ごぉるでんでぇもん②
公開 2024/07/08 19:20
最終更新
2024/07/10 07:32
前編 第二章
かるたの会は午前零時に及んでようやくお開きとなった。十時頃からひとり起ち、ふたり起ち、見る間に三分の一強の人数を失ったものの、なお飽きもせず残った者は景気よく勝負を続けていた。富山が主人の居間に身を隠したと知らない者は、アイツは敗走して帰ったのだと思ったのだろう。宮は会の終わりまで広間に残っていた。「もしあの娘がさっさと帰っていたら、踏みとどまったのは恐らく三分の一弱に過ぎないだろうさ」と富山は我が物顔で主と語り合った。
さて既に深夜である。宮に心を寄せる輩はみな宮の帰り道を気遣って「もし彼女が頷くなら自分がどこまでも送ってあげたい」と機会を伺っていたけれど、彼らの親切はまったく無用とばかり、帰り支度の宮にはひとりの男が付き添っていた。その男は高等中学の制服を着た二十四五の学生である。彼は例の金剛石についで座中の注目を集めていたが、それは座中に宮と友達らしい人は彼だけだったからである。彼は『宮の友達らしい』以外には特に人目を惹くような点もなく、多くを語らず、また騒がず、終始慎ましく座っていた。みな最後までこの二人が連れだとは思わなかった。というのも彼らの態度があまりによそよそし過ぎたからである。彼らが並んで門を出る姿を見て初めて彼らの関係に気付き、失望した者も少なくなかった。
宮は鳩羽鼠色の頭巾を被って濃浅黄地に白く中形模様の毛織のショールを纏い、学生は焦げ茶のオーバーコートを着ていた。男は身をすぼめて吹き付ける凩をやり過ごしつつ、後ろから遅れて歩いてくる宮が自分に並ぶのを待って声をかけた。
「ねぇ、ミィさん。あの金剛石の指輪を嵌めていた奴はどうだい、いやに気取った奴だったじゃないか。」
「そうねぇ…だけれど皆してあの人を目の敵にして乱暴するんで気の毒だったわ。隣に座っていたから、私まで酷い目に遭わされてよ」
「うん、アイツが高慢な顔をしていやがるからさ。実は僕もアイツの横っ腹を二つばかり突いてやったんだ」
「まあ、酷いのね」
「あぁいう奴は男の目から見ると反吐が出るような野郎だけど、女から見たらどうだろうね?女はあぁいうのが気に入るんじゃないかい?」
「私はイヤだわ」
「香水の匂いをプンプンさせて、金剛石の指輪を嵌めて、殿様然としたナリをして、女はあーゆーのが好きに決まってるのさ」
学生は小馬鹿にするように笑う。
「私はイヤよ」
「イヤなものが一緒の組になんぞなるものか」
「組分けはくじ引きだもの、仕方ないわ」
「そりゃ組分けはくじだけれど、一緒の組になってもイヤそうには見えなかったけど?」
「そんな無理なこと言って!」
「三百円の金剛石が相手じゃ、到底僕なんぞじゃ敵わないさ」
「もう、知らない!」
宮はショールをかき寄せて、鼻が隠れるまで顔を覆った。
「……あぁ寒い!」
男はさも寒そうに肩を竦めてピッタリと宮に寄り添うが、宮はなお黙ったまま歩みを止めない。
「あぁ、寒いなぁ!」
宮はなおも答えない。
「あぁー寒い寒い寒い!」
「……。」
宮はようやく男の方を向いて、
「どうしたの?」
「あーさむいなー」
「あらいやね、どうしたって言うの?」
「…寒くて堪らんからその中へ一緒に入れてくれたまえ」
「どの中へ?」
「ショールの中へ」
「おかしい、イヤよ」
「そう言わず…っね!」
「…あ、……っふふ、」
男はかき寄せたショールの片端をさっと奪うと、素早く宮に肩を寄せてショールの中に身を納めた。そんな子どもじみた悪戯に宮は歩けないほど笑って、
「もう貫一さん、これじゃ苦しくって歩けやしないわ。あぁ、ホラ、向こうから人が来てよ」
男はこんな戯れをして憚らず、また女もされるがままに任せて咎めない。彼らの関係とはそもそも何なのか。彼は…さる事情があって十年来鴫沢家の世話になっているこの間貫一という男は、今年の夏に大学に入るのを待って宮の夫となる人である。
第三章
間貫一が十年来鴫沢の家に身を寄せているのは、他に頼るべき人もおらず鴫沢に養われているためである。母親は貫一がまだ幼い頃に亡くなり、父親は彼の尋常中学校卒業を見届けることもなく病でこの世を去った。嘆きのうちに父を葬るとともに、貫一は己の将来の望みさえ葬らなければならない不幸に直面した。父が健在のときですら学校の月謝の支払いは血を絞るばかりの苦しい貧窮家庭であったのに、突然間の戸主となった十五歳の貫一は学ぶよりも先に『食っていく』ことに迫られた。幼い戸主が学ぶに先だってはまず食っていかねばならぬ。食っていくに先だっては父を葬らなければならぬ。さらにそれに先だっては父の治療費の支払いが…。ひとりで生きていく術もない子どもが、どうしてこれらの金を工面出来るだろう。当然、貫一の力が及ぶところではない。それらの工面を身ひとつに引き受け、何から何まで世話をしたのが他でもない鴫沢隆三なのである。隆三にとって貫一の父は恩人であった。隆三はそのささやかな恩に報いるため、貫一の父が病の床にあるときはただ世話をするだけでなく、常に目を配り気を配り、時々は月謝を払ってやったことさえある。かくして貧しい父を亡くした孤児は、頼める後ろ盾を得て鴫沢の家に引き取られた。隆三は病床の世話などではとても恩に報いることなどできぬと思い、兎に角その忘れ形見を立派な人間に育て上げ、決して忘れることの出来ない恩人の尊い志を継がせようとしたのである。
亡き人が常に言っていた言葉には、苟くも侍の家に生まれたからには、どうして我が子・貫一までも他人に侮られるような身にさせられよう。ゆくゆくは学士に育て、願わくは再び四民の上に立つ立派な男に…と。貫一は小さな頃から絶えずこの言葉をもって戒められ、隆三もまた顔を合わせるたびに彼がそうして嘆くのを聞かされた。彼は何か言い残す間もなく突然この世を去ってしまったが、生前常に口にしていたその言葉こそが彼の遺言だったに違いない。
そのようなわけで鴫沢家における貫一の境遇は、決して陰で厄介者と疎まれるような辛いものではなかった。こんな風に良くしてもらって、なまじ継子なんぞに生まれるよりよっぽど幸せだろうさ、と彼ら親子を知る人は噂し合った。中には『これほど可愛がるのだから娘婿にしようという心積りだろう』と考える者もいたが、当時の鴫沢夫妻は特にそのような考えはなかった。しかし貫一が熱心に勉学に励む姿を見ていると、次第に彼を娘婿にという気持ちが芽生えてきて。そうして貫一が高等中学校への入学を機に、夫妻は貫一を宮の許嫁にと決めたのだった。
成長した貫一は勉強熱心なだけでなく、性格も真っ直ぐで素行も良い。この人柄をもって立派に学問を修めて学士となったら、またとない最良の婿殿になるだろうと夫婦は密かに喜んでいた。貫一としては隆三の身代を譲られたとして、間の姓を捨て鴫沢を名乗る屈辱に堪えるなど受け入れ難いことではあったけれども、美しい宮を妻にと言われればこの身代も屈辱も何でもないと。夫妻に勝る喜びを抱いて、ますます学問に励んでいた。もちろん宮も貫一を憎からず思っている…しかしその想いのほどは、恐らく貫一が宮を思う半分ほどでしかないだろう。
何故なら宮は、自分の美しさをよくわかっていたからである。世間の女は自分の美しさをみなよくわかっている。…良くないところは自分が思っている以上にあるけれど。言うなれば宮は、自分の美しさにどれほどの価値があるか当然のようにわかっていたのである。彼女の美しさをもってして、実家の僅かな資産を継ぎ、そこいらに転がっているような学士風情の妻に納まるのは、決して彼女が望む最高の人生ではない。宮は大した身分ではない女が玉の輿に乗った例を少なからず知っている。また金持ちが不細工な正妻を嫌い、美しい妾に心を傾ける光景も見た。才気さえあれば男の立身出世が思いのままであるように、女はその美貌で富貴を得られるのだと彼女は信じていたのである。宮は容色で富貴を得た女の実例を幾つか知っているが、何せその誰もが自分にはとても及ばない容姿だったのだから。あまつさえ宮が行くところ、彼女の美貌に魅入られぬ者はいなかったのだ。さらに一つ、彼女がこうした思いを強くした出来事がある。それは宮が十七歳…今より二年前のこと。当時彼女は明治音楽院に通っていたのだが、ヴァイオリンの講師であるドイツ人教授が宮の愛らしい袂に恋文を投げ入れたことがあった。単なる火遊びではない。彼は真剣に彼女を妻に迎えたいと訴えて来たのである。またほとんど同時に、今度は音楽院の院長という四十を越えた男から思わぬ告白を受けた。密かに一室に招いた彼は、先年妻を亡くし、ついては宮を後妻に迎えたいと切なる想いを打ち明けたのである。
この時、宮の小さな胸は割れんばかりに高鳴った。半分はかつて経験したことのない恥ずかしさの為に。また半分は、大いなる希望がその胸に宿ったが為に。彼女はここで初めて、自分の『価値』を知った。少なくとも自分の美貌は、高級官僚以上の地位を有する夫を持つに値するのだと確信したのである。彼女を美しいと見るのは、なにも教授や院長だけではない。隣の男子部の生徒たちが、美しい宮をひと目見ようと常日頃騒いでいるのも当然知っていた。
もしかの教授の妻になったら、或いは四十の院長の後妻に入ったら…自分が得る栄誉ある地位は、学士を婿に鴫沢の跡を継ぐなど比べ物にならないだろうにと。一度抱いた望みは年と共に大きくなり、宮は終始昼ながら運命の出会いを夢見るようになった。今にも高貴な人が、またはお金持ちが、または名声ある人が私を見出し、玉の輿をかかせて迎えに来る…そんな素晴らしい運命が訪れることを宮は信じて疑わなかった。
宮がそこまで貫一に心を傾けないのは、全てこの望みのためである。しかし決して貫一を嫌っているわけではない。ハッキリとした影はないけれど、いつか訪れるかもしない…そんな帚木の幸運を望みつつ、宮は同時に貫一も愛していた。貫一は、宮の心は自分しかいないと信じて疑わなかったけれど…。
かるたの会は午前零時に及んでようやくお開きとなった。十時頃からひとり起ち、ふたり起ち、見る間に三分の一強の人数を失ったものの、なお飽きもせず残った者は景気よく勝負を続けていた。富山が主人の居間に身を隠したと知らない者は、アイツは敗走して帰ったのだと思ったのだろう。宮は会の終わりまで広間に残っていた。「もしあの娘がさっさと帰っていたら、踏みとどまったのは恐らく三分の一弱に過ぎないだろうさ」と富山は我が物顔で主と語り合った。
さて既に深夜である。宮に心を寄せる輩はみな宮の帰り道を気遣って「もし彼女が頷くなら自分がどこまでも送ってあげたい」と機会を伺っていたけれど、彼らの親切はまったく無用とばかり、帰り支度の宮にはひとりの男が付き添っていた。その男は高等中学の制服を着た二十四五の学生である。彼は例の金剛石についで座中の注目を集めていたが、それは座中に宮と友達らしい人は彼だけだったからである。彼は『宮の友達らしい』以外には特に人目を惹くような点もなく、多くを語らず、また騒がず、終始慎ましく座っていた。みな最後までこの二人が連れだとは思わなかった。というのも彼らの態度があまりによそよそし過ぎたからである。彼らが並んで門を出る姿を見て初めて彼らの関係に気付き、失望した者も少なくなかった。
宮は鳩羽鼠色の頭巾を被って濃浅黄地に白く中形模様の毛織のショールを纏い、学生は焦げ茶のオーバーコートを着ていた。男は身をすぼめて吹き付ける凩をやり過ごしつつ、後ろから遅れて歩いてくる宮が自分に並ぶのを待って声をかけた。
「ねぇ、ミィさん。あの金剛石の指輪を嵌めていた奴はどうだい、いやに気取った奴だったじゃないか。」
「そうねぇ…だけれど皆してあの人を目の敵にして乱暴するんで気の毒だったわ。隣に座っていたから、私まで酷い目に遭わされてよ」
「うん、アイツが高慢な顔をしていやがるからさ。実は僕もアイツの横っ腹を二つばかり突いてやったんだ」
「まあ、酷いのね」
「あぁいう奴は男の目から見ると反吐が出るような野郎だけど、女から見たらどうだろうね?女はあぁいうのが気に入るんじゃないかい?」
「私はイヤだわ」
「香水の匂いをプンプンさせて、金剛石の指輪を嵌めて、殿様然としたナリをして、女はあーゆーのが好きに決まってるのさ」
学生は小馬鹿にするように笑う。
「私はイヤよ」
「イヤなものが一緒の組になんぞなるものか」
「組分けはくじ引きだもの、仕方ないわ」
「そりゃ組分けはくじだけれど、一緒の組になってもイヤそうには見えなかったけど?」
「そんな無理なこと言って!」
「三百円の金剛石が相手じゃ、到底僕なんぞじゃ敵わないさ」
「もう、知らない!」
宮はショールをかき寄せて、鼻が隠れるまで顔を覆った。
「……あぁ寒い!」
男はさも寒そうに肩を竦めてピッタリと宮に寄り添うが、宮はなお黙ったまま歩みを止めない。
「あぁ、寒いなぁ!」
宮はなおも答えない。
「あぁー寒い寒い寒い!」
「……。」
宮はようやく男の方を向いて、
「どうしたの?」
「あーさむいなー」
「あらいやね、どうしたって言うの?」
「…寒くて堪らんからその中へ一緒に入れてくれたまえ」
「どの中へ?」
「ショールの中へ」
「おかしい、イヤよ」
「そう言わず…っね!」
「…あ、……っふふ、」
男はかき寄せたショールの片端をさっと奪うと、素早く宮に肩を寄せてショールの中に身を納めた。そんな子どもじみた悪戯に宮は歩けないほど笑って、
「もう貫一さん、これじゃ苦しくって歩けやしないわ。あぁ、ホラ、向こうから人が来てよ」
男はこんな戯れをして憚らず、また女もされるがままに任せて咎めない。彼らの関係とはそもそも何なのか。彼は…さる事情があって十年来鴫沢家の世話になっているこの間貫一という男は、今年の夏に大学に入るのを待って宮の夫となる人である。
第三章
間貫一が十年来鴫沢の家に身を寄せているのは、他に頼るべき人もおらず鴫沢に養われているためである。母親は貫一がまだ幼い頃に亡くなり、父親は彼の尋常中学校卒業を見届けることもなく病でこの世を去った。嘆きのうちに父を葬るとともに、貫一は己の将来の望みさえ葬らなければならない不幸に直面した。父が健在のときですら学校の月謝の支払いは血を絞るばかりの苦しい貧窮家庭であったのに、突然間の戸主となった十五歳の貫一は学ぶよりも先に『食っていく』ことに迫られた。幼い戸主が学ぶに先だってはまず食っていかねばならぬ。食っていくに先だっては父を葬らなければならぬ。さらにそれに先だっては父の治療費の支払いが…。ひとりで生きていく術もない子どもが、どうしてこれらの金を工面出来るだろう。当然、貫一の力が及ぶところではない。それらの工面を身ひとつに引き受け、何から何まで世話をしたのが他でもない鴫沢隆三なのである。隆三にとって貫一の父は恩人であった。隆三はそのささやかな恩に報いるため、貫一の父が病の床にあるときはただ世話をするだけでなく、常に目を配り気を配り、時々は月謝を払ってやったことさえある。かくして貧しい父を亡くした孤児は、頼める後ろ盾を得て鴫沢の家に引き取られた。隆三は病床の世話などではとても恩に報いることなどできぬと思い、兎に角その忘れ形見を立派な人間に育て上げ、決して忘れることの出来ない恩人の尊い志を継がせようとしたのである。
亡き人が常に言っていた言葉には、苟くも侍の家に生まれたからには、どうして我が子・貫一までも他人に侮られるような身にさせられよう。ゆくゆくは学士に育て、願わくは再び四民の上に立つ立派な男に…と。貫一は小さな頃から絶えずこの言葉をもって戒められ、隆三もまた顔を合わせるたびに彼がそうして嘆くのを聞かされた。彼は何か言い残す間もなく突然この世を去ってしまったが、生前常に口にしていたその言葉こそが彼の遺言だったに違いない。
そのようなわけで鴫沢家における貫一の境遇は、決して陰で厄介者と疎まれるような辛いものではなかった。こんな風に良くしてもらって、なまじ継子なんぞに生まれるよりよっぽど幸せだろうさ、と彼ら親子を知る人は噂し合った。中には『これほど可愛がるのだから娘婿にしようという心積りだろう』と考える者もいたが、当時の鴫沢夫妻は特にそのような考えはなかった。しかし貫一が熱心に勉学に励む姿を見ていると、次第に彼を娘婿にという気持ちが芽生えてきて。そうして貫一が高等中学校への入学を機に、夫妻は貫一を宮の許嫁にと決めたのだった。
成長した貫一は勉強熱心なだけでなく、性格も真っ直ぐで素行も良い。この人柄をもって立派に学問を修めて学士となったら、またとない最良の婿殿になるだろうと夫婦は密かに喜んでいた。貫一としては隆三の身代を譲られたとして、間の姓を捨て鴫沢を名乗る屈辱に堪えるなど受け入れ難いことではあったけれども、美しい宮を妻にと言われればこの身代も屈辱も何でもないと。夫妻に勝る喜びを抱いて、ますます学問に励んでいた。もちろん宮も貫一を憎からず思っている…しかしその想いのほどは、恐らく貫一が宮を思う半分ほどでしかないだろう。
何故なら宮は、自分の美しさをよくわかっていたからである。世間の女は自分の美しさをみなよくわかっている。…良くないところは自分が思っている以上にあるけれど。言うなれば宮は、自分の美しさにどれほどの価値があるか当然のようにわかっていたのである。彼女の美しさをもってして、実家の僅かな資産を継ぎ、そこいらに転がっているような学士風情の妻に納まるのは、決して彼女が望む最高の人生ではない。宮は大した身分ではない女が玉の輿に乗った例を少なからず知っている。また金持ちが不細工な正妻を嫌い、美しい妾に心を傾ける光景も見た。才気さえあれば男の立身出世が思いのままであるように、女はその美貌で富貴を得られるのだと彼女は信じていたのである。宮は容色で富貴を得た女の実例を幾つか知っているが、何せその誰もが自分にはとても及ばない容姿だったのだから。あまつさえ宮が行くところ、彼女の美貌に魅入られぬ者はいなかったのだ。さらに一つ、彼女がこうした思いを強くした出来事がある。それは宮が十七歳…今より二年前のこと。当時彼女は明治音楽院に通っていたのだが、ヴァイオリンの講師であるドイツ人教授が宮の愛らしい袂に恋文を投げ入れたことがあった。単なる火遊びではない。彼は真剣に彼女を妻に迎えたいと訴えて来たのである。またほとんど同時に、今度は音楽院の院長という四十を越えた男から思わぬ告白を受けた。密かに一室に招いた彼は、先年妻を亡くし、ついては宮を後妻に迎えたいと切なる想いを打ち明けたのである。
この時、宮の小さな胸は割れんばかりに高鳴った。半分はかつて経験したことのない恥ずかしさの為に。また半分は、大いなる希望がその胸に宿ったが為に。彼女はここで初めて、自分の『価値』を知った。少なくとも自分の美貌は、高級官僚以上の地位を有する夫を持つに値するのだと確信したのである。彼女を美しいと見るのは、なにも教授や院長だけではない。隣の男子部の生徒たちが、美しい宮をひと目見ようと常日頃騒いでいるのも当然知っていた。
もしかの教授の妻になったら、或いは四十の院長の後妻に入ったら…自分が得る栄誉ある地位は、学士を婿に鴫沢の跡を継ぐなど比べ物にならないだろうにと。一度抱いた望みは年と共に大きくなり、宮は終始昼ながら運命の出会いを夢見るようになった。今にも高貴な人が、またはお金持ちが、または名声ある人が私を見出し、玉の輿をかかせて迎えに来る…そんな素晴らしい運命が訪れることを宮は信じて疑わなかった。
宮がそこまで貫一に心を傾けないのは、全てこの望みのためである。しかし決して貫一を嫌っているわけではない。ハッキリとした影はないけれど、いつか訪れるかもしない…そんな帚木の幸運を望みつつ、宮は同時に貫一も愛していた。貫一は、宮の心は自分しかいないと信じて疑わなかったけれど…。
