ごぉるでんでぇもん①
公開 2024/07/03 00:20
最終更新
2024/07/17 19:36
原作 尾崎紅葉『金色夜叉』
口語訳・脚色 まいたけ
金色夜叉がすっっっごく面白かったので布教したい!と思い、「わかりやすさ」重視で脚色&口語訳しました。原作はもっと面白いので、これで興味を持っていただけたら原作を読んでくださいませ…
***
金色夜叉 (前編)
第1章
まだ宵の頃というのに門松を立てた家々は一様に門扉を閉ざし、東から西へ真っ直ぐに長く横たわる大道は掃き清めたように人影もない。行き来も絶えて静まり返った往来にガラガラといやに高く響く車の音は、何か急いでいる者か、或いは酔いすぎた年賀の挨拶帰りの者か。遠くにまばらに聞こえる各兵衛獅子の太鼓は早くも今日で終わってしまう三箇日を惜しむが如く聞こえて、その切なさに獅子頭を被った子らは小さな胸を搾られることだろう。
元日快晴、二日快晴、三日快晴…と書かれた日記の記述を涜して、この黄昏から木枯らしが吹き始めた。「風吹くな、やれ吹くなよ」と優しい声で宥める人もないためか、夜に入っては木枯らしは怒りをましたように飾り竹を吹き靡かせ、干からびた葉をガサガサと鳴らし。吼えては走り、狂っては引き返し、
街のありとあらゆるものを揉みに揉んでひとり散々に騒ぎ回る。薄曇りの空はこの騒ぎに眠りを覚まされたようで銀梨子地のような無数の星々を顕し、その光は鋭く冴えて寒気を放つかと思うほどに星明かりに曝された夜の街は殆ど凍らんとしている。
人はこの覚束無い暗闇に立ち、どうしてそこに彼らの世間があり、社会があり、都があり、町があると想像出来るだろうか。天地開闢して天地が混沌より現れたと言っても、万物は未だ尽く形を成さず、風が試みに吹き星が新たに輝き始めた広い広い荒野は、何の意図も秩序も趣向もなくただただそこに横たわっているに過ぎないではないか。日が高いうちはさながら沸き出るように楽しみ、謳い、酔い、戯れ、歓び、笑い、語り、愉しみ興じた人々よ。彼らは夏の終わりのボウフラのように消え失せ、今はいったいどこでどうしているのかと考えてしまうのも無理かなぬことだろう。
しばらく木枯らしが静まった頃、遥か遠くでチョンと拍子木が鳴った。その響きが消えるころふっと一点の燈火が見えはじめたが、燈人はゆらゆらと街の外れを横切って消え、いまは再び吹き始めた寒風が寂しい星月夜を思う様吹き渡るのみである。とある小路の湯屋は店仕舞いを急いで湯を抜いたと見え、隣家との境の下水口から吹き出た湯気がひとむらの白い雲になって舞い上がる。むっと気持ち悪い温もりが辺りに満ち、垢臭い汚水の臭いが迸る湯気の中へ、二人の車夫が曳く綱引の人力車が突っ込んできた。勢いよく角から曲がって小路に入ってきた車は、その湯気を避けることも出来ず駆け抜ける。
「うっ…臭いな。」
車上の呟きと共に行き過ぎた跡には、投げ捨てられた葉巻の吸殻が湯気の中にぼうと赤く煙っていた。
「もう湯を抜くのかな。」
「へい、松の内は早じまいでございます」
車夫が客にそう答えたあとは会話も絶え、車はまっしぐらに走りゆく。車上の紳士は二重回しの袖をひしと掻き合せ、カワウソの衿皮の内に耳の上まで顔を埋めた。灰色の毛皮の敷物の端を車の後ろに垂れて、横縞の華やかな浮波織のひざ掛けをかけ、提灯の徽章は『T』の花文字を二つ組み合わせたデザインである。車はさらに走りゆき、小路の外れを北に折れてやや広い通りに出たところでまた西に入り、その南側の中程のある家へと辿り着いた。『箕輪』と書かれた軒ランプを掲げ、削ぎ竹を飾った門構えの中へ車を引き入れたが、玄関の障子に灯りが映っているのに格子はしっかり閉ざされている。
「ごめんよ、ごめんよ!」
鍵のかかった格子を車夫がどんどん叩くが、一向に戸の開く気配がない。家の奥からドタバタと盛んに大勢の騒ぐ声が聞こえてくるが、そちらに手を取られて取り合わないとでも言うのだろうか。二人の車夫がまた声を合わせて「もし、ごめんよ!ごめんよ!」とどんどん叩き続けると、しばらくして急ぎ足の足音を立てて人が出てきた。
茶微塵の糸織りの小袖に黒の奉書紬の紋付を羽織り、丸髷を結った四十ばかりの小さく痩せて色の白い彼女は恐らくこの家の内儀だろう。彼女が忙しげに格子を開けるのを待って紳士は悠然と玄関に入ろうとしたが、土間はステッキを突くほどの隙間もなく履物で埋め尽くされている。
「………。」
紳士が踏み入るのを躊躇う素振りを見るや、内儀はすかさず土間に降り立ち、この敬うべき賓客のために漸く一条の道を開けた。そうして紳士が脱ぎ捨てた駒下駄のみはひとり、障子の内に取り入れられたのである。
(一)の二
箕輪家の奥は十畳の客間と八畳の中の間を打ち抜きにして広間の十箇所に真鍮の燭台を据え、五十目掛の蝋燭が漁火のように燃えている。そのうえ間ごとに天井からニッケルメッキの空気ランプを灯しているのであたりは真昼より明るく、その下に集う人々の顔も眩しいほどに輝き渡っているのだった。三十人余りもの若い男女は二手に別れて輪を作り、今を盛りとかるた遊びに興じている。蝋燭の炎と火鉢の熱と大勢の人いきれが混じる一種の温気は締め切った座敷の内に澱んで動かず、煙草の煙とランプの油煙は互いに縺れて彼らの上に渦を巻いて立ち迷う。押し合いへしあいする彼らの面はみな逆上せたように赤く、白粉がうっすら剥げた者あり、髪のほつれた者あり、着物がぐちゃぐちゃに着乱れた者もあり。女たちは化粧をして着飾っているから、取り乱した様がいよいよよくわかる。男たちはシャツの脇あたりが裂けてチョッキのようになっている者あり、羽織を脱いで帯の解けた尻を突き出す者あり、お手付きの罰か十指を四つまで紙で結ばれた者あり。彼らみなこの息苦しいほどの温気も、咽てしまいそうな煙の渦も狂乱して気に留めず。むしろきゃあきゃあと楽しげに騒ぎ喚く声、笑い転げる声、縺れ合い、踏みしだきひしめき合い。誰かが札を取るや、わっと一斉にどよめきが沸き上がる。絶え間ない騒動の内に狼藉して戯れ遊ぶ体たらくは、遵守すべき礼儀も孔子の教えも糸瓜の皮とばかり土に塗れ、ただこれ修羅道をひっくり返したような有様である。
海上風波の難に遭ったとき、幾らかの油を航路に注げば不思議と浪はたちまちに静まり、船は九死から逃れられるという。今この如何ともし難い乱脈の座中に、その油の力を持ってして支配する女王がいた。猛りに猛る男たちの心も彼女の前では和らぎ、とうとう崇拝しない者はいない。他方で女たちは「なによ、あの娘」と嫉みつつも憧れ、気後れを抱いていた。中の間に出来た輪の柱わきに座り、重たげに戴いた夜会結びに薄紫のリボンを飾って小豆鼠の縮緬の羽織を着た娘…その人こそかの女王である。彼女は座の人々が大騒ぎして札を取り合う姿を面白そうに眺め、自らは涼しげな目をして淑やかに座っている。装いから顔立ちまで水際立ち、えも言われず匂いやかな彼女を、初めて見る者はみな『芸妓が素人の格好をして座っているのでは』と疑うほど。最初の勝負が終わらぬうちに彼女の素性は広まり、宮という名は皆が知るところとなった。この騒ぎの中には娘も大勢いた。醜い者の中には、子守り女が着物を借りて着てきたかという者や、三文芝居の姫君がやっとこ裾を引き摺るような様の者もあったが、中には二十人並、五十人並には優れた容姿の者もいた。装いだけなら宮より数段立派な者は大勢いる。装いという点に於いては、宮は中の位に過ぎない。貴族院議員の愛娘という娘は座中一番のブサイクと満場一致で認めるところであるが、いかり肩に紋御召の三枚襲を被ぎ、帯は紫根の繻珍に百合の折枝紋を縒り金で盛り上げしたものを締め、よりによって一番きらびやかな装いをしていたものだから、このアンバランスに人々は目も眩み、ギョッとして眉を顰めたのだった。このほか種々色々のきらびやかな装いの中に立ち交じっては宮の装いなどというものは暁の星のささやかな瞬きに過ぎなかったものの、彼女の肌の白さの前ではどれほど美しい染色も褪せ、彼女の整った顔立ちはどれほど麗しい織物よりも麗しく。醜い者たちがどれほど着飾ってもその醜さを隠せないように、宮の美しさは着飾らずとも決して損なわれることはなかった。
袋棚と障子の片隅に手あぶりの火鉢を囲んで蜜柑を剥きつつ語り合う男のひとりは、宮の横顔を遠くから惚れ惚れと見つめていたが、とうとう堪えきれないように呻きを漏らした。
「あぁ、好い…好い、全く好い!馬子にも衣装と言うけれど、美しさの前には衣装など敵わないね。その人それ自体が美しいのだもの、着物などどうでもいい。なんなら何も着ておらんでもいい。」
「うむ、裸体ならなお結構だ!」
強く相槌を打ったのは美術学校の学生である。
急ぎの車で駆け付けた紳士は、しばらく休息の後に内儀に先導されて広間へやってきた。彼の後ろには今まで居間に潜んでいた主の箕輪亮輔も付き添っている。かるた遊びの人々は例によって入り乱れ、ここが勝負どころと激しい勝負の最中であれば彼らが来たことに気付いた者は稀であったが、片隅で語らっていた先の二人はいち早く気づき、横目で紳士の風采を盗み見た。
広間の燈影は入り口に立つ三人の姿を鮮やかに照らし出していた。色白の内儀の口は疳のために引き歪み、その夫は赤ら顔の額際からつるりと禿げた頭はが滑らかに光を放っている。妻の方は人よりも小柄だが、逆に夫は人よりでっぷり太った大兵で、妻がいつもソワソワおどおどした面持ちをしているのに引き替え、夫は生きながら布袋和尚を拝むような福相である。
紳士は歳の頃、二十六・七だろうか。背は高く体は好きほどに厚みがあり、艶やかな肌は頬の辺りに薄紅を帯びて、額厚く、口は大きく、左右にエラの張った広い顔はやや正方形の形をしている。緩く波打つ髪は横から一文字に撫で付けて、少しだけ髪油で整えているようだ。口元には薄く口髭を生やして、存在感のある鼻に金縁の眼鏡を挟み、五つ紋の重厚な黒塩瀬の羽織に華紋織りの小袖を裾長に着こなして。鷹揚に顔を上げて座中を見渡す紳士の姿は六寸の七糸帯に垂らした金鎖のようにキラキラと四方に光を払って見えた。この座の中に彼のように色白く、身綺麗に、しかもきらびやかに装う男はひとりとしていない。
「…なんだ、あれは?」
例の二人の片割れはさも憎げに呟き、
「ヤなやつ!」
唾を吐くように言って学生ねわざと顔を背けた。
「あぁ、お俊や。ちょいと、」と内儀が輪の中から娘を手招きすると、お俊は両親が紳士を伴って立っているのを見るなり慌ただしく座を立ってやって来た。娘は器量はイマイチだが顔立ちには愛嬌があり、父親によく似ている。髪を高島田に結い、肉色縮緬の羽織を摘むほど肩上げしていた。娘は顔を赤らめつつ紳士の前に跪き慇懃に頭を下げたが、紳士は僅かに腰をかがめて応えるのみ。
「どうぞこちらへ」
娘は案内しようと待ち構えるが、紳士はさして気乗りしないような顔で頷く。母は歪んだ口をモゴモゴ動かして、
「あのね、見事な、まぁ、お年玉をお戴きだよ。」
お俊が再び頭を下げると、男は笑みを含んだ目礼で応じた。
「さぁ、まあ、こちらへいらっしゃいまし。」
主が勧めるそばから妻はお俊を促し、お俊は客間の床柱の前に据えた火鉢のあるところへ彼を案内した。妻はそこまで付き添って行った。駄弁るふたりは箕輪家の人々がいやに紳士を丁重に扱うのを訝り、紳士が火鉢の前に座るまで一挙手一投足も見逃すまいと目で追いかける。紳士は彼らに左の半面を見せて車座の間を通り過ぎたが、その薬指に輝く物のただならぬ強い光は燈火にきらっと閃き、ふたりはまるで光の矢に瞳を射られたように眩んで呆然と目をしばたかせた。天上の最も明るい星は我が手にありとでも言いたげに、紳士は左手の薬指に彼らが未だ嘗て見たこともないような金剛石を飾った黄金の指輪を嵌めていたのである。
お俊はかるたの席に戻ると直ぐ、密かに隣の娘の膝をちょんちょん突いて何事か呟く。すると隣の娘は慌ただしく顔を上げて紳士の座る方を見たが、その目は紳士よりも紳士の指に光る物の大きさに驚いたようであった。
「まあ、あの指輪は!ちょっと、アレ金剛石?」
「そうよ」
「…大きいのねぇ」
「三百円だって…!」
お俊の説明を聞いた娘はぞわり…と身の毛がよだつような興奮を覚えて、
「まあ、凄いわねぇ!」
田作りの小魚のつぶらな目。それほどの真珠を飾る指輪さえこの幾年か欲しい欲しいと思いながら未だ手に入らぬ娘の胸は、たちまち或ことを思い浮かべて攻鼓のように轟くのだった。空想にひたる娘がぼうっと我を失っている間、電光の如く隣から伸びてきた長い腕が娘の鼻先の札を勢いよく攫っていく。
「あら、貴女どうしたのよ」
お俊は苛立って娘の横膝を続けざまに叩いた。
「あ……大丈夫よ、大丈夫。もう大丈夫だから。」
娘はハッと空想から覚め、及ばざる我が身を省みて諦めたけれども。一旦金剛石の強い光に焼かれた心は幾分か知覚を失ったようにぼんやりとして、さっきまでの目覚ましい手並みは見る見る間にしどろもどろになり、この時から彼女は敢えなくお俊のちっとも役に立たない味方になってしまった。
かくして金剛石の話題は彼らから他所に、甲から乙へという具合に、
「金剛石!」
「うむ、金剛石だ」
「金剛石??」
「なるほど、金剛石だ!」
「まあ、金剛石よ」
「あれが金剛石?」
「見たまえ、金剛石だよ。」
「あら、まあ金剛石??」
「素晴らしい金剛石だ」
「恐ろしく光るのね、金剛石」
「三百円の金剛石」
瞬く間に三十余人は相呼び相応じて、紳士の富を褒めそやした。
紳士は人々が代わる代わる自分の方を眺めるのを見て、金剛石を嵌めた手に形よく葉巻を持ち、右手を袖口に差し入れてゆったりと床柱に凭れ、眼鏡の下から下界を見渡すとでもいうように目配せしている。
これほど目立つ目印がある人の名を、誰しも尋ねずにはいられないもの。彼の素性はお俊の口から漏れたのだろう。紳士は富山唯継といい、家は成り上がりながら下谷区に聞こえる資産家の跡取りである。同じ下谷区にある富山銀行は彼の父親の開いた銀行で、市会議員の中にも富山重平の名を見つけることができる。
宮の名が男たちに持て囃されるように、富山と知れた彼の名はたちまち女たちの口に上った。あぁ、できることなら…一度でいいからこの紳士と組になって、世にも愛でたき宝石を間近に見る栄誉に浴したい、と心々に願わない女は滅多にいないだろう。もし彼の隣に座る栄誉を得たならば、その目を類なく楽しませてくれるだけでなく、その鼻までも嗅いだこともない菫花の異国の香に薫ぜられる幸いも受けることだろう。
こうなると男たちの心は次第に荒められてくるもので、女たちが挙って金剛石に心惹かれる有様を妬ましく、或いは浅ましく、多少なりとも興を冷まされぬ者はいなかった。そんな中、ひとり宮だけは騒ぐ様子もない。涼し気な眼差しはさしもの金剛石の輝きと争うように澄み、嗜み深く、奥ゆかしく振る舞う姿を、崇拝者たる男たちは益々歓び「さすが我等がお慕い申し上げた甲斐があるなぁ!偏にこの女王を奉じて一生の忠誠を捧げ、美と富との勝負をただ一戦のかるたに決して憎き紳士の面の皮をひん剥いてやる」と手ぐすね引いて待っていた。此方は美しき女王を奉じる男たち、彼方は富める紳士を謳う女たち…されば宮と富山の勢いは、あたかも日月ともに空に並び懸かるようである。果たして宮は誰と組み、富山は誰と組むのか。それこそ皆がもっとも懸念したことであったが、くじ引きの結果は驚くべき予想外。誰もが「この人と」と望んだ紳士と美人とが他の三人とともに一組になってしまったのである。さて初めは二組だった輪はこのとき合併して、ひとつの大きな車座を形成した。しかも富山と宮は隣合って座ったために、人々の狼狽え騒ぐ様は夜と昼とがいっぺんに来たようで。忽ち宮達の組の隣に社会党を称する一組が出来上がった。彼らの主義は持てる者への不平にして、その目的は破壊。即ち彼らは専ら腕力を用いて「ある組」の勝利と安寧とを妨害しようとしたのである。また宮たちの向かいの組は一人の女に手元を守らせ、屈強な男四人が遠征軍を組織。左翼を狼藉組、右翼を蹂躙隊と称するのも、実は金剛石の鼻っ柱を挫かんとおおわらわになっただけのことである。さて勝負が終わってみれば宮達の組はこてんぱんの大負けを喫し、お高くとまった紳士もさすがに鼻白み、美しき人は顔を赤らめて、居た堪れないほどメンツを潰されたのであった。そのためかこの勝負を機に紳士の姿はいつの間にか広間からいなくなっていた。男たちは万歳三唱を唱えたけれど、女の中には掌の玉石を失ったようにガッカリした者も多かった。散々に破壊され、狼藉され、蹂躙された富山は、あまりに文明的でない遊戯に恐れをなし、密かに主の居間に逃げ帰っていたのである。
鬘を被ったように整った彼の髪は今やシュロ箒のようにボサボサに乱れ、留め具のS環が片方もげた羽織の紐はテナガザルが月を捕まえようとするようにぶらぶらとぶら下がり。主は紳士を見たそばから慌てた顔で、
「どう遊ばしました。…おぉ、お手から血が出ておりますよ。」
主人はやにわに煙管を放り出して、彼に無礼がないようにとすぐさまがばと体を起こした。
「あぁ、酷い目に遭った。どうもあんな乱暴じゃどうしようもない。火事装束でも着て出掛けなくちゃとてもじゃないが居られないよ。まったく馬鹿にしている!頭を二つばかり撲たれた。」
手の甲の血を吸いつつ、富山は不愉快そうな面持ちで歓待の席に着いた。その設けは元々富山のために用意していたもので、海老茶の紋縮緬の座布団の傍らには七宝焼の小判型の大火鉢を置き、蒔絵の吸物膳さえ据えられている。主は手を打ち鳴らして女中を呼び、大急ぎで銚子と料理とをあつらえて、
「それはどうもとんでもないことを…。他にどこかお怪我はございませんでしたか。」
「そんなに有られてたまるものかね。」
返す言葉もなく主人は苦笑いした。
「いま絆創膏を差し上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でございましょう。わざわざお招き申しましたのに、大変失礼致しました。もう広間へは御出陣なさらんが宜しゅうございます。何もございませんが、ここで何卒ごゆるりと」
「…しかしね、もう一遍行ってみようかと思うのさ。」
「へえ、またいらっしゃるのでございますか…?」
「……。」
黙ったまま笑みを浮かべる富山のエラはいよいよ広がり、早くも彼の意を得たらしい主はススキでこさえた切り傷のように在るか無いか分からぬほど目を細めて破顔した。
「では貴方の御意に召した者が、へえ?」
富山は益々笑みを湛えた。
「そうでしょう。えぇ、そうでしょうとも。」
「何だい」
「何だいもかんだいもないですよ。誰が見たってわかるじゃありませんか。」
富山は頷きつつ、
「そうだろうね。」
「あれは宜しゅうございましょう」
「悪くないね」
「さ、さ、まずはそのおつもりでお熱いのをひとつ…。気難し屋の貴方が『悪くないね』と仰るくらいですから、よっぽど珍しいと思わなけりゃいけません。なかなか無いことでございます。」
そこへあたふた入ってきた内儀は思いがけず富山を見て、
「おや、こちらにおいで遊ばしたのでございますか」
内儀は広間を辞してから台所に詰めきりで、中入りに出す食べ物の指図などをしていたようである。
「こっぴどく負けて逃げてきました」
「それはよく逃げていらっしゃいました」
ほほほ…と例の歪んだ口を窄めて内儀は空々しく笑っていたが、忽ち富山の羽織の紐が片方ちぎれているのを見咎めて、環を失くしたと知るや慌てて立ち上がろうとした。どうしてといえば、その環は純金製だったからである。富山は事も無げに、
「なあに、宜しい」
「宜しいではございませんよ。純金では失くしたとなったら大変でございます」
「なあに、いいと言うのに」と富山が言い終わるのも待たず、内儀は広間の方へとあたふた出ていった。
「…時にあれの身分はどうかね」
「さよう、悪いことはございませんが……」
「が、どうしたのさ」
「…が、大したことはございませんです。」
「それはそうだろうさ。しかし凡そどんなものかね」
「あれの父親は元々は農商務省に務めておりましたが、今は土地を貸したり貸家の家賃収入で暮らしておるようでございますよ。どうも小金もあるような話で…鴫沢隆三と申してすぐ隣町に住んでおりますが、家業の方はごく手堅くこじんまりやっているのでございます。」
「はぁ、それじゃ知れたものだね」
言いつつ顎先を撫でれば、例の金剛石がきらりと光った。
「それでもいいさ。しかし嫁にくれるかな?跡取りじゃないかい。」
「さよう、一人娘のように思いましたが…」
「それじゃあちらも困るじゃないか」
「私は詳しいことは存じませんから、一つうちのに聞いてみようじゃありませんか」
程なくして内儀は羽織の環を見つけて居間に帰り来たが、偶然そうなったか誰かの悪戯かわからないが環はさながら耳かきのように引き伸ばされていた。主が内儀に向かい宮の家内の様子を尋ねてみると、内儀も知っていることは一通り語ったが「娘ならもっと良く知っているでしょうから、後で居間に呼んで聞いてみましょう」と夫婦はしきりに盃を勧めた。
富山唯継が今夜ここへ来た目的は、年賀の挨拶ではなく、ましてかるた遊びでもない。年頃の娘が多く集まるこの場で、嫁選びをしようという心積りだったのである。彼が一昨年の冬にイギリスより帰国するや否や、家の者は四方八方に手分けして妻となる女を求めたけれども…何せ彼は稀代の面食いであった。かき集めた二十余件の縁談は全て彼のお眼鏡に叶わず、今日という日に至るまで嫁選びはあくせくと続いていたのであった。帰国に際して彼の親が取り急ぎ建てた芝の新宅は、まだ彼が住みつかぬうちから日に日に黒ずみ、ある所は雨で傷み、薄暗い一間に留守番役の老夫婦が額を寄せ合いぽつりぽつりと昔の思い出を語らうのみであった。
口語訳・脚色 まいたけ
金色夜叉がすっっっごく面白かったので布教したい!と思い、「わかりやすさ」重視で脚色&口語訳しました。原作はもっと面白いので、これで興味を持っていただけたら原作を読んでくださいませ…
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金色夜叉 (前編)
第1章
まだ宵の頃というのに門松を立てた家々は一様に門扉を閉ざし、東から西へ真っ直ぐに長く横たわる大道は掃き清めたように人影もない。行き来も絶えて静まり返った往来にガラガラといやに高く響く車の音は、何か急いでいる者か、或いは酔いすぎた年賀の挨拶帰りの者か。遠くにまばらに聞こえる各兵衛獅子の太鼓は早くも今日で終わってしまう三箇日を惜しむが如く聞こえて、その切なさに獅子頭を被った子らは小さな胸を搾られることだろう。
元日快晴、二日快晴、三日快晴…と書かれた日記の記述を涜して、この黄昏から木枯らしが吹き始めた。「風吹くな、やれ吹くなよ」と優しい声で宥める人もないためか、夜に入っては木枯らしは怒りをましたように飾り竹を吹き靡かせ、干からびた葉をガサガサと鳴らし。吼えては走り、狂っては引き返し、
街のありとあらゆるものを揉みに揉んでひとり散々に騒ぎ回る。薄曇りの空はこの騒ぎに眠りを覚まされたようで銀梨子地のような無数の星々を顕し、その光は鋭く冴えて寒気を放つかと思うほどに星明かりに曝された夜の街は殆ど凍らんとしている。
人はこの覚束無い暗闇に立ち、どうしてそこに彼らの世間があり、社会があり、都があり、町があると想像出来るだろうか。天地開闢して天地が混沌より現れたと言っても、万物は未だ尽く形を成さず、風が試みに吹き星が新たに輝き始めた広い広い荒野は、何の意図も秩序も趣向もなくただただそこに横たわっているに過ぎないではないか。日が高いうちはさながら沸き出るように楽しみ、謳い、酔い、戯れ、歓び、笑い、語り、愉しみ興じた人々よ。彼らは夏の終わりのボウフラのように消え失せ、今はいったいどこでどうしているのかと考えてしまうのも無理かなぬことだろう。
しばらく木枯らしが静まった頃、遥か遠くでチョンと拍子木が鳴った。その響きが消えるころふっと一点の燈火が見えはじめたが、燈人はゆらゆらと街の外れを横切って消え、いまは再び吹き始めた寒風が寂しい星月夜を思う様吹き渡るのみである。とある小路の湯屋は店仕舞いを急いで湯を抜いたと見え、隣家との境の下水口から吹き出た湯気がひとむらの白い雲になって舞い上がる。むっと気持ち悪い温もりが辺りに満ち、垢臭い汚水の臭いが迸る湯気の中へ、二人の車夫が曳く綱引の人力車が突っ込んできた。勢いよく角から曲がって小路に入ってきた車は、その湯気を避けることも出来ず駆け抜ける。
「うっ…臭いな。」
車上の呟きと共に行き過ぎた跡には、投げ捨てられた葉巻の吸殻が湯気の中にぼうと赤く煙っていた。
「もう湯を抜くのかな。」
「へい、松の内は早じまいでございます」
車夫が客にそう答えたあとは会話も絶え、車はまっしぐらに走りゆく。車上の紳士は二重回しの袖をひしと掻き合せ、カワウソの衿皮の内に耳の上まで顔を埋めた。灰色の毛皮の敷物の端を車の後ろに垂れて、横縞の華やかな浮波織のひざ掛けをかけ、提灯の徽章は『T』の花文字を二つ組み合わせたデザインである。車はさらに走りゆき、小路の外れを北に折れてやや広い通りに出たところでまた西に入り、その南側の中程のある家へと辿り着いた。『箕輪』と書かれた軒ランプを掲げ、削ぎ竹を飾った門構えの中へ車を引き入れたが、玄関の障子に灯りが映っているのに格子はしっかり閉ざされている。
「ごめんよ、ごめんよ!」
鍵のかかった格子を車夫がどんどん叩くが、一向に戸の開く気配がない。家の奥からドタバタと盛んに大勢の騒ぐ声が聞こえてくるが、そちらに手を取られて取り合わないとでも言うのだろうか。二人の車夫がまた声を合わせて「もし、ごめんよ!ごめんよ!」とどんどん叩き続けると、しばらくして急ぎ足の足音を立てて人が出てきた。
茶微塵の糸織りの小袖に黒の奉書紬の紋付を羽織り、丸髷を結った四十ばかりの小さく痩せて色の白い彼女は恐らくこの家の内儀だろう。彼女が忙しげに格子を開けるのを待って紳士は悠然と玄関に入ろうとしたが、土間はステッキを突くほどの隙間もなく履物で埋め尽くされている。
「………。」
紳士が踏み入るのを躊躇う素振りを見るや、内儀はすかさず土間に降り立ち、この敬うべき賓客のために漸く一条の道を開けた。そうして紳士が脱ぎ捨てた駒下駄のみはひとり、障子の内に取り入れられたのである。
(一)の二
箕輪家の奥は十畳の客間と八畳の中の間を打ち抜きにして広間の十箇所に真鍮の燭台を据え、五十目掛の蝋燭が漁火のように燃えている。そのうえ間ごとに天井からニッケルメッキの空気ランプを灯しているのであたりは真昼より明るく、その下に集う人々の顔も眩しいほどに輝き渡っているのだった。三十人余りもの若い男女は二手に別れて輪を作り、今を盛りとかるた遊びに興じている。蝋燭の炎と火鉢の熱と大勢の人いきれが混じる一種の温気は締め切った座敷の内に澱んで動かず、煙草の煙とランプの油煙は互いに縺れて彼らの上に渦を巻いて立ち迷う。押し合いへしあいする彼らの面はみな逆上せたように赤く、白粉がうっすら剥げた者あり、髪のほつれた者あり、着物がぐちゃぐちゃに着乱れた者もあり。女たちは化粧をして着飾っているから、取り乱した様がいよいよよくわかる。男たちはシャツの脇あたりが裂けてチョッキのようになっている者あり、羽織を脱いで帯の解けた尻を突き出す者あり、お手付きの罰か十指を四つまで紙で結ばれた者あり。彼らみなこの息苦しいほどの温気も、咽てしまいそうな煙の渦も狂乱して気に留めず。むしろきゃあきゃあと楽しげに騒ぎ喚く声、笑い転げる声、縺れ合い、踏みしだきひしめき合い。誰かが札を取るや、わっと一斉にどよめきが沸き上がる。絶え間ない騒動の内に狼藉して戯れ遊ぶ体たらくは、遵守すべき礼儀も孔子の教えも糸瓜の皮とばかり土に塗れ、ただこれ修羅道をひっくり返したような有様である。
海上風波の難に遭ったとき、幾らかの油を航路に注げば不思議と浪はたちまちに静まり、船は九死から逃れられるという。今この如何ともし難い乱脈の座中に、その油の力を持ってして支配する女王がいた。猛りに猛る男たちの心も彼女の前では和らぎ、とうとう崇拝しない者はいない。他方で女たちは「なによ、あの娘」と嫉みつつも憧れ、気後れを抱いていた。中の間に出来た輪の柱わきに座り、重たげに戴いた夜会結びに薄紫のリボンを飾って小豆鼠の縮緬の羽織を着た娘…その人こそかの女王である。彼女は座の人々が大騒ぎして札を取り合う姿を面白そうに眺め、自らは涼しげな目をして淑やかに座っている。装いから顔立ちまで水際立ち、えも言われず匂いやかな彼女を、初めて見る者はみな『芸妓が素人の格好をして座っているのでは』と疑うほど。最初の勝負が終わらぬうちに彼女の素性は広まり、宮という名は皆が知るところとなった。この騒ぎの中には娘も大勢いた。醜い者の中には、子守り女が着物を借りて着てきたかという者や、三文芝居の姫君がやっとこ裾を引き摺るような様の者もあったが、中には二十人並、五十人並には優れた容姿の者もいた。装いだけなら宮より数段立派な者は大勢いる。装いという点に於いては、宮は中の位に過ぎない。貴族院議員の愛娘という娘は座中一番のブサイクと満場一致で認めるところであるが、いかり肩に紋御召の三枚襲を被ぎ、帯は紫根の繻珍に百合の折枝紋を縒り金で盛り上げしたものを締め、よりによって一番きらびやかな装いをしていたものだから、このアンバランスに人々は目も眩み、ギョッとして眉を顰めたのだった。このほか種々色々のきらびやかな装いの中に立ち交じっては宮の装いなどというものは暁の星のささやかな瞬きに過ぎなかったものの、彼女の肌の白さの前ではどれほど美しい染色も褪せ、彼女の整った顔立ちはどれほど麗しい織物よりも麗しく。醜い者たちがどれほど着飾ってもその醜さを隠せないように、宮の美しさは着飾らずとも決して損なわれることはなかった。
袋棚と障子の片隅に手あぶりの火鉢を囲んで蜜柑を剥きつつ語り合う男のひとりは、宮の横顔を遠くから惚れ惚れと見つめていたが、とうとう堪えきれないように呻きを漏らした。
「あぁ、好い…好い、全く好い!馬子にも衣装と言うけれど、美しさの前には衣装など敵わないね。その人それ自体が美しいのだもの、着物などどうでもいい。なんなら何も着ておらんでもいい。」
「うむ、裸体ならなお結構だ!」
強く相槌を打ったのは美術学校の学生である。
急ぎの車で駆け付けた紳士は、しばらく休息の後に内儀に先導されて広間へやってきた。彼の後ろには今まで居間に潜んでいた主の箕輪亮輔も付き添っている。かるた遊びの人々は例によって入り乱れ、ここが勝負どころと激しい勝負の最中であれば彼らが来たことに気付いた者は稀であったが、片隅で語らっていた先の二人はいち早く気づき、横目で紳士の風采を盗み見た。
広間の燈影は入り口に立つ三人の姿を鮮やかに照らし出していた。色白の内儀の口は疳のために引き歪み、その夫は赤ら顔の額際からつるりと禿げた頭はが滑らかに光を放っている。妻の方は人よりも小柄だが、逆に夫は人よりでっぷり太った大兵で、妻がいつもソワソワおどおどした面持ちをしているのに引き替え、夫は生きながら布袋和尚を拝むような福相である。
紳士は歳の頃、二十六・七だろうか。背は高く体は好きほどに厚みがあり、艶やかな肌は頬の辺りに薄紅を帯びて、額厚く、口は大きく、左右にエラの張った広い顔はやや正方形の形をしている。緩く波打つ髪は横から一文字に撫で付けて、少しだけ髪油で整えているようだ。口元には薄く口髭を生やして、存在感のある鼻に金縁の眼鏡を挟み、五つ紋の重厚な黒塩瀬の羽織に華紋織りの小袖を裾長に着こなして。鷹揚に顔を上げて座中を見渡す紳士の姿は六寸の七糸帯に垂らした金鎖のようにキラキラと四方に光を払って見えた。この座の中に彼のように色白く、身綺麗に、しかもきらびやかに装う男はひとりとしていない。
「…なんだ、あれは?」
例の二人の片割れはさも憎げに呟き、
「ヤなやつ!」
唾を吐くように言って学生ねわざと顔を背けた。
「あぁ、お俊や。ちょいと、」と内儀が輪の中から娘を手招きすると、お俊は両親が紳士を伴って立っているのを見るなり慌ただしく座を立ってやって来た。娘は器量はイマイチだが顔立ちには愛嬌があり、父親によく似ている。髪を高島田に結い、肉色縮緬の羽織を摘むほど肩上げしていた。娘は顔を赤らめつつ紳士の前に跪き慇懃に頭を下げたが、紳士は僅かに腰をかがめて応えるのみ。
「どうぞこちらへ」
娘は案内しようと待ち構えるが、紳士はさして気乗りしないような顔で頷く。母は歪んだ口をモゴモゴ動かして、
「あのね、見事な、まぁ、お年玉をお戴きだよ。」
お俊が再び頭を下げると、男は笑みを含んだ目礼で応じた。
「さぁ、まあ、こちらへいらっしゃいまし。」
主が勧めるそばから妻はお俊を促し、お俊は客間の床柱の前に据えた火鉢のあるところへ彼を案内した。妻はそこまで付き添って行った。駄弁るふたりは箕輪家の人々がいやに紳士を丁重に扱うのを訝り、紳士が火鉢の前に座るまで一挙手一投足も見逃すまいと目で追いかける。紳士は彼らに左の半面を見せて車座の間を通り過ぎたが、その薬指に輝く物のただならぬ強い光は燈火にきらっと閃き、ふたりはまるで光の矢に瞳を射られたように眩んで呆然と目をしばたかせた。天上の最も明るい星は我が手にありとでも言いたげに、紳士は左手の薬指に彼らが未だ嘗て見たこともないような金剛石を飾った黄金の指輪を嵌めていたのである。
お俊はかるたの席に戻ると直ぐ、密かに隣の娘の膝をちょんちょん突いて何事か呟く。すると隣の娘は慌ただしく顔を上げて紳士の座る方を見たが、その目は紳士よりも紳士の指に光る物の大きさに驚いたようであった。
「まあ、あの指輪は!ちょっと、アレ金剛石?」
「そうよ」
「…大きいのねぇ」
「三百円だって…!」
お俊の説明を聞いた娘はぞわり…と身の毛がよだつような興奮を覚えて、
「まあ、凄いわねぇ!」
田作りの小魚のつぶらな目。それほどの真珠を飾る指輪さえこの幾年か欲しい欲しいと思いながら未だ手に入らぬ娘の胸は、たちまち或ことを思い浮かべて攻鼓のように轟くのだった。空想にひたる娘がぼうっと我を失っている間、電光の如く隣から伸びてきた長い腕が娘の鼻先の札を勢いよく攫っていく。
「あら、貴女どうしたのよ」
お俊は苛立って娘の横膝を続けざまに叩いた。
「あ……大丈夫よ、大丈夫。もう大丈夫だから。」
娘はハッと空想から覚め、及ばざる我が身を省みて諦めたけれども。一旦金剛石の強い光に焼かれた心は幾分か知覚を失ったようにぼんやりとして、さっきまでの目覚ましい手並みは見る見る間にしどろもどろになり、この時から彼女は敢えなくお俊のちっとも役に立たない味方になってしまった。
かくして金剛石の話題は彼らから他所に、甲から乙へという具合に、
「金剛石!」
「うむ、金剛石だ」
「金剛石??」
「なるほど、金剛石だ!」
「まあ、金剛石よ」
「あれが金剛石?」
「見たまえ、金剛石だよ。」
「あら、まあ金剛石??」
「素晴らしい金剛石だ」
「恐ろしく光るのね、金剛石」
「三百円の金剛石」
瞬く間に三十余人は相呼び相応じて、紳士の富を褒めそやした。
紳士は人々が代わる代わる自分の方を眺めるのを見て、金剛石を嵌めた手に形よく葉巻を持ち、右手を袖口に差し入れてゆったりと床柱に凭れ、眼鏡の下から下界を見渡すとでもいうように目配せしている。
これほど目立つ目印がある人の名を、誰しも尋ねずにはいられないもの。彼の素性はお俊の口から漏れたのだろう。紳士は富山唯継といい、家は成り上がりながら下谷区に聞こえる資産家の跡取りである。同じ下谷区にある富山銀行は彼の父親の開いた銀行で、市会議員の中にも富山重平の名を見つけることができる。
宮の名が男たちに持て囃されるように、富山と知れた彼の名はたちまち女たちの口に上った。あぁ、できることなら…一度でいいからこの紳士と組になって、世にも愛でたき宝石を間近に見る栄誉に浴したい、と心々に願わない女は滅多にいないだろう。もし彼の隣に座る栄誉を得たならば、その目を類なく楽しませてくれるだけでなく、その鼻までも嗅いだこともない菫花の異国の香に薫ぜられる幸いも受けることだろう。
こうなると男たちの心は次第に荒められてくるもので、女たちが挙って金剛石に心惹かれる有様を妬ましく、或いは浅ましく、多少なりとも興を冷まされぬ者はいなかった。そんな中、ひとり宮だけは騒ぐ様子もない。涼し気な眼差しはさしもの金剛石の輝きと争うように澄み、嗜み深く、奥ゆかしく振る舞う姿を、崇拝者たる男たちは益々歓び「さすが我等がお慕い申し上げた甲斐があるなぁ!偏にこの女王を奉じて一生の忠誠を捧げ、美と富との勝負をただ一戦のかるたに決して憎き紳士の面の皮をひん剥いてやる」と手ぐすね引いて待っていた。此方は美しき女王を奉じる男たち、彼方は富める紳士を謳う女たち…されば宮と富山の勢いは、あたかも日月ともに空に並び懸かるようである。果たして宮は誰と組み、富山は誰と組むのか。それこそ皆がもっとも懸念したことであったが、くじ引きの結果は驚くべき予想外。誰もが「この人と」と望んだ紳士と美人とが他の三人とともに一組になってしまったのである。さて初めは二組だった輪はこのとき合併して、ひとつの大きな車座を形成した。しかも富山と宮は隣合って座ったために、人々の狼狽え騒ぐ様は夜と昼とがいっぺんに来たようで。忽ち宮達の組の隣に社会党を称する一組が出来上がった。彼らの主義は持てる者への不平にして、その目的は破壊。即ち彼らは専ら腕力を用いて「ある組」の勝利と安寧とを妨害しようとしたのである。また宮たちの向かいの組は一人の女に手元を守らせ、屈強な男四人が遠征軍を組織。左翼を狼藉組、右翼を蹂躙隊と称するのも、実は金剛石の鼻っ柱を挫かんとおおわらわになっただけのことである。さて勝負が終わってみれば宮達の組はこてんぱんの大負けを喫し、お高くとまった紳士もさすがに鼻白み、美しき人は顔を赤らめて、居た堪れないほどメンツを潰されたのであった。そのためかこの勝負を機に紳士の姿はいつの間にか広間からいなくなっていた。男たちは万歳三唱を唱えたけれど、女の中には掌の玉石を失ったようにガッカリした者も多かった。散々に破壊され、狼藉され、蹂躙された富山は、あまりに文明的でない遊戯に恐れをなし、密かに主の居間に逃げ帰っていたのである。
鬘を被ったように整った彼の髪は今やシュロ箒のようにボサボサに乱れ、留め具のS環が片方もげた羽織の紐はテナガザルが月を捕まえようとするようにぶらぶらとぶら下がり。主は紳士を見たそばから慌てた顔で、
「どう遊ばしました。…おぉ、お手から血が出ておりますよ。」
主人はやにわに煙管を放り出して、彼に無礼がないようにとすぐさまがばと体を起こした。
「あぁ、酷い目に遭った。どうもあんな乱暴じゃどうしようもない。火事装束でも着て出掛けなくちゃとてもじゃないが居られないよ。まったく馬鹿にしている!頭を二つばかり撲たれた。」
手の甲の血を吸いつつ、富山は不愉快そうな面持ちで歓待の席に着いた。その設けは元々富山のために用意していたもので、海老茶の紋縮緬の座布団の傍らには七宝焼の小判型の大火鉢を置き、蒔絵の吸物膳さえ据えられている。主は手を打ち鳴らして女中を呼び、大急ぎで銚子と料理とをあつらえて、
「それはどうもとんでもないことを…。他にどこかお怪我はございませんでしたか。」
「そんなに有られてたまるものかね。」
返す言葉もなく主人は苦笑いした。
「いま絆創膏を差し上げます。何しろ皆書生でございますから随分乱暴でございましょう。わざわざお招き申しましたのに、大変失礼致しました。もう広間へは御出陣なさらんが宜しゅうございます。何もございませんが、ここで何卒ごゆるりと」
「…しかしね、もう一遍行ってみようかと思うのさ。」
「へえ、またいらっしゃるのでございますか…?」
「……。」
黙ったまま笑みを浮かべる富山のエラはいよいよ広がり、早くも彼の意を得たらしい主はススキでこさえた切り傷のように在るか無いか分からぬほど目を細めて破顔した。
「では貴方の御意に召した者が、へえ?」
富山は益々笑みを湛えた。
「そうでしょう。えぇ、そうでしょうとも。」
「何だい」
「何だいもかんだいもないですよ。誰が見たってわかるじゃありませんか。」
富山は頷きつつ、
「そうだろうね。」
「あれは宜しゅうございましょう」
「悪くないね」
「さ、さ、まずはそのおつもりでお熱いのをひとつ…。気難し屋の貴方が『悪くないね』と仰るくらいですから、よっぽど珍しいと思わなけりゃいけません。なかなか無いことでございます。」
そこへあたふた入ってきた内儀は思いがけず富山を見て、
「おや、こちらにおいで遊ばしたのでございますか」
内儀は広間を辞してから台所に詰めきりで、中入りに出す食べ物の指図などをしていたようである。
「こっぴどく負けて逃げてきました」
「それはよく逃げていらっしゃいました」
ほほほ…と例の歪んだ口を窄めて内儀は空々しく笑っていたが、忽ち富山の羽織の紐が片方ちぎれているのを見咎めて、環を失くしたと知るや慌てて立ち上がろうとした。どうしてといえば、その環は純金製だったからである。富山は事も無げに、
「なあに、宜しい」
「宜しいではございませんよ。純金では失くしたとなったら大変でございます」
「なあに、いいと言うのに」と富山が言い終わるのも待たず、内儀は広間の方へとあたふた出ていった。
「…時にあれの身分はどうかね」
「さよう、悪いことはございませんが……」
「が、どうしたのさ」
「…が、大したことはございませんです。」
「それはそうだろうさ。しかし凡そどんなものかね」
「あれの父親は元々は農商務省に務めておりましたが、今は土地を貸したり貸家の家賃収入で暮らしておるようでございますよ。どうも小金もあるような話で…鴫沢隆三と申してすぐ隣町に住んでおりますが、家業の方はごく手堅くこじんまりやっているのでございます。」
「はぁ、それじゃ知れたものだね」
言いつつ顎先を撫でれば、例の金剛石がきらりと光った。
「それでもいいさ。しかし嫁にくれるかな?跡取りじゃないかい。」
「さよう、一人娘のように思いましたが…」
「それじゃあちらも困るじゃないか」
「私は詳しいことは存じませんから、一つうちのに聞いてみようじゃありませんか」
程なくして内儀は羽織の環を見つけて居間に帰り来たが、偶然そうなったか誰かの悪戯かわからないが環はさながら耳かきのように引き伸ばされていた。主が内儀に向かい宮の家内の様子を尋ねてみると、内儀も知っていることは一通り語ったが「娘ならもっと良く知っているでしょうから、後で居間に呼んで聞いてみましょう」と夫婦はしきりに盃を勧めた。
富山唯継が今夜ここへ来た目的は、年賀の挨拶ではなく、ましてかるた遊びでもない。年頃の娘が多く集まるこの場で、嫁選びをしようという心積りだったのである。彼が一昨年の冬にイギリスより帰国するや否や、家の者は四方八方に手分けして妻となる女を求めたけれども…何せ彼は稀代の面食いであった。かき集めた二十余件の縁談は全て彼のお眼鏡に叶わず、今日という日に至るまで嫁選びはあくせくと続いていたのであった。帰国に際して彼の親が取り急ぎ建てた芝の新宅は、まだ彼が住みつかぬうちから日に日に黒ずみ、ある所は雨で傷み、薄暗い一間に留守番役の老夫婦が額を寄せ合いぽつりぽつりと昔の思い出を語らうのみであった。
