篁物語 前編1/2
公開 2023/10/15 09:12
最終更新
2023/10/15 09:50
※これは古典文学「篁物語」を個人的に意訳したものです。典拠は1番下に記載しています。
*****
とある屋敷に、親に大切に育てられている令嬢がいた。両親はとても教育熱心な人で、娘には女が身に付けるべき教養の全てを教えこんだが、その上「今度は漢籍を学ばせよう」と考えた。
「全く面識のない男が師匠では娘も勉強しづらかろう。漢籍の師匠には仲が良かった人を付けてやろう。」という父君の意向で、大学に在籍している娘の異母兄に師匠を依頼したのだそうな。しかし小さい頃はいざ知らず。腹違いということもあり、長じてからはずっと疎遠になっていたので「そんな人覚えてないわ、嫌よ」と娘は難色を示したが「全くの他人よりは…」とのことで、簾越しに几帳を隔てて授業を受けることとなった。
この大学生の男は、漢籍を読み上げる令嬢の声を聞くにつけ、また令嬢の教養の高さを見るにつけ心惹かれていったのだろう。授業を重ねるごとに親しく、几帳を取り払い簾越しに時折雑談などもするになった…ある日のこと。
(…あら?)
男から渡された漢籍の読み下し方を記した点図を手に取ると、そこには角筆で押し書いた歌が一首書かれていた。
『川面に映る山陰も褪せるほど、川の水など干上がってしまえばいいのに…妹山、背山を隔てる川を越えてあなたとひとつになりたいのです。』
物越しではなく、ふたりの間に横たわる『兄妹』というしがらみも越えて、あなたを妻にしたい。というのである。
(まさか…私をそんなふうに見ていたなんて)
思いもよらない男からの求婚に令嬢も身構えたが、しかし簾越しにも感じる男の熱い視線に(あまりすげなく断るのも…)と思案して、
『妹背の山の影さえ映らず、まして吉野川を越えようなんて気も起きないほど、水も濁ってしまえばいいのに。』
私を妻にだなんて…無茶なことを仰らないで。私には、あなたと夫婦になる未来なんて見えませんわ。と歌を返した。するとまた男も、
『川に水が流れるかぎり、濁るのはひと時のこと…いつかへ澄んだ瀬に変わると信じて私の元においでなさい。』
たとえ今は無理だとしても、いつか必ず共に住む日もあるでしょう。どうか私の手をとってほしいと返してくる。この返答に少しカチンときた令嬢は、
『淵瀬の深さもご存知ないのに、どうして私が川を渡る気でいるなんてあなたが仰るの?』
私の気持ちなんかご存知ないのに、勝手に決めつけないで。と突き返すと、男は一瞬驚いたような顔をして恥じ入るように目を伏せた。
『この身は淵となるか瀬となるかもわかりませんが…あなたを妻に迎えたいと…ただそれだけなのです。』
「……。」
御無礼を。顔を上げた男の目にはもう先ほどの熱はなく、いつもの師匠の顔をしていた。そんなやり取りがあってのちも、お互い憎からず思う仲でもあったので令嬢も男に心を許したのだった。
師走の半ば頃、銀色の月が煌々と照る晩のことである。男と令嬢が庭に出て立ち話していると、表を歩く人が二人の声を聞き咎めて「いったいどなたかねぇ、無粋なことだ。菊月ならぬ師走の月見とはね…」と腐してきた。楽しいひと時に水を差されて、男もムッとしたことだろう。
『春を待つ冬の終わりの月と思えば、無粋な師走の月さえ儚く美しいものですよ。』
と歌を返したが、
「ほほう…春待つ冬の月、と。なるほど、『幾年を経ても諦められない恋をしている月ですからね。秘密の恋をしている人を憐れと思って見下ろしていることでしょうねぇ』」
「……っ…、」
しかし無粋な月だ、こんなに明るけりゃ逢瀬もままならないだろうに…。ケラケラと笑う声が垣根の向こうへ遠ざかるまで、男も令嬢も黙り込んでいた。見上げれば、もう月も随分高い。
「……曹司に戻ります。こんな時間だもの、おかしな目で見られるわ」
「……。」
恥ずかしげな声を残して、令嬢はそそくさ部屋に戻った。しかし男はすぐに部屋に戻るでもなく、冬の夜風に熱い頬を冷ましながら歌を口ずさんで暫く庭を歩くのだった。
さて翌朝。
「おかしいな、篁はどうしたんだ?」
いつまで経っても漢籍を読み上げる声が聞こえない。訝しんだ父君が篁を呼びにやると、授業のことをすっかり失念していたらしい。漢籍の類をかき集めて、慌てた様子で曹司にやってきた。
「今日は随分ごゆっくりでしたね。」と揶揄うように笑う令嬢に、バツの悪い顔で詫びつつ授業を始めたのだが。昨夜のこともあり、どうにも令嬢のことばかり気になって身が入らない。
「……。」
ちらりと目を上げた男は思いついて、例の点図に角筆で何か書き付けて令嬢に差し出した。
「失礼。このように、最初に渡した点図は間違えていました。おかしいな、どうもこの頃は集中力がなくていけません。」
授業の体をとりつつ渡された点図には、
『今日の授業も忘れるなんて、本当にどうしてしまったのでしょう。君を想わない日はないのに…いや、逆だな。君のことばかり考えているからこんな風に覚束無くなるんだ。』
と書かれていた。令嬢は胸のむず痒さを飲み込んで、敢えて呆れるような素振りで
『博士なんてお方もアテにならないものですね。私は師匠とお頼み申し上げていますのに、あれもこれも忘れました、覚束無い、だなんて。』
そのうち私のこともお忘れになって、別の人に熱を上げるのでしょう。アテにならないお方ですこと…。と書いて歌を返した。受けとった男は眉を寄せて、また角筆で
『色々な本を勉強しましたが、内容を忘れることはあっても、あなたを想う気持ちは忘れるどころか足りることがありませんよ。』
と書いて返した。このように男は授業の度に点図を作り替えるフリをして歌を贈ったのだった。
そんなある日のこと。令嬢が願掛けに行きたいと言い、如月の初午の日に伏見稲荷に参詣した。お供の人はさほど大勢ではなく、令嬢付きの女房ふたり、女童ふたりほどである。女房たちは思い思いの袿、女童は同じ色の着物を着ていた。令嬢はと言うと、練り絹の単衣重ねに舶来の透けるような桜色の細長着を着て、草木染めの絹で織った細長を着て。艶やかに長い黒髪は綺麗に撫で付けられて清々しく、顔立ちも世に比べるもののない美しさである。
令嬢の一行と少し離れたところに、男童を三四人ばかり連れた男が歩いている。よその人が見れば「あぁ、あのご令嬢のご兄妹か」とすぐにわかるように、少し離れた位置から付き添っていたのだが。
「……もう無理…休ませて…。」
先ほどから足取りが重くなっていた令嬢は、とうとう荒い息で参道の脇に座り込んだ。普段はこんな風に歩くことも稀な令嬢であるから、すっかり疲れてしまったようだった。令嬢の様子にこの兄もすぐ駆け寄り、
「大丈夫かい、さぁ、私の肩にもたれて…」
令嬢の肩に手を回すも、「ちょ、いい、いいから…」と令嬢は慌てて身を引いた。無理をしない方がいい。と男は言うが、人に見られたらおかしな目で見られるわ…と恥ずかしげに言われてしまえば何も言えず。
「少し休めば大丈夫よ…心配なさらないで…。」
「…わかった。では、少し休んでから行きましょう。」
男も令嬢の傍に腰を下ろした。
同じ頃、伏見稲荷に参詣している男がいた。歳の頃は二十歳ほどの見目の良い男で、兵衛佐…衛府の次官である。その兵衛佐の一行が参詣の帰り道、ちょうど令嬢が座り込んでいるところに向かってくる。
「…最悪だ…。こうしてはいられません、もう行きましょう。」
令嬢を見ず知らずの男の目に触れさせては…。男は忌々しげに呟いて、令嬢を促した。
「いま簡単な乗り物を用意しますから、もう少し身を隠せる場所で休みましょう。この辺りの木さきを屏風にしてして…ふふ…后を屏風の前に座らせるなら、隣には大君を据えねばいけないね。」
「…雛人形みたい」
「そうだね。では、帝にはどなたが宜しいかな…」
大慌てで参道の脇の茂みに移動している間にも日が暮れてきた。「仕方ない…弁当を食べさせる間に、あの一行をやり過ごそう」と男は考えていたのだが。どういう訳か兵衛佐は、令嬢の一行が休んでいるすぐ近くで馬を止めた。そしてそのまま休憩するような様子で馬から降り、素知らぬ顔で
『美しい人…あなたがひとの心を見透かす女神であるならば、私の想いなどもうお見通しでしょう。』
と詠んだ。参道に座る女を神に準えて『私がここにこうして馬を降りた…その意味がおわかりでしょう。』と粉をかけてきたのである。令嬢は警戒心を隠さず、
『……社にも祀られぬ路傍の石神には、見ず知らずの人の心など見透かす力はありません。』
とピシャリと言い返した。参道に座り込む自分を路傍の石神に準えて「あなたの想いなんか知りません。」とすげなく断ったのである。兵衛佐はまた歌を返してきたが、「…もう暗くなります。さ、帰りましょう。」と兄が令嬢を急かして車に乗せ、逃げるように去って行ってしまった。しかし兵衛佐もただ見送るだけの男ではない。供の者に令嬢の乗った車を尾行させ、戻ってきた供の者に「令嬢の車はどこの屋敷に入った。」と問うと、「これこれの通りの御屋敷に」と。兵衛佐は満足げに頷いて馬を進めたのだった。
参詣の翌朝、令嬢の元に文が届けられた。心当たりがない令嬢がいぶかりながら文を開くと、
「『神様が私にあなたの居所を教えてくださいましたので、こうして文を差し上げます。昨日の石神のあたりに今日もおいでになりましたら』…昨日の方ね。」
『また会いたい、昨日お会いした場所へ来て欲しい』という訳である。令嬢がどう返事したものかと思案している頃。お嬢様に見知らぬ童がお文を持って…と家人が騒いでいるのを聞きつけた兄が、眦を釣り上げてすっくと立ち上がると足音も荒く表へ走り出ていった。
「あの小僧か…」
表で返事を待っていた童を見つけるや、「父上もお聞きになっているのに、一体これはなんの騒ぎだ。この童はどこから来た、いったいどこの好き者の使いだ!?」と兄は童に詰め寄った。するとそのあまりの剣幕に、童は目を白黒させて返事も受け取らずに逃げ出したのだった。
「御文を届けましたが、昨日おいでになったご令嬢に『どなたからの使いか?』と尋ねられている間に奥から『なにを騒いでいるのか』と大人の声が聞こえたものですから……厄介なことになったと返事を待たずに戻ってきました。」
空手で戻った童は、兵衛佐殿にそう言い訳して頭を下げた。
「まったく…役に立たん古狐め。」
仕方なく、兵衛佐殿は翌日また文をしたため、もう一度童を使いに出した。ちょうど兄が大学に出ている頃であるが、念の為、童は樋洗童に取り次ぎを頼んで令嬢に文を届けた。兵衛佐殿の手紙には、
「昨日お渡しした文へは、なんとお返事なさったのでしょうか。持っていかせた童め、手ぶら帰ってきまたので…『あそこにいた浜千鳥はどこへ行ってしまったのでしょう…足跡さえ波にさらわれて、行方もわからずざわざわと胸が騒ぐばかりです』…」
…ふぅん。令嬢は文を畳むとさっそく返事を書き、「直接うちに届けに来ると大学に行っている兄に見つかるかもしれないから。近くの、どなたかの家に使いの者を置いて取り次がせて」と言付けて兵衛佐殿へ文を届けさせた。
「昨日も文は拝見しましたが…そうねぇ…。『たまたま道ですれ違っただけの方ですから、それっきりになるのも当然ではありませんか?』」
令嬢からの文は、なんともつれない。兵衛佐殿は(まったくふざけた人だ。返事を待たされた上に、このますます冷たく腹立たしい言い草…どう返事をしたものか)と眉根を寄せた。兵衛佐殿は時の大納言殿のご子息である。靡くことはあっても、こんな風に取り付く島もない女は初めてだったろう。
「すれ違ってそれきりになるかどうか、そんなこと誰にもわかりませんよ。現にあなたはあの道に座っていたではありませんか。『たまたますれ違った人と、後日また同じ道で合う…そんなこともしばしばあるではありませんか。』」
そうしたためて、例の童の持たせて令嬢のところへ届けるよう言いつけたが。なんとも間の悪いことに、令嬢の屋敷に向かう途中で例の兄と出くわしてしまった。
「あ、」
「お前は……ほう、また性懲りも無く文を届けに来たか。……よし、ではこれを持っていけ。」
険しい顔で童から文を取った兄は、その場でさっさと文を書き付けて童を主人へとやらせた。「こちらです」と戻ってきた童から文を受け取った兵衛佐殿は文に目を通すときっと眦を吊り上げて、
「昨日といい、今日といい、まったくお前は考えなしの童だな!文はまずあのつれない人に渡すものだろうに。この返事を寄越したのは、あの稲荷社で恐ろしい目でこちらを睨んでいた男からだろうが!そもそも男から恋文の返事が来るとはどういうことだ!?」
と叱りつけて、もう一度文を届けさせた。気は進まないが仕方ない。童はもう一度、令嬢のところへ向かったが。どうせまた来るだろうと踏んでか、先ほど行きあった辺りで兄が待ち構えていた。それはもう憎々しげな顔で仁王立ちする兄は、
「お前が持ってきた文の相手は…私の妹は昨夜、男に盗み出されて今探しているところなんだ。もしかしたらこの文を送ってきた男が盗んだのかもしれない…今すぐその男のところへ連れて行け!」
「っえぇ!?…や…えっと…ごめんなさい!」
語気を荒らげて詰め寄られた童は、踵を返して何ごとか言い訳しながら走り去っていった。またまた手ぶらで駆け込んできた童から顛末を聞いた兵衛佐殿は、「そんなことだろうと思ったわ…」と呆れ果てて、それきり文を返すこともしなかった。
「………。」
逃げ帰る童を忌々しげに見送った兄は、これでもう来ないだろうと言う安堵とともに、胸の裡には苦い思いが込み上げていた。
(そうか…あの男と文を…。)
いずれそのようなこともあるだろうとわかってはいても、自分には可能性がないとしても、想いを懸ける女が誰かの妻に…という現実は受け入れ難いものがある。男は険しい顔のまま屋敷へ入った。
兄の謀も知らず「おかしいわね…返事を持ってこないなんて」と令嬢が待っていると、そこへ兄がいつものように現れた。ところがどうも様子が違う。どうかなさったの?令嬢が声をかけると、兄はむっすりと不機嫌な顔で、
「行きずりの、見ず知らずの人と文を交わして恋に落ちる…なんてこともあるのでしょうね。君が望むなら、いずれあの人の妻になれるよう取り計らおう。そうだ、私が仲人になろうかな。どうせ私は君との結婚など許されない立場だ…。」
などと当てこすりを言う。これには令嬢も黙っていられない。
「…ちょっと待って、どうしてあの方とのやり取りをご存知なの?どうやって知ったのかわからないけれど、私はあの方をどうこうなんて想っていないわよ。」
「男女の機微も知らない子供が、わかったように言うものじゃないよ。…現に君は私に隠れてやり取りをしていたじゃないか。私の想いを知っているから、心苦しいとでも思ったのかい?驚いたな…」
さっと令嬢の頬に朱が差した。
「……っ…どうして、ろく会ったこともない人と…そばにいるわけでもない人と無理にくっつけようとするするのよ…!」
絞り出すような声は涙ににじんで。令嬢は顔も上げず、奥の塗籠へ駆け込んでしまった。
「…っ………私は何をしているんだ…。」
奥から小さくすすり泣く声がする。嫉妬心を抑えきれず、みっともなく詰って泣かせてしまった。かける言葉を探して視線をさ迷わせていると、ふと足元に投げ出されたままの漢籍が目に入った。
「……。」
…あぁ、そうだった。今日も授業をしに来たのに…なんて有様だろう。父上はあの子を「内侍にしよう」と漢籍を学ばせる為に私を呼んだというのに…。
「…父上は君を内侍にと考えて勉強をさせているんだよ。その深い親心もわからぬままに恋にうつつを抜かすのは、あまりに親不孝だ。……」
『たとえ叶わぬ想いだとしても、すぐ目の前で、他の誰かを想う君を見るのは辛いよ…。』
せめて授業の間だけは、私だけを見ていて欲しい。扉の隙間から歌を書いて差し入れると、すすり泣きの合間から「わからないのはお兄様の心よ!」と投げ返された。
「お兄様が何を考えているのかわからないわ…『あの人の妻になれだの、内侍になれだの……私には、あなただけなのに』……どうしろって言うのよ…。」
「……っ…!」
合間に差し出された思わぬ吐露に、男は胸にぱっと火が灯ったような心地であった。今すぐあの子を抱き締めたい。逸る気持ちを押さえつけて、男はもう一度隙間から歌を差し入れた。
『…それほどまでに私を想ってくれていたなんて…泣かないでおくれ。そんなふうに泣かれたら、もう…止まれないよ。』
「………。」
木擦れの音も静かに扉が開く。濡れた目元をそっと袖で拭っても、令嬢は何も言わず男を見つめ返す。沈黙が答えだった。
こうして二人は心を通じ合わせたが、親には言えず、まして世間が許すはずもない恋である。想い合う仲になっても、しばらくは恋人らしいことも出来ずにいつも通りの日常を過ごしていた。
そんなある夜のこと。男はどうにかこうにか令嬢の寝所に忍び込むことに成功した。ほんの少しの物音にさえ耳をそば立て、息を殺すような逢瀬ではあったけれども。それでも身も心もひとつに、ふたりはとうとう想いを遂げた。男は夜も明けきらぬうちに足音を忍ばせて抜け出したが、天にも昇る心地だったろう。しかしそれ以来、何度か令嬢の寝所を訪ったがなかなか褥を共にすることが出来なかった。毎日顔を合わせているけれど、夜も同じようにとはいかない。授業をしていても思い浮かぶのはあの夢のような一夜のことばかりで。「…いったいどうしたらいいんだ」と悩みに悩み、
『あれ以来、君と褥を共にしていないせいかな。逢瀬の夢を見ては、醒めてなお君の寝姿が頭を離れなくて…飽きもせず悶々と過ごしているんだよ。』
と歌を詠むと、顔色が優れない令嬢は唇を引き結んで、
『私なんか眠れなくて、夢でさえ会えないっていうのに…。お兄様と逢えない辛さに泣いて泣いて泣き濡れて、とうとう夜を明かしてしまったのよ。』
と歌を返した。あろうことか夢のように触れられないその人は、既にこのとき身篭っていたのである。孕み始めの体調では、とても漢書の勉強など頭に入らない心地だったろう。
使用人たちなどは「…お嬢様はどうも月のものが来ていないようだ」と懐妊の兆しを感じ取って密かに囁きあっていたが…知らぬは身内ばかり。令嬢は食欲もなく、甘いものや橘ばかり欲しがる。何も知らない兄は気の毒がり、春は季節の変わり目だからかと親も娘が欲しがるものを食べさせていた。
そんな折のこと。兄は大学の集まりに呼ばれた。宴席にはとりどり料理や肴が並んでいる。「あの子にこれを全部食わせてやりたいが…」と思うが、なかなかそうもいかないので橘の実を二つ三つ懐紙に入れて持ち帰った。
宴が終われば、もうすでに夜も遅い時間である。男は足音を忍ばせて令嬢のもとを訪い、
『いたずらに散ってしまう橘の花の香よりも、君にはこちらの方がいいだろうから』
と詠み、懐から懐紙を取り出して「さぁ、これを食べて」と令嬢に差し出した。
「まぁ、橘…懐に入れて帰ってこられたのね。」言うや令嬢は、さっと男の方へ凭れるように倒れ込んだ。あ、と慌てて抱き寄せた男の、緑の直衣の懐に頬を寄せて大きく息を吸い込んで。
「……っ…大丈夫か…、」
「……ふふふ…残念。『あなたと橘と、ちょっと似てると思ったんだけど。あなた、全然橘の香りがしないわ。移り香さえも。』……あなたの匂いがする…。」
「……脅かさないでくれよ…。」
甘えた笑みを漏らす令嬢の背を、男の手が優しく撫でる。それは束の間の逢瀬であったが…間が悪いとはこのこと。娘の様子に、もしや…と思い当たることがあったのだろうか。部屋の傍でじっと娘の様子をうかがっていた母君が、このやり取りを聞いていたのである。
「…あなた達、やっぱり…!」
音を立てて塗籠の扉が開くや、青ざめた顔の母君が立っていた。
「……お、お母様、痛い…っ!」
「…母上…!」
「………っ!」
睦み合う兄と妹の姿を目の当たりにした母君は何も言わず、驚愕に見開く令嬢の手をぐっと掴むと、そのまま男の申し開きも聞かず、令嬢の悲痛な声も無視して。令嬢の手を引っ張って土蔵へ連れて行き、そこへ閉じ込めてしまった。
「母上、なんてことをなさるんですか!?やめてください、あの子は…」
「お黙りなさい!」
「おいおい、いったい何の騒ぎだ…」
この騒ぎに父君も顔を出したが、元々が穏やかな人である。事の成り行きを聞いても、「まぁ、落ち着きなさい。篁も賢い男だし、娘だってまるっきり子供じゃないんだ。部屋にいたのだって、何か特別な理由があるのだろうさ。ひとまずここから出してやって、それから訳を聞いておやり。」と言う。しかし分別がある歳であれば尚更である。篁と令嬢は腹違いとはいえ兄妹なのだ。もし二人の仲が露見すれば、世間からどんな誹りを受けるか…そうなれば夫の立場だって危ういというのに。
「何を呑気なこと仰ってるの!あなたの身を案じればこそ言っているのに」
母君は頑として許さず、とうとう土蔵の鍵穴に土まで塗って開かないようにしてしまった。更には追い掛けてきた男を睨んで「このひとをここへ近付けさせないでちょうだい」と言い、父君の諫めも聞き入れず。篁は蔵の前から追い払われてしまった。
「……っ…、」
さて追い払われた男はしばらく曹司に籠ってさめざめ泣いていたが、令嬢の辛さを思えばただ嘆いてはいられない。庭に出て土蔵に近づくと、壁に小さな穴が開いているのを見つけた。その穴をくじって広げ、声を潜めて「…聞こえるかい?こっちだ、こっちへおいで…」と呼びかける。すると衣擦れの音がして、小さく令嬢の声が応える。
「…お兄様…?」
「…うん」
そうして小さな穴越しにぽつりぽつりと話しながら二人で静かに泣いていた。「どうにかここから出してやりたい」と思うものの、男はまだとても若く、親の他に頼れる人もいない。どれほど嘆いても、どうすることもできない。己の無力を痛感しながら兎に角令嬢の心を慰めたいと、壁越しに話すうちに次第に空が明るくなり始めた。
『…私に力があったなら、こんなことにはならなかったものを…返す返すもこの世で一番惨めなものは、数ならぬ身の無力だ…。』
白みはじめた山の端を見上げ、男の頬に涙が伝う。応える令嬢もまた、
『ほんのひとときの、おままごとみたいな戯れがこんなことになるなんて…お父様にもお母様にも見放されたら…わたしどうなってしまうの…。』
と心細げに喉を震わせた。どうにもならない現実を前に、ふたりはただただ泣くことしか出来なかった。
(前編2/2に続く)
*****
典拠
岩波書店・刊「日本古典文学体系77 篁・平中・濱松中納言物語」
*****
とある屋敷に、親に大切に育てられている令嬢がいた。両親はとても教育熱心な人で、娘には女が身に付けるべき教養の全てを教えこんだが、その上「今度は漢籍を学ばせよう」と考えた。
「全く面識のない男が師匠では娘も勉強しづらかろう。漢籍の師匠には仲が良かった人を付けてやろう。」という父君の意向で、大学に在籍している娘の異母兄に師匠を依頼したのだそうな。しかし小さい頃はいざ知らず。腹違いということもあり、長じてからはずっと疎遠になっていたので「そんな人覚えてないわ、嫌よ」と娘は難色を示したが「全くの他人よりは…」とのことで、簾越しに几帳を隔てて授業を受けることとなった。
この大学生の男は、漢籍を読み上げる令嬢の声を聞くにつけ、また令嬢の教養の高さを見るにつけ心惹かれていったのだろう。授業を重ねるごとに親しく、几帳を取り払い簾越しに時折雑談などもするになった…ある日のこと。
(…あら?)
男から渡された漢籍の読み下し方を記した点図を手に取ると、そこには角筆で押し書いた歌が一首書かれていた。
『川面に映る山陰も褪せるほど、川の水など干上がってしまえばいいのに…妹山、背山を隔てる川を越えてあなたとひとつになりたいのです。』
物越しではなく、ふたりの間に横たわる『兄妹』というしがらみも越えて、あなたを妻にしたい。というのである。
(まさか…私をそんなふうに見ていたなんて)
思いもよらない男からの求婚に令嬢も身構えたが、しかし簾越しにも感じる男の熱い視線に(あまりすげなく断るのも…)と思案して、
『妹背の山の影さえ映らず、まして吉野川を越えようなんて気も起きないほど、水も濁ってしまえばいいのに。』
私を妻にだなんて…無茶なことを仰らないで。私には、あなたと夫婦になる未来なんて見えませんわ。と歌を返した。するとまた男も、
『川に水が流れるかぎり、濁るのはひと時のこと…いつかへ澄んだ瀬に変わると信じて私の元においでなさい。』
たとえ今は無理だとしても、いつか必ず共に住む日もあるでしょう。どうか私の手をとってほしいと返してくる。この返答に少しカチンときた令嬢は、
『淵瀬の深さもご存知ないのに、どうして私が川を渡る気でいるなんてあなたが仰るの?』
私の気持ちなんかご存知ないのに、勝手に決めつけないで。と突き返すと、男は一瞬驚いたような顔をして恥じ入るように目を伏せた。
『この身は淵となるか瀬となるかもわかりませんが…あなたを妻に迎えたいと…ただそれだけなのです。』
「……。」
御無礼を。顔を上げた男の目にはもう先ほどの熱はなく、いつもの師匠の顔をしていた。そんなやり取りがあってのちも、お互い憎からず思う仲でもあったので令嬢も男に心を許したのだった。
師走の半ば頃、銀色の月が煌々と照る晩のことである。男と令嬢が庭に出て立ち話していると、表を歩く人が二人の声を聞き咎めて「いったいどなたかねぇ、無粋なことだ。菊月ならぬ師走の月見とはね…」と腐してきた。楽しいひと時に水を差されて、男もムッとしたことだろう。
『春を待つ冬の終わりの月と思えば、無粋な師走の月さえ儚く美しいものですよ。』
と歌を返したが、
「ほほう…春待つ冬の月、と。なるほど、『幾年を経ても諦められない恋をしている月ですからね。秘密の恋をしている人を憐れと思って見下ろしていることでしょうねぇ』」
「……っ…、」
しかし無粋な月だ、こんなに明るけりゃ逢瀬もままならないだろうに…。ケラケラと笑う声が垣根の向こうへ遠ざかるまで、男も令嬢も黙り込んでいた。見上げれば、もう月も随分高い。
「……曹司に戻ります。こんな時間だもの、おかしな目で見られるわ」
「……。」
恥ずかしげな声を残して、令嬢はそそくさ部屋に戻った。しかし男はすぐに部屋に戻るでもなく、冬の夜風に熱い頬を冷ましながら歌を口ずさんで暫く庭を歩くのだった。
さて翌朝。
「おかしいな、篁はどうしたんだ?」
いつまで経っても漢籍を読み上げる声が聞こえない。訝しんだ父君が篁を呼びにやると、授業のことをすっかり失念していたらしい。漢籍の類をかき集めて、慌てた様子で曹司にやってきた。
「今日は随分ごゆっくりでしたね。」と揶揄うように笑う令嬢に、バツの悪い顔で詫びつつ授業を始めたのだが。昨夜のこともあり、どうにも令嬢のことばかり気になって身が入らない。
「……。」
ちらりと目を上げた男は思いついて、例の点図に角筆で何か書き付けて令嬢に差し出した。
「失礼。このように、最初に渡した点図は間違えていました。おかしいな、どうもこの頃は集中力がなくていけません。」
授業の体をとりつつ渡された点図には、
『今日の授業も忘れるなんて、本当にどうしてしまったのでしょう。君を想わない日はないのに…いや、逆だな。君のことばかり考えているからこんな風に覚束無くなるんだ。』
と書かれていた。令嬢は胸のむず痒さを飲み込んで、敢えて呆れるような素振りで
『博士なんてお方もアテにならないものですね。私は師匠とお頼み申し上げていますのに、あれもこれも忘れました、覚束無い、だなんて。』
そのうち私のこともお忘れになって、別の人に熱を上げるのでしょう。アテにならないお方ですこと…。と書いて歌を返した。受けとった男は眉を寄せて、また角筆で
『色々な本を勉強しましたが、内容を忘れることはあっても、あなたを想う気持ちは忘れるどころか足りることがありませんよ。』
と書いて返した。このように男は授業の度に点図を作り替えるフリをして歌を贈ったのだった。
そんなある日のこと。令嬢が願掛けに行きたいと言い、如月の初午の日に伏見稲荷に参詣した。お供の人はさほど大勢ではなく、令嬢付きの女房ふたり、女童ふたりほどである。女房たちは思い思いの袿、女童は同じ色の着物を着ていた。令嬢はと言うと、練り絹の単衣重ねに舶来の透けるような桜色の細長着を着て、草木染めの絹で織った細長を着て。艶やかに長い黒髪は綺麗に撫で付けられて清々しく、顔立ちも世に比べるもののない美しさである。
令嬢の一行と少し離れたところに、男童を三四人ばかり連れた男が歩いている。よその人が見れば「あぁ、あのご令嬢のご兄妹か」とすぐにわかるように、少し離れた位置から付き添っていたのだが。
「……もう無理…休ませて…。」
先ほどから足取りが重くなっていた令嬢は、とうとう荒い息で参道の脇に座り込んだ。普段はこんな風に歩くことも稀な令嬢であるから、すっかり疲れてしまったようだった。令嬢の様子にこの兄もすぐ駆け寄り、
「大丈夫かい、さぁ、私の肩にもたれて…」
令嬢の肩に手を回すも、「ちょ、いい、いいから…」と令嬢は慌てて身を引いた。無理をしない方がいい。と男は言うが、人に見られたらおかしな目で見られるわ…と恥ずかしげに言われてしまえば何も言えず。
「少し休めば大丈夫よ…心配なさらないで…。」
「…わかった。では、少し休んでから行きましょう。」
男も令嬢の傍に腰を下ろした。
同じ頃、伏見稲荷に参詣している男がいた。歳の頃は二十歳ほどの見目の良い男で、兵衛佐…衛府の次官である。その兵衛佐の一行が参詣の帰り道、ちょうど令嬢が座り込んでいるところに向かってくる。
「…最悪だ…。こうしてはいられません、もう行きましょう。」
令嬢を見ず知らずの男の目に触れさせては…。男は忌々しげに呟いて、令嬢を促した。
「いま簡単な乗り物を用意しますから、もう少し身を隠せる場所で休みましょう。この辺りの木さきを屏風にしてして…ふふ…后を屏風の前に座らせるなら、隣には大君を据えねばいけないね。」
「…雛人形みたい」
「そうだね。では、帝にはどなたが宜しいかな…」
大慌てで参道の脇の茂みに移動している間にも日が暮れてきた。「仕方ない…弁当を食べさせる間に、あの一行をやり過ごそう」と男は考えていたのだが。どういう訳か兵衛佐は、令嬢の一行が休んでいるすぐ近くで馬を止めた。そしてそのまま休憩するような様子で馬から降り、素知らぬ顔で
『美しい人…あなたがひとの心を見透かす女神であるならば、私の想いなどもうお見通しでしょう。』
と詠んだ。参道に座る女を神に準えて『私がここにこうして馬を降りた…その意味がおわかりでしょう。』と粉をかけてきたのである。令嬢は警戒心を隠さず、
『……社にも祀られぬ路傍の石神には、見ず知らずの人の心など見透かす力はありません。』
とピシャリと言い返した。参道に座り込む自分を路傍の石神に準えて「あなたの想いなんか知りません。」とすげなく断ったのである。兵衛佐はまた歌を返してきたが、「…もう暗くなります。さ、帰りましょう。」と兄が令嬢を急かして車に乗せ、逃げるように去って行ってしまった。しかし兵衛佐もただ見送るだけの男ではない。供の者に令嬢の乗った車を尾行させ、戻ってきた供の者に「令嬢の車はどこの屋敷に入った。」と問うと、「これこれの通りの御屋敷に」と。兵衛佐は満足げに頷いて馬を進めたのだった。
参詣の翌朝、令嬢の元に文が届けられた。心当たりがない令嬢がいぶかりながら文を開くと、
「『神様が私にあなたの居所を教えてくださいましたので、こうして文を差し上げます。昨日の石神のあたりに今日もおいでになりましたら』…昨日の方ね。」
『また会いたい、昨日お会いした場所へ来て欲しい』という訳である。令嬢がどう返事したものかと思案している頃。お嬢様に見知らぬ童がお文を持って…と家人が騒いでいるのを聞きつけた兄が、眦を釣り上げてすっくと立ち上がると足音も荒く表へ走り出ていった。
「あの小僧か…」
表で返事を待っていた童を見つけるや、「父上もお聞きになっているのに、一体これはなんの騒ぎだ。この童はどこから来た、いったいどこの好き者の使いだ!?」と兄は童に詰め寄った。するとそのあまりの剣幕に、童は目を白黒させて返事も受け取らずに逃げ出したのだった。
「御文を届けましたが、昨日おいでになったご令嬢に『どなたからの使いか?』と尋ねられている間に奥から『なにを騒いでいるのか』と大人の声が聞こえたものですから……厄介なことになったと返事を待たずに戻ってきました。」
空手で戻った童は、兵衛佐殿にそう言い訳して頭を下げた。
「まったく…役に立たん古狐め。」
仕方なく、兵衛佐殿は翌日また文をしたため、もう一度童を使いに出した。ちょうど兄が大学に出ている頃であるが、念の為、童は樋洗童に取り次ぎを頼んで令嬢に文を届けた。兵衛佐殿の手紙には、
「昨日お渡しした文へは、なんとお返事なさったのでしょうか。持っていかせた童め、手ぶら帰ってきまたので…『あそこにいた浜千鳥はどこへ行ってしまったのでしょう…足跡さえ波にさらわれて、行方もわからずざわざわと胸が騒ぐばかりです』…」
…ふぅん。令嬢は文を畳むとさっそく返事を書き、「直接うちに届けに来ると大学に行っている兄に見つかるかもしれないから。近くの、どなたかの家に使いの者を置いて取り次がせて」と言付けて兵衛佐殿へ文を届けさせた。
「昨日も文は拝見しましたが…そうねぇ…。『たまたま道ですれ違っただけの方ですから、それっきりになるのも当然ではありませんか?』」
令嬢からの文は、なんともつれない。兵衛佐殿は(まったくふざけた人だ。返事を待たされた上に、このますます冷たく腹立たしい言い草…どう返事をしたものか)と眉根を寄せた。兵衛佐殿は時の大納言殿のご子息である。靡くことはあっても、こんな風に取り付く島もない女は初めてだったろう。
「すれ違ってそれきりになるかどうか、そんなこと誰にもわかりませんよ。現にあなたはあの道に座っていたではありませんか。『たまたますれ違った人と、後日また同じ道で合う…そんなこともしばしばあるではありませんか。』」
そうしたためて、例の童の持たせて令嬢のところへ届けるよう言いつけたが。なんとも間の悪いことに、令嬢の屋敷に向かう途中で例の兄と出くわしてしまった。
「あ、」
「お前は……ほう、また性懲りも無く文を届けに来たか。……よし、ではこれを持っていけ。」
険しい顔で童から文を取った兄は、その場でさっさと文を書き付けて童を主人へとやらせた。「こちらです」と戻ってきた童から文を受け取った兵衛佐殿は文に目を通すときっと眦を吊り上げて、
「昨日といい、今日といい、まったくお前は考えなしの童だな!文はまずあのつれない人に渡すものだろうに。この返事を寄越したのは、あの稲荷社で恐ろしい目でこちらを睨んでいた男からだろうが!そもそも男から恋文の返事が来るとはどういうことだ!?」
と叱りつけて、もう一度文を届けさせた。気は進まないが仕方ない。童はもう一度、令嬢のところへ向かったが。どうせまた来るだろうと踏んでか、先ほど行きあった辺りで兄が待ち構えていた。それはもう憎々しげな顔で仁王立ちする兄は、
「お前が持ってきた文の相手は…私の妹は昨夜、男に盗み出されて今探しているところなんだ。もしかしたらこの文を送ってきた男が盗んだのかもしれない…今すぐその男のところへ連れて行け!」
「っえぇ!?…や…えっと…ごめんなさい!」
語気を荒らげて詰め寄られた童は、踵を返して何ごとか言い訳しながら走り去っていった。またまた手ぶらで駆け込んできた童から顛末を聞いた兵衛佐殿は、「そんなことだろうと思ったわ…」と呆れ果てて、それきり文を返すこともしなかった。
「………。」
逃げ帰る童を忌々しげに見送った兄は、これでもう来ないだろうと言う安堵とともに、胸の裡には苦い思いが込み上げていた。
(そうか…あの男と文を…。)
いずれそのようなこともあるだろうとわかってはいても、自分には可能性がないとしても、想いを懸ける女が誰かの妻に…という現実は受け入れ難いものがある。男は険しい顔のまま屋敷へ入った。
兄の謀も知らず「おかしいわね…返事を持ってこないなんて」と令嬢が待っていると、そこへ兄がいつものように現れた。ところがどうも様子が違う。どうかなさったの?令嬢が声をかけると、兄はむっすりと不機嫌な顔で、
「行きずりの、見ず知らずの人と文を交わして恋に落ちる…なんてこともあるのでしょうね。君が望むなら、いずれあの人の妻になれるよう取り計らおう。そうだ、私が仲人になろうかな。どうせ私は君との結婚など許されない立場だ…。」
などと当てこすりを言う。これには令嬢も黙っていられない。
「…ちょっと待って、どうしてあの方とのやり取りをご存知なの?どうやって知ったのかわからないけれど、私はあの方をどうこうなんて想っていないわよ。」
「男女の機微も知らない子供が、わかったように言うものじゃないよ。…現に君は私に隠れてやり取りをしていたじゃないか。私の想いを知っているから、心苦しいとでも思ったのかい?驚いたな…」
さっと令嬢の頬に朱が差した。
「……っ…どうして、ろく会ったこともない人と…そばにいるわけでもない人と無理にくっつけようとするするのよ…!」
絞り出すような声は涙ににじんで。令嬢は顔も上げず、奥の塗籠へ駆け込んでしまった。
「…っ………私は何をしているんだ…。」
奥から小さくすすり泣く声がする。嫉妬心を抑えきれず、みっともなく詰って泣かせてしまった。かける言葉を探して視線をさ迷わせていると、ふと足元に投げ出されたままの漢籍が目に入った。
「……。」
…あぁ、そうだった。今日も授業をしに来たのに…なんて有様だろう。父上はあの子を「内侍にしよう」と漢籍を学ばせる為に私を呼んだというのに…。
「…父上は君を内侍にと考えて勉強をさせているんだよ。その深い親心もわからぬままに恋にうつつを抜かすのは、あまりに親不孝だ。……」
『たとえ叶わぬ想いだとしても、すぐ目の前で、他の誰かを想う君を見るのは辛いよ…。』
せめて授業の間だけは、私だけを見ていて欲しい。扉の隙間から歌を書いて差し入れると、すすり泣きの合間から「わからないのはお兄様の心よ!」と投げ返された。
「お兄様が何を考えているのかわからないわ…『あの人の妻になれだの、内侍になれだの……私には、あなただけなのに』……どうしろって言うのよ…。」
「……っ…!」
合間に差し出された思わぬ吐露に、男は胸にぱっと火が灯ったような心地であった。今すぐあの子を抱き締めたい。逸る気持ちを押さえつけて、男はもう一度隙間から歌を差し入れた。
『…それほどまでに私を想ってくれていたなんて…泣かないでおくれ。そんなふうに泣かれたら、もう…止まれないよ。』
「………。」
木擦れの音も静かに扉が開く。濡れた目元をそっと袖で拭っても、令嬢は何も言わず男を見つめ返す。沈黙が答えだった。
こうして二人は心を通じ合わせたが、親には言えず、まして世間が許すはずもない恋である。想い合う仲になっても、しばらくは恋人らしいことも出来ずにいつも通りの日常を過ごしていた。
そんなある夜のこと。男はどうにかこうにか令嬢の寝所に忍び込むことに成功した。ほんの少しの物音にさえ耳をそば立て、息を殺すような逢瀬ではあったけれども。それでも身も心もひとつに、ふたりはとうとう想いを遂げた。男は夜も明けきらぬうちに足音を忍ばせて抜け出したが、天にも昇る心地だったろう。しかしそれ以来、何度か令嬢の寝所を訪ったがなかなか褥を共にすることが出来なかった。毎日顔を合わせているけれど、夜も同じようにとはいかない。授業をしていても思い浮かぶのはあの夢のような一夜のことばかりで。「…いったいどうしたらいいんだ」と悩みに悩み、
『あれ以来、君と褥を共にしていないせいかな。逢瀬の夢を見ては、醒めてなお君の寝姿が頭を離れなくて…飽きもせず悶々と過ごしているんだよ。』
と歌を詠むと、顔色が優れない令嬢は唇を引き結んで、
『私なんか眠れなくて、夢でさえ会えないっていうのに…。お兄様と逢えない辛さに泣いて泣いて泣き濡れて、とうとう夜を明かしてしまったのよ。』
と歌を返した。あろうことか夢のように触れられないその人は、既にこのとき身篭っていたのである。孕み始めの体調では、とても漢書の勉強など頭に入らない心地だったろう。
使用人たちなどは「…お嬢様はどうも月のものが来ていないようだ」と懐妊の兆しを感じ取って密かに囁きあっていたが…知らぬは身内ばかり。令嬢は食欲もなく、甘いものや橘ばかり欲しがる。何も知らない兄は気の毒がり、春は季節の変わり目だからかと親も娘が欲しがるものを食べさせていた。
そんな折のこと。兄は大学の集まりに呼ばれた。宴席にはとりどり料理や肴が並んでいる。「あの子にこれを全部食わせてやりたいが…」と思うが、なかなかそうもいかないので橘の実を二つ三つ懐紙に入れて持ち帰った。
宴が終われば、もうすでに夜も遅い時間である。男は足音を忍ばせて令嬢のもとを訪い、
『いたずらに散ってしまう橘の花の香よりも、君にはこちらの方がいいだろうから』
と詠み、懐から懐紙を取り出して「さぁ、これを食べて」と令嬢に差し出した。
「まぁ、橘…懐に入れて帰ってこられたのね。」言うや令嬢は、さっと男の方へ凭れるように倒れ込んだ。あ、と慌てて抱き寄せた男の、緑の直衣の懐に頬を寄せて大きく息を吸い込んで。
「……っ…大丈夫か…、」
「……ふふふ…残念。『あなたと橘と、ちょっと似てると思ったんだけど。あなた、全然橘の香りがしないわ。移り香さえも。』……あなたの匂いがする…。」
「……脅かさないでくれよ…。」
甘えた笑みを漏らす令嬢の背を、男の手が優しく撫でる。それは束の間の逢瀬であったが…間が悪いとはこのこと。娘の様子に、もしや…と思い当たることがあったのだろうか。部屋の傍でじっと娘の様子をうかがっていた母君が、このやり取りを聞いていたのである。
「…あなた達、やっぱり…!」
音を立てて塗籠の扉が開くや、青ざめた顔の母君が立っていた。
「……お、お母様、痛い…っ!」
「…母上…!」
「………っ!」
睦み合う兄と妹の姿を目の当たりにした母君は何も言わず、驚愕に見開く令嬢の手をぐっと掴むと、そのまま男の申し開きも聞かず、令嬢の悲痛な声も無視して。令嬢の手を引っ張って土蔵へ連れて行き、そこへ閉じ込めてしまった。
「母上、なんてことをなさるんですか!?やめてください、あの子は…」
「お黙りなさい!」
「おいおい、いったい何の騒ぎだ…」
この騒ぎに父君も顔を出したが、元々が穏やかな人である。事の成り行きを聞いても、「まぁ、落ち着きなさい。篁も賢い男だし、娘だってまるっきり子供じゃないんだ。部屋にいたのだって、何か特別な理由があるのだろうさ。ひとまずここから出してやって、それから訳を聞いておやり。」と言う。しかし分別がある歳であれば尚更である。篁と令嬢は腹違いとはいえ兄妹なのだ。もし二人の仲が露見すれば、世間からどんな誹りを受けるか…そうなれば夫の立場だって危ういというのに。
「何を呑気なこと仰ってるの!あなたの身を案じればこそ言っているのに」
母君は頑として許さず、とうとう土蔵の鍵穴に土まで塗って開かないようにしてしまった。更には追い掛けてきた男を睨んで「このひとをここへ近付けさせないでちょうだい」と言い、父君の諫めも聞き入れず。篁は蔵の前から追い払われてしまった。
「……っ…、」
さて追い払われた男はしばらく曹司に籠ってさめざめ泣いていたが、令嬢の辛さを思えばただ嘆いてはいられない。庭に出て土蔵に近づくと、壁に小さな穴が開いているのを見つけた。その穴をくじって広げ、声を潜めて「…聞こえるかい?こっちだ、こっちへおいで…」と呼びかける。すると衣擦れの音がして、小さく令嬢の声が応える。
「…お兄様…?」
「…うん」
そうして小さな穴越しにぽつりぽつりと話しながら二人で静かに泣いていた。「どうにかここから出してやりたい」と思うものの、男はまだとても若く、親の他に頼れる人もいない。どれほど嘆いても、どうすることもできない。己の無力を痛感しながら兎に角令嬢の心を慰めたいと、壁越しに話すうちに次第に空が明るくなり始めた。
『…私に力があったなら、こんなことにはならなかったものを…返す返すもこの世で一番惨めなものは、数ならぬ身の無力だ…。』
白みはじめた山の端を見上げ、男の頬に涙が伝う。応える令嬢もまた、
『ほんのひとときの、おままごとみたいな戯れがこんなことになるなんて…お父様にもお母様にも見放されたら…わたしどうなってしまうの…。』
と心細げに喉を震わせた。どうにもならない現実を前に、ふたりはただただ泣くことしか出来なかった。
(前編2/2に続く)
*****
典拠
岩波書店・刊「日本古典文学体系77 篁・平中・濱松中納言物語」
