流れ星は見えない
公開 2023/09/24 17:36
最終更新
2024/07/13 09:01
※琥珀のガーデンパーティー翌日
「ジロー、ステイ」
「……」
「……グッボーイ! よく出来ました」
「わふっ」
リビングの入口から見える光景に、声を掛けようと開けた口を、そのままぱくんと閉じてしまった。
リビングから直接庭へ出ることが出来る大きな窓を開け放ったそこで、リチャードがしゃがんでジローと一緒に戯れていた。
待て、お手、お座り、伏せ。
そういう簡単な命令を出して、もし上手く出来たら思い切り褒めて撫で回す。出来なかったらもう一度。ジローは賢い子なのですぐに命令を覚えたが、時々は復習も兼ねて定期的に行っている。
俺たちとジローのコミュニケーションと躾を兼ねた一種の遊びのようなものだ。
よく出来ました、というリチャードの言葉が合図になったのか、じゃれつくジローをリチャードは宥めもせず好きにさせていたが、ふと頭と背中を撫でる手をゆっくりとしたものに変えていた。
「ジロー、あなたに弟か妹が出来るかもしれません。いえ、恐らく弟でしょう。あなたと相性の良い元気な子が見つかるように努力いたします」
「くぅ……?」
「家族が増えるのが不安ですか? それともまさか、その弟に私と正義を取られるとでも? そんなことを心配する必要はありません。私たちは家族が増えてもあなたが大好きですよ」
「わふぅ」
「それにいつも遊べる相手が出来るのは良いことではありませんか? 存分にかけっこも出来ますよ」
「わんっ」
「ふふ、分かって頂けましたか。あなたはとても賢く優しい子ですね。楽しみですね、ジロー」
「わう、わふっ」
昨夜、俺がリチャードに打ち明けた「もう一匹犬を飼わないか」という提案を、リチャードは思っていた以上に真剣に考えてくれたらしい。
相変わらず優しい奴だ。けれどそれをジローにまで話すとは――本当にジローの言葉が全部分かっているかのように返事をしながらなんて――俺も思っていなかった。
堪えきれず小さく吹き出した俺にようやく気付いたらしいリチャードは、数秒前まで浮かべていた慈愛に満ちた笑顔を一瞬で取り払いながら振り向いた。
俺の登場に機嫌よく尻尾を振っているジローとは真逆のそれに、今度こそ笑い声が出てしまう。
「……正義」
「ぶっは……! いやぁ、ごめ……っ、別にこっそり聞くつもりは、なか、っふふ」
「今すぐ」
「でもおまえが前向きに考えてくれてるのが分かって嬉し……っふは、ふふ、嬉しいよ、うん」
「忘れろ」
「っはー……。うん、そうだな、早めに決めないと」
「……忘れましたか?」
「うんうん、忘れた、忘れた! 今の俺にはおまえがジローの躾しながら遊んでたことしか記憶にないから安心してくれていいぞ。あと、二匹目を飼いたいって言ったこと、ちゃんと考えてくれてありがとうな」
「……いえ、お気になさらず。私もジローのためにもそれが良いのでは、と思っただけです」
照れ隠しのために少しだけツンとしながら言うのがリチャードの可愛いところだ。
ジローを優しく撫で直しているリチャードの周りに柔らかい日差しが差し込み、微細な埃がダイヤモンドダストのように輝いている。
まるで一枚の絵画のような光景が、じわじわと俺の胸の中を温かいもので満たしていくのが分かる。
今そこに、俺の目の前にいるのは、俺が世界で一番大切に想っている人と、小さいけれど元気な家族だ。それは昨日と何も変わっていないはずなのに、何故か今はそれがすごく……今まで以上に、かけがえのないことなのだと思える。
昨夜リチャードが、俺の「好きな人」になることを許してくれたからだろうか。
俺にとって、リチャードに向ける「好き」は特別なものだ。
ひろみや中田のお父さん、ばあちゃんに対して抱く「好き」とは違う。ジェフリーさんやヘンリーさん、ヴィンスさんに感じる「好き」とも違う。
一番近いのは、俺が大学生の頃に谷本さんに対して抱いた「好き」なのだろうけれど、それに近いというだけであって、本質は全然別だと断言できる。
……だってこんなにも、好きで好きで仕方なくて、近くに居ないと息をすることさえも苦しくなるような気持ちを、俺は誰かに感じたことがない。
不完全でどこか壊れた――そう信じていた――俺が誰かにそういう強い想いを向けるなんてこと、絶対に無理だと思っていたけれど。
リチャードに出会って、それが変わった。
リチャードが、俺を変えてくれたから。
「リチャード、俺さ」
俺の声に、リチャードと一緒にジローも振り向く。一人と一匹の真っ直ぐな視線が愛おしい。
「俺、おまえのことを好きになって本当に良かった。昨夜おまえが俺の『好きな人』になってくれたこと、本当に感謝してる。すごく嬉しかった」
「……ええ、よく存じ上げておりますとも」
「うん、でもな、多分おまえが思ってるより何倍も、何十倍もそう思ってるんだ。本当に……何度言っても言い足りないくらい、たくさん」
「あなたらしいですね。それならば、何度でも言えばいいのですよ、正義。あなたが満足するまで、好きなだけ言いなさい」
「……そんなの、簡単に言うなよ。多分、絶対、俺は死ぬまで言い続けることになるだろうから」
「それこそ望むところです。忘れたのですか? あの交換の約束がある限り、私たちは共にあるのですよ」
「ああ、それもそうだなぁ……」
人生の最期に、と定めたサファイアの約束。
あの時はただただ心から、二度と目の前にいる男の手を手放したくないという一心からだったけれど。
今はほんの少しだけ、あの頃とは意味合いが違っている気がする。
「じゃあ、長生きしないとな。おまえのことも長生きさせなきゃ。ずっとおまえの隣にいて、おまえがもういい、聞き飽きたって言うまで……違うな、もしそう言われても止められないと思う」
「正義」
「おまえが好きだってずっと言い続けたい。おまえと一緒にいるだけで俺はすごく嬉しくて、幸せだって」
「……正義」
「どんな時でもおまえは綺麗だって言いたい。朝とか昼とか夜とか関係なく、いつも。もしかしたら、一生かかっても言い足りないかもな。そのときは、続きはあの世で言うことにしよう。あの世でもよろしく」
……最後は『中田ジョーク』のつもりだったのだがリチャードは一ミリも笑わなかった。
それどころか、ぎゅっと口を固く引き結んで、またジローのほうを向いて少し俯いてしまった。白い手がきつく握られている。リビングの入口に立ったままの俺から見えるのは、白い手と細いけれどしっかりした肩、そして柔らかくうねった金の髪だけで、リチャードの表情がどんなものなのかは判別が出来なかった。
飼い主たちの妙な空気を感じ取ったのか、ジローがふんふんと鼻を鳴らしながらリチャードの頬に鼻先を近付け――俯くリチャードの頬を舐めた。
ペロリ、ペロリと何度も、星の軌道を追うように。
『見つからなかったなぁ』
空を見上げながら言った、昨日の言葉が蘇る。
見えるはずのない夜空に流れた、一筋の星。
『次がありますよ』
そう、言ったのは――――
「……リチャード、プリン作ってあるんだ。おまえが食べるなら持ってくるけど、どうする?」
「……もちろん、頂きます」
「わかった。ミルクティーはアイスにするな」
「ええ、お願いします。私もすぐ、行きますので」
やっぱりどこか震えた声で、だけどはっきりと話すリチャードをジローに任せてキッチンへと向かう。
次があるとリチャードは言っていたけれど、きっとそれは今じゃないんだろう。
……それに、この明るい光の中では、どんなに目をこらして探したとしても。
「ジロー、ステイ」
「……」
「……グッボーイ! よく出来ました」
「わふっ」
リビングの入口から見える光景に、声を掛けようと開けた口を、そのままぱくんと閉じてしまった。
リビングから直接庭へ出ることが出来る大きな窓を開け放ったそこで、リチャードがしゃがんでジローと一緒に戯れていた。
待て、お手、お座り、伏せ。
そういう簡単な命令を出して、もし上手く出来たら思い切り褒めて撫で回す。出来なかったらもう一度。ジローは賢い子なのですぐに命令を覚えたが、時々は復習も兼ねて定期的に行っている。
俺たちとジローのコミュニケーションと躾を兼ねた一種の遊びのようなものだ。
よく出来ました、というリチャードの言葉が合図になったのか、じゃれつくジローをリチャードは宥めもせず好きにさせていたが、ふと頭と背中を撫でる手をゆっくりとしたものに変えていた。
「ジロー、あなたに弟か妹が出来るかもしれません。いえ、恐らく弟でしょう。あなたと相性の良い元気な子が見つかるように努力いたします」
「くぅ……?」
「家族が増えるのが不安ですか? それともまさか、その弟に私と正義を取られるとでも? そんなことを心配する必要はありません。私たちは家族が増えてもあなたが大好きですよ」
「わふぅ」
「それにいつも遊べる相手が出来るのは良いことではありませんか? 存分にかけっこも出来ますよ」
「わんっ」
「ふふ、分かって頂けましたか。あなたはとても賢く優しい子ですね。楽しみですね、ジロー」
「わう、わふっ」
昨夜、俺がリチャードに打ち明けた「もう一匹犬を飼わないか」という提案を、リチャードは思っていた以上に真剣に考えてくれたらしい。
相変わらず優しい奴だ。けれどそれをジローにまで話すとは――本当にジローの言葉が全部分かっているかのように返事をしながらなんて――俺も思っていなかった。
堪えきれず小さく吹き出した俺にようやく気付いたらしいリチャードは、数秒前まで浮かべていた慈愛に満ちた笑顔を一瞬で取り払いながら振り向いた。
俺の登場に機嫌よく尻尾を振っているジローとは真逆のそれに、今度こそ笑い声が出てしまう。
「……正義」
「ぶっは……! いやぁ、ごめ……っ、別にこっそり聞くつもりは、なか、っふふ」
「今すぐ」
「でもおまえが前向きに考えてくれてるのが分かって嬉し……っふは、ふふ、嬉しいよ、うん」
「忘れろ」
「っはー……。うん、そうだな、早めに決めないと」
「……忘れましたか?」
「うんうん、忘れた、忘れた! 今の俺にはおまえがジローの躾しながら遊んでたことしか記憶にないから安心してくれていいぞ。あと、二匹目を飼いたいって言ったこと、ちゃんと考えてくれてありがとうな」
「……いえ、お気になさらず。私もジローのためにもそれが良いのでは、と思っただけです」
照れ隠しのために少しだけツンとしながら言うのがリチャードの可愛いところだ。
ジローを優しく撫で直しているリチャードの周りに柔らかい日差しが差し込み、微細な埃がダイヤモンドダストのように輝いている。
まるで一枚の絵画のような光景が、じわじわと俺の胸の中を温かいもので満たしていくのが分かる。
今そこに、俺の目の前にいるのは、俺が世界で一番大切に想っている人と、小さいけれど元気な家族だ。それは昨日と何も変わっていないはずなのに、何故か今はそれがすごく……今まで以上に、かけがえのないことなのだと思える。
昨夜リチャードが、俺の「好きな人」になることを許してくれたからだろうか。
俺にとって、リチャードに向ける「好き」は特別なものだ。
ひろみや中田のお父さん、ばあちゃんに対して抱く「好き」とは違う。ジェフリーさんやヘンリーさん、ヴィンスさんに感じる「好き」とも違う。
一番近いのは、俺が大学生の頃に谷本さんに対して抱いた「好き」なのだろうけれど、それに近いというだけであって、本質は全然別だと断言できる。
……だってこんなにも、好きで好きで仕方なくて、近くに居ないと息をすることさえも苦しくなるような気持ちを、俺は誰かに感じたことがない。
不完全でどこか壊れた――そう信じていた――俺が誰かにそういう強い想いを向けるなんてこと、絶対に無理だと思っていたけれど。
リチャードに出会って、それが変わった。
リチャードが、俺を変えてくれたから。
「リチャード、俺さ」
俺の声に、リチャードと一緒にジローも振り向く。一人と一匹の真っ直ぐな視線が愛おしい。
「俺、おまえのことを好きになって本当に良かった。昨夜おまえが俺の『好きな人』になってくれたこと、本当に感謝してる。すごく嬉しかった」
「……ええ、よく存じ上げておりますとも」
「うん、でもな、多分おまえが思ってるより何倍も、何十倍もそう思ってるんだ。本当に……何度言っても言い足りないくらい、たくさん」
「あなたらしいですね。それならば、何度でも言えばいいのですよ、正義。あなたが満足するまで、好きなだけ言いなさい」
「……そんなの、簡単に言うなよ。多分、絶対、俺は死ぬまで言い続けることになるだろうから」
「それこそ望むところです。忘れたのですか? あの交換の約束がある限り、私たちは共にあるのですよ」
「ああ、それもそうだなぁ……」
人生の最期に、と定めたサファイアの約束。
あの時はただただ心から、二度と目の前にいる男の手を手放したくないという一心からだったけれど。
今はほんの少しだけ、あの頃とは意味合いが違っている気がする。
「じゃあ、長生きしないとな。おまえのことも長生きさせなきゃ。ずっとおまえの隣にいて、おまえがもういい、聞き飽きたって言うまで……違うな、もしそう言われても止められないと思う」
「正義」
「おまえが好きだってずっと言い続けたい。おまえと一緒にいるだけで俺はすごく嬉しくて、幸せだって」
「……正義」
「どんな時でもおまえは綺麗だって言いたい。朝とか昼とか夜とか関係なく、いつも。もしかしたら、一生かかっても言い足りないかもな。そのときは、続きはあの世で言うことにしよう。あの世でもよろしく」
……最後は『中田ジョーク』のつもりだったのだがリチャードは一ミリも笑わなかった。
それどころか、ぎゅっと口を固く引き結んで、またジローのほうを向いて少し俯いてしまった。白い手がきつく握られている。リビングの入口に立ったままの俺から見えるのは、白い手と細いけれどしっかりした肩、そして柔らかくうねった金の髪だけで、リチャードの表情がどんなものなのかは判別が出来なかった。
飼い主たちの妙な空気を感じ取ったのか、ジローがふんふんと鼻を鳴らしながらリチャードの頬に鼻先を近付け――俯くリチャードの頬を舐めた。
ペロリ、ペロリと何度も、星の軌道を追うように。
『見つからなかったなぁ』
空を見上げながら言った、昨日の言葉が蘇る。
見えるはずのない夜空に流れた、一筋の星。
『次がありますよ』
そう、言ったのは――――
「……リチャード、プリン作ってあるんだ。おまえが食べるなら持ってくるけど、どうする?」
「……もちろん、頂きます」
「わかった。ミルクティーはアイスにするな」
「ええ、お願いします。私もすぐ、行きますので」
やっぱりどこか震えた声で、だけどはっきりと話すリチャードをジローに任せてキッチンへと向かう。
次があるとリチャードは言っていたけれど、きっとそれは今じゃないんだろう。
……それに、この明るい光の中では、どんなに目をこらして探したとしても。
