箱
公開 2023/09/24 17:54
最終更新
-
※エトランジェにちょっと不思議な依頼が来た話
土曜日最後の予約のお客様が持ち込んだのは、少し風変わりな依頼だった。
「お願いしたいのはこれなんです」
皺だらけの節くれ立った手がテーブルに乗せたのは、一見しただけでは何の変哲もない古い箱──ジュエリーボックス。
「シャウルさんは、まずはあなたに預けるようにと」
「伺っております」
シャウルさんの旧い友人だというその人は、テーブルに乗せた箱を一度だけそっと撫でてから向かいに座るリチャードへと差し出した。
いつもの白手袋を嵌めてからそれを受け取ったリチャードが箱の上面、側面……と順に検分したあとで僅かに眉をひそめたのだが、それが見えたのは俺だけだっただろう。
「この箱の中身をご覧になりましたか」
「いいえ……私では開かないのです。私だけでなく、家族の誰も。私の祖父が一度だけ開けたらしいのですが、私が生まれる前に亡くなりましたし、祖母も詳しくは知らないそうで」
「開かない、ってことは鍵がかかってるんですか?」
思わず口を挟んでしまった俺に、その人は静かに首を振った。
「鍵はありません。鍵穴も、何かで固定されている様子もない。ただ開かないんです」
そう言われてもう一度箱を見直せば、確かに蓋部分に微妙な隙間があるけれど、鍵穴のようなものは見当たらない。つるりとした表面は深い緑色で、何故か春先の小学校のプールを思い出した。
「師匠からはお預かりした後、然るべき場所へと聞いております」
「はい。そのようにお願いしました」
「……全部、そのように?」
「はい。……ああ、あなたにはわかるのですね」
ほっとしたような、何かを悔やむような顔で微笑んだその人は、もう一度箱を見つめてからリチャードに深く頭を下げた。
「おまえの握力そんなに強いのか?」
「……は?」
「いや、おまえにはその箱を開けられるって感じだったから、物理的にこうバァンと」
「人を何だと思っているのです」
心底呆れました、の顔でお茶とプリンを要求してきた店主のために、キッチンへと戻り準備をする。自分の分もトレーに乗せて戻ると、リチャードが箱を手に難しい顔をしていた。
「……なぁ、それさ、本当に受け取って良かったのか?」
ミルクティーとプリンを置きながら問い掛けても、リチャードの顔は晴れない。最初は単純に押し付けられた仕事に辟易しているのだと思ったのだが、そもそもこいつはそういう人間じゃないんだった。
「師匠は正しい判断をしました。これを預かるのは私でなくてはいけなかったでしょう」
「……それ、ただのジュエリーボックスじゃないのか?」
「ただのジュエリーボックスですよ。……いえ、お茶が冷めてしまいます。この話はまたあとで」
──結局、この日はいつも通り店仕舞いとパーラーでの食事を済ませてからリチャードにアパート近くまで送ってもらったのだが、食事の間も車の中でも、リチャードがあの箱の話をすることはなかった。
翌日の日曜日。本日分の牛乳とプリンを手にエトランジェへとやって来た俺が見たのは、応接テーブルの上でぱかりと口を開いているあのジュエリーボックスだった。
「あれっ、それ開いたのか!?」
「……ええ、まあ」
「すごいなぁ、誰も開けられないって言ってたのに。なぁ、俺も中身見ていいか?」
「……構いませんが、一点だけ約束を。私がいない時は箱の中身を見ないよう」
「ん?」
「よろしいですね、正義」
「うん、まあ良く分からないけど約束は守るよ」
リチャードはあまり気乗りがしない様子だったが、俺はとにかくこの不思議な箱の中身が気になっていた。中身が見えるように正面に回り覗くと、ジュエリーボックスの内側はくすんだ深紅のビロードで全面が覆われている。外装の深緑に合わせたのだろうか。
箱の高さの割りにあまり深さのない中仕切りに納められていたのは、ごくごくシンプルな銀の指輪だった。宝石がついているわけでも彫りが施されているでもない、銀の輪。
「……中身、これだけ?」
「何を期待していたのか知りませんが、指輪だけです」
「いや、あのホワイトサファイアほどじゃないとしても、秘密の宝石とかが入ってるのかと……」
「秘密が何かはそれを手にした人が決めることです。これもまた、誰かの秘密なのでしょう」
テーブルから箱を取り上げたリチャードは、蓋をまた閉めようとしたのだが、その時に何かを思い付いたのか、指輪を抜き取ってから改めて蓋を閉めた。
「閉めちゃっていいのか?」
「また開きますので。それに」
片手に指輪、片手に箱を持ったリチャードは、少しの間押し黙ってから口を開いた。
「確認したいことも、ありますので」
その後奥の部屋に入ったリチャードは、本日最初のお客様が来るまで部屋に籠っていたのだが、出てきた後はいつも通りに仕事をこなしていた。
宝石を薦め、宝石のエピソードを語り、その人が望む最善のものを導く。相変わらず魔法のようだった。何度か石を金庫から出すために奥の小部屋に戻りはしたが、接客の合間のプリンタイムにもあの箱は放置したまま。
飛び込みのお客様がいつもより多かったこともあって、昼過ぎに追加で牛乳を買いに行った頃には俺も箱のことは忘れていた。
「なぁリチャード、プリンあと一つ……」
来客が一段落し、食器を洗って応接室に戻ると、そこにリチャードの姿はなかった。さっき玉手箱を片付けようとしていたから、恐らく奥の部屋だろう。そう思い部屋のドアをノックすると、小さな音が返って来たので普通に開ける。
「あのさ、プリンが……あれ?」
執務室の中を覗いても、そこにリチャードはいなかった。さっきの物音は気のせいだったか、とドアを閉めようとした俺の視界に入ってきたのは、中央のテーブルに乗せられたあの箱と、その近くのトレーに置かれた銀の指輪。
『一人で箱の中身を見るな』と言ったあの言葉は「箱の内側」に対してだったのか「箱の中に入っていた指輪」のこと、どちらだったんだろうとどうでもいいことを考えてから、別の場所を探そうとして視線を逸らそうとした──のだが、出来なかった。
「…………は?」
俺の視線の先で、今の今まで閉まっていた箱がゆっくりと開いていく。熱せられた貝が耐えきれず口を開くかのように。
とうとう指二本分くらいまで開いた箱から、何かがずるりと出てくるのが見えた。白くて恐ろしく大きなナメクジのように這い出たソレは、ずるりずるりと指輪へと向かっていく。
人間、驚きすぎると声が出ないどころか息すら止まるらしく、俺は中途半端に開いたドアのノブを掴んだまま立ち尽くしていた。
ナメクジの先端が指輪に辿り着いたところで、ソレが見慣れた形を取ったのが分かった。
手。手だ。蝋で固めたような、片栗粉を溶かした水のような不思議な白さをした、だけど明らかに人の手だった。
指輪を摘まんだ蝋の手は、映像を逆再生したかのように箱へと戻っていく。
そうして、パタリと閉じた。
「見ましたか」
「っうひゃあ!?!?」
恐ろしさに一気に血の気が引いたところで声をかけられて、情けなくもドアに縋り付いて叫んでしまう。そんな俺のことなど気にしていないように、リチャードはずんずんと中へ入りあろうことか箱を持ち上げた。
「リッ、リチャ、」
「……これはもう開きませんよ」
やはり別々には出来ませんね、とだけ呟くと、リチャードは棚の引出しから取り出した風呂敷で箱を包んだ。さらにもう一枚重ね、最後にきゅっと縛る。
「見ないようにと言ったでしょう」
「見ないようにはしたんだよ! でも逸らせなくて」
「まあ、一度開けていますから大丈夫でしょう。私も迂闊でした」
店のものとは違う真っ白な紙袋に箱を入れたリチャードは、連絡はしておいたのでもうすぐ取りに来ますと告げた。
「……それ、お祓いとかするのか」
「まあ似たようなものを」
「さっきの」
「正義」
リチャードが口元に指を立てて言う。
「口にしては、いけません」
……その微笑みに、俺は従った。
土曜日最後の予約のお客様が持ち込んだのは、少し風変わりな依頼だった。
「お願いしたいのはこれなんです」
皺だらけの節くれ立った手がテーブルに乗せたのは、一見しただけでは何の変哲もない古い箱──ジュエリーボックス。
「シャウルさんは、まずはあなたに預けるようにと」
「伺っております」
シャウルさんの旧い友人だというその人は、テーブルに乗せた箱を一度だけそっと撫でてから向かいに座るリチャードへと差し出した。
いつもの白手袋を嵌めてからそれを受け取ったリチャードが箱の上面、側面……と順に検分したあとで僅かに眉をひそめたのだが、それが見えたのは俺だけだっただろう。
「この箱の中身をご覧になりましたか」
「いいえ……私では開かないのです。私だけでなく、家族の誰も。私の祖父が一度だけ開けたらしいのですが、私が生まれる前に亡くなりましたし、祖母も詳しくは知らないそうで」
「開かない、ってことは鍵がかかってるんですか?」
思わず口を挟んでしまった俺に、その人は静かに首を振った。
「鍵はありません。鍵穴も、何かで固定されている様子もない。ただ開かないんです」
そう言われてもう一度箱を見直せば、確かに蓋部分に微妙な隙間があるけれど、鍵穴のようなものは見当たらない。つるりとした表面は深い緑色で、何故か春先の小学校のプールを思い出した。
「師匠からはお預かりした後、然るべき場所へと聞いております」
「はい。そのようにお願いしました」
「……全部、そのように?」
「はい。……ああ、あなたにはわかるのですね」
ほっとしたような、何かを悔やむような顔で微笑んだその人は、もう一度箱を見つめてからリチャードに深く頭を下げた。
「おまえの握力そんなに強いのか?」
「……は?」
「いや、おまえにはその箱を開けられるって感じだったから、物理的にこうバァンと」
「人を何だと思っているのです」
心底呆れました、の顔でお茶とプリンを要求してきた店主のために、キッチンへと戻り準備をする。自分の分もトレーに乗せて戻ると、リチャードが箱を手に難しい顔をしていた。
「……なぁ、それさ、本当に受け取って良かったのか?」
ミルクティーとプリンを置きながら問い掛けても、リチャードの顔は晴れない。最初は単純に押し付けられた仕事に辟易しているのだと思ったのだが、そもそもこいつはそういう人間じゃないんだった。
「師匠は正しい判断をしました。これを預かるのは私でなくてはいけなかったでしょう」
「……それ、ただのジュエリーボックスじゃないのか?」
「ただのジュエリーボックスですよ。……いえ、お茶が冷めてしまいます。この話はまたあとで」
──結局、この日はいつも通り店仕舞いとパーラーでの食事を済ませてからリチャードにアパート近くまで送ってもらったのだが、食事の間も車の中でも、リチャードがあの箱の話をすることはなかった。
翌日の日曜日。本日分の牛乳とプリンを手にエトランジェへとやって来た俺が見たのは、応接テーブルの上でぱかりと口を開いているあのジュエリーボックスだった。
「あれっ、それ開いたのか!?」
「……ええ、まあ」
「すごいなぁ、誰も開けられないって言ってたのに。なぁ、俺も中身見ていいか?」
「……構いませんが、一点だけ約束を。私がいない時は箱の中身を見ないよう」
「ん?」
「よろしいですね、正義」
「うん、まあ良く分からないけど約束は守るよ」
リチャードはあまり気乗りがしない様子だったが、俺はとにかくこの不思議な箱の中身が気になっていた。中身が見えるように正面に回り覗くと、ジュエリーボックスの内側はくすんだ深紅のビロードで全面が覆われている。外装の深緑に合わせたのだろうか。
箱の高さの割りにあまり深さのない中仕切りに納められていたのは、ごくごくシンプルな銀の指輪だった。宝石がついているわけでも彫りが施されているでもない、銀の輪。
「……中身、これだけ?」
「何を期待していたのか知りませんが、指輪だけです」
「いや、あのホワイトサファイアほどじゃないとしても、秘密の宝石とかが入ってるのかと……」
「秘密が何かはそれを手にした人が決めることです。これもまた、誰かの秘密なのでしょう」
テーブルから箱を取り上げたリチャードは、蓋をまた閉めようとしたのだが、その時に何かを思い付いたのか、指輪を抜き取ってから改めて蓋を閉めた。
「閉めちゃっていいのか?」
「また開きますので。それに」
片手に指輪、片手に箱を持ったリチャードは、少しの間押し黙ってから口を開いた。
「確認したいことも、ありますので」
その後奥の部屋に入ったリチャードは、本日最初のお客様が来るまで部屋に籠っていたのだが、出てきた後はいつも通りに仕事をこなしていた。
宝石を薦め、宝石のエピソードを語り、その人が望む最善のものを導く。相変わらず魔法のようだった。何度か石を金庫から出すために奥の小部屋に戻りはしたが、接客の合間のプリンタイムにもあの箱は放置したまま。
飛び込みのお客様がいつもより多かったこともあって、昼過ぎに追加で牛乳を買いに行った頃には俺も箱のことは忘れていた。
「なぁリチャード、プリンあと一つ……」
来客が一段落し、食器を洗って応接室に戻ると、そこにリチャードの姿はなかった。さっき玉手箱を片付けようとしていたから、恐らく奥の部屋だろう。そう思い部屋のドアをノックすると、小さな音が返って来たので普通に開ける。
「あのさ、プリンが……あれ?」
執務室の中を覗いても、そこにリチャードはいなかった。さっきの物音は気のせいだったか、とドアを閉めようとした俺の視界に入ってきたのは、中央のテーブルに乗せられたあの箱と、その近くのトレーに置かれた銀の指輪。
『一人で箱の中身を見るな』と言ったあの言葉は「箱の内側」に対してだったのか「箱の中に入っていた指輪」のこと、どちらだったんだろうとどうでもいいことを考えてから、別の場所を探そうとして視線を逸らそうとした──のだが、出来なかった。
「…………は?」
俺の視線の先で、今の今まで閉まっていた箱がゆっくりと開いていく。熱せられた貝が耐えきれず口を開くかのように。
とうとう指二本分くらいまで開いた箱から、何かがずるりと出てくるのが見えた。白くて恐ろしく大きなナメクジのように這い出たソレは、ずるりずるりと指輪へと向かっていく。
人間、驚きすぎると声が出ないどころか息すら止まるらしく、俺は中途半端に開いたドアのノブを掴んだまま立ち尽くしていた。
ナメクジの先端が指輪に辿り着いたところで、ソレが見慣れた形を取ったのが分かった。
手。手だ。蝋で固めたような、片栗粉を溶かした水のような不思議な白さをした、だけど明らかに人の手だった。
指輪を摘まんだ蝋の手は、映像を逆再生したかのように箱へと戻っていく。
そうして、パタリと閉じた。
「見ましたか」
「っうひゃあ!?!?」
恐ろしさに一気に血の気が引いたところで声をかけられて、情けなくもドアに縋り付いて叫んでしまう。そんな俺のことなど気にしていないように、リチャードはずんずんと中へ入りあろうことか箱を持ち上げた。
「リッ、リチャ、」
「……これはもう開きませんよ」
やはり別々には出来ませんね、とだけ呟くと、リチャードは棚の引出しから取り出した風呂敷で箱を包んだ。さらにもう一枚重ね、最後にきゅっと縛る。
「見ないようにと言ったでしょう」
「見ないようにはしたんだよ! でも逸らせなくて」
「まあ、一度開けていますから大丈夫でしょう。私も迂闊でした」
店のものとは違う真っ白な紙袋に箱を入れたリチャードは、連絡はしておいたのでもうすぐ取りに来ますと告げた。
「……それ、お祓いとかするのか」
「まあ似たようなものを」
「さっきの」
「正義」
リチャードが口元に指を立てて言う。
「口にしては、いけません」
……その微笑みに、俺は従った。
