来訪者
公開 2023/09/24 17:22
最終更新
2024/07/13 12:00
※タンザ期
見慣れたワンルーム。少ない家具と、冷蔵庫の陰に隠すように置かれた手提げの金庫。あぁ、高田馬場のアパートに居るのだとすぐに気が付いた。
今日は何曜日だっけ。平日なら大学に行かなきゃならないし、土日ならエトランジェでのバイトがある。そうだ、プリンも持っていかなくては。
卵と牛乳の在庫を確認しようと冷蔵庫のドアに手を掛けた時、玄関のチャイムが鳴った。
一度、二度、三度。
誰かが来る予定も宅配便を頼んだ覚えもない。勧誘だろうか、と息を潜めたところでドロドロとした声がドア越しに聞こえてきた。
『いるんだろう? ここを開けてよ正義。お父さんだよ。これからはずっと一緒に暮らしてあげるからね』
ビクリと身体が震えた感覚に目を覚ます。
今いる場所がアパートなんかじゃなくて、溜池山王の高級ホテルの一室なのだと、ベッドの感触と高くて真っ白な天井が教えてくれた。
ハ、ハ、と途切れがちになる呼吸をなんとか深くなるようにと努めながら、震える手のひらを額に押し付ける。べったりと汗が滲んでいるのが分かる。
この夢を見た後は、いつもこうだ。
もしかしたら起きる直前に叫んでいるんじゃないかと思うくらい喉がカラカラに乾いてベタつき、心臓が跳ねている。目を閉じたらまたすぐに夢の中に引き戻される気がして、眠り直すことも出来ない。
「…………なんで……」
深呼吸とも溜め息ともつかない呼吸に乗せた言葉が、部屋の中に消えていった。
この一週間。俺はずっとアイツの夢を見ている。
□ □ □
正直食欲はなかったが、ルームサービスでサラダとスープの軽い朝食を済ませておく。何も食べずにいるとすぐにリチャードとジェフリーにバレてしまうのだ。どこから情報を得ているのだろう。
その後で公務員試験の勉強を進めていると、部屋のチャイムが鳴った。取り落としたペンを拾いつつドアスコープを覗けば俺の元気の源である麗しの宝石商が立っていたので急いでドアを開ける。
一週間振りに見るリチャードは相変わらず綺麗で、昨日まで海外を転々としていたはずなのにいつも通りスーツをピシリと着こなしてカッコいい。
「リチャード! おかえり!」
「ただいま戻りました。一週間振りですね。調子はいかがですか、正義」
「特に変わりないよ。リチャードこそ疲れてるんじゃないか? でも来てくれてありがとうな。……あれ、ケーキ買ってきたのか?」
「ええ、あなたと食べたかったので」
リチャードが持参したケーキの箱は、エトランジェでもよくお茶請けに出していたパティスリーのものだ。定番のものはもちろん、季節ごとのケーキも美味しいのでよくお使いに行っていた。
テーブルの上で中身を確認すれば、二人で食べるには少し多いくらいのケーキが入っていた。リチャードの甘味に対する情熱を知らない頃だったら「これから誰か来るのか?」と聞いていただろう。
「……食べ過ぎには注意しろよ?」
「体調管理のためのトレーニングは欠かしておりませんのでご心配なく。よければ今食べませんか?」
「そうだな……折角だし一つ貰おうかな」
朝食を食べてから約二時間。軽めにしていたせいもあって、腹の空き具合には余裕がある。昼食前に食べても問題ないだろう。
「たくさん買ってきたんだなぁ。なぁ、おまえはどれにする?」
「あなたと食べたくて買ってきたのですから、あなたが先に選んで下さって大丈夫ですよ」
「でも、気になってたのも入れたんだろ? 俺はどれも好きだから、気にせず先に選んでくれよ」
「……ではこれを」
リチャードが選んだのはチョコレートムースのものだった。俺は少し悩んでから、チーズケーキにする。
ミルクティーをルームサービスで頼むのかと思っていたのだが、リチャードは珍しく持ち込んだハーブティーを備え付けの電気ポットで沸かしたお湯で淹れていた。
「あれ、ロイヤルミルクティーじゃなくていいのか?」
「それ以外が飲めないわけではありません。ところで正義、顔色が優れないことに自覚はありますか」
「えっ。……本当?」
「一週間前にこちらを訪れた時より明らかに血色が悪い。どんな些細なことであっても身体に不調があればすぐに連絡しろと言ったはずですが?」
僅かに怒りを含んだ口調で、俺の前にティーカップを置きながらリチャードが顔をずいと近付けてくる。
自分の顔が俺に対して効果覿面と知っているせいか、リチャードは俺が隠し事をしていると勘繰るとこうやって迫ってくるようになった。
「近い! 今日はより一層近くないか!?」
「うるさい。最近は落ち着いていたので私もすっかり油断していました。早く言え。体調は? 眠れているのですか? 一応食事はちゃんと摂っているようですが、吐いたりしていませんか?」
「寝てるし食べてるし吐いてないし、本当になんともないんだよ! ほ、ほら! 折角のお茶が冷めるからリチャードも座ってケーキ食べよう!」
リチャードはお茶とケーキを引き合いに出されてようやく俺から離れてくれた。
……助かった。こんなに心配してくれているのに、変な夢を見ているだけだなんて言いにくい。
それに眠れていない訳じゃないし、最近は発作もなくて本当に状態がいいのだ。だからこれ以上、リチャードに迷惑も心配もかけたくない。
「最近寝る前にホラー映画見ちゃったからそのせいかもしれないな。思ってたよりグロくて途中でやめたんだけど頭にイメージが強く残っちゃって……」
「……今後は寝る前のホラー鑑賞はやめた方がよろしいかと」
「だよな、そうする。……うわ、このカモミールティー美味しいなぁ。ありがとうリチャード」
「多めに持ってきたので置いていきます。安眠効果もありますから寝る前に飲むのもいいですよ」
「そっか、うん、確かによく眠れそうだ」
リチャードのお墨付きというだけで効果が何倍にも増すようだ。今夜はあの夢を見ないで済む気がする。
「ケーキも。やっぱりここのは美味しいなぁ」
「はい。チョコムースの滑らかさが素晴らしい。モンブランも美味しいですが」
「買ってあったよな。食べたらいいよ。あっ、でも今はダメだぞ! 昼を食べた後じゃないと」
「あなたは私を子供だと思っているのですか? 言われなくとも今は食べません……あぁ、昼と言えば、」
────ポーン。
リチャードの声を遮るように鳴ったドアチャイムと、俺が持ち上げようとしたカップから指を滑らせて落とした音が重なる。すぐに自分の粗相に気付いて慌てて確認したが、少しソーサーに溢したくらいで傷もついていないことに安心した。
「……正義?」
「ぁ……ああ、ごめん、びっくりしたよな! 手が滑っちゃって。誰が来たんだろう。清掃の人かな」
「……私が出ます。おそらくジェフです。昼に日本に着くのでそのまま食事でもどうかと。あなたにも聞くつもりでした」
「なんだ、ジェフリーさんか。うん、俺も一緒に食べたいから構わないよ。……あぁ、テーブル拭いておくから出迎えは頼むな、リチャード」
探るようなリチャードの視線から今すぐにでも逃げたくて、目を合わせないまま背を向けてティッシュを取りに行く。
リチャードが何も言わずにドアの方に向かっていく足音にほっと息を吐いた。
部屋の入口付近から聞こえてくるリチャードとジェフリーのいつものやり取りを聞きながら、なかなか震えの止まらない手を必死に握り締め、唇を噛み締めて大丈夫だと自分に言い聞かせ続けた。
見慣れたワンルーム。少ない家具と、冷蔵庫の陰に隠すように置かれた手提げの金庫。あぁ、高田馬場のアパートに居るのだとすぐに気が付いた。
今日は何曜日だっけ。平日なら大学に行かなきゃならないし、土日ならエトランジェでのバイトがある。そうだ、プリンも持っていかなくては。
卵と牛乳の在庫を確認しようと冷蔵庫のドアに手を掛けた時、玄関のチャイムが鳴った。
一度、二度、三度。
誰かが来る予定も宅配便を頼んだ覚えもない。勧誘だろうか、と息を潜めたところでドロドロとした声がドア越しに聞こえてきた。
『いるんだろう? ここを開けてよ正義。お父さんだよ。これからはずっと一緒に暮らしてあげるからね』
ビクリと身体が震えた感覚に目を覚ます。
今いる場所がアパートなんかじゃなくて、溜池山王の高級ホテルの一室なのだと、ベッドの感触と高くて真っ白な天井が教えてくれた。
ハ、ハ、と途切れがちになる呼吸をなんとか深くなるようにと努めながら、震える手のひらを額に押し付ける。べったりと汗が滲んでいるのが分かる。
この夢を見た後は、いつもこうだ。
もしかしたら起きる直前に叫んでいるんじゃないかと思うくらい喉がカラカラに乾いてベタつき、心臓が跳ねている。目を閉じたらまたすぐに夢の中に引き戻される気がして、眠り直すことも出来ない。
「…………なんで……」
深呼吸とも溜め息ともつかない呼吸に乗せた言葉が、部屋の中に消えていった。
この一週間。俺はずっとアイツの夢を見ている。
□ □ □
正直食欲はなかったが、ルームサービスでサラダとスープの軽い朝食を済ませておく。何も食べずにいるとすぐにリチャードとジェフリーにバレてしまうのだ。どこから情報を得ているのだろう。
その後で公務員試験の勉強を進めていると、部屋のチャイムが鳴った。取り落としたペンを拾いつつドアスコープを覗けば俺の元気の源である麗しの宝石商が立っていたので急いでドアを開ける。
一週間振りに見るリチャードは相変わらず綺麗で、昨日まで海外を転々としていたはずなのにいつも通りスーツをピシリと着こなしてカッコいい。
「リチャード! おかえり!」
「ただいま戻りました。一週間振りですね。調子はいかがですか、正義」
「特に変わりないよ。リチャードこそ疲れてるんじゃないか? でも来てくれてありがとうな。……あれ、ケーキ買ってきたのか?」
「ええ、あなたと食べたかったので」
リチャードが持参したケーキの箱は、エトランジェでもよくお茶請けに出していたパティスリーのものだ。定番のものはもちろん、季節ごとのケーキも美味しいのでよくお使いに行っていた。
テーブルの上で中身を確認すれば、二人で食べるには少し多いくらいのケーキが入っていた。リチャードの甘味に対する情熱を知らない頃だったら「これから誰か来るのか?」と聞いていただろう。
「……食べ過ぎには注意しろよ?」
「体調管理のためのトレーニングは欠かしておりませんのでご心配なく。よければ今食べませんか?」
「そうだな……折角だし一つ貰おうかな」
朝食を食べてから約二時間。軽めにしていたせいもあって、腹の空き具合には余裕がある。昼食前に食べても問題ないだろう。
「たくさん買ってきたんだなぁ。なぁ、おまえはどれにする?」
「あなたと食べたくて買ってきたのですから、あなたが先に選んで下さって大丈夫ですよ」
「でも、気になってたのも入れたんだろ? 俺はどれも好きだから、気にせず先に選んでくれよ」
「……ではこれを」
リチャードが選んだのはチョコレートムースのものだった。俺は少し悩んでから、チーズケーキにする。
ミルクティーをルームサービスで頼むのかと思っていたのだが、リチャードは珍しく持ち込んだハーブティーを備え付けの電気ポットで沸かしたお湯で淹れていた。
「あれ、ロイヤルミルクティーじゃなくていいのか?」
「それ以外が飲めないわけではありません。ところで正義、顔色が優れないことに自覚はありますか」
「えっ。……本当?」
「一週間前にこちらを訪れた時より明らかに血色が悪い。どんな些細なことであっても身体に不調があればすぐに連絡しろと言ったはずですが?」
僅かに怒りを含んだ口調で、俺の前にティーカップを置きながらリチャードが顔をずいと近付けてくる。
自分の顔が俺に対して効果覿面と知っているせいか、リチャードは俺が隠し事をしていると勘繰るとこうやって迫ってくるようになった。
「近い! 今日はより一層近くないか!?」
「うるさい。最近は落ち着いていたので私もすっかり油断していました。早く言え。体調は? 眠れているのですか? 一応食事はちゃんと摂っているようですが、吐いたりしていませんか?」
「寝てるし食べてるし吐いてないし、本当になんともないんだよ! ほ、ほら! 折角のお茶が冷めるからリチャードも座ってケーキ食べよう!」
リチャードはお茶とケーキを引き合いに出されてようやく俺から離れてくれた。
……助かった。こんなに心配してくれているのに、変な夢を見ているだけだなんて言いにくい。
それに眠れていない訳じゃないし、最近は発作もなくて本当に状態がいいのだ。だからこれ以上、リチャードに迷惑も心配もかけたくない。
「最近寝る前にホラー映画見ちゃったからそのせいかもしれないな。思ってたよりグロくて途中でやめたんだけど頭にイメージが強く残っちゃって……」
「……今後は寝る前のホラー鑑賞はやめた方がよろしいかと」
「だよな、そうする。……うわ、このカモミールティー美味しいなぁ。ありがとうリチャード」
「多めに持ってきたので置いていきます。安眠効果もありますから寝る前に飲むのもいいですよ」
「そっか、うん、確かによく眠れそうだ」
リチャードのお墨付きというだけで効果が何倍にも増すようだ。今夜はあの夢を見ないで済む気がする。
「ケーキも。やっぱりここのは美味しいなぁ」
「はい。チョコムースの滑らかさが素晴らしい。モンブランも美味しいですが」
「買ってあったよな。食べたらいいよ。あっ、でも今はダメだぞ! 昼を食べた後じゃないと」
「あなたは私を子供だと思っているのですか? 言われなくとも今は食べません……あぁ、昼と言えば、」
────ポーン。
リチャードの声を遮るように鳴ったドアチャイムと、俺が持ち上げようとしたカップから指を滑らせて落とした音が重なる。すぐに自分の粗相に気付いて慌てて確認したが、少しソーサーに溢したくらいで傷もついていないことに安心した。
「……正義?」
「ぁ……ああ、ごめん、びっくりしたよな! 手が滑っちゃって。誰が来たんだろう。清掃の人かな」
「……私が出ます。おそらくジェフです。昼に日本に着くのでそのまま食事でもどうかと。あなたにも聞くつもりでした」
「なんだ、ジェフリーさんか。うん、俺も一緒に食べたいから構わないよ。……あぁ、テーブル拭いておくから出迎えは頼むな、リチャード」
探るようなリチャードの視線から今すぐにでも逃げたくて、目を合わせないまま背を向けてティッシュを取りに行く。
リチャードが何も言わずにドアの方に向かっていく足音にほっと息を吐いた。
部屋の入口付近から聞こえてくるリチャードとジェフリーのいつものやり取りを聞きながら、なかなか震えの止まらない手を必死に握り締め、唇を噛み締めて大丈夫だと自分に言い聞かせ続けた。
