あづさ弓
公開 2023/08/28 00:02
最終更新
2023/08/28 23:35
あづさ弓
むかしむかし、あるところに、離れ離れに暮らす夫婦がいたそうな。
夫婦は片田舎で仲睦まじく暮らしていたが、あるとき夫に、さる人から宮仕えしないかと声がかかった。前々から目を掛けてくれていた人からの話であれば是非もない。夫はその申し出を受けたのだそうな。
「そろそろ行かなくては…。」
「…まだいいじゃない。もう少し、もう少しだけ…」
都へ発つ朝。引き留める妻を抱き寄せて、男はその背を優しく撫でた。
「…心配するな。立派に勤めあげて、たんと褒美を貰って帰ってくるよ。」
そうだ、都の土産は何がいい?男が努めて明るい声で尋ねると、何も…と男の胸に顔を埋めた女が涙を堪えて言った。
「…あなたが無事に帰ってきてくれたらそれでいいの…」
「…あぁ、約束だ。」
男はよりいっそう強く女を抱き締めた。そうして惜しみ惜しみ別れて、三年が過ぎた。
(…浮かれてるわ、わたし…)
花を活けた花瓶を床の近くに据えた女は、ふとその手を止め悲しい笑みを零した。そこに花を飾るのは三年ぶりである。今夜、女はこの部屋に夫ではない男を迎えるのだ。
あの日、見えなくなるまで見送った夫の背中。それが夫を見た最後である。以来、夫から文を送ってくることもなく、宮仕えの件どころか無事でいるかもわからない。都を行き来する旅人に尋ねてみても、夫の消息を知る人は誰もいなかった。
あの人は今頃どうしているかしら…いつ帰ってこられるかしら…。待ち焦がれて一年が過ぎ、もしや何か患っているのでは、それとも別の人と…と不安と疑心暗鬼のうちに二年が過ぎ、とうとう三年。
(…あの人はもう帰って来ないのかもしれない…)
女はそう思うようになっていた。何の報せもなく、ただ待ちつづける三年のなんと長いことだろう。諦めと孤独に沈む女の元へ、ある男が文を送ってきたのはそんな折であった。
ひとりで困ったことはないか、自分に出来ることなら何でも言って欲しい…そんな文が届いた。初めこそ「こんな見え透いた誘い文句に乗るものですか」と無視していたが、男はその後も丁寧な文を送ってくる。「あなたの力になりたいのです」…幾度となく言い募る男の言葉に下心はなく、文には誠実に女を想う気持ちが綴られていた。
「……。」
待ちわびて倦んだ心が揺いだのは、仕方のないことだったのかもしれない。「今夜、あなたを妻に迎えたい」という男の言葉に、とうとう女は頷いたのだった。
(……。)
あれほど愛した夫を忘れようと言うのだ。後悔がないわけではない。罪悪感も。だが、女は待つことに疲れてしまった。孤独から掬いあげてくれた男に、希望を見い出してしまった。悲しみを湛えた目を伏せて、思い切るよう顔を上げた。そのときである。誰かが門を叩く音がした。
「俺だよ。…ただいま。開けておくれ」
懐かしい、疲れが滲むが弾んだ声。その声を忘れた日など一日もない。門を叩いたのは、他でもない待ちわびた夫であった。
「どうしたんだ?開けてくれ」
「……。」
女の胸に懐かしさと後悔が込み上げた。夫は私を捨ててなどいなかった、帰って来てくれた!……それなのに…あぁ、こんなことって…!乱れ乱れた胸の奥から飛び出したのは、どうして…というひと言だった。
「…どうしてもっと…もっと早く帰ってきてくれなかったの………わたし、今夜…新しい夫を迎えるのよ…。」
「……!」
扉を隔てて、夫が息を飲む気配がした。
男は足元が揺らいだような心地がして、ようやく踏みとどまった。
(新しい…夫…?)
腹に落ちるや、激しい失望と怒りが込み上げた。どうして?どうしてだって!?そんなもの、俺が言いたい。……どうして待っていてくれなかったんだ…約束したじゃないか!何故俺を信じてくれなかったんだ!
怒鳴りつけようとした男はしかし、一度は開いた唇を引き結んだ。扉越しに女のすすり泣く声が聞こえる。都で過ごした日々の中で、妻を想わない日は無かった。しかし募る寂しさ、焦燥、不安…女の心を疑わなかったと言えば嘘になる。……同じだ。ただ、私は間に合わなかったのだ。
「………。」
激情はみるみる間に萎んでゆき、ただやるせない気持ちだけが男を満たしていった。
男は静かに自分の手を見つめる。
俺がお前を見初めたとき、俺はまだ弦を引くことさえ難渋するような若造で、お前は裳着も済まない小娘だった。それから幾度も歌を詠み交わし、夜を重ね、睦み合って暮らしてきた。引き留めるお前に必ず帰ると約束して、それだけを頼りに今日までの三年を……三年、か。
「……。」
男は力なく手を下ろした。
梓弓、真弓、槻弓…どんな弓より手に馴染んだお前を、もう二度とこの手に抱くことはないんだな…。恨みも、失望も、後悔も、涙さえ、何もかも飲み込んで男は馬に跨った。
「新しい夫にも可愛がって貰うんだよ。…幸せになれ。」
「行かないで!」
鐙が鳴る音に夫が立ち去る気配を察した女は、思わず門からまろび出た。
「どうして止めろと言ってくれないの…俺のところに戻ってこいと何故言ってくれないのよ!?…誰に言い寄られたって、私の心はずっとあなたを想い続けているのよ!」
「………。」
喉を絞るような悲痛な声にも、男は背を向けたまま。無言で馬の腹を蹴るや走り出した。
「あっ…待って!待って!行かないで…!」
聞こえているだろうに、男はそれでも振り返らない。女は泣きながら夫を追って駆け出した。みるみる遠ざかる夫の背を必死に追いかけ、姿が見えなくなっては蹄の足跡を追い、道行く人に尋ねて、随分追い掛けて行ったけれど。
「……、……」
とうとう手掛かりすら見失って、女は山中の清水の近くに崩れるように倒れ伏した。起き上がろうにも足は萎え、手も震えて身動きひとつままならない。やっとのことで顔を上げると薄暗い森の向こう、遠くの山の端に夕日が赤く青く滲んでいた。
(…もう終わりなのね…何もかも…)
女は気力を振り絞って指の先を噛みちぎり、清水の近くにある岩に震える指で血文字の歌を書き付けた。
「あれほど想い合ったのに……この身も、あの人の心からも…私、消え果ててしまうんだわ…。」
涙が一粒、枯れるほど泣いた女の瞳から落ちて消えた。夕暮れから宵闇へ。夕焼けが燃え尽きるように、ひっそりと女も息を引き取ったのだそうな。
むかしむかし、あるところに、離れ離れに暮らす夫婦がいたそうな。
夫婦は片田舎で仲睦まじく暮らしていたが、あるとき夫に、さる人から宮仕えしないかと声がかかった。前々から目を掛けてくれていた人からの話であれば是非もない。夫はその申し出を受けたのだそうな。
「そろそろ行かなくては…。」
「…まだいいじゃない。もう少し、もう少しだけ…」
都へ発つ朝。引き留める妻を抱き寄せて、男はその背を優しく撫でた。
「…心配するな。立派に勤めあげて、たんと褒美を貰って帰ってくるよ。」
そうだ、都の土産は何がいい?男が努めて明るい声で尋ねると、何も…と男の胸に顔を埋めた女が涙を堪えて言った。
「…あなたが無事に帰ってきてくれたらそれでいいの…」
「…あぁ、約束だ。」
男はよりいっそう強く女を抱き締めた。そうして惜しみ惜しみ別れて、三年が過ぎた。
(…浮かれてるわ、わたし…)
花を活けた花瓶を床の近くに据えた女は、ふとその手を止め悲しい笑みを零した。そこに花を飾るのは三年ぶりである。今夜、女はこの部屋に夫ではない男を迎えるのだ。
あの日、見えなくなるまで見送った夫の背中。それが夫を見た最後である。以来、夫から文を送ってくることもなく、宮仕えの件どころか無事でいるかもわからない。都を行き来する旅人に尋ねてみても、夫の消息を知る人は誰もいなかった。
あの人は今頃どうしているかしら…いつ帰ってこられるかしら…。待ち焦がれて一年が過ぎ、もしや何か患っているのでは、それとも別の人と…と不安と疑心暗鬼のうちに二年が過ぎ、とうとう三年。
(…あの人はもう帰って来ないのかもしれない…)
女はそう思うようになっていた。何の報せもなく、ただ待ちつづける三年のなんと長いことだろう。諦めと孤独に沈む女の元へ、ある男が文を送ってきたのはそんな折であった。
ひとりで困ったことはないか、自分に出来ることなら何でも言って欲しい…そんな文が届いた。初めこそ「こんな見え透いた誘い文句に乗るものですか」と無視していたが、男はその後も丁寧な文を送ってくる。「あなたの力になりたいのです」…幾度となく言い募る男の言葉に下心はなく、文には誠実に女を想う気持ちが綴られていた。
「……。」
待ちわびて倦んだ心が揺いだのは、仕方のないことだったのかもしれない。「今夜、あなたを妻に迎えたい」という男の言葉に、とうとう女は頷いたのだった。
(……。)
あれほど愛した夫を忘れようと言うのだ。後悔がないわけではない。罪悪感も。だが、女は待つことに疲れてしまった。孤独から掬いあげてくれた男に、希望を見い出してしまった。悲しみを湛えた目を伏せて、思い切るよう顔を上げた。そのときである。誰かが門を叩く音がした。
「俺だよ。…ただいま。開けておくれ」
懐かしい、疲れが滲むが弾んだ声。その声を忘れた日など一日もない。門を叩いたのは、他でもない待ちわびた夫であった。
「どうしたんだ?開けてくれ」
「……。」
女の胸に懐かしさと後悔が込み上げた。夫は私を捨ててなどいなかった、帰って来てくれた!……それなのに…あぁ、こんなことって…!乱れ乱れた胸の奥から飛び出したのは、どうして…というひと言だった。
「…どうしてもっと…もっと早く帰ってきてくれなかったの………わたし、今夜…新しい夫を迎えるのよ…。」
「……!」
扉を隔てて、夫が息を飲む気配がした。
男は足元が揺らいだような心地がして、ようやく踏みとどまった。
(新しい…夫…?)
腹に落ちるや、激しい失望と怒りが込み上げた。どうして?どうしてだって!?そんなもの、俺が言いたい。……どうして待っていてくれなかったんだ…約束したじゃないか!何故俺を信じてくれなかったんだ!
怒鳴りつけようとした男はしかし、一度は開いた唇を引き結んだ。扉越しに女のすすり泣く声が聞こえる。都で過ごした日々の中で、妻を想わない日は無かった。しかし募る寂しさ、焦燥、不安…女の心を疑わなかったと言えば嘘になる。……同じだ。ただ、私は間に合わなかったのだ。
「………。」
激情はみるみる間に萎んでゆき、ただやるせない気持ちだけが男を満たしていった。
男は静かに自分の手を見つめる。
俺がお前を見初めたとき、俺はまだ弦を引くことさえ難渋するような若造で、お前は裳着も済まない小娘だった。それから幾度も歌を詠み交わし、夜を重ね、睦み合って暮らしてきた。引き留めるお前に必ず帰ると約束して、それだけを頼りに今日までの三年を……三年、か。
「……。」
男は力なく手を下ろした。
梓弓、真弓、槻弓…どんな弓より手に馴染んだお前を、もう二度とこの手に抱くことはないんだな…。恨みも、失望も、後悔も、涙さえ、何もかも飲み込んで男は馬に跨った。
「新しい夫にも可愛がって貰うんだよ。…幸せになれ。」
「行かないで!」
鐙が鳴る音に夫が立ち去る気配を察した女は、思わず門からまろび出た。
「どうして止めろと言ってくれないの…俺のところに戻ってこいと何故言ってくれないのよ!?…誰に言い寄られたって、私の心はずっとあなたを想い続けているのよ!」
「………。」
喉を絞るような悲痛な声にも、男は背を向けたまま。無言で馬の腹を蹴るや走り出した。
「あっ…待って!待って!行かないで…!」
聞こえているだろうに、男はそれでも振り返らない。女は泣きながら夫を追って駆け出した。みるみる遠ざかる夫の背を必死に追いかけ、姿が見えなくなっては蹄の足跡を追い、道行く人に尋ねて、随分追い掛けて行ったけれど。
「……、……」
とうとう手掛かりすら見失って、女は山中の清水の近くに崩れるように倒れ伏した。起き上がろうにも足は萎え、手も震えて身動きひとつままならない。やっとのことで顔を上げると薄暗い森の向こう、遠くの山の端に夕日が赤く青く滲んでいた。
(…もう終わりなのね…何もかも…)
女は気力を振り絞って指の先を噛みちぎり、清水の近くにある岩に震える指で血文字の歌を書き付けた。
「あれほど想い合ったのに……この身も、あの人の心からも…私、消え果ててしまうんだわ…。」
涙が一粒、枯れるほど泣いた女の瞳から落ちて消えた。夕暮れから宵闇へ。夕焼けが燃え尽きるように、ひっそりと女も息を引き取ったのだそうな。
