紀有常
公開 2023/08/28 22:31
最終更新 2023/08/29 01:05
紀有常

むかしむかし、あるところに在りし日を忘れられない「斜陽の人」がいたそうな。
紀有常という人は、仁明、文徳、清和天皇と三代に仕え、入内した妹は親王を産むなど、時運に恵まれ栄華を極めた。しかし変わらないものなど何もない世の中である。彼もまた例外ではなかった。藤原氏の血を引く親王が東宮に立ち、上手くいけば天皇の外戚に…という有常殿の目論見は潰えた。しかし栄華の道から外れても、その気性は素直な風流人である。没落しても華やかなことを好む並外れた贅沢な暮らしは変わらなかった。
そんな日々を送っていたある日のこと、長年の妻が「出家して、先に尼になった姉の庵に身を寄せます」と言ってきた。妻と言っても、随分前からまともに通うこともなくなって、文さえ事務的なやり取りばかりだったけれど。
(いざ出家すると聞くと何とも侘しいものだなぁ…何かしてやりたいが…)
しかし贅沢暮らしが仇になり、餞別の贈り物すらままならない。有常殿は思い悩んだ末に、
「これこれこういうワケでね…これっぽっちも、何にも餞別を持たせてやれないのはと思って……全て渡してしまったんだ。」
と元妻に手持ちの着物一式を餞別としてやってしまった顛末を、大親友の業平殿へしたためた。その手紙の最後には、
「指折り数えてみたら、彼女のところへ通ったのは十夜ほどだったけど、夫婦になってからは四十年も経ったよ。…そんな薄情な関係でも夫婦となれば情は移るものなんだろうね…」
と有常殿の優しさを表すような歌が添えられていた。この歌を読んだ業平殿はいじらしさに感じ入り、フォーマルからナイトウェアまで一式を有常殿に贈ったのだった。またその贈り物に、
「では今度は私があなたへの思いを贈りましょう。この四十年、どれだけあなたを頼みにしてきたことか…」
と添えられていたので、有常殿は喜びに堪えない様子で
「君って人は本当に……ありがとう。君から頂いた着物は、これこそが天の羽衣だと思って押し戴いているよ。」
と書送った。またその手紙には「目の前が涙に霞んで見えないよ。急に秋の雨が降り出したかと思うほどだ…」とも書かれ、ほんのりと墨の跡も滲んでいたのだそうな。
古典と怪談が好きな茸です。タイッツーに生息。
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