渚の院
公開 2023/08/28 20:55
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渚の院
むかしむかし、あるところに親王様の覚えめでたい男がいたそうな。
かつて文徳天皇の皇子に、惟喬の親王と仰る方がいらっしゃった。親王様の御屋敷のひとつが山崎のむこう、水無瀬というところにあり、親王様は毎年桜の花盛りにはその御屋敷に滞在されていた。その際は必ず右馬頭(もう随分と昔のことで名前までは忘れてしまった…)という人をお連れになっていたそうである。
ある年の春も、親王様は供の者を連れ鷹狩りにお出かけになられた。狩りと言っても実際はあまり熱心に狩りをするでもなく、お酒を召し上がっては和歌を詠んでばかりあったが。狩り場がある交野と言う土地には渚の院と呼ばれる親王様の御屋敷があり、その庭に咲く桜は殊に趣きがある。見事な桜に興がのった一行は木の下で馬から降り、それぞれ花枝を手折って冠に挿し、尊い方から小者までみな歌を詠んだ。右馬頭という男が
「今を盛りと咲く花もじきに散ってしまうと思うと…この世に桜なんてものが存在しなければ、穏やかな気持ちで春を過ごせるのになぁ…」
と詠めばまた別の人が
「散ってしまうからこそ、桜はいっそう胸を打つのさ。こんな憂き世に変わらないものなどあるものか」
とおどけて返す。賑やかに歌を詠み交わし、一行はその桜の木を後にして狩りを続けたのだった。
さて、空が橙色に変わる頃。土地の者から仕入れたか、お供の方のひとりが小者に酒を持たせて戻ってきた。きっと親王様も召し上がるだろうから…とのことで、宴に相応しい景色の良い場所を探しながら一行が歩いていると、淀川に注ぐ天の河という川のほとりに辿り着いた。ぼんやり明るい春の夕暮れに、さらさらとせせらぎの音が心地よい。ここにしましょうと誰ともなく言い出し、床机を置いただけのわか拵えの宴が始まった。
「惟喬様、さ…どうぞ一献。」
右馬頭の男が親王様にお酒を勧めると、くいと子どものように盃を引っこめた親王様が
「右馬頭よ、交野で狩りをして天の河に至った…という題でひとつ歌を詠んでみよ。でなければ盃は受けぬぞ。」
と上機嫌に仰る。 酔っ払っての悪ふざけだが、右馬頭の男も興が乗った表情で
「獲物を追いかけ追いかけ、気付けば日も暮れてしまいました。織姫殿に一晩の宿を請おうかな。なにせ天の河のほとりに来たのですから。」
と詠んで差し上げた。親王様は「ほう…さすがは右馬頭だ。」と仰ったが、随分お気に召したのか、それとも些か聞こし召したか。「狩り暮らしたなばたつめに宿からむ…たなばたつめに…」と歌を繰り返し吟じてウンウン頷くばかり。するとすかさずお側に仕えていた紀有常殿が、
「一年に一度しか会えない夫君を待っているんだ。まさか見ず知らずの男を泊めるような織姫殿じゃないだろうさ…ましてや君みたいな人をね。」
と親王様に代わって歌を返したので、宴の座に賑やかな笑い声が漏れた。
その夜は親王様も興が乗ったご様子で、水無瀬の御屋敷に帰っても右馬頭の男と有常殿を引き止めて酒を飲み、お喋りなどされていらした。しかし夜も深まるにつれ酔いも回ったご様子で、側仕えの者に付き添われて寝所に入られた。賑やかだった座は波が引くように静まり、外を眺めれば十一日の月も山の端に沈もうとしている。崩した足に肘をついて、
「…まだお話し足りないのに。月め、さっさと山の向こうに隠れてしまうなんて。山も山だ、月が隠れられないように逃げてくれたらいいのになぁ」
と右馬頭の男が疲れた顔で苦笑いすると、同じくお側に仕えていた紀有常殿が親王様に代わり、
「どの峰も真っ平らになってしまったらいいのに。隠れる山がなければ、月も隠れられないだろう」
と詠み、有常殿もまた疲れた顔に苦笑いを浮かべてやれやれ…と山の端を見上げたのだそうな。
むかしむかし、あるところに親王様の覚えめでたい男がいたそうな。
かつて文徳天皇の皇子に、惟喬の親王と仰る方がいらっしゃった。親王様の御屋敷のひとつが山崎のむこう、水無瀬というところにあり、親王様は毎年桜の花盛りにはその御屋敷に滞在されていた。その際は必ず右馬頭(もう随分と昔のことで名前までは忘れてしまった…)という人をお連れになっていたそうである。
ある年の春も、親王様は供の者を連れ鷹狩りにお出かけになられた。狩りと言っても実際はあまり熱心に狩りをするでもなく、お酒を召し上がっては和歌を詠んでばかりあったが。狩り場がある交野と言う土地には渚の院と呼ばれる親王様の御屋敷があり、その庭に咲く桜は殊に趣きがある。見事な桜に興がのった一行は木の下で馬から降り、それぞれ花枝を手折って冠に挿し、尊い方から小者までみな歌を詠んだ。右馬頭という男が
「今を盛りと咲く花もじきに散ってしまうと思うと…この世に桜なんてものが存在しなければ、穏やかな気持ちで春を過ごせるのになぁ…」
と詠めばまた別の人が
「散ってしまうからこそ、桜はいっそう胸を打つのさ。こんな憂き世に変わらないものなどあるものか」
とおどけて返す。賑やかに歌を詠み交わし、一行はその桜の木を後にして狩りを続けたのだった。
さて、空が橙色に変わる頃。土地の者から仕入れたか、お供の方のひとりが小者に酒を持たせて戻ってきた。きっと親王様も召し上がるだろうから…とのことで、宴に相応しい景色の良い場所を探しながら一行が歩いていると、淀川に注ぐ天の河という川のほとりに辿り着いた。ぼんやり明るい春の夕暮れに、さらさらとせせらぎの音が心地よい。ここにしましょうと誰ともなく言い出し、床机を置いただけのわか拵えの宴が始まった。
「惟喬様、さ…どうぞ一献。」
右馬頭の男が親王様にお酒を勧めると、くいと子どものように盃を引っこめた親王様が
「右馬頭よ、交野で狩りをして天の河に至った…という題でひとつ歌を詠んでみよ。でなければ盃は受けぬぞ。」
と上機嫌に仰る。 酔っ払っての悪ふざけだが、右馬頭の男も興が乗った表情で
「獲物を追いかけ追いかけ、気付けば日も暮れてしまいました。織姫殿に一晩の宿を請おうかな。なにせ天の河のほとりに来たのですから。」
と詠んで差し上げた。親王様は「ほう…さすがは右馬頭だ。」と仰ったが、随分お気に召したのか、それとも些か聞こし召したか。「狩り暮らしたなばたつめに宿からむ…たなばたつめに…」と歌を繰り返し吟じてウンウン頷くばかり。するとすかさずお側に仕えていた紀有常殿が、
「一年に一度しか会えない夫君を待っているんだ。まさか見ず知らずの男を泊めるような織姫殿じゃないだろうさ…ましてや君みたいな人をね。」
と親王様に代わって歌を返したので、宴の座に賑やかな笑い声が漏れた。
その夜は親王様も興が乗ったご様子で、水無瀬の御屋敷に帰っても右馬頭の男と有常殿を引き止めて酒を飲み、お喋りなどされていらした。しかし夜も深まるにつれ酔いも回ったご様子で、側仕えの者に付き添われて寝所に入られた。賑やかだった座は波が引くように静まり、外を眺めれば十一日の月も山の端に沈もうとしている。崩した足に肘をついて、
「…まだお話し足りないのに。月め、さっさと山の向こうに隠れてしまうなんて。山も山だ、月が隠れられないように逃げてくれたらいいのになぁ」
と右馬頭の男が疲れた顔で苦笑いすると、同じくお側に仕えていた紀有常殿が親王様に代わり、
「どの峰も真っ平らになってしまったらいいのに。隠れる山がなければ、月も隠れられないだろう」
と詠み、有常殿もまた疲れた顔に苦笑いを浮かべてやれやれ…と山の端を見上げたのだそうな。
