東下り
公開 2023/08/27 18:21
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東下り
むかしむかし、あるところに右往左往しつつ旅を続ける男がいたそうな。
「ここに私の居場所はない。」
京での暮らしに見切りをつけた男は、一人二人友を連れて居場所を求めて東国を目指し旅を続けていた。とはいえ地理に疎ければ世間にも疎い、若い貴公子たちである。あっちへふらふら、こっちへふらふら心許ない一行は、やっとのことで三河国の八橋というあたりに辿り着いた。八橋という地名は、蜘蛛の手足のように幾筋も流れる沢に八つ橋を渡したことで「八橋」と呼ばれるようになったのだという。ある沢のほとり、木の影に馬を繋いだ一行は、腰を下ろして乾飯の包みを開いた。その沢には杜若が咲いていたが、それがなんとも言えない素晴らしい風情である。乾飯を摘んでいた連れのひとりが、
「なぁ、か・き・つ・ば・たの五文字を先頭にして、この旅の心を読んでくれよ。」
と言う。にこやかに談笑していた男は、ふっと遠くを見つめて
「随分遠くへ来たものだなぁ…着慣れた衣のように肌に馴染んだあの人は、今ごろ京でどうしておられるだろう…。」
と詠んだ。連れの青年たちも、それぞれ残してきた人を思い浮かべたのだろう。ほろほろと涙を落とすので、手のひらの乾飯がふやけてしまったのだった。
さらに一行は足を進めて、駿河国は宇津へと辿り着いた。宇津の山を越えようと宇津ノ谷峠に来たものの、道は狭い上に蔦や楓が鬱蒼と茂り、そこから見通せるところでさえも薄暗く気味が悪い。京でこんな道は見たことがない…と心細げな顔を見合せて馬を進めようと言う者もいない。すると、
「もし、こんな道を行かれるのですか。お止めなさい、追い剥ぎが出ますよ。」
と躊躇う一行を心配して声をかける修行僧がいた。
「なんと。これはご親切に…あ。」
「おや、貴方は…」
振り返れば、その人は都にいた頃の知り合いであった。僧は旅姿の男と一行を見て何やら事情があると察したらしい。何も尋ねず、「私は京へ戻る途中ですので。皆様もお気をつけて…」とそそくさ行こうとする。「あ、今しばらく!」と僧を引き止めて、男はその場で歌を書き付けた。
「いま私は、駿河は宇津の山辺におります。こんなに遠く離れてしまったせいなのでしょうか…うつつどころか、夢でさえ会いに来てくださらないのは。どうか夢でもいいからお顔を見せてください。」
と息災を伝える歌を詠んで顔を上げれば、五月も末だと言うのに富士の峰には白々と雪が積もっている。白露さえ見たことのない女へ、この見事な景色を見せてやりたいと
「富士という山は、時季を知らない山なのでしょう。夏というのに嶺には鹿の子まだらに雪が降り積もっておりますよ。」
と続けて詠み、「京の『あのお方』へ届けてください。」と僧に託したのだった。
富士の山は、京で言えばそう…比叡山を二十ほど積み上げたほどの大きさで、形は盛り塩のような円錐形をしているのであった。
さて。一行はさらにさらに馬を進めてようやく東国、武蔵国と下総国の間を流れる隅田川という大きな河の辺りに辿り着いた。ほとりに立って見渡せば、水辺には葦が生い茂り、野には粗末な家から煮炊きの煙が幾筋か見えるのみである。過ぎし方、華やかな都に思いを馳せて、流れ流れて遥々こんなところまで来てしまったなぁ…としんみりと語り合っていた一行であったが、
「おうおう、旦那がた!乗るなら早く乗ってくんな!日が暮れっちまうよ!」
「……。」
賎しい身なりの渡し守が、がなり声で急き立てる。皆渋い顔で乗り込んだが、誰もが京に大切な人を残してきている。舟に揺られながら心はまた京へと向かうのだった。さて、各々しんみりと水辺を眺めていた折のこと。川面を飛びながら魚を採って食らう鳥がいた。白い体はシギほどの大きさで、嘴と足だけが赤い。都では誰も見たことがない鳥であった。
「おい船頭よ、あの鳥は何という名前なんだ。」
一行のひとりが問うと、
「ありゃ『都鳥』ってんでさぁ」
と渡し守は素っ気なく答えた。
都鳥…。男はぽつりと呟いて、
「…その名を背負った鳥ならば、なぁ、聞かせておくれよ。私の想い人は変わらず健やかでおられるかい?……変わらず私を想ってくれているかい?」
と胸の裡を歌に詠んだ。ゆらゆら揺れる小舟のように、ひとの心は心許ないものである。みな同じ思いを抱えていたのだろう。舟の一行は皆ほろほろと涙をこぼし、男の想いに感じ入った渡し守までもがおいおいと咽び泣いたのだそうな。
むかしむかし、あるところに右往左往しつつ旅を続ける男がいたそうな。
「ここに私の居場所はない。」
京での暮らしに見切りをつけた男は、一人二人友を連れて居場所を求めて東国を目指し旅を続けていた。とはいえ地理に疎ければ世間にも疎い、若い貴公子たちである。あっちへふらふら、こっちへふらふら心許ない一行は、やっとのことで三河国の八橋というあたりに辿り着いた。八橋という地名は、蜘蛛の手足のように幾筋も流れる沢に八つ橋を渡したことで「八橋」と呼ばれるようになったのだという。ある沢のほとり、木の影に馬を繋いだ一行は、腰を下ろして乾飯の包みを開いた。その沢には杜若が咲いていたが、それがなんとも言えない素晴らしい風情である。乾飯を摘んでいた連れのひとりが、
「なぁ、か・き・つ・ば・たの五文字を先頭にして、この旅の心を読んでくれよ。」
と言う。にこやかに談笑していた男は、ふっと遠くを見つめて
「随分遠くへ来たものだなぁ…着慣れた衣のように肌に馴染んだあの人は、今ごろ京でどうしておられるだろう…。」
と詠んだ。連れの青年たちも、それぞれ残してきた人を思い浮かべたのだろう。ほろほろと涙を落とすので、手のひらの乾飯がふやけてしまったのだった。
さらに一行は足を進めて、駿河国は宇津へと辿り着いた。宇津の山を越えようと宇津ノ谷峠に来たものの、道は狭い上に蔦や楓が鬱蒼と茂り、そこから見通せるところでさえも薄暗く気味が悪い。京でこんな道は見たことがない…と心細げな顔を見合せて馬を進めようと言う者もいない。すると、
「もし、こんな道を行かれるのですか。お止めなさい、追い剥ぎが出ますよ。」
と躊躇う一行を心配して声をかける修行僧がいた。
「なんと。これはご親切に…あ。」
「おや、貴方は…」
振り返れば、その人は都にいた頃の知り合いであった。僧は旅姿の男と一行を見て何やら事情があると察したらしい。何も尋ねず、「私は京へ戻る途中ですので。皆様もお気をつけて…」とそそくさ行こうとする。「あ、今しばらく!」と僧を引き止めて、男はその場で歌を書き付けた。
「いま私は、駿河は宇津の山辺におります。こんなに遠く離れてしまったせいなのでしょうか…うつつどころか、夢でさえ会いに来てくださらないのは。どうか夢でもいいからお顔を見せてください。」
と息災を伝える歌を詠んで顔を上げれば、五月も末だと言うのに富士の峰には白々と雪が積もっている。白露さえ見たことのない女へ、この見事な景色を見せてやりたいと
「富士という山は、時季を知らない山なのでしょう。夏というのに嶺には鹿の子まだらに雪が降り積もっておりますよ。」
と続けて詠み、「京の『あのお方』へ届けてください。」と僧に託したのだった。
富士の山は、京で言えばそう…比叡山を二十ほど積み上げたほどの大きさで、形は盛り塩のような円錐形をしているのであった。
さて。一行はさらにさらに馬を進めてようやく東国、武蔵国と下総国の間を流れる隅田川という大きな河の辺りに辿り着いた。ほとりに立って見渡せば、水辺には葦が生い茂り、野には粗末な家から煮炊きの煙が幾筋か見えるのみである。過ぎし方、華やかな都に思いを馳せて、流れ流れて遥々こんなところまで来てしまったなぁ…としんみりと語り合っていた一行であったが、
「おうおう、旦那がた!乗るなら早く乗ってくんな!日が暮れっちまうよ!」
「……。」
賎しい身なりの渡し守が、がなり声で急き立てる。皆渋い顔で乗り込んだが、誰もが京に大切な人を残してきている。舟に揺られながら心はまた京へと向かうのだった。さて、各々しんみりと水辺を眺めていた折のこと。川面を飛びながら魚を採って食らう鳥がいた。白い体はシギほどの大きさで、嘴と足だけが赤い。都では誰も見たことがない鳥であった。
「おい船頭よ、あの鳥は何という名前なんだ。」
一行のひとりが問うと、
「ありゃ『都鳥』ってんでさぁ」
と渡し守は素っ気なく答えた。
都鳥…。男はぽつりと呟いて、
「…その名を背負った鳥ならば、なぁ、聞かせておくれよ。私の想い人は変わらず健やかでおられるかい?……変わらず私を想ってくれているかい?」
と胸の裡を歌に詠んだ。ゆらゆら揺れる小舟のように、ひとの心は心許ないものである。みな同じ思いを抱えていたのだろう。舟の一行は皆ほろほろと涙をこぼし、男の想いに感じ入った渡し守までもがおいおいと咽び泣いたのだそうな。
