布引の滝
公開 2023/08/28 19:12
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布引の滝
むかしむかし、津の国に住む男がいたそうな。
津の国は菟原の郡、蘆屋の里に領地を持っていた男は、都からそちらへ移り住んでいた。蘆屋の里と言えば、「蘆の屋の灘の塩焼きいとまなみ黄楊の小櫛もささずに来にけり」と昔歌に歌われた里である。男が住んでいたのは、その歌にある蘆の屋の灘という海に面した場所であった。
男は内裏を警護する左兵衛府の副官であったが閑職ゆえあまりやる気はないらしく、放り出して蘆屋の里へ滞在していた次第である。やる気がないとはいえ一応上司であるし、コネや伝手作りを目当てに衛府の部下たちも男の滞在先へご機嫌伺いに来ていた。ちなみに同じく蘆屋の里に滞在している男の兄は左兵衛府の長官であるから、どちらもやる気はないらしい。さて彼らは屋敷の前、海のほとりをぶらぶらと遊び歩いていたが、それもそろそろ飽きてきた。海と反対の山手を見上げた兄上殿が、「そうだ、あの山の上に布引の滝という面白い場所があるらしいよ。見に行こう」と言い出し、一行はさっそく滝を目指して登り始めた。
布引の滝は聞きしに勝る奇異な、面白い風情の滝だった。長さ約六十メートルほど、広さ十五メートルほどもある巨岩の表をまるで白絹が包むように涼やかに滝が落ち。またその滝の上には円座ほどの大きさの岩が突き出しており、岩に走りかかる流れが砕けては蜜柑や栗ほどの大きさの雫が絶え間なく降り落ちる。
「…ほう、これは…」
汗をかきかき登ってきた面々は、口々に感嘆の声を漏らした。中でも兄上殿の喜びようは格別で、この滝を題に歌を詠もうと皆に命じた。まず兄上殿が流れる滝を見上げて、
「私が内裏で力を振るう日はいつ来るんだ?今日か?明日か?待ち侘びて流す涙の滝は、この滝を遥かに凌ぐのさ…」
と我が身の不遇を嘆く歌を詠めば、続いて男が流れを塞き止めるように突き出た岩を見上げて
「一生懸命糸に通した真珠を、横から糸を引っこ抜いて台無しにしてしまう人がいるみたいですね。あの雫はまさに兄上の手の間から飛び散る真珠のようにも、兄上の涙にも見えます。」
と詠んだ。
「……お前…」
「何か?」
「………。」
彼らの境遇や男が起こした例の事件など知る部下たちはクスクスと忍び笑いを漏らすのみで、結局このやり取りがおかしくて歌は詠まずじまいであった。
布引の滝からの帰り道はなかなかに距離があり、亡くなった宮内卿モチヨシ殿とか何とかいう方の御屋敷の前まで来る頃には辺りは日暮れて暗くなっていた。遠く男の住まいの方へ目をやれば、暗闇に漁師たちの漁火が幾つもちらちらと瞬いている。
「あれは晴れた夜の星かな、河辺の蛍かな、それとも我が家のあたりの海人が焚く火か…歩きに歩いて天の河のほとりまで来てしまったのかもしれないよ。」
そんな軽口を叩きながら帰ってきたのだそうな。
その夜は南風が強く吹き、浪がとても高かったようで。早朝、屋敷の使用人の娘たちは浜に出て、打ち寄せられた海松を屋敷に持ち帰ってきた。
「おや、これは?」
男が朝食の座に着くと、簡素な朝食の膳に高坏に盛られた海松が加えられていた。男が尋ねると、これこれこういう訳で、奥様のお指図でございます。と給仕の老召使いは言う。高坏の海松を覆う柏の葉を取り上げた男は、感心したようにそこに書かれた歌を諳んじたのだった。
「『わだつみの神が、髪に飾る目出度い藻を貴方のためにと惜しまず遣わされたようです』…か。へぇ…。」
田舎女の歌にしては、分相応の風情か、それとも抜きん出た趣かしら。
※訳者注
蘆の屋の灘の塩焼き…この歌自体が改変されたものだそうで。「蘆屋の灘で藻塩を焼くあのひとは、寸暇を惜しんで櫛さえ挿さずに来たようだ。ここまで駆けてきたのか、風に乱れる後れ毛さえ愛おしい…」くらいの意味でしょうか?
むかしむかし、津の国に住む男がいたそうな。
津の国は菟原の郡、蘆屋の里に領地を持っていた男は、都からそちらへ移り住んでいた。蘆屋の里と言えば、「蘆の屋の灘の塩焼きいとまなみ黄楊の小櫛もささずに来にけり」と昔歌に歌われた里である。男が住んでいたのは、その歌にある蘆の屋の灘という海に面した場所であった。
男は内裏を警護する左兵衛府の副官であったが閑職ゆえあまりやる気はないらしく、放り出して蘆屋の里へ滞在していた次第である。やる気がないとはいえ一応上司であるし、コネや伝手作りを目当てに衛府の部下たちも男の滞在先へご機嫌伺いに来ていた。ちなみに同じく蘆屋の里に滞在している男の兄は左兵衛府の長官であるから、どちらもやる気はないらしい。さて彼らは屋敷の前、海のほとりをぶらぶらと遊び歩いていたが、それもそろそろ飽きてきた。海と反対の山手を見上げた兄上殿が、「そうだ、あの山の上に布引の滝という面白い場所があるらしいよ。見に行こう」と言い出し、一行はさっそく滝を目指して登り始めた。
布引の滝は聞きしに勝る奇異な、面白い風情の滝だった。長さ約六十メートルほど、広さ十五メートルほどもある巨岩の表をまるで白絹が包むように涼やかに滝が落ち。またその滝の上には円座ほどの大きさの岩が突き出しており、岩に走りかかる流れが砕けては蜜柑や栗ほどの大きさの雫が絶え間なく降り落ちる。
「…ほう、これは…」
汗をかきかき登ってきた面々は、口々に感嘆の声を漏らした。中でも兄上殿の喜びようは格別で、この滝を題に歌を詠もうと皆に命じた。まず兄上殿が流れる滝を見上げて、
「私が内裏で力を振るう日はいつ来るんだ?今日か?明日か?待ち侘びて流す涙の滝は、この滝を遥かに凌ぐのさ…」
と我が身の不遇を嘆く歌を詠めば、続いて男が流れを塞き止めるように突き出た岩を見上げて
「一生懸命糸に通した真珠を、横から糸を引っこ抜いて台無しにしてしまう人がいるみたいですね。あの雫はまさに兄上の手の間から飛び散る真珠のようにも、兄上の涙にも見えます。」
と詠んだ。
「……お前…」
「何か?」
「………。」
彼らの境遇や男が起こした例の事件など知る部下たちはクスクスと忍び笑いを漏らすのみで、結局このやり取りがおかしくて歌は詠まずじまいであった。
布引の滝からの帰り道はなかなかに距離があり、亡くなった宮内卿モチヨシ殿とか何とかいう方の御屋敷の前まで来る頃には辺りは日暮れて暗くなっていた。遠く男の住まいの方へ目をやれば、暗闇に漁師たちの漁火が幾つもちらちらと瞬いている。
「あれは晴れた夜の星かな、河辺の蛍かな、それとも我が家のあたりの海人が焚く火か…歩きに歩いて天の河のほとりまで来てしまったのかもしれないよ。」
そんな軽口を叩きながら帰ってきたのだそうな。
その夜は南風が強く吹き、浪がとても高かったようで。早朝、屋敷の使用人の娘たちは浜に出て、打ち寄せられた海松を屋敷に持ち帰ってきた。
「おや、これは?」
男が朝食の座に着くと、簡素な朝食の膳に高坏に盛られた海松が加えられていた。男が尋ねると、これこれこういう訳で、奥様のお指図でございます。と給仕の老召使いは言う。高坏の海松を覆う柏の葉を取り上げた男は、感心したようにそこに書かれた歌を諳んじたのだった。
「『わだつみの神が、髪に飾る目出度い藻を貴方のためにと惜しまず遣わされたようです』…か。へぇ…。」
田舎女の歌にしては、分相応の風情か、それとも抜きん出た趣かしら。
※訳者注
蘆の屋の灘の塩焼き…この歌自体が改変されたものだそうで。「蘆屋の灘で藻塩を焼くあのひとは、寸暇を惜しんで櫛さえ挿さずに来たようだ。ここまで駆けてきたのか、風に乱れる後れ毛さえ愛おしい…」くらいの意味でしょうか?
