だ。
俺は神経質過ぎるから、やたら考え過ぎて思い過ごしすることがあるんだ。それはミイさんからもよく言われるけれど…でもこれが俺の思い過ごしなのか、それとも本当にあの人の情が薄いのかはちょっと疑問だ。
時々そう思うことがある。あの人が水臭い仕打ちをするのは、いくらか俺のことを侮っているのではないかと。俺はこの家の居候、あの人はこの家の跡取り娘だ。だから根底に主と家来という意識が常にあって、……いや、それもあの人によく言われることだ。そんな気持ちなら初めから許しはしない。好きだと思えばこそ許嫁に、……そうだ。そうだ、それを言うとひどく怒られるんだ。ミイさんはそれを一番怒るんだよな。もちろん主だ家来だなんて素振りは、あの人は少しだって見せたことはない。俺の僻みに過ぎないのだけれど、そうは言っても気が済まないから愚痴も出るんだ。しかし、もしもあの人の心に爪の垢ほどでもそんな侮りがあったなら、俺は潔くこの縁を切る。立派に切って見せる!俺は愛の虜にはなっても、まだ誰かの奴隷になる気はない。あるいはこの縁を切ったなら、俺はあの人を忘れられず焦がれ死ぬかもしれない。死なずとも気が狂うかもしれない。構わない!末がどうなろうと縁を切る。切らずにおくものか。
……これは自分の僻みで、あの人に限ってそんな心は微塵もない。それは自分でもよく知っている。けれど情が深くないのもまた事実だ、冷淡なのは事実なんだ。だから、生来の冷淡だから情が薄いのか。生来の冷淡を打ち壊すほど、俺への愛情が熱していないのか。あるいは心を焦がすほど熱くならないのが生来冷淡な人の愛情であるのか。これが研究すべき問題だ。」
貫一は心が満たされないことがあるたびに、必ずこの問題を読み解こうとするけれど未だ答えに辿り着けていない。今日はさて、どうこの問題を読み解こうとするのだろう。
(六)の二
翌日、思った通り熱海から手紙は届いたが。たった一枚の葉書に隆三と貫一へ宛てて、道中の無事と宿の名前を報せるのみ。鴫沢の内儀ならまだしも、宮の字である。
「……ッ」
貫一は読み終わると同時に、葉書をビリビリに引き裂いて捨ててしまった。ここに宮がいたなら、きっと何とでも言い聞かせだろう。宮が親しげに言い聞かせたなら、どれほど腹を立てていても貫一は彼女の言葉をすんなり受け入れただろうに。宮の前では彼は常に怒りも、恨みも、憂いも忘れてしまうのだ。今の貫一は会いたくて会えなかった失望に加えて、この突き放すような冷淡に遭い、しかも言って聞かせるべき人もいない。彼の怒りは野火のようにじわじわと、どこまでもその身を焼くようであった。
この夕べ、隆三は彼に食後の茶を勧めた。ひとりは侘しいと、留めて話をしようというのである。しかし貫一は考え込むような顔をして、ずっと心ここに在らずという様子で。
「お前、どうしたんだい。うむ、元気がないのう」
「はぁ、少し胸が痛みますので…」
「それは良くない。酷く痛みでもするのかね」
「いえ、なに、もう大丈夫です」
「それじゃあ茶はよそうか」
「いえ、頂戴します」
こんな浅ましい怒りを人にぶつけるのは、甚だ八つ当たりというものだ。と貫一は自らを制して、湯呑みに口をつけた。なまじ書斎に帰って独り心を傷めるよりも、話しでもして暫く辛さを忘れたほうがいい。そう思い、彼は務めて寛ごうとしたけれど、ややもすると心は上の空になり隆三の言葉を聞き流してしまいそうになる。
今日の手紙に細々と優しい言葉でも書き連ねてあったなら、俺はどれほど嬉しかっただろう。ひとつ屋根の下で常に顔を合わせているのもいいが、旅の空から届く手紙もまた楽しいだろうに。何も言わずに出ていかれた恨みも忘れて、君に会えない二晩三晩をその手紙を形見に思い続けるのだって悪くないじゃないか。それなのに…。
何も言わずに出ていったことにどれだけ俺がショックを受けるか、ミイさんはよく分かっているだろうに。わかっているなら何故ひと言書いて慰めようともしないんだ。そのひと言がどれほど嬉しいか、よくわかっているだろうに。俺を愛しているなら、どうしてそんなひと言も書いてくれないんだよ。こんなに冷めた恋がこの世にあるんだろうか。疑うよ…疑うよ、君の心を…。
貫一の心はまた乱れる。
「…貫一さん、」
隆三に呼びかけられ、貫一はハッと我に返った。
「ちと、話したいことがあるのだが…いや、誠に妙な話しで…のう」
笑うでもなく、眉を顰めるでもなく、自嘲するような隆三の顔。燈火に照らされた隆三はいつもの隆三ではなく、何だか妙な顔が現れたように貫一には思われた。
「はぁ、どういうお話ですか」
「うん…そうさなぁ…」
隆三は長い髭を忙しく揉み、また顎の辺りからゆっくり撫で下ろし、どう言ったものかと思案しているようであった。
「お前の、一身上の事についてだがの……」
僅かにこれだけ言って彼はまた躊躇うように言葉を切る。弄ばれる髭はアブに苦しむ馬の尾のように振るわれつつ、
「…いよいよお前も今年は卒業だったのう」
貫一はにわかに隆三への敬意を感じて膝を正した。
「で、わしもまあ安心したというもので、幾らかでもお前のお父様に恩返しも出来たのうに思う訳だ。ついてはお前も、ますます勉強に励んでくれなくては困るのう。まだこの先大学を卒業して、それから社会へ出て相応の地位を得るまでに仕上げなければ、わしも立派にお前を育てたと胸を張れんのだ。どうせなら洋行のひとつでもさせて、この国でも指折りの人物にしたいと考えているくらい、まだまだこらから先も両肌脱いで世話をしなければならんのがお前だ…のう、貫一さん」
これを聞いた貫一はまるで鉄縄で縛められたように、身の重さに堪えられず、心は締めあげられるように苦しくなった。隆三から与えられる恩恵があまりに大きかったために、それが隆三から父への恩返しであるということも、恩返しだからこそこの厚遇も、平生忘れていたことを思い出したのである。
「はい。尋常ならざる御恩に預かりまして、考えてみますと言葉では御礼の申し上げようもございません。愚父がどれほどのことをしたのか知りませんが、こんな御恩返しを受けるほどのことはなかなか出来ものではありません。愚父のことはさておき、私は私でこの御恩はどうか立派にお返し申したいと願っております。愚父が亡くなりましたあの時にこちらで引き取って戴かなかったら、私は今ごろどうなっておりますか…それを思いますと、世間に私ほど幸せな者は恐らくいないでございましょう。」
父を亡くした十五の少年がよくぞこれほど…と貫一は驚くほど大人びた我が身を振り返る。そしてまた着ている着物を見て、座っている座布団を見て、やがて美しい宮とともにこの家の主となるべき我が身を思うと、じわりと涙が滲んだ。この未来の学士は、実に七千円もの資産を従えた、百万金を詰んだとて購うことが出来ない恋女房を手にするのだ。あの頃、買える限りの僅かな米を風呂敷包みに提げて、彼の影のように痩せた犬と一緒に月夜を走った少年がよくぞ、と。
「お前がそう思うてくれれば、わしも張り合いがある。ついては…改めてお前に頼みがあるのだが、聞いてくれるか」
「どんなことですか。私に出来ることなら、何なりと致します」
貫一はキッパリと潔く答えたものの、心の底に警戒心がないわけでもなかった。隆三がそのような言い方をするときは、凡そ無理を強いるときだったからである。
その翌々日のこと。宮は貫一に勧められて医者の診察を受け、胃病だろうとのことで一瓶の水薬を処方された。貫一は医者の言葉を信じていたが、当の患者は決して胃の病なんかであるものかと思いながらその薬を服用していた。胃薬をいくら飲んでも、懊悩に沈み、その辛さに押し潰されそうな宮の容体は少しも変わらない。しかし彼女の胸の中にある水と火のようなものがせめぎ合う苦痛は、ますます募るばかりであった。
貫一は宮の憎からず想う人ではなかったのか。何故だろう、宮はこの頃そんな憎からぬ人と会うことが恐ろしいのだ。彼の姿を見なければ会いたくなるのに、顔を合わせると冷や汗が噴き出すような恐ろしさが湧き上がってくる。優しい言葉を掛けられると、その身を斬られるような心地がする。宮は貫一の優しい心を見るのが恐ろしくてしかたなかった。
宮が鬱ぎ込むようになってからの貫一の優しさは、平素よりも一層深いものであった。優しくされればされるほど、死ぬに死ねず、生きた心地もせず。悩み乱れる彼女はとうとうその辛さに堪えられなくなった。
遂に宮はこの苦しみを両親に切々と訴えたのだろう。ある日突然、母と娘はにわかに身支度を整えて、せかせかと人力車に乗って家を出ていった。そこそこの大きさの旅鞄を携えて。
大風が吹き荒れた後にポツンと一軒だけ取り残された家のように、侘しげに留守を守る主の隆三は独り碁盤に向かって碁経を開いた。歳は六十にはまだまだ遠いが、頭は白髪だらけで、長く生やした髭なども六割がた白い。体は痩せているがまだ老いの衰えも見えず、眉目は温厚にして泰然自若とした風格の親爺である。
やがて学校から戻った貫一はおやと思い、母娘の不在を隆三に尋ねた。隆三は静かに長い髭を撫でながら薄く笑みを浮かべつつ、
「二人はのぅ、今朝新聞を見ると急に思い付いて熱海へ出掛けたよ。何でも昨日、医者が湯治がいいと言うてしきりに勧めたらしいのだ。いやぁもう急の思いつきで…足元から鳥が飛び立つような騒ぎで、十二時三十分の汽車で。あぁ、ちょうど独りで寂しかったんだ。まあ茶でも淹れよう」
貫一はそんな馬鹿なと眉をひそめた。
「はぁ、それは…。何だか夢のようですね」
「はぁ、わしもそんな塩梅でな」
「しかし湯治は効くでしょうね。幾日ほどあちらへ逗留のおつもりで?」
「まぁ、どんなだかなぁ…四、五日というので着の身着のまま出かけたのだが、なぁに直に飽きてしもうて四、五日も居られるものか。出養生よりも内養生の方が楽だ。何か美味いものでも食べようじゃないか。わしら二人で、のう」
貫一は制服を着替えるために書斎に帰った。熱海に行く前に、宮が何か書き置きでもしていっただろうかと書斎を探してみたが見当たらない。例の炬燵の間にも行ってみたが何もない。
(…急いで出ていったならそんなものか。明日にはきっと手紙でも寄越すだろうし…)
そう考えてみたものの、さすがにひと言もないのは面白くない。彼が六時間の学校を終えて帰ってくるのは、彼女の美しい面影に会いたくて会いたくて堪らない一心からなのだ。貫一は虚しく飢えた心を抱え、書き置きひとつない机に向かった。
「…本当に水臭いな。いくら急いで出掛けたからって、何かひと言くらい書き置いて行きそうなものじゃないか。ちょっとそこへ出たのじゃなし、四、五日でも旅は旅だ。第一書き置きする・しないよりも、湯治に行くなら行くと始めに話がありそうなものだ。急に思いついた?いくら急に思いついたって、すぐに行かなきゃいけないような場所じゃあるまいに。俺が帰るのを待って、話をして、明日行くのが順序だろ。四・五日会えないぐらいなら、顔を見ずに出ていってもあの人は平気なんだろうか…。
だいたい女というものは、男よりも情が深くあるべきなんだ。情が深くないなら、愛していないとしか考えられない。まさかあの人が俺を愛していないとは思えないが…いや万が一にもそんなことない。けれど心から愛しているというほどあの人の情が深いとも思えないな。
…いや、元来ミイさんの性質は冷淡さ。それだから所謂『娘らしい』ところがあまりないんだ。俺が考えるような情の深さが感じられないのも、実はそのせいなのかもしれないが。確かに子供の時分からそういう傾向はあったけれど、今ほどではなかったと思うけどな。しかしまだ愛も恋も知らぬ子供時代がそうであったなら、許嫁となった今は尚更情が深くあって然るべきなんだ。そう考えるとミイさん…疑うよ、君の心を疑わざるを得ない!
それに引き替え自分だ。俺はミイさんを心から愛している。殆ど…いや殆どではない、どっぷりだ。どっぷり溺れているんだ。自分でも『どうしてこんなに』と思うほどあの人に溺れている!
俺がこれほど想っているのだから、あの人だって俺をもっと想ってくれなければならんのだ。なのに時々、ミイさんは本当に水臭いことがある。今日のことなんか随分酷い話だ。これが互いに愛し合っている仲のすることか?深く愛しているだけに、こんなことをされると実に憎らしい。
小説的かもしれないけど、八犬伝の浜路だ。信乃が明日発ってしまうからと、親の目を忍んで夜更けに会いに来る、あの情愛でなければ。いや、妙だ!俺の身の上も信乃に似ている。子供の頃に親と死に別れてこの鴫沢の世話になっていて、そこの娘と許嫁……似てる。似ている。
それにしても我が家の浜路は困ったもんだ。信乃にばかり気を揉ませて酷いや、あんまり素っ気ないやり方じゃないか。これから手紙を書いて言いたいことみんな言ってやろうか。うぅん…憎いは憎いけど病気ではあるし、病人に心配させるのも可哀想だ。
俺は神経質過ぎるから、やたら考え過ぎて思い過ごしすることがあるんだ。それはミイさんからもよく言われるけれど…でもこれが俺の思い過ごしなのか、それとも本当にあの人の情が薄いのかはちょっと疑問だ。
時々そう思うことがある。あの人が水臭い仕打ちをするのは、いくらか俺のことを侮っているのではないかと。俺はこの家の居候、あの人はこの家の跡取り娘だ。だから根底に主と家来という意識が常にあって、……いや、それもあの人によく言われることだ。そんな気持ちなら初めから許しはしない。好きだと思えばこそ許嫁に、……そうだ。そうだ、それを言うとひどく怒られるんだ。ミイさんはそれを一番怒るんだよな。もちろん主だ家来だなんて素振りは、あの人は少しだって見せたことはない。俺の僻みに過ぎないのだけれど、そうは言っても気が済まないから愚痴も出るんだ。しかし、もしもあの人の心に爪の垢ほどでもそんな侮りがあったなら、俺は潔くこの縁を切る。立派に切って見せる!俺は愛の虜にはなっても、まだ誰かの奴隷になる気はない。あるいはこの縁を切ったなら、俺はあの人を忘れられず焦がれ死ぬかもしれない。死なずとも気が狂うかもしれない。構わない!末がどうなろうと縁を切る。切らずにおくものか。
……これは自分の僻みで、あの人に限ってそんな心は微塵もない。それは自分でもよく知っている。けれど情が深くないのもまた事実だ、冷淡なのは事実なんだ。だから、生来の冷淡だから情が薄いのか。生来の冷淡を打ち壊すほど、俺への愛情が熱していないのか。あるいは心を焦がすほど熱くならないのが生来冷淡な人の愛情であるのか。これが研究すべき問題だ。」
貫一は心が満たされないことがあるたびに、必ずこの問題を読み解こうとするけれど未だ答えに辿り着けていない。今日はさて、どうこの問題を読み解こうとするのだろう。
(六)の二
翌日、思った通り熱海から手紙は届いたが。たった一枚の葉書に隆三と貫一へ宛てて、道中の無事と宿の名前を報せるのみ。鴫沢の内儀ならまだしも、宮の字である。
「……ッ」
貫一は読み終わると同時に、葉書をビリビリに引き裂いて捨ててしまった。ここに宮がいたなら、きっと何とでも言い聞かせだろう。宮が親しげに言い聞かせたなら、どれほど腹を立てていても貫一は彼女の言葉をすんなり受け入れただろうに。宮の前では彼は常に怒りも、恨みも、憂いも忘れてしまうのだ。今の貫一は会いたくて会えなかった失望に加えて、この突き放すような冷淡に遭い、しかも言って聞かせるべき人もいない。彼の怒りは野火のようにじわじわと、どこまでもその身を焼くようであった。
この夕べ、隆三は彼に食後の茶を勧めた。ひとりは侘しいと、留めて話をしようというのである。しかし貫一は考え込むような顔をして、ずっと心ここに在らずという様子で。
「お前、どうしたんだい。うむ、元気がないのう」
「はぁ、少し胸が痛みますので…」
「それは良くない。酷く痛みでもするのかね」
「いえ、なに、もう大丈夫です」
「それじゃあ茶はよそうか」
「いえ、頂戴します」
こんな浅ましい怒りを人にぶつけるのは、甚だ八つ当たりというものだ。と貫一は自らを制して、湯呑みに口をつけた。なまじ書斎に帰って独り心を傷めるよりも、話しでもして暫く辛さを忘れたほうがいい。そう思い、彼は務めて寛ごうとしたけれど、ややもすると心は上の空になり隆三の言葉を聞き流してしまいそうになる。
今日の手紙に細々と優しい言葉でも書き連ねてあったなら、俺はどれほど嬉しかっただろう。ひとつ屋根の下で常に顔を合わせているのもいいが、旅の空から届く手紙もまた楽しいだろうに。何も言わずに出ていかれた恨みも忘れて、君に会えない二晩三晩をその手紙を形見に思い続けるのだって悪くないじゃないか。それなのに…。
何も言わずに出ていったことにどれだけ俺がショックを受けるか、ミイさんはよく分かっているだろうに。わかっているなら何故ひと言書いて慰めようともしないんだ。そのひと言がどれほど嬉しいか、よくわかっているだろうに。俺を愛しているなら、どうしてそんなひと言も書いてくれないんだよ。こんなに冷めた恋がこの世にあるんだろうか。疑うよ…疑うよ、君の心を…。
貫一の心はまた乱れる。
「…貫一さん、」
隆三に呼びかけられ、貫一はハッと我に返った。
「ちと、話したいことがあるのだが…いや、誠に妙な話しで…のう」
笑うでもなく、眉を顰めるでもなく、自嘲するような隆三の顔。燈火に照らされた隆三はいつもの隆三ではなく、何だか妙な顔が現れたように貫一には思われた。
「はぁ、どういうお話ですか」
「うん…そうさなぁ…」
隆三は長い髭を忙しく揉み、また顎の辺りからゆっくり撫で下ろし、どう言ったものかと思案しているようであった。
「お前の、一身上の事についてだがの……」
僅かにこれだけ言って彼はまた躊躇うように言葉を切る。弄ばれる髭はアブに苦しむ馬の尾のように振るわれつつ、
「…いよいよお前も今年は卒業だったのう」
貫一はにわかに隆三への敬意を感じて膝を正した。
「で、わしもまあ安心したというもので、幾らかでもお前のお父様に恩返しも出来たのうに思う訳だ。ついてはお前も、ますます勉強に励んでくれなくては困るのう。まだこの先大学を卒業して、それから社会へ出て相応の地位を得るまでに仕上げなければ、わしも立派にお前を育てたと胸を張れんのだ。どうせなら洋行のひとつでもさせて、この国でも指折りの人物にしたいと考えているくらい、まだまだこらから先も両肌脱いで世話をしなければならんのがお前だ…のう、貫一さん」
これを聞いた貫一はまるで鉄縄で縛められたように、身の重さに堪えられず、心は締めあげられるように苦しくなった。隆三から与えられる恩恵があまりに大きかったために、それが隆三から父への恩返しであるということも、恩返しだからこそこの厚遇も、平生忘れていたことを思い出したのである。
「はい。尋常ならざる御恩に預かりまして、考えてみますと言葉では御礼の申し上げようもございません。愚父がどれほどのことをしたのか知りませんが、こんな御恩返しを受けるほどのことはなかなか出来ものではありません。愚父のことはさておき、私は私でこの御恩はどうか立派にお返し申したいと願っております。愚父が亡くなりましたあの時にこちらで引き取って戴かなかったら、私は今ごろどうなっておりますか…それを思いますと、世間に私ほど幸せな者は恐らくいないでございましょう。」
父を亡くした十五の少年がよくぞこれほど…と貫一は驚くほど大人びた我が身を振り返る。そしてまた着ている着物を見て、座っている座布団を見て、やがて美しい宮とともにこの家の主となるべき我が身を思うと、じわりと涙が滲んだ。この未来の学士は、実に七千円もの資産を従えた、百万金を詰んだとて購うことが出来ない恋女房を手にするのだ。あの頃、買える限りの僅かな米を風呂敷包みに提げて、彼の影のように痩せた犬と一緒に月夜を走った少年がよくぞ、と。
「お前がそう思うてくれれば、わしも張り合いがある。ついては…改めてお前に頼みがあるのだが、聞いてくれるか」
「どんなことですか。私に出来ることなら、何なりと致します」
貫一はキッパリと潔く答えたものの、心の底に警戒心がないわけでもなかった。隆三がそのような言い方をするときは、凡そ無理を強いるときだったからである。
