篁物語 前編2/2
公開 2023/10/15 09:46
最終更新
2023/10/17 21:24
※これは古典文学「篁物語」を個人的に意訳したものです。前編1/2からの続きです。典拠は1番下に記載しています。
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夜が明けて曹司に戻った男は令嬢に何か食べさせようと、小さく切った食べ物を持って行こうとしたが。
「…っ…、」
腰を浮かせると途端にぐるりと世界が回り、男は慌てて床に手を着いた。昨夜の酒も残っているし、夜通し泣き明かした頭は朦朧として。まして心は千々に乱れ縺れて、足取りも覚束無い。こんな有様ではどうにもならないと、仕方なく親しく使っている雑色に例の包みを届けさせた。ところが、
「…お嬢様…おられますか。お兄上様の使いで参りました…お嬢様、」
「…お兄様は…?」
壁の穴越しに雑色が声をかけると、穴の辺りに待っていたらしい令嬢のか細いが返ってきた。
「お兄上様はご気分が悪くて来られません。ですので、代わりに私が…。お兄上様は曹司でお体を休めていらっしゃいますから、それまでこれを召し上がっていてくださいまし…。」
「……。」
壁の向こうで小さく息を飲む声がする。雑色が包みから取り出した食べ物を壁の穴へ寄せると、「いらない…下げなさい。」と令嬢はそれを退けた。「しかし、せっかくお兄上様が…」と眉を下げて勧めても、令嬢は頑として受け取らず…ぽつり、と。
『せめてあの人にひと目だけでも…って、それだけなのに。それだけを頼りに…消え入りそうなこの身を惜しんで、零れ落ちそうな魂を押し留めているっていうのに…。』
力のない、寂しい声を聞けば、雑色はもう何も言えず。曹司に戻って「これこれこういう次第で…」と伝えると、男は令嬢の唯ならぬ様子に顔色を変え、覚束無い足で人目を避けながら蔵の例の穴辺りに辿り着いた。
「…聞こえるかい。私だよ。」
「………、」
かすかに『おにいさま』と聞こえた気がするが、それは殆ど吐息のような音で。令嬢はもう三日も四日もまともに食事を摂っていない上に、思い悩み泣き明かして、心身ともにすっかり衰弱していたのである。
「…どうしたんだ、君…!しっかりしなさい」
「……さま…おにいさま…、」
涙が滲む吐息が、気力を振り絞るように呼びかける。
『…わたしがこの世から消え失せて…この身は灰になり果てても…魂なら…夢の中でなら…ふたりきりよ、おにいさま……』
男の頬にほろほろと涙が伝う。行ってしまう、遠くへ。手の届かないところへ。
『魂なんて幽かなもの、触れることも…抱き締めてやることもできないじゃないか。そんなものになってどうしようと言うんだ…!』
男は壁の穴へ向かって必死に言い募り、涙を流して引き留めるが、令嬢は何も答えず…ただ疲れきった吐息が小さく聞こえるのみである。
「おい、君…おい!返事をしてくれ!死んでは駄目だ!!」
「篁様、誰か来ます…隠れて…!」
雑色に促されて物陰に隠れると、ちょうどそこへ男の泣き叫ぶ声を聞きつけて父君が駆けてきた。いったい何の騒ぎかと困惑する父君へ「お嬢様のご様子が…!」と雑色が伝えると、父君は慌てて鍵を壊して蔵を開け放った。
「……た、大変だ…たれか…誰か…!!」
蔵の中、倒れ伏し今にも息絶えんとする娘を見つけた父君は、真っ青な顔で蔵から転がり出て母屋へ駆け込んでいく。父君がいなくなった頃を見計らって、物陰から出てきた男は雑色を連れて蔵に駆け込んだが。
「………ッ…!」
よろよろと令嬢の傍に座り込み、その手を取ればまだ温かいのに。呼べど揺すれど力なく窶れたかんばせが揺れるばかりで、唇に触れた指に吐息は触れない。令嬢は例の穴の傍に横たわり、すでに息を引き取っていたのである。男の目にとめどなく涙が溢れ、嗚咽が喉を震わせたが、零れ落ちた魂は戻らない。心から愛したその人は、中空に棚引く煙のように消えてしまった。
その日の晩のこと。灯明をほのかに灯し、家人に隠れて男は静かに泣いていた。すると背後で、ざわりと衣擦れの音がする。誰かが様子を見に来たのかと、床に臥したまま灯明を吹き消して息を殺していると…真っ暗な闇の中、男の背を抱くように寄り添う気配がする。
おにいさま…。
男の耳に、愛おしい声が囁いた。
「…っ…きみ…!」
《…生きてるうちに、こんな風に一緒にいられたら良かったのにね…。》
ねぇ、覚えてる?お兄様が初めて私に想いを告げたときのこと…。まるで生きている頃と変わらぬ様子で令嬢が問いかける。悲しげに語る声は確かに亡き令嬢の物であったが、恐ろしさなど微塵もなかった。
「あぁ、覚えているよ…」
あのとき、もっと素直になっていたら…もっと上手くやっていれば…。過ぎ去った思い出を語り合えば後悔は尽きないが、それでも在りし日の記憶は甘く美しい。
あの子がいる、今ここに…。胸に込み上げる愛しさのまま、男はほろほろと涙を零しながら令嬢がいるあたりを探ってみたが。確かに令嬢の存在は感じるのに、手を握るどころか触れることさえなく。虚しく空を切る手に、男は唇を噛み締めた。
「…っ…!」
懐に抱き寄せて、今度こそこの身などどうなっても構わない。ただの男と女として、心ゆくまで抱いてやりたいと心から思うのに…。
『私たちは泣き流す涙の上にいたけれど、それは涙川なんかじゃない。妹背の川だ、私たちは確かに想いあっていたじゃないか。それなのに君は……触れ合うことさえ出来ずに独りで行ってしまうっていうのか…私だけ残して…!』
両腕をかき抱いて嗚咽を漏らす男に、令嬢は悲しげな声で、
『私は淵瀬に寄る泡のようなもの…夜にしかこうして逢えないの。あぁ、せっかく誰にも邪魔されない逢瀬だっていうのに…もう…消えてしまう……』
空が白み始めると、令嬢の存在はまるで薄明かりに溶けるように消えてしまった。
さて夜が明けると、自分たちの行いを悔いてか、世間の謗りを恐れてか。両親は使用人を連れて夜逃げのように居なくなっていた。しかし蔵に寝かされたままの亡骸を捨ておくわけにいかない。令嬢の亡骸は兄によって荼毘に付され、弔いまで全てこの兄が執り行った。あれほど慈しんで育てられた娘だというのに、兄より他に見送る人もない寂しい最期だった。
「…ありがとう。お陰で何とかなったよ。お前たちも、もう休んでくれ。」
男の他に従者が三、四人と大学の友人一人。令嬢が亡くなった蔵をようやく片付け、掃き清めた。何しろ両親は何もかも捨てて逃げてしまったから、後の始末もなかなか骨が折れるものであった。
「……。」
花を供え香を燻らせて、部屋の隅に灯明を灯してただ独り。薄暮のような暗がりに座り待っていると、
《……お兄様…、》
「…よく来たね、さぁ…もっと近くへ。」
昨夜と同じく衣擦れの音と共に令嬢の霊が現れた。その日から毎晩、夜な夜な薄明かりの中に令嬢は現れてふたりは穏やかな逢瀬を過ごしたが。三日、七日と…魂が三途の川辺へ至るという頃まではまるで生きている頃のように鮮やかな姿で現れたが、あの世の裁きが定まるという四十九日が過ぎる頃にはその存在は随分朧気で。
(もう…この世に引き留めておけないのかもしれない…とうとう手放すときが来たか…。)
別れの辛さに男の涙は尽きないが、それでもあの子のために思い切らなければ…と。男は流した涙を集めて墨を刷り、法華経八巻を書き上げて比叡の三昧堂にて初七日の法要を執り行った。四十九日もとうに過ぎていたが、男の中でようやく区切りがついたのだろう。
しかし初七日の法要を行って後も令嬢は男の傍を離れられないのか、夜ごとに彼女の存在を感じることが度々あった。それが尚のこと男には哀しく愛おしく感じられて。最初の頃のように薄明かりの下で待ちながら、令嬢の気の済むようにさせていた。三年も経つ頃には夢の中にさえはっきりと見えなくなっていたが、その間は他の女へ言い寄ることもなくたった独り。男は令嬢の面影と共に過ごしていたのである。
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典拠
岩波書店・刊「日本古典文学体系77 篁・平中・濱松中納言物語」
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夜が明けて曹司に戻った男は令嬢に何か食べさせようと、小さく切った食べ物を持って行こうとしたが。
「…っ…、」
腰を浮かせると途端にぐるりと世界が回り、男は慌てて床に手を着いた。昨夜の酒も残っているし、夜通し泣き明かした頭は朦朧として。まして心は千々に乱れ縺れて、足取りも覚束無い。こんな有様ではどうにもならないと、仕方なく親しく使っている雑色に例の包みを届けさせた。ところが、
「…お嬢様…おられますか。お兄上様の使いで参りました…お嬢様、」
「…お兄様は…?」
壁の穴越しに雑色が声をかけると、穴の辺りに待っていたらしい令嬢のか細いが返ってきた。
「お兄上様はご気分が悪くて来られません。ですので、代わりに私が…。お兄上様は曹司でお体を休めていらっしゃいますから、それまでこれを召し上がっていてくださいまし…。」
「……。」
壁の向こうで小さく息を飲む声がする。雑色が包みから取り出した食べ物を壁の穴へ寄せると、「いらない…下げなさい。」と令嬢はそれを退けた。「しかし、せっかくお兄上様が…」と眉を下げて勧めても、令嬢は頑として受け取らず…ぽつり、と。
『せめてあの人にひと目だけでも…って、それだけなのに。それだけを頼りに…消え入りそうなこの身を惜しんで、零れ落ちそうな魂を押し留めているっていうのに…。』
力のない、寂しい声を聞けば、雑色はもう何も言えず。曹司に戻って「これこれこういう次第で…」と伝えると、男は令嬢の唯ならぬ様子に顔色を変え、覚束無い足で人目を避けながら蔵の例の穴辺りに辿り着いた。
「…聞こえるかい。私だよ。」
「………、」
かすかに『おにいさま』と聞こえた気がするが、それは殆ど吐息のような音で。令嬢はもう三日も四日もまともに食事を摂っていない上に、思い悩み泣き明かして、心身ともにすっかり衰弱していたのである。
「…どうしたんだ、君…!しっかりしなさい」
「……さま…おにいさま…、」
涙が滲む吐息が、気力を振り絞るように呼びかける。
『…わたしがこの世から消え失せて…この身は灰になり果てても…魂なら…夢の中でなら…ふたりきりよ、おにいさま……』
男の頬にほろほろと涙が伝う。行ってしまう、遠くへ。手の届かないところへ。
『魂なんて幽かなもの、触れることも…抱き締めてやることもできないじゃないか。そんなものになってどうしようと言うんだ…!』
男は壁の穴へ向かって必死に言い募り、涙を流して引き留めるが、令嬢は何も答えず…ただ疲れきった吐息が小さく聞こえるのみである。
「おい、君…おい!返事をしてくれ!死んでは駄目だ!!」
「篁様、誰か来ます…隠れて…!」
雑色に促されて物陰に隠れると、ちょうどそこへ男の泣き叫ぶ声を聞きつけて父君が駆けてきた。いったい何の騒ぎかと困惑する父君へ「お嬢様のご様子が…!」と雑色が伝えると、父君は慌てて鍵を壊して蔵を開け放った。
「……た、大変だ…たれか…誰か…!!」
蔵の中、倒れ伏し今にも息絶えんとする娘を見つけた父君は、真っ青な顔で蔵から転がり出て母屋へ駆け込んでいく。父君がいなくなった頃を見計らって、物陰から出てきた男は雑色を連れて蔵に駆け込んだが。
「………ッ…!」
よろよろと令嬢の傍に座り込み、その手を取ればまだ温かいのに。呼べど揺すれど力なく窶れたかんばせが揺れるばかりで、唇に触れた指に吐息は触れない。令嬢は例の穴の傍に横たわり、すでに息を引き取っていたのである。男の目にとめどなく涙が溢れ、嗚咽が喉を震わせたが、零れ落ちた魂は戻らない。心から愛したその人は、中空に棚引く煙のように消えてしまった。
その日の晩のこと。灯明をほのかに灯し、家人に隠れて男は静かに泣いていた。すると背後で、ざわりと衣擦れの音がする。誰かが様子を見に来たのかと、床に臥したまま灯明を吹き消して息を殺していると…真っ暗な闇の中、男の背を抱くように寄り添う気配がする。
おにいさま…。
男の耳に、愛おしい声が囁いた。
「…っ…きみ…!」
《…生きてるうちに、こんな風に一緒にいられたら良かったのにね…。》
ねぇ、覚えてる?お兄様が初めて私に想いを告げたときのこと…。まるで生きている頃と変わらぬ様子で令嬢が問いかける。悲しげに語る声は確かに亡き令嬢の物であったが、恐ろしさなど微塵もなかった。
「あぁ、覚えているよ…」
あのとき、もっと素直になっていたら…もっと上手くやっていれば…。過ぎ去った思い出を語り合えば後悔は尽きないが、それでも在りし日の記憶は甘く美しい。
あの子がいる、今ここに…。胸に込み上げる愛しさのまま、男はほろほろと涙を零しながら令嬢がいるあたりを探ってみたが。確かに令嬢の存在は感じるのに、手を握るどころか触れることさえなく。虚しく空を切る手に、男は唇を噛み締めた。
「…っ…!」
懐に抱き寄せて、今度こそこの身などどうなっても構わない。ただの男と女として、心ゆくまで抱いてやりたいと心から思うのに…。
『私たちは泣き流す涙の上にいたけれど、それは涙川なんかじゃない。妹背の川だ、私たちは確かに想いあっていたじゃないか。それなのに君は……触れ合うことさえ出来ずに独りで行ってしまうっていうのか…私だけ残して…!』
両腕をかき抱いて嗚咽を漏らす男に、令嬢は悲しげな声で、
『私は淵瀬に寄る泡のようなもの…夜にしかこうして逢えないの。あぁ、せっかく誰にも邪魔されない逢瀬だっていうのに…もう…消えてしまう……』
空が白み始めると、令嬢の存在はまるで薄明かりに溶けるように消えてしまった。
さて夜が明けると、自分たちの行いを悔いてか、世間の謗りを恐れてか。両親は使用人を連れて夜逃げのように居なくなっていた。しかし蔵に寝かされたままの亡骸を捨ておくわけにいかない。令嬢の亡骸は兄によって荼毘に付され、弔いまで全てこの兄が執り行った。あれほど慈しんで育てられた娘だというのに、兄より他に見送る人もない寂しい最期だった。
「…ありがとう。お陰で何とかなったよ。お前たちも、もう休んでくれ。」
男の他に従者が三、四人と大学の友人一人。令嬢が亡くなった蔵をようやく片付け、掃き清めた。何しろ両親は何もかも捨てて逃げてしまったから、後の始末もなかなか骨が折れるものであった。
「……。」
花を供え香を燻らせて、部屋の隅に灯明を灯してただ独り。薄暮のような暗がりに座り待っていると、
《……お兄様…、》
「…よく来たね、さぁ…もっと近くへ。」
昨夜と同じく衣擦れの音と共に令嬢の霊が現れた。その日から毎晩、夜な夜な薄明かりの中に令嬢は現れてふたりは穏やかな逢瀬を過ごしたが。三日、七日と…魂が三途の川辺へ至るという頃まではまるで生きている頃のように鮮やかな姿で現れたが、あの世の裁きが定まるという四十九日が過ぎる頃にはその存在は随分朧気で。
(もう…この世に引き留めておけないのかもしれない…とうとう手放すときが来たか…。)
別れの辛さに男の涙は尽きないが、それでもあの子のために思い切らなければ…と。男は流した涙を集めて墨を刷り、法華経八巻を書き上げて比叡の三昧堂にて初七日の法要を執り行った。四十九日もとうに過ぎていたが、男の中でようやく区切りがついたのだろう。
しかし初七日の法要を行って後も令嬢は男の傍を離れられないのか、夜ごとに彼女の存在を感じることが度々あった。それが尚のこと男には哀しく愛おしく感じられて。最初の頃のように薄明かりの下で待ちながら、令嬢の気の済むようにさせていた。三年も経つ頃には夢の中にさえはっきりと見えなくなっていたが、その間は他の女へ言い寄ることもなくたった独り。男は令嬢の面影と共に過ごしていたのである。
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典拠
岩波書店・刊「日本古典文学体系77 篁・平中・濱松中納言物語」
