われにあふみ
公開 2023/08/28 19:05
最終更新
2023/08/28 22:56
われにあふみ
むかしむかし、あるところに妻に逃げられた男がいたそうな。
忙しさにかまけて、ろくに女の元へ通わなかった男も男だろうが。元々流されやすい女だったようで、妻は悪い男にころっと騙されて夫を置いて出て行ってしまった。女は新しい夫と出直すつもりだったのかもしれないが、現実はそう甘くないもの。女は近江の歓楽街に売られ、客に肌を任せる身になったようである。さてあるときのこと。女の働く宿屋に、なんと偶然にも元の夫がやってきた。
「…ようこそおいでくださいました…。」
「……。」
他の女たちと一緒に酌をしたり接待するものの、元夫は何も言わない。すっかり歓楽街に染まった女を元の妻とは気づかなかったのかもしれない。女はほんの少しだけ胸を撫で下ろしていたのだが。
日も暮れた頃。男は宿の主人に夜伽を所望し、なんと元の妻を指名して部屋へ召した。遊び女として元夫の相手をするなど、いかほどの恐ろしさと屈辱だろう。派手な着物にケバケバしい化粧を施して、女は重い足取りで男の元へやってきた。
「…久しいな。私を覚えているか」
強ばった顔で座る女をまじまじ眺めて、男はため息をついた。
「…あの頃の面影はまったくないな。濃い化粧に下品な着物…なんて惨めでみっともない姿だ…。」
「……。」
蔑みの言葉に、女は我が身が恥ずかしくて顔も上げられず言葉も出ない。ただ悔しさと惨めさが、ぼろぼろと瞳から溢れて頬を濡らした。
「…なぜ返事もしないんだ。」
不機嫌そうに男が言う。女はしゃくりあげながら、袖で顔を拭ってようやく答えた。
「…涙が溢れて何にも見えないわ…何を言えっていうの…。」
「……。」
泣きじゃくる女を見つめる男は、もはや憐れむようにこう詠んだ。
「…これが他の男と逃げた妻の末路だと…?よろしくやっているかと思えば…まったく見るに堪えない落ちぶれようじゃないか。」
「……っ…!」
もういい、下がれ。…これは夜伽の礼だ。男が着ていた着物を脱いで手渡すと、女はいっそう傷ついた顔をして着物を投げ捨てて部屋から駆け出て行った。
「……。」
着物を拾い上げた男の鼻先に、安っぽい香の匂いがふわりと香った。
翌朝。宿が騒がしいと思えば宿の主人に、 あの女を知らないかとしつこく尋ねられた。知らないと伝えるも、どこか疑わしい目で男を見ている。仔細を尋ねると、「旦那が昨日お召になった女…今朝になったら居なくなっていましてね。夜のうちに抜け出したようで…」と言うのだった。女はそのままどこかへ逃げてしまい、行方もわからないのだと聞かされたのだそうな。
むかしむかし、あるところに妻に逃げられた男がいたそうな。
忙しさにかまけて、ろくに女の元へ通わなかった男も男だろうが。元々流されやすい女だったようで、妻は悪い男にころっと騙されて夫を置いて出て行ってしまった。女は新しい夫と出直すつもりだったのかもしれないが、現実はそう甘くないもの。女は近江の歓楽街に売られ、客に肌を任せる身になったようである。さてあるときのこと。女の働く宿屋に、なんと偶然にも元の夫がやってきた。
「…ようこそおいでくださいました…。」
「……。」
他の女たちと一緒に酌をしたり接待するものの、元夫は何も言わない。すっかり歓楽街に染まった女を元の妻とは気づかなかったのかもしれない。女はほんの少しだけ胸を撫で下ろしていたのだが。
日も暮れた頃。男は宿の主人に夜伽を所望し、なんと元の妻を指名して部屋へ召した。遊び女として元夫の相手をするなど、いかほどの恐ろしさと屈辱だろう。派手な着物にケバケバしい化粧を施して、女は重い足取りで男の元へやってきた。
「…久しいな。私を覚えているか」
強ばった顔で座る女をまじまじ眺めて、男はため息をついた。
「…あの頃の面影はまったくないな。濃い化粧に下品な着物…なんて惨めでみっともない姿だ…。」
「……。」
蔑みの言葉に、女は我が身が恥ずかしくて顔も上げられず言葉も出ない。ただ悔しさと惨めさが、ぼろぼろと瞳から溢れて頬を濡らした。
「…なぜ返事もしないんだ。」
不機嫌そうに男が言う。女はしゃくりあげながら、袖で顔を拭ってようやく答えた。
「…涙が溢れて何にも見えないわ…何を言えっていうの…。」
「……。」
泣きじゃくる女を見つめる男は、もはや憐れむようにこう詠んだ。
「…これが他の男と逃げた妻の末路だと…?よろしくやっているかと思えば…まったく見るに堪えない落ちぶれようじゃないか。」
「……っ…!」
もういい、下がれ。…これは夜伽の礼だ。男が着ていた着物を脱いで手渡すと、女はいっそう傷ついた顔をして着物を投げ捨てて部屋から駆け出て行った。
「……。」
着物を拾い上げた男の鼻先に、安っぽい香の匂いがふわりと香った。
翌朝。宿が騒がしいと思えば宿の主人に、 あの女を知らないかとしつこく尋ねられた。知らないと伝えるも、どこか疑わしい目で男を見ている。仔細を尋ねると、「旦那が昨日お召になった女…今朝になったら居なくなっていましてね。夜のうちに抜け出したようで…」と言うのだった。女はそのままどこかへ逃げてしまい、行方もわからないのだと聞かされたのだそうな。
