【今昔物語集】人の妻悪霊と成り、その害を除く陰陽師の語
公開 2024/01/31 18:19
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むかしむかし、あるところに薄情な男がいた。心変わりか、別の理由か、長年共に暮らした妻を捨てて彼は家を出ていってしまった。独り置き去りにされた妻は男を深く怨み、嘆き悲しむうちにとうとう病みついてしまい、幾月も苦しんだ末に亡くなった。ところが女にはもう両親もおらず、親しく行き来する親戚もいない。女の死は誰にも気付かれず、その亡骸は弔い埋葬されることもなく床に置かれたまま。
訝しんだのは、隣の屋敷の者であった。隣の屋敷から昼夜を問わず生木を割くような音が聞こえてくる。夜には蛍のような光が垣根からチラチラと見える。はて、隣の女は寝ついていたはずだが…。
「…ひぃぃ…っ!」
垣根の隙間から屋敷を覗き見て、隣人が怯え腰を抜かしたのも無理はない。床に臥した女の亡骸は腐りもせずに土色に干からび、抜け落ちもせず髪は乱れた麻のようにぞろりと背中から床に広がり…そしてその異様な亡骸の周りを尾を引いて青い光が飛び回り、梁や柱にぶつかる度にびし、ばし、と生木を割くような音が鳴るのである。
(あぁ…あれは亡霊の仕業だったんだ…!)
隣人は恐れ戦き、這う這うの体で逃げ帰ったのだった。
この話を伝え聞いた男はさっと顔色を変えて震えだし、
「…どうしよう…どうしたら…。あいつは俺を怨んで、怨みながら死んだに違いない。絶対に俺を取り殺しに来る…!」
兎に角助かりたい一心で、男はある陰陽師の元を訪れた。噂に聞いた元妻の件をしどろもどろに語り、どうにか逃れるすべはないかと縋ると「…かなり難しいでしょうな。」と陰陽師は渋い顔で答えた。
「…そ、そんな…。」
「しかしそのままにしてもおけますまい。そういうことなら、何とか手を考えましょう。」
ただし、と陰陽師は男に釘を刺す。
「但しその為には、貴方には恐ろしい目にも遭ってもわらねばなりませんが…よろしいですね。」
男は否ともいえずに頷いた。
さて日も暮れた頃。陰陽師は怯える男の手を引いて例の亡骸がある屋敷へ向かった。噂に聞くだけでも身の毛がよだつほど恐ろしいのに、まして実際にその屋敷に行くのである。足は竦み手は震えるが、しかしこうなっては陰陽師に任せるしかないとどうにかこうにか足を進めたのだった。
荒れた屋敷に足を踏み入れ、真っ暗な部屋の中を松明で照らすと…確かにそこにミイラ化した女の亡骸が横たわっている。思わず顔を逸らした男へ、陰陽師は「さぁ、」と促した。
「その遺体に馬に乗るように跨るのです。」
「え…?」
「時間がありませんよ。髪も手綱のようにしてしっかりお持ちなさい。…もっとギュッと。」
「…ひぃ…。」
枯れ木のような腰に跨め、縮れのたくる髪を手に絡める、その異様な感触に男は腰を浮かせかけた。しかし陰陽師はそれを制して、
「くれぐれもこの手を離してはいけませんよ…いいですね。」
険しい目で男に言う。もし手を離せば、どうなるか。男は息を飲み、髪を握る手に力を込めた。男がしっかり跨ると陰陽師は姿勢を正し、亡骸に向かって静かに呪文を唱え呪いを施して立ち上がる。縋るように見上げる男へ、
「明朝、私がここへ来るまでこうしていてください。…きっと恐ろしい目に遭うでしょう。覚悟しておいて下さい。」
そう言い置いて、陰陽師は帰ってしまった。
「………。」
男はどうすることも出来ず、生きた心地もせぬまま。真っ暗な部屋の中で干からびた女の亡骸に跨っていた。ぐしゃぐしゃに縮れ、乱れた髪だけを命綱のようにして。
さてどれほど時が経っただろうか。もう夜半も過ぎたかと男が外を窺っていると、ぐぐっ…と尻の下が動いた。
「…あぁ…重たい…。」
くぐもった、かさついた女の声。みし、みしみし…と乾いた肉皮が、骨が軋みながら次第に伸びていく。動いている。亡骸が。男は声も出せず、いよいよ固く体を強ばらせた。男を乗せた女の亡骸はゆっくりと四つん這いになると、一歩、二歩…と。
「…あの男ぉ探しに行かなくちゃ…。」
言うや乾いた手足を蠢かせ、それは地を這う蜘蛛のように走り出した。
「……っ!」
振り落とされんと、男は必死に女の髪を握り締める。真っ暗闇の最中を女はどこまで行くというのか当てどなくあちらへこちらへ這い回る。走り、あるいはよじ登り、あるいは駆け下り…いない…いない…と時折かさついた声だけが聞こえる。もし声を出したら、女が振り返ったら。男は息を殺して陰陽師の言いつけ通り、髪を掴んで亡骸の背に揺られ続けた。
「…あぁ…怨めしい…。」
ふと立ち止まった女が空を見上げた。夜明け前の空はいよいよ暗く、もうじき群青の空に山の端が浮かび上がるだろう。女はゆっくり体を返して走り出し、屋敷へ戻ると庇へ這い上がってまた元のように床へ臥した。
…あの人がいない…いない…うらめしい…。
嘆くようにも、憎むようにも聞こえるその声は、女の最期の執念だったのかもしれない。
「……。」
男は恐ろしいという一言では済まぬほど憔悴し、目の焦点も定まらず…しかしどうにか髪だけは手離さず、跨ったたまま。薄明るい空に明け鶏が鳴く頃、女の亡骸はようやく口を閉ざして動かなくなった。夜が明けてやってきた陰陽師は亡骸に跨り憔悴しきった男を見て、
「きっと今夜も貴方が見たのと同じ、恐ろしいことが起こりますよ…えぇ、毎晩なのでしょうね。髪は離しませんでしたね?」
と尋ねると、男は口もきけない様子でようよう頷いた。すると陰陽師はまた亡骸に向かって呪文を唱え呪いを施し、「さぁ、もうよろしいですよ」と言い、来た時と同じように男の手を引いて屋敷に戻った。
屋敷に戻った男へ陰陽師はもう大丈夫ですよと言った。
「もう何も恐れることはありません。貴方が私の言う通り、手を離さなかったからです。」
「…はい…はい、ありがとうございます。」
男は涙を流して陰陽師を伏し拝み、その後は祟りを受けるようなことも無かったという。
この話は近年のことである。その人の子孫もご存命である。またこの陰陽師の子孫も大宿直という部署に今でも在籍していると伝わっている。
訝しんだのは、隣の屋敷の者であった。隣の屋敷から昼夜を問わず生木を割くような音が聞こえてくる。夜には蛍のような光が垣根からチラチラと見える。はて、隣の女は寝ついていたはずだが…。
「…ひぃぃ…っ!」
垣根の隙間から屋敷を覗き見て、隣人が怯え腰を抜かしたのも無理はない。床に臥した女の亡骸は腐りもせずに土色に干からび、抜け落ちもせず髪は乱れた麻のようにぞろりと背中から床に広がり…そしてその異様な亡骸の周りを尾を引いて青い光が飛び回り、梁や柱にぶつかる度にびし、ばし、と生木を割くような音が鳴るのである。
(あぁ…あれは亡霊の仕業だったんだ…!)
隣人は恐れ戦き、這う這うの体で逃げ帰ったのだった。
この話を伝え聞いた男はさっと顔色を変えて震えだし、
「…どうしよう…どうしたら…。あいつは俺を怨んで、怨みながら死んだに違いない。絶対に俺を取り殺しに来る…!」
兎に角助かりたい一心で、男はある陰陽師の元を訪れた。噂に聞いた元妻の件をしどろもどろに語り、どうにか逃れるすべはないかと縋ると「…かなり難しいでしょうな。」と陰陽師は渋い顔で答えた。
「…そ、そんな…。」
「しかしそのままにしてもおけますまい。そういうことなら、何とか手を考えましょう。」
ただし、と陰陽師は男に釘を刺す。
「但しその為には、貴方には恐ろしい目にも遭ってもわらねばなりませんが…よろしいですね。」
男は否ともいえずに頷いた。
さて日も暮れた頃。陰陽師は怯える男の手を引いて例の亡骸がある屋敷へ向かった。噂に聞くだけでも身の毛がよだつほど恐ろしいのに、まして実際にその屋敷に行くのである。足は竦み手は震えるが、しかしこうなっては陰陽師に任せるしかないとどうにかこうにか足を進めたのだった。
荒れた屋敷に足を踏み入れ、真っ暗な部屋の中を松明で照らすと…確かにそこにミイラ化した女の亡骸が横たわっている。思わず顔を逸らした男へ、陰陽師は「さぁ、」と促した。
「その遺体に馬に乗るように跨るのです。」
「え…?」
「時間がありませんよ。髪も手綱のようにしてしっかりお持ちなさい。…もっとギュッと。」
「…ひぃ…。」
枯れ木のような腰に跨め、縮れのたくる髪を手に絡める、その異様な感触に男は腰を浮かせかけた。しかし陰陽師はそれを制して、
「くれぐれもこの手を離してはいけませんよ…いいですね。」
険しい目で男に言う。もし手を離せば、どうなるか。男は息を飲み、髪を握る手に力を込めた。男がしっかり跨ると陰陽師は姿勢を正し、亡骸に向かって静かに呪文を唱え呪いを施して立ち上がる。縋るように見上げる男へ、
「明朝、私がここへ来るまでこうしていてください。…きっと恐ろしい目に遭うでしょう。覚悟しておいて下さい。」
そう言い置いて、陰陽師は帰ってしまった。
「………。」
男はどうすることも出来ず、生きた心地もせぬまま。真っ暗な部屋の中で干からびた女の亡骸に跨っていた。ぐしゃぐしゃに縮れ、乱れた髪だけを命綱のようにして。
さてどれほど時が経っただろうか。もう夜半も過ぎたかと男が外を窺っていると、ぐぐっ…と尻の下が動いた。
「…あぁ…重たい…。」
くぐもった、かさついた女の声。みし、みしみし…と乾いた肉皮が、骨が軋みながら次第に伸びていく。動いている。亡骸が。男は声も出せず、いよいよ固く体を強ばらせた。男を乗せた女の亡骸はゆっくりと四つん這いになると、一歩、二歩…と。
「…あの男ぉ探しに行かなくちゃ…。」
言うや乾いた手足を蠢かせ、それは地を這う蜘蛛のように走り出した。
「……っ!」
振り落とされんと、男は必死に女の髪を握り締める。真っ暗闇の最中を女はどこまで行くというのか当てどなくあちらへこちらへ這い回る。走り、あるいはよじ登り、あるいは駆け下り…いない…いない…と時折かさついた声だけが聞こえる。もし声を出したら、女が振り返ったら。男は息を殺して陰陽師の言いつけ通り、髪を掴んで亡骸の背に揺られ続けた。
「…あぁ…怨めしい…。」
ふと立ち止まった女が空を見上げた。夜明け前の空はいよいよ暗く、もうじき群青の空に山の端が浮かび上がるだろう。女はゆっくり体を返して走り出し、屋敷へ戻ると庇へ這い上がってまた元のように床へ臥した。
…あの人がいない…いない…うらめしい…。
嘆くようにも、憎むようにも聞こえるその声は、女の最期の執念だったのかもしれない。
「……。」
男は恐ろしいという一言では済まぬほど憔悴し、目の焦点も定まらず…しかしどうにか髪だけは手離さず、跨ったたまま。薄明るい空に明け鶏が鳴く頃、女の亡骸はようやく口を閉ざして動かなくなった。夜が明けてやってきた陰陽師は亡骸に跨り憔悴しきった男を見て、
「きっと今夜も貴方が見たのと同じ、恐ろしいことが起こりますよ…えぇ、毎晩なのでしょうね。髪は離しませんでしたね?」
と尋ねると、男は口もきけない様子でようよう頷いた。すると陰陽師はまた亡骸に向かって呪文を唱え呪いを施し、「さぁ、もうよろしいですよ」と言い、来た時と同じように男の手を引いて屋敷に戻った。
屋敷に戻った男へ陰陽師はもう大丈夫ですよと言った。
「もう何も恐れることはありません。貴方が私の言う通り、手を離さなかったからです。」
「…はい…はい、ありがとうございます。」
男は涙を流して陰陽師を伏し拝み、その後は祟りを受けるようなことも無かったという。
この話は近年のことである。その人の子孫もご存命である。またこの陰陽師の子孫も大宿直という部署に今でも在籍していると伝わっている。
