芥川
公開 2023/08/27 18:17
最終更新
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芥川
むかしむかし、あるところに厄介な恋に身を焦がす男がいたそうな。
決して結ばれることがないと知りながらも、諦めきれない男は幾度も女の許へ足を運び、繰り返し求婚していた。しかし彼女は最初から行く先の決まっている人である。入内したらもう二度と触れることも叶わぬ人になってしまう…。思い詰めた男は遂に、夜に紛れて必死の思いで彼女を盗み出した。
真夜中の真っ暗闇の中を、女を抱えて馬を走らせる男はようやく摂津の国、芥川という河辺までやってきた。
「ねぇ、あの小さな光る玉は何かしら。」
草に置いた夜露を見て女が尋ねた。しかし男はこの辺りの地理に疎く、まして夜更けであるから追い剥ぎや妖の類が出るかもしれぬと気が気では無い。えぇ…とか、はぁ…とか気のない返事で返すのみだった。さてどちらへ向かえばいいかと見回しているうちに、どっと激しく雷が鳴り、雨まで降り出した。
「……。」
あぁ…なんて間が悪いんだ。男は舌打ちして、女を抱いて崩れかけた蔵へ押しやるように入らせた。そのまま弓矢をとって背を向けると、
「ひとりじゃ恐ろしいわ。傍にいて…」
と女が引き留める。いじらしい姿に後ろ髪引かれつつも、
「…ご安心ください。私はこの扉のすぐ向こうにおりますから」
と言い聞かせて男は蔵の扉を閉めた。一寸先も見えない闇夜に雷鳴が轟き、雨風は激しく吹き付ける。
(くそ…早く夜が明けないものかな…。)
焦燥に駆られつつ、稲光がのたうつ空を睨んだその後ろ、扉の向こう。真っ暗な蔵の中に突然鬼が現れて、ひと口に女を食ってしまった。女の短い悲鳴も雷にかき消されて聞こえなかったのだろう。ようやく雨雲も晴れて空が白々と明けてきた頃。
「そろそろ夜が明けます。もう大丈夫ですよ。…高子様?」
振り返って声をかけたが、返事がない。訝しんだ男がそっと扉を開けると、薄明るくなった蔵の中に女の姿は影も形もなかった。
「ちくしょう、やられた!」
地団駄を踏んで悔しがっても、もうどうにもならない。
「『あれは真珠かしら』とあの人が尋ねたときに、『あれが歌に詠まれた露というものですよ』と答えて、ふたり一緒に儚く消えてしまえばよかった…」
とびしょ濡れの袖を更に涙で濡らしたのだそうな。
……というのは建前で。
これは後に二条の后と呼ばれる高子様が、従姉妹にあたる文徳天皇の女御であられた明子様にお仕えしていた頃のこと。女房姿があまりに美しかったので、思い余った男が高子様を背負って盗み出したのだそうな。当時まだ位の低かった高子様の兄君たちが参内の途中、何者かが激しく泣く声を聞きつけた。訝った兄君たちが引き止めて姿を改めたところ、なんとそれは女房として出仕していた妹君だったので保護したというのがことの真相であるらしい。しかし事実そのままでは格好がつかないので、兄君たちが保護した顛末を『鬼に食われた』としたのだろう。二条の后様がまだお若く、入内する前の頃のお話だそうな。
むかしむかし、あるところに厄介な恋に身を焦がす男がいたそうな。
決して結ばれることがないと知りながらも、諦めきれない男は幾度も女の許へ足を運び、繰り返し求婚していた。しかし彼女は最初から行く先の決まっている人である。入内したらもう二度と触れることも叶わぬ人になってしまう…。思い詰めた男は遂に、夜に紛れて必死の思いで彼女を盗み出した。
真夜中の真っ暗闇の中を、女を抱えて馬を走らせる男はようやく摂津の国、芥川という河辺までやってきた。
「ねぇ、あの小さな光る玉は何かしら。」
草に置いた夜露を見て女が尋ねた。しかし男はこの辺りの地理に疎く、まして夜更けであるから追い剥ぎや妖の類が出るかもしれぬと気が気では無い。えぇ…とか、はぁ…とか気のない返事で返すのみだった。さてどちらへ向かえばいいかと見回しているうちに、どっと激しく雷が鳴り、雨まで降り出した。
「……。」
あぁ…なんて間が悪いんだ。男は舌打ちして、女を抱いて崩れかけた蔵へ押しやるように入らせた。そのまま弓矢をとって背を向けると、
「ひとりじゃ恐ろしいわ。傍にいて…」
と女が引き留める。いじらしい姿に後ろ髪引かれつつも、
「…ご安心ください。私はこの扉のすぐ向こうにおりますから」
と言い聞かせて男は蔵の扉を閉めた。一寸先も見えない闇夜に雷鳴が轟き、雨風は激しく吹き付ける。
(くそ…早く夜が明けないものかな…。)
焦燥に駆られつつ、稲光がのたうつ空を睨んだその後ろ、扉の向こう。真っ暗な蔵の中に突然鬼が現れて、ひと口に女を食ってしまった。女の短い悲鳴も雷にかき消されて聞こえなかったのだろう。ようやく雨雲も晴れて空が白々と明けてきた頃。
「そろそろ夜が明けます。もう大丈夫ですよ。…高子様?」
振り返って声をかけたが、返事がない。訝しんだ男がそっと扉を開けると、薄明るくなった蔵の中に女の姿は影も形もなかった。
「ちくしょう、やられた!」
地団駄を踏んで悔しがっても、もうどうにもならない。
「『あれは真珠かしら』とあの人が尋ねたときに、『あれが歌に詠まれた露というものですよ』と答えて、ふたり一緒に儚く消えてしまえばよかった…」
とびしょ濡れの袖を更に涙で濡らしたのだそうな。
……というのは建前で。
これは後に二条の后と呼ばれる高子様が、従姉妹にあたる文徳天皇の女御であられた明子様にお仕えしていた頃のこと。女房姿があまりに美しかったので、思い余った男が高子様を背負って盗み出したのだそうな。当時まだ位の低かった高子様の兄君たちが参内の途中、何者かが激しく泣く声を聞きつけた。訝った兄君たちが引き止めて姿を改めたところ、なんとそれは女房として出仕していた妹君だったので保護したというのがことの真相であるらしい。しかし事実そのままでは格好がつかないので、兄君たちが保護した顛末を『鬼に食われた』としたのだろう。二条の后様がまだお若く、入内する前の頃のお話だそうな。
