筒井つの
公開 2023/08/28 00:01
最終更新
2023/08/29 01:12
筒井つの
むかしむかし、とある片田舎に幼なじみがいたそうな。
お隣さん同士、その男の子と女の子はとても仲が良く、小さい頃はよく井戸端で遊んでいたそうな。ところがそれぞれ年頃になると妙に気恥しく、話すどころか何となくお互い避けて暮らすようになってしまった。男は「あの子を妻にしたい」と思い、女は「あの人を夫に」と願いつつも言い出せず。それぞれの親は「お前、そろそろ身を固めないか。どうだお隣さんとこの…あの人なら申し分ないだろう」と水を向けるが、二人とも煮え切らない様子であった。
さてそんな折。男から隣の娘へ
「なぁ、子どもの頃、井戸の囲いで君と丈比べをしたこと覚えているかい?君と会わない間に随分背も伸びたんだぜ、俺。」
俺はもう子どもじゃない。身を固めたっておかしくない年頃だ…君はどうだ。と水を向けた。
(……。)
遠目からこっそり見るだけだった青年の、日に日に頼もしくなる背中が思い浮かぶ。とうとう女も心を決めて、
「あなたと比べ合ったこの振り分け髪も、もう肩を過ぎてしまったわ……あなた以外の、誰のために髪を上げると言いましょう。」
と詠み返し、ついに二人は想いを通じ合わせて夫婦になったのだった。
さて、それから年月が経ち、女の父親が亡くなると妻の家は日に日に貧しくなっていった。使用人が減り、身の回りの物を売り、酒もなく粗末な食事を分け合う生活である。妻の実家で暮らしていた男はしみったれた生活に嫌気がさし、河内の国、高安の郡に住む女のところへ通うようになった。ところが妻は別の女との逢瀬に出かけると知りながら、嫌な顔ひとつせず夫を送り出すのである。
(どうにもおかしい。アイツ…他に男でも出来たに違いない。)
妻の密通を疑った男は、いつものように河内へ行くフリをして家の前栽の茂みの中に身を潜めた。妻のところへ間男がやってきたら、現場を抑えてやろうという心積りである。さて日が暮れ、茂みに隠れた男の着物を夜露がしっとりと濡らす頃。女が部屋にやって来て化粧を始めた。
(あぁ、やっぱりそうか。これから男と逢う気だな、あの女…)
苦々しさを堪えて機を伺っていると、さっと風が吹き、カタカタと戸を揺らした。
「……。」
念入りに化粧をしていた女が手を止めて、首を伸ばしてキョロキョロと庭を見回す。
(ふん…間男が来たかと思ったか。馬鹿な女め…)
見つからないように様子を伺っていると、じきに女は肩を落とした様子で化粧道具を片付けた。しらじらと白い顔で月を眺め、
「風が戸を揺らすから、あの人が帰ってきたかと目が覚めてしまったけれど。…まだ月があんなに高くに…今頃あの人は龍田山をひとりで越えている頃かしら…。」
と詠み、そのままぼんやりと庭を眺めている。
男は庭に隠れたまま、ぎゅっと胸を掴まれるような思いがした。
(あぁ…俺は…俺はなんという勘違いを…!アイツは俺の帰りを待っていたのか…!)
妻は風が立てた物音を聞いて俺が帰ってきたかと床を出で、念入りに化粧をして待っていたのだ。茂みの中で男は自分の身勝手さを深く恥じ、また妻のいじらしさがこの上なく愛おしく思われて、河内の女のところへはあまり通わなくなってしまったのだそうな。
あの一件以降、それでも男はごく偶に高安の女のところへ通っていた。しかし逆上せている間は気付かないことが、熱が落ち着くと目に付くようになるのか。はじめのうちこそ上品に取り繕ってはいたものの、次第に打ち解けてくるとどうも粗が目に付くようになった。そうして手ずからしゃもじを取って自分の茶碗に飯を盛っている女の姿を見た男は、下品な振る舞いに幻滅してしまい高安の女のところへは通わなくなってしまった。
一時は足繁く通ってきた男であったのに、どうした心変わりだろう…。雨のそぼ降る日、高安の女は男の住まいがあるほうを家の中から眺め、
「あなたがいらっしゃるあたりを、蔀戸の隙間から腰をかがめて眺めているのよ…雨は降っても、どうか雲よ…生駒山を隠さないでおくれ。」
と寂しく待ち続けていた。するとだいぶ間を空けて、やっとのことで大和の男から「今夜行く」と便りが来た。高安の女は喜んで、男の来訪を心待ちにしていたが…男はちっとも通って来ない。その後も何度となくすっぽかされ、虚しい夜を過ごしたのだった。
「あなたが行くと仰った夜、何度虚しく夜を明かしたことでしょう。アテにならない人と恨みながらも、こうしてあなたが来られるのを待って虚しく時を過ごしておりますのよ。」
高安の女はそう詠み送ったが、とうとう男の訪問は絶え、ふたりの関係も絶えてしまったのだそうな。
むかしむかし、とある片田舎に幼なじみがいたそうな。
お隣さん同士、その男の子と女の子はとても仲が良く、小さい頃はよく井戸端で遊んでいたそうな。ところがそれぞれ年頃になると妙に気恥しく、話すどころか何となくお互い避けて暮らすようになってしまった。男は「あの子を妻にしたい」と思い、女は「あの人を夫に」と願いつつも言い出せず。それぞれの親は「お前、そろそろ身を固めないか。どうだお隣さんとこの…あの人なら申し分ないだろう」と水を向けるが、二人とも煮え切らない様子であった。
さてそんな折。男から隣の娘へ
「なぁ、子どもの頃、井戸の囲いで君と丈比べをしたこと覚えているかい?君と会わない間に随分背も伸びたんだぜ、俺。」
俺はもう子どもじゃない。身を固めたっておかしくない年頃だ…君はどうだ。と水を向けた。
(……。)
遠目からこっそり見るだけだった青年の、日に日に頼もしくなる背中が思い浮かぶ。とうとう女も心を決めて、
「あなたと比べ合ったこの振り分け髪も、もう肩を過ぎてしまったわ……あなた以外の、誰のために髪を上げると言いましょう。」
と詠み返し、ついに二人は想いを通じ合わせて夫婦になったのだった。
さて、それから年月が経ち、女の父親が亡くなると妻の家は日に日に貧しくなっていった。使用人が減り、身の回りの物を売り、酒もなく粗末な食事を分け合う生活である。妻の実家で暮らしていた男はしみったれた生活に嫌気がさし、河内の国、高安の郡に住む女のところへ通うようになった。ところが妻は別の女との逢瀬に出かけると知りながら、嫌な顔ひとつせず夫を送り出すのである。
(どうにもおかしい。アイツ…他に男でも出来たに違いない。)
妻の密通を疑った男は、いつものように河内へ行くフリをして家の前栽の茂みの中に身を潜めた。妻のところへ間男がやってきたら、現場を抑えてやろうという心積りである。さて日が暮れ、茂みに隠れた男の着物を夜露がしっとりと濡らす頃。女が部屋にやって来て化粧を始めた。
(あぁ、やっぱりそうか。これから男と逢う気だな、あの女…)
苦々しさを堪えて機を伺っていると、さっと風が吹き、カタカタと戸を揺らした。
「……。」
念入りに化粧をしていた女が手を止めて、首を伸ばしてキョロキョロと庭を見回す。
(ふん…間男が来たかと思ったか。馬鹿な女め…)
見つからないように様子を伺っていると、じきに女は肩を落とした様子で化粧道具を片付けた。しらじらと白い顔で月を眺め、
「風が戸を揺らすから、あの人が帰ってきたかと目が覚めてしまったけれど。…まだ月があんなに高くに…今頃あの人は龍田山をひとりで越えている頃かしら…。」
と詠み、そのままぼんやりと庭を眺めている。
男は庭に隠れたまま、ぎゅっと胸を掴まれるような思いがした。
(あぁ…俺は…俺はなんという勘違いを…!アイツは俺の帰りを待っていたのか…!)
妻は風が立てた物音を聞いて俺が帰ってきたかと床を出で、念入りに化粧をして待っていたのだ。茂みの中で男は自分の身勝手さを深く恥じ、また妻のいじらしさがこの上なく愛おしく思われて、河内の女のところへはあまり通わなくなってしまったのだそうな。
あの一件以降、それでも男はごく偶に高安の女のところへ通っていた。しかし逆上せている間は気付かないことが、熱が落ち着くと目に付くようになるのか。はじめのうちこそ上品に取り繕ってはいたものの、次第に打ち解けてくるとどうも粗が目に付くようになった。そうして手ずからしゃもじを取って自分の茶碗に飯を盛っている女の姿を見た男は、下品な振る舞いに幻滅してしまい高安の女のところへは通わなくなってしまった。
一時は足繁く通ってきた男であったのに、どうした心変わりだろう…。雨のそぼ降る日、高安の女は男の住まいがあるほうを家の中から眺め、
「あなたがいらっしゃるあたりを、蔀戸の隙間から腰をかがめて眺めているのよ…雨は降っても、どうか雲よ…生駒山を隠さないでおくれ。」
と寂しく待ち続けていた。するとだいぶ間を空けて、やっとのことで大和の男から「今夜行く」と便りが来た。高安の女は喜んで、男の来訪を心待ちにしていたが…男はちっとも通って来ない。その後も何度となくすっぽかされ、虚しい夜を過ごしたのだった。
「あなたが行くと仰った夜、何度虚しく夜を明かしたことでしょう。アテにならない人と恨みながらも、こうしてあなたが来られるのを待って虚しく時を過ごしておりますのよ。」
高安の女はそう詠み送ったが、とうとう男の訪問は絶え、ふたりの関係も絶えてしまったのだそうな。
