武蔵野
公開 2023/08/27 18:23
最終更新 2023/09/06 06:34
むかしむかし、東国でもやらかした男がいたそうな。
娘の父親と折り合いが悪かったのか、周囲の好奇と詮索の目に堪えかねたのか。男は懇ろになった娘を連れて逃げ出した。当然、娘の家では「男が娘を連れ去った、盗み出した!」と大騒ぎになり、国衙の兵まで出張っての大捜索となった。
「……。」
背後に聞こえる荒い息遣いと、どたどしい足音。背の高い草を分けて進みながら、男は娘を振り返り眉を寄せた。苦しげに喘ぐ女の足は、今にも止まりそうである。
(…くそ…ここまでか…)
女の手を引いて武蔵野の枯れ野原までなんとか逃げてきた男であったが、このままでは家の者に追いつかれるのも時間の問題である。男が足を止めると、女は少しほっとした様子で整わない息のまま、どうなさったのと尋ねた。
「…疲れただろう。少しの間、ここで隠れて休んでいなさい。」
「…待って、どこへ行かれるの…?」
一転して女の顔に不安が過ぎる。
「この先に馬を繋いである。馬を曳いて迎えにくるまで、お前はここで待っていてくれ。」
「嫌よ、ひとりなんて!…一緒に行きます、置いていかないで!」
努めて穏やかな声で諭すが、女は怯えた顔で取り縋る。男は焦る心を飲み込んで、その手を優しく取った。
「…大丈夫、ほんの少しの間だ。それにもしお前が見つかっても、家の者たちは無下には扱わないだろう。必ず迎えに来る…約束だ。」
力強い眼差しが、じっと女のいらえを待っている。
「…わかりました。」
ようよう頷くや、男は女をその場に残し再び草原に駆け出して行った。
さて女が隠れる草原にいよいよ追っ手が追い付いたらしい。あちこちからガサガサと草を分ける足音と、荒々しい声がする。
(……。)
息を殺して震える女の耳に、
「この野っ原に盗人がいるはずだ。」
「えぇい、この草といったら…キリがねぇや。」
「おい、一旦引き上げて火を放とう。そうすりゃ盗人も炙り出されてくるだろうよ。」
などと恐ろしい言葉が聞こえる。震え上がった女は、やめて!と思わず叫んだ。
「お止めください…夫も私もここにおります…どうか火を放つのだけは…。」
こっちだ!いたぞ!涙まじりの訴えを聞き、兵どもの声が近づいてくる。とうとう女も兵どもに捕まってしまったのだった。引ったてられた女の裳裾が、芽吹いたばかりの若芽を揺らす。取り縋った男の衣と同じ若草色である。
「あの、夫は…あの人はどうなりましたか?」
女が心配そうに問うと、兵は呆れ顔で「貴方を置いて馬で逃げようとしていたところを捕まえましたよ」と言った。縄を掛けられ男は、女ともども国衙に連れて行かれたのだそうな。
古典と怪談が好きな茸です。タイッツーに生息。
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