忘れては
公開 2023/08/28 20:58
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忘れては
むかしむかし、水無瀬の御屋敷へ惟喬親王のお供をした右馬頭という年嵩の男がいたそうな。
交野の狩りから日を経て、親王様は京へお戻りになられた。親王様を御屋敷にお送りして、では…と男が御前を下がろうとすると、「まぁ、そう急がずともいいだろう」と仰ってお酒を振る舞われたり、「よくやってくれた」と褒美をくださったりと、なかなか男をお帰しにならない。最初こそ有難く頂戴していた男だったが、日は徐々に傾き、もうじき夕暮れである。このままではいつまでも帰していただけないのでは…明日の仕事に差し障りが…と気が気ではない男は、
「『帰るまでが旅』とは言いますが、こちらでお泊めいただくには及びません。春の夜は秋のように長くはありませんので…」
とそれとなく暇乞いをしてみたが、「それなら尚更、今夜はお前といま少し話していたいのだ」と仰って、結局その夜、親王様はお休みにならず男と夜を明かしたのだった。
さてそのように随分目をかけて頂いてお仕えしていたのだが。どうしたわけか突然、親王様は御髪を下ろしてしまわれた。出家の翌年、睦月のこと、親王様にお会いしたいと男は小野を訪ねた。比叡山の麓ともなればとにかく雪深い。雪を掻き分け掻き分け、やっとのことで親王様の御庵室に辿り着いた。
「お久しぶりです、親王様…」
「…寒かったろう。よく来てくれた…」
簡素な広い庵室にたったおひとりで座るお姿は、なんとも寒々しく寂しげで。肩のあたりや頬など、何となくお窶れになったようである。何とか親王様を元気づけたいと、予定よりも長く滞在して昔の思い出…例の交野の狩りの話…などお話しした。あの時はこうだった、こう言っていた…と懐かしい思い出話に花が咲き、お窶れになった頬も少し血の気がさすようであった。しかし徐々に日も傾きはじめ、そろそろお暇しなくてはならない。もう少し親王様のお側にいたい…と思うけれども、仕事を放り出すわけにもいかない。すると男の考えを察した親王様は、
「…もうそろそろ日も暮れよう。今日は久しぶりに楽しかった…礼を言うぞ。」
そう仰って引き止めることもなく、笑みを浮かべたお顔は寂しげで。暇乞いの歌を差し上げても、親王様は歌をお返しになるでもなく、ただ黙って頷くのみであった。
「……。」
御庵室を辞して、また雪を掻き分け帰る途中。振り返ると、踏み分けてきた道の向こうに、雪に埋もれるように御庵室がひっそりと佇んでいる。
「…思い出話などしていると、現実も忘れてこれは夢なのでは…と思ってしまうんだ。まさかあんな雪深い庵に親王様をお訪ねする日が来るなんて…」
詠みながら冷えた頬に熱い雫が幾筋も流れ、泣きながら男は雪を踏み分け都へ戻って行くのだった。
むかしむかし、水無瀬の御屋敷へ惟喬親王のお供をした右馬頭という年嵩の男がいたそうな。
交野の狩りから日を経て、親王様は京へお戻りになられた。親王様を御屋敷にお送りして、では…と男が御前を下がろうとすると、「まぁ、そう急がずともいいだろう」と仰ってお酒を振る舞われたり、「よくやってくれた」と褒美をくださったりと、なかなか男をお帰しにならない。最初こそ有難く頂戴していた男だったが、日は徐々に傾き、もうじき夕暮れである。このままではいつまでも帰していただけないのでは…明日の仕事に差し障りが…と気が気ではない男は、
「『帰るまでが旅』とは言いますが、こちらでお泊めいただくには及びません。春の夜は秋のように長くはありませんので…」
とそれとなく暇乞いをしてみたが、「それなら尚更、今夜はお前といま少し話していたいのだ」と仰って、結局その夜、親王様はお休みにならず男と夜を明かしたのだった。
さてそのように随分目をかけて頂いてお仕えしていたのだが。どうしたわけか突然、親王様は御髪を下ろしてしまわれた。出家の翌年、睦月のこと、親王様にお会いしたいと男は小野を訪ねた。比叡山の麓ともなればとにかく雪深い。雪を掻き分け掻き分け、やっとのことで親王様の御庵室に辿り着いた。
「お久しぶりです、親王様…」
「…寒かったろう。よく来てくれた…」
簡素な広い庵室にたったおひとりで座るお姿は、なんとも寒々しく寂しげで。肩のあたりや頬など、何となくお窶れになったようである。何とか親王様を元気づけたいと、予定よりも長く滞在して昔の思い出…例の交野の狩りの話…などお話しした。あの時はこうだった、こう言っていた…と懐かしい思い出話に花が咲き、お窶れになった頬も少し血の気がさすようであった。しかし徐々に日も傾きはじめ、そろそろお暇しなくてはならない。もう少し親王様のお側にいたい…と思うけれども、仕事を放り出すわけにもいかない。すると男の考えを察した親王様は、
「…もうそろそろ日も暮れよう。今日は久しぶりに楽しかった…礼を言うぞ。」
そう仰って引き止めることもなく、笑みを浮かべたお顔は寂しげで。暇乞いの歌を差し上げても、親王様は歌をお返しになるでもなく、ただ黙って頷くのみであった。
「……。」
御庵室を辞して、また雪を掻き分け帰る途中。振り返ると、踏み分けてきた道の向こうに、雪に埋もれるように御庵室がひっそりと佇んでいる。
「…思い出話などしていると、現実も忘れてこれは夢なのでは…と思ってしまうんだ。まさかあんな雪深い庵に親王様をお訪ねする日が来るなんて…」
詠みながら冷えた頬に熱い雫が幾筋も流れ、泣きながら男は雪を踏み分け都へ戻って行くのだった。
