【北越雪譜】異獣(二編 巻之四)
公開 2024/01/29 18:35
最終更新
-
魚沼郡堀内より十日町へ超える七里あまりの間は、ところどころ村はあるが山の中間道である。ある年の夏の初め、十日町の縮問屋から堀内の問屋へ「どうにかして急ぎで白縮を送ってほしい」と言ってきた。堀内の問屋は竹助という頑強な男を選び、その日の昼過ぎ頃に荷物を背負わせて十日町へ向かわせた。
さて、そろそろ道も半ばに差し掛かった頃。日差しは七ツ頃…真上から西へ傾き始めていた。「ちょっとだけ…」と竹助が道の傍らの石に腰かけ焼き飯を食っていると、谷合の笹根を押し分けてこちらに来るものがある。近づいてきたそれを見ると…それは猿に似ているが猿のようでもない、奇妙な生き物であった。長い髪の毛は背中に流れかかっているが半分は白く、背丈は普通の人間よりも高く、顔は猿に似ているが赤くはなく、大きな目には理知的な光がある。竹助は肝の太い男であったから、用心の為に差していた山刀を抜いて「それ以上近寄れば斬るぞ」と構えたが、その者は立ち去る様子もなく、竹助が石の上に置いた焼き飯を指さして「俺にくれよ」と頼んでいる様子である。
「これがほしいのか?」
ほれ、と竹助が焼き飯を投げ与えると、そいつは嬉しげに焼き飯を食べる。この様子を見て心を許した竹助がもうひとつも与えると、近づいてきてこの焼き飯も食べた。
「なぁ、」
竹助は焼き飯にかぶりつくそれに話しかけた。
「俺は堀内から十日町へ向かってるんだ。明日もここを通るから、そん時ァまた焼き飯をくれてやるよ。今ァ急ぎのお遣い中だから行くぜ。」
竹助が荷物を背負おうと手を伸ばすと、そいつがぱっと荷物を取り、軽々と肩に掛けて歩き出した。もしかして焼き飯の礼に俺を手伝ってくれるのかと竹助も跡をついて行くが、そいつの足の早いこと早いこと。重い荷物も何のその、肩に何も背負っていないようにひょいひょいと歩いていくのである。 荷物がないおかげで竹助は険しい道もすいすいと進んだ。およそ一里半あまりの山道を越えて池谷村のあたりまで来ると、奴は荷物を下ろしてまた山へと駆け登って行った。その早さといったら風のようだったと、十日町の問屋へ竹助が詳しく語ったと今に伝わっている。
この話は今から四十五年以上前のことである。その頃、山仕事の者や猟師は時々異獣を見た者がいたのだそうである。
先に言った池谷村の者の話にこんな話がある。もう随分むかし…私が十四、五歳の頃のことである。村内に機織り上手の娘がおり、あるとき問屋より指名で縮を依頼された。いまだ雪が消え残る窓辺で機織りしていると、視界の端に影が立っている。娘が何気なく窓の外に目をやると、顔が赤くない猿のような者が長い髪の毛の間から大きな目玉でこっちを覗いていた。このとき家人はみな山仕事に行っていて家には娘ひとりであったから尚のこと恐れ驚き逃げようとするが、機織り機の腰板を引っ掛けているせいで思うように動けない。慌てふためいてジタバタしているうちに、そいつは窓の外から居なくなった。どこかへ行ったかと思いきや今度は竈の近くに現れ、しきりに飯櫃を指さして「これがほしい」と言っている様である。娘は前からこの異獣のことを聞いていたのでおにぎりを握って二つ三つ与えると、奴は嬉しげに持って帰った。それ以来、家に娘ひとりのときに時々あいつが現れ飯を欲しがるので、そのうち娘も馴れて恐ろしいとも思わず飯を食わせるようになったという。
さてこの娘、高貴なお方がお召しになるからと指名で依頼された縮を織っていたところ、折り悪く月水になってしまい御機屋に入れなくなってしまった。…御機屋のことは初編に詳しく書いているので参照して欲しい(☆)…手を止めれば約束の日に間に合わないと、娘はもとより両親も気を揉み嘆いていた。
月の物になって三日ほどした夕暮れ、家の者がまだ野良から帰ってこないことを知っているのか、例のあいつが久しぶりにやってきた。不安と焦りから誰かに話したくなったのだろう。娘はまるで人に語るように、そいつに月の物の愚痴を語りつつ粟飯を握ってやった。しかし受け取った奴はいつもの様にすぐには立ち去らず、何事か考えるような顔でしばらく立ち止まって、それからふいと立ち去った。さて、不思議なこともあるもの。その夜から娘の月水がはたと止まったのである。不思議なこともあるもんだと思いつつ、娘は身を清めて機を織り上げた。父親が織り上げた縮を問屋へ届けに行き、ちょうど着いた頃。これまた不思議なのことに、娘はまた月の物が始まったという。
「もしかしたら私の愚痴を聞いて、アイツが私を助けてくれたのかしら」と、娘からその話を聞いた人々も不思議に思ったのだという。
その時分は山中で時々この異獣が目撃されることがあったが、山仕事の者が一人でいても犬を連れている時は異獣は姿を見せなかったという。また高田の藩士が木材が必要とのことで木こりを従えて黒姫山に入り、小屋を作って山に滞在していた時のこと。猿に似ているが猿にではない生き物が夜中に小屋に入り込んで焚き火に当たっていたことがあったという。背の丈は六尺(約一八〇センチ)ほど、赤い髪に全身灰色の肌をした毛の抜けた猿のようだが、裸身の腰から下は枯れ草を纏っていた。こいつはよく人の言うことに従い、後にはよく人に馴れたと高田の人は語っていた。思うに和漢三才図会寓類の部に、飛騨美濃、あるいは西国の深山にも件のような異獣の目撃談が記されている。であるならば、あちこちの深山に奴らはいるのだろう。
***
(☆)初編 巻之中「御機屋」より要約
貴重尊用の縮を織る際はなるべく煙の入らない明るい一間をよく清めて機織り機を置き、機を織る娘以外は入れない。また機を織る娘は毎日家人とは同じ釜の飯を食わず、着物を改めて、手指を清めて口をすすぎ、精進潔斎してから機を織る。月のものがある際は御機屋には入れない。
***
※月水…月のもの、生理。
さて、そろそろ道も半ばに差し掛かった頃。日差しは七ツ頃…真上から西へ傾き始めていた。「ちょっとだけ…」と竹助が道の傍らの石に腰かけ焼き飯を食っていると、谷合の笹根を押し分けてこちらに来るものがある。近づいてきたそれを見ると…それは猿に似ているが猿のようでもない、奇妙な生き物であった。長い髪の毛は背中に流れかかっているが半分は白く、背丈は普通の人間よりも高く、顔は猿に似ているが赤くはなく、大きな目には理知的な光がある。竹助は肝の太い男であったから、用心の為に差していた山刀を抜いて「それ以上近寄れば斬るぞ」と構えたが、その者は立ち去る様子もなく、竹助が石の上に置いた焼き飯を指さして「俺にくれよ」と頼んでいる様子である。
「これがほしいのか?」
ほれ、と竹助が焼き飯を投げ与えると、そいつは嬉しげに焼き飯を食べる。この様子を見て心を許した竹助がもうひとつも与えると、近づいてきてこの焼き飯も食べた。
「なぁ、」
竹助は焼き飯にかぶりつくそれに話しかけた。
「俺は堀内から十日町へ向かってるんだ。明日もここを通るから、そん時ァまた焼き飯をくれてやるよ。今ァ急ぎのお遣い中だから行くぜ。」
竹助が荷物を背負おうと手を伸ばすと、そいつがぱっと荷物を取り、軽々と肩に掛けて歩き出した。もしかして焼き飯の礼に俺を手伝ってくれるのかと竹助も跡をついて行くが、そいつの足の早いこと早いこと。重い荷物も何のその、肩に何も背負っていないようにひょいひょいと歩いていくのである。 荷物がないおかげで竹助は険しい道もすいすいと進んだ。およそ一里半あまりの山道を越えて池谷村のあたりまで来ると、奴は荷物を下ろしてまた山へと駆け登って行った。その早さといったら風のようだったと、十日町の問屋へ竹助が詳しく語ったと今に伝わっている。
この話は今から四十五年以上前のことである。その頃、山仕事の者や猟師は時々異獣を見た者がいたのだそうである。
先に言った池谷村の者の話にこんな話がある。もう随分むかし…私が十四、五歳の頃のことである。村内に機織り上手の娘がおり、あるとき問屋より指名で縮を依頼された。いまだ雪が消え残る窓辺で機織りしていると、視界の端に影が立っている。娘が何気なく窓の外に目をやると、顔が赤くない猿のような者が長い髪の毛の間から大きな目玉でこっちを覗いていた。このとき家人はみな山仕事に行っていて家には娘ひとりであったから尚のこと恐れ驚き逃げようとするが、機織り機の腰板を引っ掛けているせいで思うように動けない。慌てふためいてジタバタしているうちに、そいつは窓の外から居なくなった。どこかへ行ったかと思いきや今度は竈の近くに現れ、しきりに飯櫃を指さして「これがほしい」と言っている様である。娘は前からこの異獣のことを聞いていたのでおにぎりを握って二つ三つ与えると、奴は嬉しげに持って帰った。それ以来、家に娘ひとりのときに時々あいつが現れ飯を欲しがるので、そのうち娘も馴れて恐ろしいとも思わず飯を食わせるようになったという。
さてこの娘、高貴なお方がお召しになるからと指名で依頼された縮を織っていたところ、折り悪く月水になってしまい御機屋に入れなくなってしまった。…御機屋のことは初編に詳しく書いているので参照して欲しい(☆)…手を止めれば約束の日に間に合わないと、娘はもとより両親も気を揉み嘆いていた。
月の物になって三日ほどした夕暮れ、家の者がまだ野良から帰ってこないことを知っているのか、例のあいつが久しぶりにやってきた。不安と焦りから誰かに話したくなったのだろう。娘はまるで人に語るように、そいつに月の物の愚痴を語りつつ粟飯を握ってやった。しかし受け取った奴はいつもの様にすぐには立ち去らず、何事か考えるような顔でしばらく立ち止まって、それからふいと立ち去った。さて、不思議なこともあるもの。その夜から娘の月水がはたと止まったのである。不思議なこともあるもんだと思いつつ、娘は身を清めて機を織り上げた。父親が織り上げた縮を問屋へ届けに行き、ちょうど着いた頃。これまた不思議なのことに、娘はまた月の物が始まったという。
「もしかしたら私の愚痴を聞いて、アイツが私を助けてくれたのかしら」と、娘からその話を聞いた人々も不思議に思ったのだという。
その時分は山中で時々この異獣が目撃されることがあったが、山仕事の者が一人でいても犬を連れている時は異獣は姿を見せなかったという。また高田の藩士が木材が必要とのことで木こりを従えて黒姫山に入り、小屋を作って山に滞在していた時のこと。猿に似ているが猿にではない生き物が夜中に小屋に入り込んで焚き火に当たっていたことがあったという。背の丈は六尺(約一八〇センチ)ほど、赤い髪に全身灰色の肌をした毛の抜けた猿のようだが、裸身の腰から下は枯れ草を纏っていた。こいつはよく人の言うことに従い、後にはよく人に馴れたと高田の人は語っていた。思うに和漢三才図会寓類の部に、飛騨美濃、あるいは西国の深山にも件のような異獣の目撃談が記されている。であるならば、あちこちの深山に奴らはいるのだろう。
***
(☆)初編 巻之中「御機屋」より要約
貴重尊用の縮を織る際はなるべく煙の入らない明るい一間をよく清めて機織り機を置き、機を織る娘以外は入れない。また機を織る娘は毎日家人とは同じ釜の飯を食わず、着物を改めて、手指を清めて口をすすぎ、精進潔斎してから機を織る。月のものがある際は御機屋には入れない。
***
※月水…月のもの、生理。
