【今昔物語集】東下の者、人の家に宿りて産に値ふ語
公開 2024/01/31 18:21
最終更新
2024/04/30 12:26
むかしむかし、東国へ旅をする者がいた。どこの国だったか、とある村里を抜ける前に日が暮れてきた。
「今夜はこの里のどこかの家に泊めさせてもらおう。」
一行は村の中でも裕福そうな家の前に馬を下り、もし…と門へ声を掛けた。
「あら、うちに何か…」
「あのう、私どもはどこどこへ旅をしている者なのですが、そろそろ日も暮れて来たものですから…今夜はこちらに泊めて頂けませんか。」
この家の主らしいシワシワの老婆は気さくに「まぁまぁ…さぁ、どうぞ。早くお入りなさい。」と一行を招き入れた。男は客間に通され、馬は厩に。従者たちも休む場所を与えられ、皆良かった良かったと喜んで各々腰を下ろしたのだった。
さて持っていた食料で空腹を満たし、柱に背を預けて休んでいると真夜中という頃。にわかに家の奥がわあわあと騒がしくなった。慌てた人の声、忙しく行き交う足音。はて何事だろうかと様子を伺っていると、例の女主人が客間に顔を出した。
「すみませんねぇ、騒がしくって…実はご相談なんですけどね。私には臨月の娘がいまして、まだお産には日があるだろうからと皆さんをお泊めしたんですが…それが今さっき産気づきまして…どうしましょうねぇ、もうこんな時間ですけれど…。」
そう言って申し訳なさそうに男を見る。このままここにいれば男は産穢を蒙ることになるが、そうは言っても既に真夜中である。別の家に宿を変えるなら村の者に掛け合うがどうしようか…とそのような相談に来たのである。
「いえ、お気遣いは無用ですよ。私はそういうことは気にしませんから。」
男が言うと、女主人は「あぁ、それならよかった」とホッとした顔でまた奥へ引っ込んだ。
さてそれからまた暫く男が柱に背を預けてウトウトしていると、一際奥が騒がしくなった。あぁ、今産まれたんだな…と夢うつつに思っていると、不意にミシッ…と目の前の床が軋んだ。また老主人だろうかと開いた目を、男はギョッと見開いた。
「……ッ!」
暗闇よりもなお黒い何かが、目の前に。背丈は八尺…人の倍もあるような気味の悪い影は、今しもこの客間から出ていこうとしている。
「…歳は八歳…死因は自害…。」
軋みながら扉が開き、閉まる。男はまるで氷水を浴びせられたような心地で両腕をかき抱いた。
(…何だあれは…誰のことを言っているんだ…?)
部屋から出る直前に影が発した言葉も、影の行方も、暗闇に紛れて確かめるすべもなく。男は家人には何も伝えぬまま、夜明けとともにそそくさと宿を辞して旅立っていった。
さて男が国許に帰って八年ほど、もうそろそろ九年になる頃。もう一度上京する用事が出来た。途中、例の泊めてもらった家を思い出し「随分親切にしてもらったんだったなぁ…あぁ、そうだ。あの時のお礼言わなくては。」と、かの家に立ち寄り、前回のように宿を乞うた。
「まぁまぁ、あの時の…」
老主人は前よりも腰が曲がっていたが健在で、よく来てくれましたね。と一行をもてなしてくれた。あれこれ話をするうちに、そういえば…と男は周りを見回して、
「あの時産まれた子はもう随分大きくなったでしょう。男の子ですか、女の子ですか。急いで出発したものですから、それすらお伺い出来ませんでした。」
今日は外で遊んでいるのですか。と尋ねると、老主人はわっと袖を顔に押し当てて泣きだした。
「えぇ…えぇ…本当に可愛らしい男の子だったんですけどねぇ…。あれは去年の某月某日でした。高い木に登って鎌で枝を切っている最中に木から落ちて…あの子、運悪く頭に鎌が……本当に可哀想に…。」
男はハッと、八年前のあの夜のことを思い出した。あの夜、扉を開けて出ていった者は…あの影の言葉は…。
(あれは鬼神だったのかもしれない…。)
いや、そうに違いない。男は思い切って、あの夜の出来事を老主人に語った。
「……ということがありまして。しかし暗かったので、この家の人が独り言か何か言ったのだろうと。だから何も言わずに発ってしまいましたが、あれは…鬼神の予言だったのでしょうね。」
「…あぁ…ッ!」
老主人はいよいよ激しく嗚咽を漏らして泣き伏してしまい、男はかける言葉もなく老主人の白髪頭を見下ろしていた。
後に男は京に上り、この出来事を京の人々に語り伝えたのだそうである。
…人の命というものは、総て前世の業により産まれ落ちた時から決められているのだろう。しかし人間は愚かにもそれを知らず、突然死に絡め取られたように嘆き悲しんでいる。だから人生とは総て前世の報いだと知るべきなのだ…と。
「今夜はこの里のどこかの家に泊めさせてもらおう。」
一行は村の中でも裕福そうな家の前に馬を下り、もし…と門へ声を掛けた。
「あら、うちに何か…」
「あのう、私どもはどこどこへ旅をしている者なのですが、そろそろ日も暮れて来たものですから…今夜はこちらに泊めて頂けませんか。」
この家の主らしいシワシワの老婆は気さくに「まぁまぁ…さぁ、どうぞ。早くお入りなさい。」と一行を招き入れた。男は客間に通され、馬は厩に。従者たちも休む場所を与えられ、皆良かった良かったと喜んで各々腰を下ろしたのだった。
さて持っていた食料で空腹を満たし、柱に背を預けて休んでいると真夜中という頃。にわかに家の奥がわあわあと騒がしくなった。慌てた人の声、忙しく行き交う足音。はて何事だろうかと様子を伺っていると、例の女主人が客間に顔を出した。
「すみませんねぇ、騒がしくって…実はご相談なんですけどね。私には臨月の娘がいまして、まだお産には日があるだろうからと皆さんをお泊めしたんですが…それが今さっき産気づきまして…どうしましょうねぇ、もうこんな時間ですけれど…。」
そう言って申し訳なさそうに男を見る。このままここにいれば男は産穢を蒙ることになるが、そうは言っても既に真夜中である。別の家に宿を変えるなら村の者に掛け合うがどうしようか…とそのような相談に来たのである。
「いえ、お気遣いは無用ですよ。私はそういうことは気にしませんから。」
男が言うと、女主人は「あぁ、それならよかった」とホッとした顔でまた奥へ引っ込んだ。
さてそれからまた暫く男が柱に背を預けてウトウトしていると、一際奥が騒がしくなった。あぁ、今産まれたんだな…と夢うつつに思っていると、不意にミシッ…と目の前の床が軋んだ。また老主人だろうかと開いた目を、男はギョッと見開いた。
「……ッ!」
暗闇よりもなお黒い何かが、目の前に。背丈は八尺…人の倍もあるような気味の悪い影は、今しもこの客間から出ていこうとしている。
「…歳は八歳…死因は自害…。」
軋みながら扉が開き、閉まる。男はまるで氷水を浴びせられたような心地で両腕をかき抱いた。
(…何だあれは…誰のことを言っているんだ…?)
部屋から出る直前に影が発した言葉も、影の行方も、暗闇に紛れて確かめるすべもなく。男は家人には何も伝えぬまま、夜明けとともにそそくさと宿を辞して旅立っていった。
さて男が国許に帰って八年ほど、もうそろそろ九年になる頃。もう一度上京する用事が出来た。途中、例の泊めてもらった家を思い出し「随分親切にしてもらったんだったなぁ…あぁ、そうだ。あの時のお礼言わなくては。」と、かの家に立ち寄り、前回のように宿を乞うた。
「まぁまぁ、あの時の…」
老主人は前よりも腰が曲がっていたが健在で、よく来てくれましたね。と一行をもてなしてくれた。あれこれ話をするうちに、そういえば…と男は周りを見回して、
「あの時産まれた子はもう随分大きくなったでしょう。男の子ですか、女の子ですか。急いで出発したものですから、それすらお伺い出来ませんでした。」
今日は外で遊んでいるのですか。と尋ねると、老主人はわっと袖を顔に押し当てて泣きだした。
「えぇ…えぇ…本当に可愛らしい男の子だったんですけどねぇ…。あれは去年の某月某日でした。高い木に登って鎌で枝を切っている最中に木から落ちて…あの子、運悪く頭に鎌が……本当に可哀想に…。」
男はハッと、八年前のあの夜のことを思い出した。あの夜、扉を開けて出ていった者は…あの影の言葉は…。
(あれは鬼神だったのかもしれない…。)
いや、そうに違いない。男は思い切って、あの夜の出来事を老主人に語った。
「……ということがありまして。しかし暗かったので、この家の人が独り言か何か言ったのだろうと。だから何も言わずに発ってしまいましたが、あれは…鬼神の予言だったのでしょうね。」
「…あぁ…ッ!」
老主人はいよいよ激しく嗚咽を漏らして泣き伏してしまい、男はかける言葉もなく老主人の白髪頭を見下ろしていた。
後に男は京に上り、この出来事を京の人々に語り伝えたのだそうである。
…人の命というものは、総て前世の業により産まれ落ちた時から決められているのだろう。しかし人間は愚かにもそれを知らず、突然死に絡め取られたように嘆き悲しんでいる。だから人生とは総て前世の報いだと知るべきなのだ…と。
