【堤中納言物語】ほどほどの懸想
公開 2024/06/02 22:33
最終更新
2024/06/02 22:39
葵祭の頃は、澄んだ空も新緑も、目に映る全てが真新しく見えるものであろう。賎しい粗末な家さえ、半蔀に神縁を結ぶとされる葵を結びつけ、なんとも晴れやかな心地である。また通りを行く女童たちの衵や袴の清々しさ、様々な物忌札を飾り、美しく化粧をして「私が一番綺麗よ!」と言いたげな澄まし顔で行き交う光景は趣深いものであるが。まして年若い小舎人や随身らが華やかに装った彼女たちに惹かれるのも無理からぬことである。
「あの娘いいな、この娘も愛らしい」と目移りしつつ、揶揄ったり軽口を叩いてみたり。しかしどの小舎人も随身も、なかなか色良い返事は貰えないと見える。そんななか、どこの御屋敷の女童だろうか。薄色の衣に背丈ほどもある艶やかな黒髪を流したあでやかな娘を、頭の中将の御小舎人童が見初めたらしい。たわわに実る梅の枝に葵を括りつけて、例の女童に「これを君に」と差し出した。
『どの娘も葵を飾っているけれど、君が一等素敵だね。どうせならその胸に飾った葵の根までも見てみたいなぁ…衣の下に隠された青梅のような乙女の肌をね。なぁ、どうだい?』
青梅(あふめ)を逢う目とかけて、今日の祭で神と縁を結ぶように、君と一夜の縁を結びたい。どうかチャンスをくれよ、と言う訳である。
『御幣櫃に飾られた葵が、注連縄と木綿葛の奥に守らているのが見えないのかしら。物語じゃあるまいし…日が暮れたって「神の斎垣もこえぬべし」なんて言うワケないでしょ。』
差し出された女童はじろりと小舎人童を見返し、「わたし、そんなイージーな女じゃないの」と冷たく突き返してきた。これには小舎人童もカチンと来たようで、「何だよその言い草!」とスパン!と笏で女童の打ち、駆け去っていった。
「ほらもう、アンタたち男って…ほんっと、そういうところが嫌なのよ!」
走り去る背に女童の非難の声を浴びるなどしていたが。馴れ初めはともかく、「あの人ならまぁ…悪くないかも」とお互い意識し合うようになったのだろう。そののち小舎人童は例の女童に通う仲になった。
さてその後。何がどうなったのか、女童は今は亡き式部卿の宮の姫君のおひとりに仕えるようになった。姫君は父君を随分早くに亡くし後ろ盾もなく、母君は夫君がお亡くなりになった折に髪を下ろしてしまわれ、心細さを嘆きつつ寂れた下京でひっそりと暮らしておられた。
「どうしたら良いの…父上は私を入内させようとお考えだったけれど、こんなことではもう…。」
姫君は優れた器量の方であったが、困窮する暮らしは苦労も多い。歳よりずっと老け込んでしまった我が身を嘆きつつお暮らしになっていた。
「何だかなぁ…宮様はお若いだろうに、まるで夫君を亡くした未亡人のようじゃないか。」
何度通っても荒れた屋敷は閑散として、姫君がいらっしゃるあたりさえ人の気配も疎らに漂う空気はどんより暗い。小舎人童は床に頬杖をついた。
「うちのご主人様にこちらへ通って頂けたらなぁ。まだ決まった奥方様もいらっしゃらないし、もしそうなったら最高なんだけど…。ここはうちの御屋敷から遠いし、俺が思ったように通えなくなれば『私は遊びだったんだ』って、お前は思うだろう?『どうして通って来ないのかしら』と先々のことまで心配してあれこれ悩むだろうから。」
小舎人童が言うと、
「うーん…姫様、今となっては結婚だ何だなんて一切お考えではないらしいわよ。」
と同じく床に伏せていた女童が肩を竦める。
「姫君は美人なんだろう?いくら高貴なお血筋の方でも、良い人のひとりもいないんじゃ片手落ちだ。」
小舎人童が言うと、まぁ!と女童が批難がましく眉を釣り上げた。
「信じらんないこの男、何言ってんのよ。姫様にお仕えする女房方は『どんなにイライラしていても、御前にさえ参れば心が落ち着く』って仰ってたわ。おモテにならないわけないでしょ!」
などと語らい合ううちに、だんだんと空が白んで来たので小舎人童は屋敷へと帰って行った。
そうこうしているうちに年明けを迎えた。
「おい、お前。」
小舎人童は、同じ御屋敷に仕えるある男に声をかけられた。軽薄な女好きらしく、決まった恋人も持たずにフラフラしている若い男である。その男が小舎人童へ声をかけてきた。
「なぁ、お前が通ってる屋敷にゃ年頃の女はいるのかい?」
「…八条の宮様です。私の知り合いが仕えていますけど、あんまり若い女房はいないみたいッスよ。中将さんとか、侍従の君とかなんとかって女房は美人らしいッスけど。」
へぇ…と男は下卑た笑みを浮べ、
「じゃ、お前の『知り合い』とやらに取次ぎさせて、その女房へ文を届けてくれよ。」
そう言い、文を柳に結びつけてを持ってきた。
「………。」
(ケッ…思い乱れる柳条ってか?アンタの想いは吹けば飛ぶような柳絮だろ…)
思っても顔にも口にも出せない立場である。八条の宮を訪れた小舎人童がうんざり顔で文を結びつけた柳を手渡すと、「は?何それ。アンタのご主人様から姫様にじゃなくて?」と訝りつつも女童は屋敷に上がり女房に取り次いだ。
「あのう、これこれという方からお文が…」
「私に?どれ…、」
柳から外して開いてみれば筆遣いも爽やかに、
「『下へ下へと縺れ靡く青柳の、千々に乱れる想いを下京へわたる風があなたに仄めかして行ったのではありませんか。』
存じません、なんて冷たいことは仰らないでくださいよ、ね?」
とある。
「あらあら…隅に置けないわね。」
「お返事はどうなさるの?最初のお返事をシカトするなんて、いくらなんでも古風過ぎじゃない?近頃はむしろ最初からお返事を返すものよ。」
横から覗き込んだ古参の女房たちが、ニヤニヤ笑いながら言う。当の女房は「およしになってくださいよ、もう」などと笑いつつ、彼女は幾らか歳若い女房だったようで。
『あらあら…幾筋も靡く柳の枝は、悪い風が吹くたびにさぞ乱れ縺れているのでしょうね。』
あっちにもこっちにもこんな風に言い寄っておられるのでしょう?イケナイ人ね。と今風の筆遣いでさらりと返してきた。
「……へぇ…。」
才気を感じさせつつも、走り書きのような文字のこなれ感。心にグッときたのだろう、送り主の男は背中を丸めてニヤニヤとその文を眺めていた。すると、
「っあ!」
さっ!と後ろから文を引き抜かれた。おい、誰だ!と振り返ると文を摘んでいたのは他ならぬ男の主人・頭の中将である。
「…中将様!」
「この文は誰からだ?」
「痛たたたた…!」
「誰からだと聞いている。」
頬をつねり捻りしつつ問いただすと、「し、しかじかという八条の宮の女房からでございます!け、決して中将様の良い人では…あっちもその、ほんのお遊びのつもりでしょうし…」としどろもどろに言う。
「八条の宮の女房…?」
そのころ中将の君も「私も下京のあの方と文のやり取りが出来たらいいのだが…」と思案されていたところであったから、背を丸めてほくそ笑む男を後ろからご覧になっていたらしい。
「……私も少々下京に用がある。その女房、これからも懇ろに口説けよ。私の用事にも役に立ってもらおう。」
中将の君は男を解放するとすぐにお遣いに行った小舎人童をお召になり、八条の宮の様子を詳しく話すよう命じた。
「えぇと…あちらの御屋敷は随分と荒れておりまして…」
恐縮しながらも小舎人童がありのまま、八条の宮の心細げな暮らし向きについて語れば、中将の君もお顔を曇らせ「宮がご健在であったなら…」と思わずにいられなかった。
あの頃、御屋敷に伺った折にはこっそり逢瀬を重ねたものだか…。あの頃から今に至るまでをあれこれ思い巡らせて、中将の君は「花は落ち水は流れる…か」とぽつりと呟いた。
(私が愛したあの御方も、ずっと淋しく心もとない思いをされていただろう。世の中とは全くもって思うようにならないものだ…。)
そんな風に思いつつ、中将の君は自嘲の笑みを浮かべた。
(…権勢の衰えた家の姫なんぞに今さら通ったところで………はは…弱ったものだなぁ…。)
胸に燻っていた想いが、とうに潰えたはずの恋が、今は炎となって胸に燃え上がる。中将の君はさっそく筆先を墨に浸し、
「…さて、何と詠んだものか…。」
と思案しつつ、妻問いの歌をしたためたのだとか。
「あの娘いいな、この娘も愛らしい」と目移りしつつ、揶揄ったり軽口を叩いてみたり。しかしどの小舎人も随身も、なかなか色良い返事は貰えないと見える。そんななか、どこの御屋敷の女童だろうか。薄色の衣に背丈ほどもある艶やかな黒髪を流したあでやかな娘を、頭の中将の御小舎人童が見初めたらしい。たわわに実る梅の枝に葵を括りつけて、例の女童に「これを君に」と差し出した。
『どの娘も葵を飾っているけれど、君が一等素敵だね。どうせならその胸に飾った葵の根までも見てみたいなぁ…衣の下に隠された青梅のような乙女の肌をね。なぁ、どうだい?』
青梅(あふめ)を逢う目とかけて、今日の祭で神と縁を結ぶように、君と一夜の縁を結びたい。どうかチャンスをくれよ、と言う訳である。
『御幣櫃に飾られた葵が、注連縄と木綿葛の奥に守らているのが見えないのかしら。物語じゃあるまいし…日が暮れたって「神の斎垣もこえぬべし」なんて言うワケないでしょ。』
差し出された女童はじろりと小舎人童を見返し、「わたし、そんなイージーな女じゃないの」と冷たく突き返してきた。これには小舎人童もカチンと来たようで、「何だよその言い草!」とスパン!と笏で女童の打ち、駆け去っていった。
「ほらもう、アンタたち男って…ほんっと、そういうところが嫌なのよ!」
走り去る背に女童の非難の声を浴びるなどしていたが。馴れ初めはともかく、「あの人ならまぁ…悪くないかも」とお互い意識し合うようになったのだろう。そののち小舎人童は例の女童に通う仲になった。
さてその後。何がどうなったのか、女童は今は亡き式部卿の宮の姫君のおひとりに仕えるようになった。姫君は父君を随分早くに亡くし後ろ盾もなく、母君は夫君がお亡くなりになった折に髪を下ろしてしまわれ、心細さを嘆きつつ寂れた下京でひっそりと暮らしておられた。
「どうしたら良いの…父上は私を入内させようとお考えだったけれど、こんなことではもう…。」
姫君は優れた器量の方であったが、困窮する暮らしは苦労も多い。歳よりずっと老け込んでしまった我が身を嘆きつつお暮らしになっていた。
「何だかなぁ…宮様はお若いだろうに、まるで夫君を亡くした未亡人のようじゃないか。」
何度通っても荒れた屋敷は閑散として、姫君がいらっしゃるあたりさえ人の気配も疎らに漂う空気はどんより暗い。小舎人童は床に頬杖をついた。
「うちのご主人様にこちらへ通って頂けたらなぁ。まだ決まった奥方様もいらっしゃらないし、もしそうなったら最高なんだけど…。ここはうちの御屋敷から遠いし、俺が思ったように通えなくなれば『私は遊びだったんだ』って、お前は思うだろう?『どうして通って来ないのかしら』と先々のことまで心配してあれこれ悩むだろうから。」
小舎人童が言うと、
「うーん…姫様、今となっては結婚だ何だなんて一切お考えではないらしいわよ。」
と同じく床に伏せていた女童が肩を竦める。
「姫君は美人なんだろう?いくら高貴なお血筋の方でも、良い人のひとりもいないんじゃ片手落ちだ。」
小舎人童が言うと、まぁ!と女童が批難がましく眉を釣り上げた。
「信じらんないこの男、何言ってんのよ。姫様にお仕えする女房方は『どんなにイライラしていても、御前にさえ参れば心が落ち着く』って仰ってたわ。おモテにならないわけないでしょ!」
などと語らい合ううちに、だんだんと空が白んで来たので小舎人童は屋敷へと帰って行った。
そうこうしているうちに年明けを迎えた。
「おい、お前。」
小舎人童は、同じ御屋敷に仕えるある男に声をかけられた。軽薄な女好きらしく、決まった恋人も持たずにフラフラしている若い男である。その男が小舎人童へ声をかけてきた。
「なぁ、お前が通ってる屋敷にゃ年頃の女はいるのかい?」
「…八条の宮様です。私の知り合いが仕えていますけど、あんまり若い女房はいないみたいッスよ。中将さんとか、侍従の君とかなんとかって女房は美人らしいッスけど。」
へぇ…と男は下卑た笑みを浮べ、
「じゃ、お前の『知り合い』とやらに取次ぎさせて、その女房へ文を届けてくれよ。」
そう言い、文を柳に結びつけてを持ってきた。
「………。」
(ケッ…思い乱れる柳条ってか?アンタの想いは吹けば飛ぶような柳絮だろ…)
思っても顔にも口にも出せない立場である。八条の宮を訪れた小舎人童がうんざり顔で文を結びつけた柳を手渡すと、「は?何それ。アンタのご主人様から姫様にじゃなくて?」と訝りつつも女童は屋敷に上がり女房に取り次いだ。
「あのう、これこれという方からお文が…」
「私に?どれ…、」
柳から外して開いてみれば筆遣いも爽やかに、
「『下へ下へと縺れ靡く青柳の、千々に乱れる想いを下京へわたる風があなたに仄めかして行ったのではありませんか。』
存じません、なんて冷たいことは仰らないでくださいよ、ね?」
とある。
「あらあら…隅に置けないわね。」
「お返事はどうなさるの?最初のお返事をシカトするなんて、いくらなんでも古風過ぎじゃない?近頃はむしろ最初からお返事を返すものよ。」
横から覗き込んだ古参の女房たちが、ニヤニヤ笑いながら言う。当の女房は「およしになってくださいよ、もう」などと笑いつつ、彼女は幾らか歳若い女房だったようで。
『あらあら…幾筋も靡く柳の枝は、悪い風が吹くたびにさぞ乱れ縺れているのでしょうね。』
あっちにもこっちにもこんな風に言い寄っておられるのでしょう?イケナイ人ね。と今風の筆遣いでさらりと返してきた。
「……へぇ…。」
才気を感じさせつつも、走り書きのような文字のこなれ感。心にグッときたのだろう、送り主の男は背中を丸めてニヤニヤとその文を眺めていた。すると、
「っあ!」
さっ!と後ろから文を引き抜かれた。おい、誰だ!と振り返ると文を摘んでいたのは他ならぬ男の主人・頭の中将である。
「…中将様!」
「この文は誰からだ?」
「痛たたたた…!」
「誰からだと聞いている。」
頬をつねり捻りしつつ問いただすと、「し、しかじかという八条の宮の女房からでございます!け、決して中将様の良い人では…あっちもその、ほんのお遊びのつもりでしょうし…」としどろもどろに言う。
「八条の宮の女房…?」
そのころ中将の君も「私も下京のあの方と文のやり取りが出来たらいいのだが…」と思案されていたところであったから、背を丸めてほくそ笑む男を後ろからご覧になっていたらしい。
「……私も少々下京に用がある。その女房、これからも懇ろに口説けよ。私の用事にも役に立ってもらおう。」
中将の君は男を解放するとすぐにお遣いに行った小舎人童をお召になり、八条の宮の様子を詳しく話すよう命じた。
「えぇと…あちらの御屋敷は随分と荒れておりまして…」
恐縮しながらも小舎人童がありのまま、八条の宮の心細げな暮らし向きについて語れば、中将の君もお顔を曇らせ「宮がご健在であったなら…」と思わずにいられなかった。
あの頃、御屋敷に伺った折にはこっそり逢瀬を重ねたものだか…。あの頃から今に至るまでをあれこれ思い巡らせて、中将の君は「花は落ち水は流れる…か」とぽつりと呟いた。
(私が愛したあの御方も、ずっと淋しく心もとない思いをされていただろう。世の中とは全くもって思うようにならないものだ…。)
そんな風に思いつつ、中将の君は自嘲の笑みを浮かべた。
(…権勢の衰えた家の姫なんぞに今さら通ったところで………はは…弱ったものだなぁ…。)
胸に燻っていた想いが、とうに潰えたはずの恋が、今は炎となって胸に燃え上がる。中将の君はさっそく筆先を墨に浸し、
「…さて、何と詠んだものか…。」
と思案しつつ、妻問いの歌をしたためたのだとか。
