篁物語 後編
公開 2023/10/17 08:31
最終更新
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※これは古典文学「篁物語」を個人的に意訳したものです。これにて完結。典拠は1番下に記載しています。
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令嬢が亡くなってから数年が過ぎた頃のこと。
男は内裏に参上する途中の右大臣殿の車を待ち構え、「右大臣様の御車とお見受け致します。どうか右大臣様へこちらを…」と恭しい仕草で差し出した。
みすぼらしい身なりの男に従者は不審げな目を向けたが、男の仕草は堂に入ったもので。兎も角も、右大臣殿が何事かと内より仰るので文を取り次いだ。
「……ほう、これは…。」
右大臣殿が受け取った文を開くと、そこには風流な漢詩で「どうか右大臣様のご令嬢をおひとり、妻に頂戴したい」という旨が書かれている。身なりにそぐわぬ風雅な趣きに感心した右大臣殿は、
「相わかった。これより屋敷に戻って相談の上お返事いたそう。」
と了承して車を返し、男もそれを見送って大学寮へと入って行く。車からそっと男の後ろ姿を覗いた右大臣殿は「ふむ…あれが噂の…」と頷いたのだった。
さて右大臣殿には三人の姫君がおられる。屋敷に戻り、さっそく姫君たちをひとりずつ呼んで「実はこれこれいう話があるが…お前、どうだ。」と尋ねてみた。
まず一の姫に聞いてみたところ、みるみる顔を赤くして泣き出し、「そんな賎しい身分の…それも薄気味悪い曰くつきの男と夫婦になれですって!?冗談じゃない…酷いわ!」とひどく恨み言を言って曹司に引っ込んでしまった。次の二の姫も同様で。三の姫に望みをかけて「一の君、二の君はこう言ってるが…お前はどうだ。」と尋ねてみた。三の姫も顔を強ばらせていたが、これで自分まで断れば父君の立場が…と思ったのだろう。
「…わかりました。兎に角、お父様のお頼みとあれば従いましょう。」
と例の大学生との結婚を受け入れた。
そうなれば話はトントン拍子に進むもの。真新しい新居をこさえ、吉日を選んで男を迎えることとなったが…。
「…まぁ…!」
右大臣殿から招かれ参上した男を見た方々は、みな一様に眉を顰めた。車から降りた男の格好たるや、何とみすぼらしいことだろう。雑色が着るような橡色の、それもあちこちほつれたヨレヨレの着物を着て。足には使い古して踵の潰れた浅沓を履き、何やら湿気て布張りの浮いた帙を手にやって来たのである。
「………、」
これから私、この人の妻になるの…?と三の君は顔を引き攣らせた。三の君付きの女房たちも、右大臣様のご令嬢がこんな情けない目に合うなんて…と暗い顔で、中には目元を押さえている者までいるがもう後戻りはできない。三の君は暗澹たる心地で帳に入った。
今宵、新枕である。帳に入った男はさっそく着物を脱ぎ始めた。本来であれば夫の着替えを妻が手伝うものであるが、真っ先に差し出された帙を前に三の君は固まってしまった。
「…どうかされましたか。受け取ってください。」
「…あの……えぇと…、」
「……。」
高貴な令嬢である。こんな薄汚いものを手渡されても、とても触れない。どうしたものかと目を泳がせていると、男は帙を石帯に差し込み、
「やはりこんなみっともない身なりの者と褥を共にするなどお嫌でしたか大変失礼しました帰ります。」
ひと息に言って立ち上がり、帳を出ていこうとする。「ちょ、お待ちなさい!そんなことありません!」と三の君は大慌てで男の石帯を引っつかんで引き止め、ようやく帙を受け取った。
そんな二人のやり取りを曹司からこっそり覗いていた右大臣殿こと父君は、「ほほう、婿殿はうまいことやりよったわい。」と大層お喜びになり、
「もし新枕の夜に途中で帰られてしまったら、娘はどれほど肩身の狭い思いをしたことか…全く上手くやりよったわ。賢い賢い。」
と繰り返し面白そうに仰られた。
そうして三日目の夜。三の君の血縁の方々に婿殿をお披露目し、今宵からは正式な夫婦という晩である。右大臣殿の御屋敷では盛大な宴が開かれたが、男の供は童がたったのひとりだけであった。本来であれば大勢の人を供に参るものを、いかにも暮らしに窮した情けない有様である。右大臣家の人々の眼差しは決して優しいものではなかったが、それでもなんとか三日の餅も済ませて帰ってきた。
「………はぁ…」
目的の為とはいえ、己の惨めさをまざまざと見せつけられるような心地で。男は愛しい面影に慰めを求めて、妹君が住んでいた曹司でごろりと横になった。
するとどれほど経ったか、薄暗がりからざわり…と衣擦れの音がする。
(あぁ…来てくれた。)
愛しい面影の訪いに喜んだのも束の間、茫洋とした影はただじっと男の傍に立ち尽くしている。
「…どうしたんだい?いつものように隣においで…。」
《………》
訝って声を掛けたが、影は男を見下ろしたまま動かない。体を起こして手を伸ばすと、影は逃れるように揺らいだ。
《…あれほど私のことを愛してくださったのに…もうあの頃のお兄様ではないのね。私だけって…決して心変わりしないって信じていたのに…。》
「…ちが…、……。」
悲しげに呟いた影は、まだ鶏の声も聞かないというのにふわりと闇に溶けて消えてしまった。申し開きする間もなく、追いかけた手は虚しく空を切り…。
(…いや、何を言い訳すると言うんだ…私は確かに三の君と夫婦になったじゃないか。)
妹を守れなかったのも、後ろ盾を失って困窮しているのも、すべて自分に力がなかったからだ。後ろ盾を手に入れるためには、右大臣殿の婿になるしかなかった。しかし時が止まったままの令嬢に、男の事情を理解するのは難しいのかもしれない。
「……っ…、」
それでも心の支えを失ったような、寄る辺ない悲しみがみるみる胸に込み上げて。男は三の君の元へ通う気にもならず、亡き令嬢の曹司に籠ってしばらく泣き暮らしていた。
男があれきり何日も通って来ないので、右大臣殿も「妙だな」とお思いになっていたようで。七日も経ってからようやく現れた男へ、「いったい、どういうわけで婿殿は来られなかったのか」とお尋ねになられた。男は正直な気性であったので、令嬢との仲は伏せて「亡くなった妹が私のところに現れて、泣かれてしまいまして…」と話して聞かせた。すると妻である三の君はくいっと眉を上げて、
「まぁ、絵に描いたような仲睦まじいご兄妹ですこと、なんとも素敵じゃありませんか。私のことも、妹君と同じくらい大事にしてくださるといいんですけど…。」
などと当てこすりを言い出した。幾夜もすっぽかされたのがよほど腹に据えかねたのだろう。三の君の当てこすりは止まらない。
「なんと言っても、亡くなりになった方というのは、人となりからお姿まで。亡くなったからこそ、何年経っても忘れられないものですわ。誰かさんを見てますと、よーーーっくわかります。…来世は夫婦かしら。『よくもまぁ飽きもせず、とうに亡くなった方をまるで生きている方のように仰いますこと』…あぁ、イヤだ。」
しかし腹に据えかねたのは男も同じである。自分ばかりか、最愛の妹君まで貶められては大人しく引き下がるわけがない。
「…どうして、そんなふうにお考えになるのでしょう。来世などあなたに関係ないでしょう。…しかしまぁ、妹のお陰であなたの本性が見えたと思えば…、」
と言って居住まいを正すと、
「『離縁して、それぞれ別の人生を歩んだとしても、あなたにひとつご忠告しなければと』…新枕の夜、帳から出ていこうとしたところを引き留められて、今日までこうしておりましたが……あなた、いちいち言うことが回りくどくて嫌味なんですよ鬱陶しい。」
と言い放った。男の言葉に三の君は顔を真っ赤にして唖然としていたが、舅殿にはかえってこの真っ直ぐな気性が好ましく思えたようである。
この男は、若い頃はろくすっぽ妻の元には通わず、他の女のところへ通ったりもしていたが。後に出世して参議よりも高い位に登りつめた。この男こそ、かの有名な小野篁その人である。
才学は言うに及ばず、子々孫々まで歌に通じ、この国に篁にかなう人などいないというほどの人である。縁談を断った三の君の姉上たちはてんでうだつの上がらない男の妻になり、篁の出世を目の当たりにして、三の君にヘコヘコとゴマをするほどであったとか。今では大学の学生なんぞ婿に取る大臣はまず居ないだろうが、いたとしても篁には心映えも、容姿も、才学も見劣りするだろう。まして彼のように漢詩で直談判するような気骨のある人などはいまい。
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※帙(ちつ)…和書の保護カバーみたいなもの
典拠
岩波書店・刊「日本古典文学体系77 篁・平中・濱松中納言物語」
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令嬢が亡くなってから数年が過ぎた頃のこと。
男は内裏に参上する途中の右大臣殿の車を待ち構え、「右大臣様の御車とお見受け致します。どうか右大臣様へこちらを…」と恭しい仕草で差し出した。
みすぼらしい身なりの男に従者は不審げな目を向けたが、男の仕草は堂に入ったもので。兎も角も、右大臣殿が何事かと内より仰るので文を取り次いだ。
「……ほう、これは…。」
右大臣殿が受け取った文を開くと、そこには風流な漢詩で「どうか右大臣様のご令嬢をおひとり、妻に頂戴したい」という旨が書かれている。身なりにそぐわぬ風雅な趣きに感心した右大臣殿は、
「相わかった。これより屋敷に戻って相談の上お返事いたそう。」
と了承して車を返し、男もそれを見送って大学寮へと入って行く。車からそっと男の後ろ姿を覗いた右大臣殿は「ふむ…あれが噂の…」と頷いたのだった。
さて右大臣殿には三人の姫君がおられる。屋敷に戻り、さっそく姫君たちをひとりずつ呼んで「実はこれこれいう話があるが…お前、どうだ。」と尋ねてみた。
まず一の姫に聞いてみたところ、みるみる顔を赤くして泣き出し、「そんな賎しい身分の…それも薄気味悪い曰くつきの男と夫婦になれですって!?冗談じゃない…酷いわ!」とひどく恨み言を言って曹司に引っ込んでしまった。次の二の姫も同様で。三の姫に望みをかけて「一の君、二の君はこう言ってるが…お前はどうだ。」と尋ねてみた。三の姫も顔を強ばらせていたが、これで自分まで断れば父君の立場が…と思ったのだろう。
「…わかりました。兎に角、お父様のお頼みとあれば従いましょう。」
と例の大学生との結婚を受け入れた。
そうなれば話はトントン拍子に進むもの。真新しい新居をこさえ、吉日を選んで男を迎えることとなったが…。
「…まぁ…!」
右大臣殿から招かれ参上した男を見た方々は、みな一様に眉を顰めた。車から降りた男の格好たるや、何とみすぼらしいことだろう。雑色が着るような橡色の、それもあちこちほつれたヨレヨレの着物を着て。足には使い古して踵の潰れた浅沓を履き、何やら湿気て布張りの浮いた帙を手にやって来たのである。
「………、」
これから私、この人の妻になるの…?と三の君は顔を引き攣らせた。三の君付きの女房たちも、右大臣様のご令嬢がこんな情けない目に合うなんて…と暗い顔で、中には目元を押さえている者までいるがもう後戻りはできない。三の君は暗澹たる心地で帳に入った。
今宵、新枕である。帳に入った男はさっそく着物を脱ぎ始めた。本来であれば夫の着替えを妻が手伝うものであるが、真っ先に差し出された帙を前に三の君は固まってしまった。
「…どうかされましたか。受け取ってください。」
「…あの……えぇと…、」
「……。」
高貴な令嬢である。こんな薄汚いものを手渡されても、とても触れない。どうしたものかと目を泳がせていると、男は帙を石帯に差し込み、
「やはりこんなみっともない身なりの者と褥を共にするなどお嫌でしたか大変失礼しました帰ります。」
ひと息に言って立ち上がり、帳を出ていこうとする。「ちょ、お待ちなさい!そんなことありません!」と三の君は大慌てで男の石帯を引っつかんで引き止め、ようやく帙を受け取った。
そんな二人のやり取りを曹司からこっそり覗いていた右大臣殿こと父君は、「ほほう、婿殿はうまいことやりよったわい。」と大層お喜びになり、
「もし新枕の夜に途中で帰られてしまったら、娘はどれほど肩身の狭い思いをしたことか…全く上手くやりよったわ。賢い賢い。」
と繰り返し面白そうに仰られた。
そうして三日目の夜。三の君の血縁の方々に婿殿をお披露目し、今宵からは正式な夫婦という晩である。右大臣殿の御屋敷では盛大な宴が開かれたが、男の供は童がたったのひとりだけであった。本来であれば大勢の人を供に参るものを、いかにも暮らしに窮した情けない有様である。右大臣家の人々の眼差しは決して優しいものではなかったが、それでもなんとか三日の餅も済ませて帰ってきた。
「………はぁ…」
目的の為とはいえ、己の惨めさをまざまざと見せつけられるような心地で。男は愛しい面影に慰めを求めて、妹君が住んでいた曹司でごろりと横になった。
するとどれほど経ったか、薄暗がりからざわり…と衣擦れの音がする。
(あぁ…来てくれた。)
愛しい面影の訪いに喜んだのも束の間、茫洋とした影はただじっと男の傍に立ち尽くしている。
「…どうしたんだい?いつものように隣においで…。」
《………》
訝って声を掛けたが、影は男を見下ろしたまま動かない。体を起こして手を伸ばすと、影は逃れるように揺らいだ。
《…あれほど私のことを愛してくださったのに…もうあの頃のお兄様ではないのね。私だけって…決して心変わりしないって信じていたのに…。》
「…ちが…、……。」
悲しげに呟いた影は、まだ鶏の声も聞かないというのにふわりと闇に溶けて消えてしまった。申し開きする間もなく、追いかけた手は虚しく空を切り…。
(…いや、何を言い訳すると言うんだ…私は確かに三の君と夫婦になったじゃないか。)
妹を守れなかったのも、後ろ盾を失って困窮しているのも、すべて自分に力がなかったからだ。後ろ盾を手に入れるためには、右大臣殿の婿になるしかなかった。しかし時が止まったままの令嬢に、男の事情を理解するのは難しいのかもしれない。
「……っ…、」
それでも心の支えを失ったような、寄る辺ない悲しみがみるみる胸に込み上げて。男は三の君の元へ通う気にもならず、亡き令嬢の曹司に籠ってしばらく泣き暮らしていた。
男があれきり何日も通って来ないので、右大臣殿も「妙だな」とお思いになっていたようで。七日も経ってからようやく現れた男へ、「いったい、どういうわけで婿殿は来られなかったのか」とお尋ねになられた。男は正直な気性であったので、令嬢との仲は伏せて「亡くなった妹が私のところに現れて、泣かれてしまいまして…」と話して聞かせた。すると妻である三の君はくいっと眉を上げて、
「まぁ、絵に描いたような仲睦まじいご兄妹ですこと、なんとも素敵じゃありませんか。私のことも、妹君と同じくらい大事にしてくださるといいんですけど…。」
などと当てこすりを言い出した。幾夜もすっぽかされたのがよほど腹に据えかねたのだろう。三の君の当てこすりは止まらない。
「なんと言っても、亡くなりになった方というのは、人となりからお姿まで。亡くなったからこそ、何年経っても忘れられないものですわ。誰かさんを見てますと、よーーーっくわかります。…来世は夫婦かしら。『よくもまぁ飽きもせず、とうに亡くなった方をまるで生きている方のように仰いますこと』…あぁ、イヤだ。」
しかし腹に据えかねたのは男も同じである。自分ばかりか、最愛の妹君まで貶められては大人しく引き下がるわけがない。
「…どうして、そんなふうにお考えになるのでしょう。来世などあなたに関係ないでしょう。…しかしまぁ、妹のお陰であなたの本性が見えたと思えば…、」
と言って居住まいを正すと、
「『離縁して、それぞれ別の人生を歩んだとしても、あなたにひとつご忠告しなければと』…新枕の夜、帳から出ていこうとしたところを引き留められて、今日までこうしておりましたが……あなた、いちいち言うことが回りくどくて嫌味なんですよ鬱陶しい。」
と言い放った。男の言葉に三の君は顔を真っ赤にして唖然としていたが、舅殿にはかえってこの真っ直ぐな気性が好ましく思えたようである。
この男は、若い頃はろくすっぽ妻の元には通わず、他の女のところへ通ったりもしていたが。後に出世して参議よりも高い位に登りつめた。この男こそ、かの有名な小野篁その人である。
才学は言うに及ばず、子々孫々まで歌に通じ、この国に篁にかなう人などいないというほどの人である。縁談を断った三の君の姉上たちはてんでうだつの上がらない男の妻になり、篁の出世を目の当たりにして、三の君にヘコヘコとゴマをするほどであったとか。今では大学の学生なんぞ婿に取る大臣はまず居ないだろうが、いたとしても篁には心映えも、容姿も、才学も見劣りするだろう。まして彼のように漢詩で直談判するような気骨のある人などはいまい。
*****
※帙(ちつ)…和書の保護カバーみたいなもの
典拠
岩波書店・刊「日本古典文学体系77 篁・平中・濱松中納言物語」
