在原なりける男
公開 2023/08/28 17:50
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在原なりける男
むかしむかし、あるところに帝のご寵愛を賜る女がいたそうな。
その女は帝の御生母でいらっしゃる大御息所の従姉妹にあたる人で、帝には禁色を許されるほど目をかけていただいていた。
そんな女に畏れ多くも懸想する男がいた。殿上に仕える在原という男である。この男がまだたいそう若い時分、二人は情を通じる仲であった。女が許せば、度々男は女の部屋に上がり込みそばを離れない。しかし女は既に帝のご寵愛を受ける身である。「こんないい加減な関係を続けていれば、お互い身を滅ぼしますわ。もうこれでお終いにしましょう。」と諭しても
「抑えようにも、この想いは止まりません。この恋が身を滅ぼすというなら滅びてしまえばいい…!」
となおも頑なで、女が私室に居る時は人目も憚らずに入り浸るので、思い悩んだ女は実家に帰ってしまった。ところが「これはかえって好都合だ」とばかりに却って男は足繁く通ってくる。世間の人々はそんな男の好色な様を眺めては、ヒソヒソ噂し合い嗤うのだった。ある時など夜中にこっそり抜け出して女を訪い、翌朝、何食わぬ顔で宮中に上がって来たこともある。その際に、朝帰りがバレないようにと沓を奥に投げ込んでいたところを雑用係の女に見られてしまった。
さて許されない関係を続けていた男であったが、いくら雑用係の女…主殿司とはいえ宮中の者に見られてしまったのは気にかかる。「こうなってはいずれ主上のお耳にも入ってしまうかもしれない。そうなればあの方の言うように…本当に身の破滅だ…」
顔色を変えた男は、「お願い致します…どうか、どうか私のこの恋心をお鎮めください…」と必死に神仏に願ったものの、逢いたい気持ちはますます募り、愛おしさは止むどころか一層募るばかり。これではダメだと今度は陰陽師や巫を呼び寄せ、御手洗川で恋心を祓う加持祈祷をさせた。しかし心の中から恋心を追い出そうと念じれば念じるほど、あの方の面影が浮かんでくる。祓うつもりが、以前よりもずっと恋しく逢いたい気持ちでいっぱいになってしまった。
「『恋心を祓ってしまおう』と御手洗川で禊までしたのに…神様はお聞き届けにならなかったようだ…」
男は嘆いたものの愛しい人を忘れることも、恋心を祓うことも出来ないまま、女との関係を続けていたのだが…。
帝は容姿端麗なだけでなく、その御心はまるで御仏のように慈悲深く、お話しになるお声は深く沁み透るような美しいお声であった。実家から戻った女をさっそく御前にお召しになり、
「しばらく宿下がりしていたと聞いたが……少し窶れたか。まだ顔色が優れぬな。」
病と偽って実家に帰っていた女を気遣う言葉をかけてくださった。美しいお声で名を呼ばれ、優しく気遣われるほどに、女の胸に罪悪感と悲しみとが込み上げる。
「……、…」
ぽろり…と一粒零れてしまえば、もう止まらない。女の瞳から次から次へ涙が零れ落ちた。
「女御よ、如何した。」
「……っ…!」
「主上、女御はご気分が優れないのでしょう。ここはわたくしに…」
面を伏せて肩を震わす女へ、帝はまた優しく問いかけるが女は何も言えずに頭を振るばかり。間に入った大御息所様に促され御前を下がった女であったが、局に戻るやわっとその場に伏せて声を上げて泣き出した。
「…いったいどう…」
「わたくしは前世でどれほどの罪を犯したのでしょう…!」
大御息所様の言葉を遮るように、女の悲痛な声が響いた。
「どうして…こんなに素晴らしいお方にお仕えしているのに……こんな男に絡め取られて…!」
「……!…あなた、まさか…!」
はっと御簾の向こうを振り返った先、大御息所様はそこに控える男を見とめて全て悟ったようだった。
そのようなことがあり、とうとう例の男との関係は帝のお耳に入ることとなり、男は他国へ流罪に処せられた。女は大御息所様によって宮中から暇を出され、仕置として実家の蔵に押し込められた。
「……。」
窓もない蔵の中は、昼も夜もない。淀んだ真っ暗な一角に着の身着のまま独りきりで座っていると、あの日のことが次々と浮かんでくる。大御息所様の険しい顔、憤慨した兄の罵声、女房達の困惑した顔、下々の者たちの好奇の目、裏切り続けた主上の姿……それから…、
「……っ…」
像を結びかけた影を振り払って、女はまたはらはらと涙を流した。
(…あの人を拒みきれなかったわたくしが何もかも悪いのよ…今さら誰を恨んで泣くというの…。)
湧き上がる後悔に苛まれ、蔵の中で泣き暮らしていた。そんなある夜、何処かから笛の音が聞こえてきた。
「……?」
涙で強ばった顔を上げ耳をそばだてると、遠くから美しい笛の音色が聞こえてくる。
「…綺麗な音…。どなたのことを想って吹いていらっしゃるのかしら…。」
美しく優しい音色に、孤独と後悔に沈む女の心はいくらか救われるような心地であったが。笛の音が止んでしばらくすると、今度は胸に染み入るような切ない歌声が流れてくる。
(……!)
その声は忘れるはずもない。幾度も女に愛を囁き、求めた男の声であった。切々と歌うその声は、女を求め逢いたいと願うように聞こえ、女の心をまた苛むのだった。
男はそうして毎晩のように流された国から女の実家へ通ってきて、笛を吹き、歌い、夜明け前に帰っていく。蔵の中でその音を聞きながら『きっとまたあの人だわ…』と思うものの、逢うことなど出来るはずもなく。
「…『一目だけでも』と思って通っていらっしゃるのかしら…愚かな人…。ここで無為に生かされているだけの私の立場なんて…なんにもわからないのね…」
思えばあの人はいつもそうだった…それなのに断ち切れなかったわたくしも愚か者だわ…。女の頬にまた涙が零れた。
女が後悔に苛まれている一方。笛を吹き歌い、逢えずに配流先へ帰る道すがら。
「あの方にお逢いしたい…その一心に曳かれて都まで彷徨い歩いてしまうんだよ…」
と男は諦められない想いを噛み締めて歌うのだった。
これは清和帝の御世のこと。大御息所は染殿の后…または五条の后様とも。
むかしむかし、あるところに帝のご寵愛を賜る女がいたそうな。
その女は帝の御生母でいらっしゃる大御息所の従姉妹にあたる人で、帝には禁色を許されるほど目をかけていただいていた。
そんな女に畏れ多くも懸想する男がいた。殿上に仕える在原という男である。この男がまだたいそう若い時分、二人は情を通じる仲であった。女が許せば、度々男は女の部屋に上がり込みそばを離れない。しかし女は既に帝のご寵愛を受ける身である。「こんないい加減な関係を続けていれば、お互い身を滅ぼしますわ。もうこれでお終いにしましょう。」と諭しても
「抑えようにも、この想いは止まりません。この恋が身を滅ぼすというなら滅びてしまえばいい…!」
となおも頑なで、女が私室に居る時は人目も憚らずに入り浸るので、思い悩んだ女は実家に帰ってしまった。ところが「これはかえって好都合だ」とばかりに却って男は足繁く通ってくる。世間の人々はそんな男の好色な様を眺めては、ヒソヒソ噂し合い嗤うのだった。ある時など夜中にこっそり抜け出して女を訪い、翌朝、何食わぬ顔で宮中に上がって来たこともある。その際に、朝帰りがバレないようにと沓を奥に投げ込んでいたところを雑用係の女に見られてしまった。
さて許されない関係を続けていた男であったが、いくら雑用係の女…主殿司とはいえ宮中の者に見られてしまったのは気にかかる。「こうなってはいずれ主上のお耳にも入ってしまうかもしれない。そうなればあの方の言うように…本当に身の破滅だ…」
顔色を変えた男は、「お願い致します…どうか、どうか私のこの恋心をお鎮めください…」と必死に神仏に願ったものの、逢いたい気持ちはますます募り、愛おしさは止むどころか一層募るばかり。これではダメだと今度は陰陽師や巫を呼び寄せ、御手洗川で恋心を祓う加持祈祷をさせた。しかし心の中から恋心を追い出そうと念じれば念じるほど、あの方の面影が浮かんでくる。祓うつもりが、以前よりもずっと恋しく逢いたい気持ちでいっぱいになってしまった。
「『恋心を祓ってしまおう』と御手洗川で禊までしたのに…神様はお聞き届けにならなかったようだ…」
男は嘆いたものの愛しい人を忘れることも、恋心を祓うことも出来ないまま、女との関係を続けていたのだが…。
帝は容姿端麗なだけでなく、その御心はまるで御仏のように慈悲深く、お話しになるお声は深く沁み透るような美しいお声であった。実家から戻った女をさっそく御前にお召しになり、
「しばらく宿下がりしていたと聞いたが……少し窶れたか。まだ顔色が優れぬな。」
病と偽って実家に帰っていた女を気遣う言葉をかけてくださった。美しいお声で名を呼ばれ、優しく気遣われるほどに、女の胸に罪悪感と悲しみとが込み上げる。
「……、…」
ぽろり…と一粒零れてしまえば、もう止まらない。女の瞳から次から次へ涙が零れ落ちた。
「女御よ、如何した。」
「……っ…!」
「主上、女御はご気分が優れないのでしょう。ここはわたくしに…」
面を伏せて肩を震わす女へ、帝はまた優しく問いかけるが女は何も言えずに頭を振るばかり。間に入った大御息所様に促され御前を下がった女であったが、局に戻るやわっとその場に伏せて声を上げて泣き出した。
「…いったいどう…」
「わたくしは前世でどれほどの罪を犯したのでしょう…!」
大御息所様の言葉を遮るように、女の悲痛な声が響いた。
「どうして…こんなに素晴らしいお方にお仕えしているのに……こんな男に絡め取られて…!」
「……!…あなた、まさか…!」
はっと御簾の向こうを振り返った先、大御息所様はそこに控える男を見とめて全て悟ったようだった。
そのようなことがあり、とうとう例の男との関係は帝のお耳に入ることとなり、男は他国へ流罪に処せられた。女は大御息所様によって宮中から暇を出され、仕置として実家の蔵に押し込められた。
「……。」
窓もない蔵の中は、昼も夜もない。淀んだ真っ暗な一角に着の身着のまま独りきりで座っていると、あの日のことが次々と浮かんでくる。大御息所様の険しい顔、憤慨した兄の罵声、女房達の困惑した顔、下々の者たちの好奇の目、裏切り続けた主上の姿……それから…、
「……っ…」
像を結びかけた影を振り払って、女はまたはらはらと涙を流した。
(…あの人を拒みきれなかったわたくしが何もかも悪いのよ…今さら誰を恨んで泣くというの…。)
湧き上がる後悔に苛まれ、蔵の中で泣き暮らしていた。そんなある夜、何処かから笛の音が聞こえてきた。
「……?」
涙で強ばった顔を上げ耳をそばだてると、遠くから美しい笛の音色が聞こえてくる。
「…綺麗な音…。どなたのことを想って吹いていらっしゃるのかしら…。」
美しく優しい音色に、孤独と後悔に沈む女の心はいくらか救われるような心地であったが。笛の音が止んでしばらくすると、今度は胸に染み入るような切ない歌声が流れてくる。
(……!)
その声は忘れるはずもない。幾度も女に愛を囁き、求めた男の声であった。切々と歌うその声は、女を求め逢いたいと願うように聞こえ、女の心をまた苛むのだった。
男はそうして毎晩のように流された国から女の実家へ通ってきて、笛を吹き、歌い、夜明け前に帰っていく。蔵の中でその音を聞きながら『きっとまたあの人だわ…』と思うものの、逢うことなど出来るはずもなく。
「…『一目だけでも』と思って通っていらっしゃるのかしら…愚かな人…。ここで無為に生かされているだけの私の立場なんて…なんにもわからないのね…」
思えばあの人はいつもそうだった…それなのに断ち切れなかったわたくしも愚か者だわ…。女の頬にまた涙が零れた。
女が後悔に苛まれている一方。笛を吹き歌い、逢えずに配流先へ帰る道すがら。
「あの方にお逢いしたい…その一心に曳かれて都まで彷徨い歩いてしまうんだよ…」
と男は諦められない想いを噛み締めて歌うのだった。
これは清和帝の御世のこと。大御息所は染殿の后…または五条の后様とも。
