【宇治拾遺】唐卒塔婆に血付く事。
公開 2024/01/01 12:09
最終更新 2024/01/29 17:40
むかし唐土の国に大きな山があり、頂きには大きな卒塔婆…五輪塔が建っていた。
さてその山の麓には齢八十ほどにもなる老婆が住んでいたが、この老婆が日に一度は必ず山に登り峰の卒塔婆を見に行っていたのだという。
高く大きな山であったから麓から峰へ登る道は足場が悪く、険しく、とても遠い。だと言うのに雨が降る日も、雪が降る日も、風が吹く日も、雷が鳴る日も、地面が凍りついた日も、また暑さが厳しい夏でさえ…老婆は欠かさずこの山に登って卒塔婆へ通っていた。周囲の人々はこの老婆の習慣など知りもしなかったが、ある夏の暑い昼日中のこと。里の若い男や小僧どもの一団が、峰に登って卒塔婆の辺りで涼んでいたところへ腰の曲がった老婆が汗を拭き拭きやって来た。老婆は杖に縋るようにして卒塔婆の前までやって来たが、どうも拝む気配がない。何やら首を巡らせて卒塔婆のあちこちを見ている。
「……。」
「…?」
卒塔婆の周りにたむろする若者たちは見るともなしに老婆を眺めていたが、老婆はそのままぐるりと卒塔婆の横に回り、同じようにあちこち見回すばかり。そうして一周すると、気が済んだのか拝みもせずに帰っていった。
「何しに来たんだ、あの婆さん?」
「さぁ…?」
若者たちは首を傾げたが…さて。彼らが山の卒塔婆の辺りで涼んでいると、同じようなことが一度ならず何度もある。
「あの婆さん、どういうつもりであんなことしてンだろうな?このクソ暑いのによぉ…。」
若者のひとりが不思議に思って言うと、誰ともなしに「今日あの婆さんが来たら聞いてみようぜ」と言い出した。そうだな、そうしようと言っているうちにまた例によって這うように例の老婆が登ってきた。卒塔婆の前まで来た老婆へ中のひとりが「なぁ、ちょいと、婆ちゃん。」と声をかけた。
「アンタ、いったい何しに来てるんだい?俺らだって暑い中ヒーヒー言いながら険しい道を登ってくるってのによ。俺たちみたいにここで涼もうってんならまだわかるが、アンタは涼みもしねぇ。何するでもなく、ただぐるぐるとこの卒塔婆の周りを見て回るのを仕事にして、毎日登ったり降りたりしてるから『変わった婆ちゃんだな』って気になってよぉ。いったいここへ何しに来てるのか、教えてくれないかい。」
そう尋ねると、老婆は「あぁ、そうだねぇ…そりゃ確かに変だと思うだろうねぇ」と頷いて、
「こうして山に登って卒塔婆を見に来るのは、何もここ最近始めたことでもないんだよ。物心ついてから七十余年、毎日こうやって卒塔婆を見に登っているのさ。」
と言うのである。
「だからそれが不思議だってんだよ。訳を教えておくれよ。」
と重ねて尋ねると、老婆はふっと卒塔婆を見上げた。
「アタシの父さんは百二十歳で亡くなって、じい様は百三十歳で亡くなったんだけどね。そのまた父親やじい様なんぞは二百余歳まで生きたそうだよ。そんな先祖から親たちまで代々言い伝えてきた言葉があってね。」
老婆は若者たちに向き直ると言葉を落として、
「『もしこの卒塔婆に血が着くようなことがあれば、この山は崩れて深い海のようになるだろう』…って。アタシの父さんも、そう言い残して亡くなったんだ。アタシは麓に住んでるから、山が崩れたら土砂に埋もれて死んじまう。もしそんなことになったらと思うとおっかなくてねぇ…。この卒塔婆に血が着いていたらすぐに逃げようと、そう思って毎日こうやって卒塔婆を見に来ているのさね。」と語った。
しかしそれを聞いた若者たちは呆れかえり、「へーそれはおっかねぇな。もし崩れるって時は教えてくれよ。」と老婆を馬鹿にしてニヤニヤ笑うばかり。しかし老婆は自分が笑われているとも気づかず、大真面目に「そりゃもちろん。アタシひとりで逃げるなんて出来ないよ、必ずみんなに知らせるからね。」と言って帰って行ったのだった。
若い男の集まりというものは、往々にしてつまらないイタズラを思いつくものである。
「あの婆さん、今日はもう登って来ないだろ。なぁ、明日また見に来た時にビックリさせて、大慌てさせて笑ってやろうぜ。」
そうだそうだと若者たちは皆で示し合わせ、卒塔婆に血を滴らせてべったり塗りつけた。
「これを見たらあの耄碌ばばあ、どんなに慌てふためくだろうな。」
若者たちはみなゲラゲラ笑いながら山を降り、里の者どもへ
「この山の麓に住んでる婆さんが毎日峰の卒塔婆を見に来るからさ、気になって聞いてみたらかくかくしかじかだってよ。アタマっから迷信を信じ込んでやがるんだ。みんなであの婆さん脅かして慌てさせてやろうって、例の卒塔婆に血を塗りつけて来たんだ。さぞ盛大に崩れるだろうよ!」
と笑って聞かせた。それを人伝てに聞いた里の者たちも、「婆さんもだがアイツらもアイツらさ。あれこそ『踊る阿呆を見る阿呆』だよ」と笑ったのだった。
そんなこんなで次の日。
「ち、血が…!えらいことだ!逃げなけりゃ…!」
いつものように山を登って来た老婆はベッタリと血がついた卒塔婆を見るや、たちまち顔色を変えてけつま転んで駆け出した。転がるように里まで降りてきた老婆は杖を突き突き必死に、
「あんたがた、今すぐ逃げなさい!このままじゃあ死んじまうよ!今にあの山が崩れて、ここは深い海の底みたいになっちまうんだよ!」
と里の隅々まで触れ回り、自分と家族の者に家財道具を一式纏めさせて慌てふためいて里から逃げていった。その慌てぶりといったら相当なもので、抱えたものも何度も何度もとり落とし右往左往の大騒ぎであった。老婆の騒ぎを見ていた若者たちは、予想以上の大騒ぎに手を叩いてゲラゲラ笑っていたが。ふと、誰ともなく空を見上げた。何とはなしにざわざわ…ざわざわ…と空がさざめいている。
風が吹いてきたか?いや、雷でも近づいてるんじゃないか。訝しんで見上げているうちに太陽が翳りはじめた。真昼だと言うのにみるみる辺りは暗くなり、あっという間に闇に閉ざされてしまった。先ほどまで照りつけていた夏の日差しはどこへやら、空を彷徨う自分の手さえ見えない。闇の中、戸惑う声に混じってさざめが徐々に大きく、そしてはっきりと地響きへと変わっていく。
「なんだ、どうした!」
「何が起きてるんだ!」
地震か、と誰かが言う。しかし地響きは足元ではなく、空が…いや、あの山が鳴っているのだと。峰がちぎれる音でようやく里の者たちは気付いたが、時すでに遅し。尾根はひび割れ、斜面は崩れ、まるで波涛が砕けるように森も沢も引きちぎり巻き込みながら轟音と共に里へと流れ下ってきていた。
「あの婆さんの言っていたことは本当だったんだ…!」
青ざめた里人たちは暗闇の中、どこへ逃げていいかもわからず文字通り闇雲に駆け出したが…あっという間のことであった。
里の者の中には辛くも生き延びた者たちもいたが、親の行方もわからず、我が子も土に飲み込まれ、家財もすべて失い泣き叫ぶばかりであった。何も失わずに済んだのは、家族を引き連れ、家財道具一式持って逃げた老婆だけである。
かくして山は崩れて村ごと人々を土砂の海に沈め、老婆の言い伝えを嘲り笑った者たちは皆死んだという。なんとも恐ろしいことではないか。
古典と怪談が好きな茸です。タイッツーに生息。
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