いつか、空白を埋める日に
公開 2023/09/24 18:24
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※みのるくんと『幽霊』が再会(?)する話
正義が直々のご指名を受けて外商へと出掛けていた、土曜の昼下がりのことだった。
いつもなら銀座の店舗へと出向くリチャードは今日は家で仕事をしている。リチャードの師匠で正義が「大ボス」と呼んでいる人に関係している予約が重なったとかで、今日一日だけ、店の主を交代したらしい。
久し振りの晴れ渡った空が、気持ちのいい風を運んでくる。部屋の中にはみのるが本のページを捲る音と、リチャードが軽快にキーボードを叩く音だけがあった。
静かだけれど、ぎこちない静けさではなくて、なにか柔らかいものが含まれているみたいだ、とみのるは無意識に感じ取っていた。それの正体は分からないけれど。
静寂の中、窓から入ってきたそよ風に乗せられ届いたのは、どこかの子供の「おとうさぁん」という声だった。
みのるとリチャードは揃って、晴れ渡った空のほうへと視線を向けていた。リビングから子供の姿が見えるわけもないのに、ただなんとなく。
――ふと、みのるは「自分もあんな風に呼んでいたのだろうか」と考えた。思い出そうとしてもみのるの中にある父親の記憶はとても少なくて、答えなど見つかるはずもない。
じゃあ、正義はどうだっただろう。
初めてここでちゃんと正義と向き合ったとき、正義に父親のことをちゃんと聞けはしなかった。一緒に暮らし始めて遠慮がちだったことが少なくなってきても、まだ踏み込める距離がみのるには分からない。
父親が見つかったら、話し合えるんだろうか。想像しようとしても上手く言葉が浮かばない。
「……お父さん、どこにいるんだろう」
だからそれは、本当に無意識のうちに発していた言葉だった。リチャードのタイピングの音がわずかな乱れのあとに途絶えて、ようやくみのるは自分が今なにを言ったのかに気付いたくらいなのだから。
「な、なんでもありません」
「みのるさま」
「さっきの大きな声の子が、お父さんを呼んでたから、ぼくも少し気になっただけで」
「みのるさま」
リチャードの優しい声に、みのるは小さく唇を噛んだ。胸の中にモヤモヤが溜まっていく。
嘘をついたわけではないけれど、全部が本音というわけでもない。下手な誤魔化し方をした己に、喉の辺りが苦しくなる。
「言葉を飲み込んでばかりいるのは、あまり良くありませんよ」
「……え?」
「今のみのるさまが、私には神立邸でお会いしていた頃のように見えるのです。……みのるさま。ここはあの屋敷の中ではありませんが、場所など関係なく、私はいつでもあなたの『幽霊』になることが出来るのですよ」
「あ……」
数ヶ月前、あの屋敷の中で交わした時間を思い出す。
正義が義理の兄だと偶然知ってしまった時も、リチャードは──『幽霊さん』はこうして優しく微笑んで、みのるの背中を押してくれた。
「ぼく、リチャードさ……幽霊さんに話を聞いてほしいんです」
「はい。どんなことでもお聞きしましょう」
「正義さんには内緒にしておきたい話なんです」
「秘密にすると、お約束します」
正義とリチャードは、どんなに忙しいとしてもみのるが声を掛ければしっかりと目を合わせて、みのるの話を聞こうとしてくれる。
何か約束事をする時は、特に。それがみのるは嬉しかった。
「でも、ぼくもまだ、上手く言えないことだから聞いても分からないかもしれないんですけど」
「構いません。みのるさまの思ったままの言葉を聞かせて下さい」
リチャードの仕事の邪魔をしてしまっていると分かっていても、みのるはこの時間をなくしたくなかった。大きく深呼吸をして、出来るだけ頭の中に散らばった言葉をかき集める。
自分が聞きたいことと、言いたいこと。
「幽霊さんは、ぼく……と正義さんのお父さんを知っていますか。会ったこと、ありますか」
「……はい、存じ上げております。とある事情で一度だけお会いしました。八年程前になります。それ以降はございません」
やっぱり、と言いそうになったけれど口からは違う言葉が続けて溢れた。
「どこに、いるのかも……?」
「それは私には分かりません。まだ見つかってはいませんが……捜索の手配をかけているのは私の従兄ですので、情報はすぐに入ります」
「幽霊さんは……ぼくのお父さんが、見つかると思いますか?」
「恐らくは、見つかるでしょう。こんなに時間がかかるとは私も思っていませんでしたが」
しっかり頷いてくれたリチャードに、みのるはもう一度だけ深呼吸をしてから口を開いた。
「あの日、正義さんからぼくたちが血の繋がった兄弟だって話してもらったとき、正義さんからもお父さんを探してるって、教えてもらいました。でもまだ見つからなくて……生きているのかも、分からないけどって」
「はい」
「ぼくはずっと、お父さんに会えたら良いことがある気がしてたんです。理由はないんですけど、ただなんとなくそう思ってて」
「はい」
「お母さんは、お父さんの話をしませんでした。よく『昔のことを悔やんでも時間の無駄だ』って言って、ぼくが聞くのも嫌がってて。……でも、それでもぼくはやっぱり知りたかった」
「はい」
「だけど今は……本当にお父さんと会いたいのか分からないんです。会って、どうしたらいいのかとか、なんて言えばいいのかとか……なんにも、思い付かないんです。それに」
喉がじわじわと詰まっていく感覚に、ぎゅっと手を握る。
「……正義さんは、本当は、お父さんに会いたくないんじゃないかなって、思うんです。それでも探してくれてるのは、ぼくとお母さんの為だけで自分の為じゃないんじゃないかって」
リチャードは何の反応しなかった。ただ静かにみのるの言葉を聞いて、小さく頷く。
「みのるさまは、何故そう思われたのですか」
「だって、正義さんはずっと……ずっと苦しそうでした。ぼくとお母さんのことを、ずっと謝ってました。正義さんのせいじゃないのは……ぼくにだって、分かるのに」
「……ええ」
「それに……お母さんは、やっぱりお父さんには会いたくないんだと思います。正義さんのことを殴ったのを見たときに……」
あの夜。お母さんが初めて会った正義のことをお父さんと間違えて、思い切り殴ってから叫んだあの声を、今も覚えている。
過ぎたことは仕方ないと何度口にしていても、あんなに弱り切った身体から、あれだけの怒りを噴き出した母の姿に、みのるは悲しむのと同時に妙な納得すら覚えたのだ。
「……子供の頃の正義さんに何があったのかも、お父さんとどんな関係だったのかも、正義さんにうまく聞けないんです。だってぼくはお母さんとお父さんにあったことも、何も知らないから」
「……知りたいですか?」
「知りたかったです……少し前までは。でも今は少し違うんです。お父さんのことを聞いて、もしぼくの大切な人が悲しむんならぼくはお父さんのことを知らないままでいい。お父さんがこのまま見つからなくても……この先一生会えなくても、いいって思うんです」
「……ええ」
「でも正義さんはぼくがそんな風に思ってるって知ったら……悲しむと、思いますか」
「……どうでしょうね」
リチャードは曖昧に微笑んでから、ふと何かを懐かしむような目をした。
「彼……正義にも、いろいろな事情があります。みのるさまよりも少しだけ長く、正義は父親との時間を持ちました。その間のことは……いつか、お話しする日が来るかもしれません」
「話して、くれますか? ぼくが聞いても苦しくなったりしませんか」
「……ええ、恐らくは。今すぐは無理だとしても、もう整理はついているはずですので」
「あ……幽霊さんは、それを知ってるんですね」
「はい。全部……ではないのかもしれませんが、ほぼ知っています」
「……よかった」
「よかった、ですか」
「はい」
恐らくは、楽しい話ではないだろう。みのるの存在を教えるのを後回しにせざるを得ないくらい大変な何かが起きていたのだから、それはきっと辛くて苦しいことのはずだ。
「幽霊さんが……リチャードさんが、正義さんと一緒にいてくれて、正義さんのこと知っててくれるのが嬉しいです。嬉しいっていうのも、なんか変ですけど」
「……ありがとうございます、みのるさま」
「あ……ぼ、ぼくこそありがとうございました。また幽霊さんとお話しできて嬉しかったです」
「いえ、どうかお気になさらず。またご入り用になりましたらいつでもお声掛け下さい」
みのるの親愛なる『幽霊』──リチャードは、ソファーに座ったまま丁寧にお辞儀をした。
いつか、正義に昔の話を聞く勇気が出来たら、その時はどうかこの優しくてきれいな『幽霊』が隣にいてくれますようにと、みのるは願った。
正義が直々のご指名を受けて外商へと出掛けていた、土曜の昼下がりのことだった。
いつもなら銀座の店舗へと出向くリチャードは今日は家で仕事をしている。リチャードの師匠で正義が「大ボス」と呼んでいる人に関係している予約が重なったとかで、今日一日だけ、店の主を交代したらしい。
久し振りの晴れ渡った空が、気持ちのいい風を運んでくる。部屋の中にはみのるが本のページを捲る音と、リチャードが軽快にキーボードを叩く音だけがあった。
静かだけれど、ぎこちない静けさではなくて、なにか柔らかいものが含まれているみたいだ、とみのるは無意識に感じ取っていた。それの正体は分からないけれど。
静寂の中、窓から入ってきたそよ風に乗せられ届いたのは、どこかの子供の「おとうさぁん」という声だった。
みのるとリチャードは揃って、晴れ渡った空のほうへと視線を向けていた。リビングから子供の姿が見えるわけもないのに、ただなんとなく。
――ふと、みのるは「自分もあんな風に呼んでいたのだろうか」と考えた。思い出そうとしてもみのるの中にある父親の記憶はとても少なくて、答えなど見つかるはずもない。
じゃあ、正義はどうだっただろう。
初めてここでちゃんと正義と向き合ったとき、正義に父親のことをちゃんと聞けはしなかった。一緒に暮らし始めて遠慮がちだったことが少なくなってきても、まだ踏み込める距離がみのるには分からない。
父親が見つかったら、話し合えるんだろうか。想像しようとしても上手く言葉が浮かばない。
「……お父さん、どこにいるんだろう」
だからそれは、本当に無意識のうちに発していた言葉だった。リチャードのタイピングの音がわずかな乱れのあとに途絶えて、ようやくみのるは自分が今なにを言ったのかに気付いたくらいなのだから。
「な、なんでもありません」
「みのるさま」
「さっきの大きな声の子が、お父さんを呼んでたから、ぼくも少し気になっただけで」
「みのるさま」
リチャードの優しい声に、みのるは小さく唇を噛んだ。胸の中にモヤモヤが溜まっていく。
嘘をついたわけではないけれど、全部が本音というわけでもない。下手な誤魔化し方をした己に、喉の辺りが苦しくなる。
「言葉を飲み込んでばかりいるのは、あまり良くありませんよ」
「……え?」
「今のみのるさまが、私には神立邸でお会いしていた頃のように見えるのです。……みのるさま。ここはあの屋敷の中ではありませんが、場所など関係なく、私はいつでもあなたの『幽霊』になることが出来るのですよ」
「あ……」
数ヶ月前、あの屋敷の中で交わした時間を思い出す。
正義が義理の兄だと偶然知ってしまった時も、リチャードは──『幽霊さん』はこうして優しく微笑んで、みのるの背中を押してくれた。
「ぼく、リチャードさ……幽霊さんに話を聞いてほしいんです」
「はい。どんなことでもお聞きしましょう」
「正義さんには内緒にしておきたい話なんです」
「秘密にすると、お約束します」
正義とリチャードは、どんなに忙しいとしてもみのるが声を掛ければしっかりと目を合わせて、みのるの話を聞こうとしてくれる。
何か約束事をする時は、特に。それがみのるは嬉しかった。
「でも、ぼくもまだ、上手く言えないことだから聞いても分からないかもしれないんですけど」
「構いません。みのるさまの思ったままの言葉を聞かせて下さい」
リチャードの仕事の邪魔をしてしまっていると分かっていても、みのるはこの時間をなくしたくなかった。大きく深呼吸をして、出来るだけ頭の中に散らばった言葉をかき集める。
自分が聞きたいことと、言いたいこと。
「幽霊さんは、ぼく……と正義さんのお父さんを知っていますか。会ったこと、ありますか」
「……はい、存じ上げております。とある事情で一度だけお会いしました。八年程前になります。それ以降はございません」
やっぱり、と言いそうになったけれど口からは違う言葉が続けて溢れた。
「どこに、いるのかも……?」
「それは私には分かりません。まだ見つかってはいませんが……捜索の手配をかけているのは私の従兄ですので、情報はすぐに入ります」
「幽霊さんは……ぼくのお父さんが、見つかると思いますか?」
「恐らくは、見つかるでしょう。こんなに時間がかかるとは私も思っていませんでしたが」
しっかり頷いてくれたリチャードに、みのるはもう一度だけ深呼吸をしてから口を開いた。
「あの日、正義さんからぼくたちが血の繋がった兄弟だって話してもらったとき、正義さんからもお父さんを探してるって、教えてもらいました。でもまだ見つからなくて……生きているのかも、分からないけどって」
「はい」
「ぼくはずっと、お父さんに会えたら良いことがある気がしてたんです。理由はないんですけど、ただなんとなくそう思ってて」
「はい」
「お母さんは、お父さんの話をしませんでした。よく『昔のことを悔やんでも時間の無駄だ』って言って、ぼくが聞くのも嫌がってて。……でも、それでもぼくはやっぱり知りたかった」
「はい」
「だけど今は……本当にお父さんと会いたいのか分からないんです。会って、どうしたらいいのかとか、なんて言えばいいのかとか……なんにも、思い付かないんです。それに」
喉がじわじわと詰まっていく感覚に、ぎゅっと手を握る。
「……正義さんは、本当は、お父さんに会いたくないんじゃないかなって、思うんです。それでも探してくれてるのは、ぼくとお母さんの為だけで自分の為じゃないんじゃないかって」
リチャードは何の反応しなかった。ただ静かにみのるの言葉を聞いて、小さく頷く。
「みのるさまは、何故そう思われたのですか」
「だって、正義さんはずっと……ずっと苦しそうでした。ぼくとお母さんのことを、ずっと謝ってました。正義さんのせいじゃないのは……ぼくにだって、分かるのに」
「……ええ」
「それに……お母さんは、やっぱりお父さんには会いたくないんだと思います。正義さんのことを殴ったのを見たときに……」
あの夜。お母さんが初めて会った正義のことをお父さんと間違えて、思い切り殴ってから叫んだあの声を、今も覚えている。
過ぎたことは仕方ないと何度口にしていても、あんなに弱り切った身体から、あれだけの怒りを噴き出した母の姿に、みのるは悲しむのと同時に妙な納得すら覚えたのだ。
「……子供の頃の正義さんに何があったのかも、お父さんとどんな関係だったのかも、正義さんにうまく聞けないんです。だってぼくはお母さんとお父さんにあったことも、何も知らないから」
「……知りたいですか?」
「知りたかったです……少し前までは。でも今は少し違うんです。お父さんのことを聞いて、もしぼくの大切な人が悲しむんならぼくはお父さんのことを知らないままでいい。お父さんがこのまま見つからなくても……この先一生会えなくても、いいって思うんです」
「……ええ」
「でも正義さんはぼくがそんな風に思ってるって知ったら……悲しむと、思いますか」
「……どうでしょうね」
リチャードは曖昧に微笑んでから、ふと何かを懐かしむような目をした。
「彼……正義にも、いろいろな事情があります。みのるさまよりも少しだけ長く、正義は父親との時間を持ちました。その間のことは……いつか、お話しする日が来るかもしれません」
「話して、くれますか? ぼくが聞いても苦しくなったりしませんか」
「……ええ、恐らくは。今すぐは無理だとしても、もう整理はついているはずですので」
「あ……幽霊さんは、それを知ってるんですね」
「はい。全部……ではないのかもしれませんが、ほぼ知っています」
「……よかった」
「よかった、ですか」
「はい」
恐らくは、楽しい話ではないだろう。みのるの存在を教えるのを後回しにせざるを得ないくらい大変な何かが起きていたのだから、それはきっと辛くて苦しいことのはずだ。
「幽霊さんが……リチャードさんが、正義さんと一緒にいてくれて、正義さんのこと知っててくれるのが嬉しいです。嬉しいっていうのも、なんか変ですけど」
「……ありがとうございます、みのるさま」
「あ……ぼ、ぼくこそありがとうございました。また幽霊さんとお話しできて嬉しかったです」
「いえ、どうかお気になさらず。またご入り用になりましたらいつでもお声掛け下さい」
みのるの親愛なる『幽霊』──リチャードは、ソファーに座ったまま丁寧にお辞儀をした。
いつか、正義に昔の話を聞く勇気が出来たら、その時はどうかこの優しくてきれいな『幽霊』が隣にいてくれますようにと、みのるは願った。
