【堤中納言物語】花桜折る中将
公開 2023/12/17 12:43
最終更新
2024/05/23 18:35
※まいたけがいい加減に訳して、脳内補完を入れた小説風です。
***
退屈な逢瀬を抜け出して、車に揺られながら欠伸をひとつ。男はそっと物見の戸を開けて外を眺めた。「あまりにも月が明るいから、すっかり夜明けだと騙されてしまいました。…もう少しゆっくりしていたいところですが、家までは少し遠い。そろそろお暇します。」などと、我ながら白々しいと思いつつ。真夜中の町は声ひとつなくしんと静まり返り、ある屋敷の前を通りかかるとはらはらと桜の花びらが舞い込んできた。見れば屋敷の築地の向こう、煌々と照らす月明かりに桜が煙るように霞んでいる。
(あぁ…そういえばこの辺りだったか…。)
先ほど女の家を出てきたばかりだが、このまま通り過ぎてしまうのはつまらない気がして。男は車を停めさせて築地の下…桜の木陰に降り立ち、
『君を誰にも渡したくないんだよ。たとえ君の心は別の男にあったとしても。今も桜の木影に君を想い続けている。』
と桜を見上げて歌を詠んだ。むかし想いを懸けた女が住んでいたのはこの辺りだったと、往時を思い出しながら眺めていたところ。築地の崩れた穴からゲホゲホと乞食だろうか。白髪頭が咳き込みながら這い出してきた。見れば屋敷は可哀想なくらいに荒れて、人気も無ければじろじろ敷地の中を伺っても咎める人もいない。男は思い切って築地の崩れたところから敷地に入り込み、戻ってきた乞食を呼び止めた。
「おい、そこの。ここに住んでいた人はまだいらっしゃるのか。『深山住まいの御仁にご挨拶したいと言う人が見えていますが。』と取り次いでくれ。」
と言うと、
「はぁ…その御方でしたらここにはもういらっしゃいませんよ。何とか言うところに今は住んでいらっしゃるとか…。」
と乞食は言う。
(何だと?…まさか私とアイツとの板挟みに苦しんで尼にでもなったっていうのか。)
気が咎めて、「いやいや…あの光遠と一緒になったんだろう?」と薄笑いを浮かべて話しているうちに、屋敷の妻戸をそっと開ける音がする。
(おっと、まずい…屋敷の者が起きてきたか。)
男は供の者をしっしと遠ざけて、透垣に沿って生えているススキの茂みにしゃがみ込んだ。透垣を透かし見て伺っていると、
「ねぇ、少納言の君。そろそろ夜が明けてきますよ。出ていらっしゃいな。」
と少女の声がする。見れば年頃の愛らしい女童が、シワくちゃになった着物の寝起き姿で妻戸の向こうへ声をかけていた。蘇芳だろうか、単衣に重ねた衵はしっとりとした風情で。さらさらと流れる髪が小袿に映えて何とも美しい。ほう…と見とれていると、女童は月明かりを扇で遮りながら「あたら夜の月と花とを同じくは…」と庭に降りて透垣の傍…花の生えている方へ歩いてくる。ふむ…近くまで来たらわっと飛び出して驚かせてやろうか。ニヤリと笑ってまたしばらく伺っていると、今度は年嵩の女房らしい声がした。
「まったく、季光はどうしてまだ起きてこないんです。弁の君、こっちよ。さぁ、いらっしゃい。」
せっかくもう少しというところへ来たのに、はぁい!と答えて女童は立ち止まって引き返していく。どうも屋敷の中がガヤガヤと騒がしい。どうやらどこかへ参詣に出掛ける支度をしているようだ。
「つまんないの。あーあ…どうしても行かなきゃダメですか?だってお供に着いていったって、お参りも出来ずに離れたところで待ってなきゃいけないんですもの。」
どうも女童は障りがあるらしい。不満げな声に、年嵩の女房が「馬鹿なこと言うんじゃありませんよ。」とピシャリと返した。
そんなこんなでしばらく待っていると、きちんと正装した女たちが五、六人ほど出てきてそろりそろりと庭へ降りてくる。主人であろう女をまじまじ眺めてみると、華奢な肩に重たげに襲た衣を脱ぎ滑らかしたあどけなさの残る少女であった。参詣の供へ掛ける声も少女らしい可愛い声であったが、どこか奥ゆかしく上品に聞こえる。
(ほう…これは良いものを見た…。)
透垣の影でひとりほくそ笑んでいたが、いよいよあたりも明るくなってきた。男は足音を忍ばせて、そっとその場を後にしたのだった。
屋敷に戻った男が目を覚ましたのは、もうすっかり日が高くなった頃で。あぁ、しまったな…と、さして悪いとも思わず欠伸をしながら硯箱を開いた。
「朝まで一緒にと思っていらしたのでしょうに、夜更けにひとり残された貴方の辛さはいかばかりか…」
と文を青い薄様に書き、『もしや心変わりを疑われているのでは…と、貴方と深い仲になる前よりも私の心は乱れ縺れてるんですよ。』と歌を添えて、柳の枝に付けて女のところへ持っていかせた。
事を終えたら夜明けを待たずにさっさと帰り、日が高くなってから後朝の文…その上この文句とは。昨夜に続いて白々しいと思いつつ返事を待っていると、女から返事が届いた。文の様子からして感触は悪くなさそうだなと文を開くと、
『気の多い貴方ですから、下帯を解いたと思ったらまた別の方へと手を出して、心が乱れ縺れていらっしゃるのでしょ。』
と歌が一首書かれているのみであった。
「……。」
…やっぱりバレてたか。やれやれと頭をかいていたところへ、仕事仲間の源中将と兵衛の佐が遊戯用の小弓を持って訪ねてきた。
「昨夜はどこにいたんです?内裏で御遊があって、あなたにお召しがあったから呼びに来たのに見つからなかったんですよ。」
「昨夜はずっとこの屋敷に居ましたが?おかしいな、不思議ですねぇ。」
「「……。」」
胡乱げな源中将と兵衛の佐の視線が突き刺さる。素知らぬ顔で庭に目をやると咲き乱れる桜の下、土を覆うほど花びらが散り落ちている。昨夜はですね…と男は
『飽くことなく散り落ちる桜を、散らないでくれとひたすらに祈りつづけ…』
と歌を詠みけたが、すかさず兵衛の佐が下の句を継いで、
『お陰で私も桜もすっかりヨレヨレのヨボヨボになってしまいました。』
と詠み変えてしまった。男…中将の君は「おいおい、それじゃ甲斐がないよ」と笑い、「『他でもない、貴方に屋敷の桜を見せたくて“散らないでくれ”と祈っていたんだ』…という訳さ。」と詠んだ。
「なんだ、今度はどこの女に想いを懸けているんだい?」
「お盛んなことで…」
「さてね、何のことかな。」
そんなこんなで、しばし賑やかなひとときを過ごしたのち。二人が帰るというので男も一緒に屋敷を出た。「ちょうどいい…今朝見たあの娘のことをもう少し調べてみよう」という腹積もりである。
夕方ごろ例の屋敷へ行ってみると、妙なる音色が築地から漏れ聞こえてきた。今朝の透垣の辺りから伺うと、御簾を巻き上げた局で少女は女房達と琵琶を奏でていた。
「………、」
春霞に滲むような夕陽の金色の空へ、咲き乱れる桜がはらはらと散り落ち…そこに佇む少女は息を飲むほど美しく、きらきらと輝くようで。その美しさは満開の桜も甚だ圧倒されるようであった。黄鐘調の調べをゆったりと、そして朗々と弾く手つきはやんごとない姫君たちでさえ敵わないだろうと思われた。
「…殿、あのお嬢様では些か若過ぎじゃありませんか?」
うっとりと眺めていた男の上機嫌に水を差したのは供の光季であった。
「もっと年頃の女の方がよろしいんじゃないですか?琵琶の上手な女なら陽明門の近くにいらっしゃるじゃありませんか。…こちらのお嬢様はどうもワケありっぽいように見えますが。」
「…そっちの女はいずれな。それよりも光季よ、この桜だらけの荒れ屋敷をお前はどう見た。」
男が尋ねると、光季はが「そうですなぁ、やはり後ろ盾を亡くされたのではないかと。」と訳知り顔で笑う。
「そんなことは見ればわかる。…心当たりがあるのだろう。子細を言え。」と男が言うと、光季はぐっと声を落として
「…今は亡き源中納言様のご息女ではないかと。たいそう見目麗しいご令嬢だそうで、叔父君である近衛大将殿が養女にお迎えになって入内させようとしているとか…。」
と語った。もし入内してしまえばもう手が出せない。近衛大将殿と言えば男の上役にあたる人だが斯くなる上は。
「…ではそうなる前に。今度もうまく出し抜け。」
男が光季の背を叩くと、光季はボリボリと頭を掻きながら「そう思ってはいるのですが…まぁ、何とかやってみますよ。」と腰を上げた。
「やぁ、そこの君、ちょいといいかな。」
夕暮れ時を待って、光季は今朝がた庭へ出てきた女童を見つけて声をかけた。今朝の様子から気安い娘と踏んだが大当たり。口の上手い光季が水を向けるとすぐに会話が弾んだ。しかし文の取り次ぎを頼むと女童は目を丸くして、
「…姫様に?無理無理!……大将殿がとってもピリピリしていらしてねぇ、常日頃から虫を寄せ付けるなってうるさく仰るものだから。私たちが姫様へ文をお取り次ぎすることさえ、お祖母様がとっても神経質になっていらっしゃるのよ。」
何せ姫様は入内が決まっていらっしゃるですからね!と言う。ほう、入内なさるのですか。これはおめでとうございます。と言いつつ、光季は態とらしく顔を背けた。
「…しかし何ですねぇ…些かお可哀想な気もしますなぁ…」
「…ま、まぁ!どうしてそんなこと仰るの?」
「あぁ、おめでたい話に水を差すようなことを言って申し訳ない。しかしねぇ…あんなにお若いのにお父上を亡くされて、後ろ盾がないとはいえ叔父上の出世の為に入内とは…。」
「……そ、そんなことは…、」
「…我が君ならきっと、姫君にお寂しい思いはさせませんのに…。」
「……。」
まだ歳若い、分別の足りない小娘である。次第に光季の舌に乗せられて、「そうね…心から想ってくださる方なら…」とすっかりその気になったようで。
「…姫君のことは我が君にお任せなさい。我が君ほど誠実な方はいらっしゃいませんからね。ついては手引きを頼みたいんですがね…なに、ちょいと融通を利かせて貰えば結構ですよ。」
「…わかりました。それなら折を見て今夜にでも。」
手引きを引き受けた女童は、「くれぐれも姫様のこと、よろしくお願いしますね。」と念を押して屋敷へ戻って行った。
光季もまた辺りを見回して、素知らぬ顔で築地から抜け出した。姫君への文は懐にしまったままであったが、鵜の目鷹の目が光っているならわざわざ危険を冒す必要はないと考えたのである。
さてさっそく待ちかねた主へ
「…丸め込んできましたよ。今夜決行がよろしいかと。」
と報告すると、男は「よし、良くやったぞ、光季。」と目を輝かせた。
一度屋敷に引き上げて、とっぷりと暮れる頃に男と光季はまた例の屋敷へと出掛けていった。車から男の素性がバレてはマズイので、今度は光季の車に乗り換えて。車を例の屋敷から少し離れた場所に停めさせ、降りた二人が合図すると、あの女童が二人をそっと屋敷に引き入れた。目立たぬよう灯りは物陰に遠ざけ、そろりそろりと足音を忍ばせて進むと…ほの暗い母屋に小柄な体を横たえて誰かが眠っている。
(…姫君に違いない…!)
確信するや、男はさっとその女の体を抱え上げて一目散に車へと駆け戻った。
「出せ!早くしろ!」
牛に鞭を入れさせて急ぎ車を走らせる間も、腕に抱かれた女は「これはいったい…!?いったいどういうこと!?」と何がなにやら訳も分からず、ただただ混乱するばかりであった。それもそのはず。
「ちょっと!誰?誰ですあなたは!?」
屋敷へ車を寄せる頃、男の腕の中から姫君とは思えない年寄りのような声が上がった。なんと男が抱きかかえて攫ってきたのは、姫君ではなく男の乳母だった女…年老いた尼君だったのである。
実は光季と女童の企みをたまたま聞いた尼殿が姫君の身を案じて、姫君の代わりに母屋に臥していたようなのである。もとより小柄な人であったが年老いて更に背丈は縮み、尼削ぎの頭では寒いからと着物をすっぽり被って寝ていたため、薄暗がりではそれとわからなかったのだろう。
その後はいったいどうなったのか…それにしても馬鹿馬鹿しい話である。姫君を守ろうという、その心意気は大変素晴らしいのだけれど。
***
※あたら夜の…「あたら夜の月と花とを同じくは心知られむ人に見せばや」
明けてしまうのが惜しいほど綺麗な月夜と花だから、きっと同じように感じるだろう貴方にも見せてあげたい。……みたいな感じでしょうか?
***
退屈な逢瀬を抜け出して、車に揺られながら欠伸をひとつ。男はそっと物見の戸を開けて外を眺めた。「あまりにも月が明るいから、すっかり夜明けだと騙されてしまいました。…もう少しゆっくりしていたいところですが、家までは少し遠い。そろそろお暇します。」などと、我ながら白々しいと思いつつ。真夜中の町は声ひとつなくしんと静まり返り、ある屋敷の前を通りかかるとはらはらと桜の花びらが舞い込んできた。見れば屋敷の築地の向こう、煌々と照らす月明かりに桜が煙るように霞んでいる。
(あぁ…そういえばこの辺りだったか…。)
先ほど女の家を出てきたばかりだが、このまま通り過ぎてしまうのはつまらない気がして。男は車を停めさせて築地の下…桜の木陰に降り立ち、
『君を誰にも渡したくないんだよ。たとえ君の心は別の男にあったとしても。今も桜の木影に君を想い続けている。』
と桜を見上げて歌を詠んだ。むかし想いを懸けた女が住んでいたのはこの辺りだったと、往時を思い出しながら眺めていたところ。築地の崩れた穴からゲホゲホと乞食だろうか。白髪頭が咳き込みながら這い出してきた。見れば屋敷は可哀想なくらいに荒れて、人気も無ければじろじろ敷地の中を伺っても咎める人もいない。男は思い切って築地の崩れたところから敷地に入り込み、戻ってきた乞食を呼び止めた。
「おい、そこの。ここに住んでいた人はまだいらっしゃるのか。『深山住まいの御仁にご挨拶したいと言う人が見えていますが。』と取り次いでくれ。」
と言うと、
「はぁ…その御方でしたらここにはもういらっしゃいませんよ。何とか言うところに今は住んでいらっしゃるとか…。」
と乞食は言う。
(何だと?…まさか私とアイツとの板挟みに苦しんで尼にでもなったっていうのか。)
気が咎めて、「いやいや…あの光遠と一緒になったんだろう?」と薄笑いを浮かべて話しているうちに、屋敷の妻戸をそっと開ける音がする。
(おっと、まずい…屋敷の者が起きてきたか。)
男は供の者をしっしと遠ざけて、透垣に沿って生えているススキの茂みにしゃがみ込んだ。透垣を透かし見て伺っていると、
「ねぇ、少納言の君。そろそろ夜が明けてきますよ。出ていらっしゃいな。」
と少女の声がする。見れば年頃の愛らしい女童が、シワくちゃになった着物の寝起き姿で妻戸の向こうへ声をかけていた。蘇芳だろうか、単衣に重ねた衵はしっとりとした風情で。さらさらと流れる髪が小袿に映えて何とも美しい。ほう…と見とれていると、女童は月明かりを扇で遮りながら「あたら夜の月と花とを同じくは…」と庭に降りて透垣の傍…花の生えている方へ歩いてくる。ふむ…近くまで来たらわっと飛び出して驚かせてやろうか。ニヤリと笑ってまたしばらく伺っていると、今度は年嵩の女房らしい声がした。
「まったく、季光はどうしてまだ起きてこないんです。弁の君、こっちよ。さぁ、いらっしゃい。」
せっかくもう少しというところへ来たのに、はぁい!と答えて女童は立ち止まって引き返していく。どうも屋敷の中がガヤガヤと騒がしい。どうやらどこかへ参詣に出掛ける支度をしているようだ。
「つまんないの。あーあ…どうしても行かなきゃダメですか?だってお供に着いていったって、お参りも出来ずに離れたところで待ってなきゃいけないんですもの。」
どうも女童は障りがあるらしい。不満げな声に、年嵩の女房が「馬鹿なこと言うんじゃありませんよ。」とピシャリと返した。
そんなこんなでしばらく待っていると、きちんと正装した女たちが五、六人ほど出てきてそろりそろりと庭へ降りてくる。主人であろう女をまじまじ眺めてみると、華奢な肩に重たげに襲た衣を脱ぎ滑らかしたあどけなさの残る少女であった。参詣の供へ掛ける声も少女らしい可愛い声であったが、どこか奥ゆかしく上品に聞こえる。
(ほう…これは良いものを見た…。)
透垣の影でひとりほくそ笑んでいたが、いよいよあたりも明るくなってきた。男は足音を忍ばせて、そっとその場を後にしたのだった。
屋敷に戻った男が目を覚ましたのは、もうすっかり日が高くなった頃で。あぁ、しまったな…と、さして悪いとも思わず欠伸をしながら硯箱を開いた。
「朝まで一緒にと思っていらしたのでしょうに、夜更けにひとり残された貴方の辛さはいかばかりか…」
と文を青い薄様に書き、『もしや心変わりを疑われているのでは…と、貴方と深い仲になる前よりも私の心は乱れ縺れてるんですよ。』と歌を添えて、柳の枝に付けて女のところへ持っていかせた。
事を終えたら夜明けを待たずにさっさと帰り、日が高くなってから後朝の文…その上この文句とは。昨夜に続いて白々しいと思いつつ返事を待っていると、女から返事が届いた。文の様子からして感触は悪くなさそうだなと文を開くと、
『気の多い貴方ですから、下帯を解いたと思ったらまた別の方へと手を出して、心が乱れ縺れていらっしゃるのでしょ。』
と歌が一首書かれているのみであった。
「……。」
…やっぱりバレてたか。やれやれと頭をかいていたところへ、仕事仲間の源中将と兵衛の佐が遊戯用の小弓を持って訪ねてきた。
「昨夜はどこにいたんです?内裏で御遊があって、あなたにお召しがあったから呼びに来たのに見つからなかったんですよ。」
「昨夜はずっとこの屋敷に居ましたが?おかしいな、不思議ですねぇ。」
「「……。」」
胡乱げな源中将と兵衛の佐の視線が突き刺さる。素知らぬ顔で庭に目をやると咲き乱れる桜の下、土を覆うほど花びらが散り落ちている。昨夜はですね…と男は
『飽くことなく散り落ちる桜を、散らないでくれとひたすらに祈りつづけ…』
と歌を詠みけたが、すかさず兵衛の佐が下の句を継いで、
『お陰で私も桜もすっかりヨレヨレのヨボヨボになってしまいました。』
と詠み変えてしまった。男…中将の君は「おいおい、それじゃ甲斐がないよ」と笑い、「『他でもない、貴方に屋敷の桜を見せたくて“散らないでくれ”と祈っていたんだ』…という訳さ。」と詠んだ。
「なんだ、今度はどこの女に想いを懸けているんだい?」
「お盛んなことで…」
「さてね、何のことかな。」
そんなこんなで、しばし賑やかなひとときを過ごしたのち。二人が帰るというので男も一緒に屋敷を出た。「ちょうどいい…今朝見たあの娘のことをもう少し調べてみよう」という腹積もりである。
夕方ごろ例の屋敷へ行ってみると、妙なる音色が築地から漏れ聞こえてきた。今朝の透垣の辺りから伺うと、御簾を巻き上げた局で少女は女房達と琵琶を奏でていた。
「………、」
春霞に滲むような夕陽の金色の空へ、咲き乱れる桜がはらはらと散り落ち…そこに佇む少女は息を飲むほど美しく、きらきらと輝くようで。その美しさは満開の桜も甚だ圧倒されるようであった。黄鐘調の調べをゆったりと、そして朗々と弾く手つきはやんごとない姫君たちでさえ敵わないだろうと思われた。
「…殿、あのお嬢様では些か若過ぎじゃありませんか?」
うっとりと眺めていた男の上機嫌に水を差したのは供の光季であった。
「もっと年頃の女の方がよろしいんじゃないですか?琵琶の上手な女なら陽明門の近くにいらっしゃるじゃありませんか。…こちらのお嬢様はどうもワケありっぽいように見えますが。」
「…そっちの女はいずれな。それよりも光季よ、この桜だらけの荒れ屋敷をお前はどう見た。」
男が尋ねると、光季はが「そうですなぁ、やはり後ろ盾を亡くされたのではないかと。」と訳知り顔で笑う。
「そんなことは見ればわかる。…心当たりがあるのだろう。子細を言え。」と男が言うと、光季はぐっと声を落として
「…今は亡き源中納言様のご息女ではないかと。たいそう見目麗しいご令嬢だそうで、叔父君である近衛大将殿が養女にお迎えになって入内させようとしているとか…。」
と語った。もし入内してしまえばもう手が出せない。近衛大将殿と言えば男の上役にあたる人だが斯くなる上は。
「…ではそうなる前に。今度もうまく出し抜け。」
男が光季の背を叩くと、光季はボリボリと頭を掻きながら「そう思ってはいるのですが…まぁ、何とかやってみますよ。」と腰を上げた。
「やぁ、そこの君、ちょいといいかな。」
夕暮れ時を待って、光季は今朝がた庭へ出てきた女童を見つけて声をかけた。今朝の様子から気安い娘と踏んだが大当たり。口の上手い光季が水を向けるとすぐに会話が弾んだ。しかし文の取り次ぎを頼むと女童は目を丸くして、
「…姫様に?無理無理!……大将殿がとってもピリピリしていらしてねぇ、常日頃から虫を寄せ付けるなってうるさく仰るものだから。私たちが姫様へ文をお取り次ぎすることさえ、お祖母様がとっても神経質になっていらっしゃるのよ。」
何せ姫様は入内が決まっていらっしゃるですからね!と言う。ほう、入内なさるのですか。これはおめでとうございます。と言いつつ、光季は態とらしく顔を背けた。
「…しかし何ですねぇ…些かお可哀想な気もしますなぁ…」
「…ま、まぁ!どうしてそんなこと仰るの?」
「あぁ、おめでたい話に水を差すようなことを言って申し訳ない。しかしねぇ…あんなにお若いのにお父上を亡くされて、後ろ盾がないとはいえ叔父上の出世の為に入内とは…。」
「……そ、そんなことは…、」
「…我が君ならきっと、姫君にお寂しい思いはさせませんのに…。」
「……。」
まだ歳若い、分別の足りない小娘である。次第に光季の舌に乗せられて、「そうね…心から想ってくださる方なら…」とすっかりその気になったようで。
「…姫君のことは我が君にお任せなさい。我が君ほど誠実な方はいらっしゃいませんからね。ついては手引きを頼みたいんですがね…なに、ちょいと融通を利かせて貰えば結構ですよ。」
「…わかりました。それなら折を見て今夜にでも。」
手引きを引き受けた女童は、「くれぐれも姫様のこと、よろしくお願いしますね。」と念を押して屋敷へ戻って行った。
光季もまた辺りを見回して、素知らぬ顔で築地から抜け出した。姫君への文は懐にしまったままであったが、鵜の目鷹の目が光っているならわざわざ危険を冒す必要はないと考えたのである。
さてさっそく待ちかねた主へ
「…丸め込んできましたよ。今夜決行がよろしいかと。」
と報告すると、男は「よし、良くやったぞ、光季。」と目を輝かせた。
一度屋敷に引き上げて、とっぷりと暮れる頃に男と光季はまた例の屋敷へと出掛けていった。車から男の素性がバレてはマズイので、今度は光季の車に乗り換えて。車を例の屋敷から少し離れた場所に停めさせ、降りた二人が合図すると、あの女童が二人をそっと屋敷に引き入れた。目立たぬよう灯りは物陰に遠ざけ、そろりそろりと足音を忍ばせて進むと…ほの暗い母屋に小柄な体を横たえて誰かが眠っている。
(…姫君に違いない…!)
確信するや、男はさっとその女の体を抱え上げて一目散に車へと駆け戻った。
「出せ!早くしろ!」
牛に鞭を入れさせて急ぎ車を走らせる間も、腕に抱かれた女は「これはいったい…!?いったいどういうこと!?」と何がなにやら訳も分からず、ただただ混乱するばかりであった。それもそのはず。
「ちょっと!誰?誰ですあなたは!?」
屋敷へ車を寄せる頃、男の腕の中から姫君とは思えない年寄りのような声が上がった。なんと男が抱きかかえて攫ってきたのは、姫君ではなく男の乳母だった女…年老いた尼君だったのである。
実は光季と女童の企みをたまたま聞いた尼殿が姫君の身を案じて、姫君の代わりに母屋に臥していたようなのである。もとより小柄な人であったが年老いて更に背丈は縮み、尼削ぎの頭では寒いからと着物をすっぽり被って寝ていたため、薄暗がりではそれとわからなかったのだろう。
その後はいったいどうなったのか…それにしても馬鹿馬鹿しい話である。姫君を守ろうという、その心意気は大変素晴らしいのだけれど。
***
※あたら夜の…「あたら夜の月と花とを同じくは心知られむ人に見せばや」
明けてしまうのが惜しいほど綺麗な月夜と花だから、きっと同じように感じるだろう貴方にも見せてあげたい。……みたいな感じでしょうか?
