月やあらぬ
公開 2023/08/27 18:14
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月やあらぬ
むかしむかし、東の京の五条に皇太后様の御屋敷があり、その御屋敷の西の対に姪である高子様が住んでおられたそうな。
困ったことにその西の対へ高子様を深く慕い、度々訪う男があった。高子様は既に入内が決まっている身である。何かあっては事だと危機感を抱いた親族の方たちが、睦月の十日ばかりの間に急遽、高子様を別の場所へ引越しさせて隠してしまわれた。
高子様を慕っていた男は、転居先は噂で聞いて知っていたけれど、そこは自分がふらふらしていては何かと差し障りのある場所である。そこにいるとわかっているのに逢うことも出来ず、尚もどかしさを抱えて悶々と日々を送っていたのだという。
会えないまま一年が過ぎた、翌年の睦月、梅の花盛りの頃。かつて女と過ごした日々を忘れがたく、男は例の西の対に出かけて行った。しかし人がいなくなった屋敷はガランとして、あちこちに傷みも見える。かつて過ごした女の部屋を立って眺め、座って眺め、場所を変えて眺めて見たけれど、去年と同じ景色などどこにもない。
男はぼろぼろと涙を流して、荒れた板敷に随分長く伏せて泣いていた。月が傾く頃、ようやく顔を上げた男は去年の今頃を思い出しながら、
「月はもちろん、春も去年の春ではないのに。私ひとりだけ思い出の中に取り残されてしまった…」
と詠み、またぼろぼろと涙をこぼしたのだった。やがて月が沈み、ほんのり空が明るくなる頃。男はようやく諦めて、泣く泣く家へと帰ったのだそうである。
むかしむかし、東の京の五条に皇太后様の御屋敷があり、その御屋敷の西の対に姪である高子様が住んでおられたそうな。
困ったことにその西の対へ高子様を深く慕い、度々訪う男があった。高子様は既に入内が決まっている身である。何かあっては事だと危機感を抱いた親族の方たちが、睦月の十日ばかりの間に急遽、高子様を別の場所へ引越しさせて隠してしまわれた。
高子様を慕っていた男は、転居先は噂で聞いて知っていたけれど、そこは自分がふらふらしていては何かと差し障りのある場所である。そこにいるとわかっているのに逢うことも出来ず、尚もどかしさを抱えて悶々と日々を送っていたのだという。
会えないまま一年が過ぎた、翌年の睦月、梅の花盛りの頃。かつて女と過ごした日々を忘れがたく、男は例の西の対に出かけて行った。しかし人がいなくなった屋敷はガランとして、あちこちに傷みも見える。かつて過ごした女の部屋を立って眺め、座って眺め、場所を変えて眺めて見たけれど、去年と同じ景色などどこにもない。
男はぼろぼろと涙を流して、荒れた板敷に随分長く伏せて泣いていた。月が傾く頃、ようやく顔を上げた男は去年の今頃を思い出しながら、
「月はもちろん、春も去年の春ではないのに。私ひとりだけ思い出の中に取り残されてしまった…」
と詠み、またぼろぼろと涙をこぼしたのだった。やがて月が沈み、ほんのり空が明るくなる頃。男はようやく諦めて、泣く泣く家へと帰ったのだそうである。
