名もなき者
公開 2025/02/28 23:09
最終更新
2025/03/01 22:03
今日は子どもにとって大事な日だった。
でももうひとりでやるから大丈夫。と言うので任せた。ぼくは公開初日の「名もなき者」を観に行った。贅沢してDolbyシステムの劇場である(半分本当。行ける時間帯の上映がDolbyシアターだけだった)。

ティモシー・シャラメが演じるボブ・ディランは冒頭から熱っぽく浮腫んだ寝不足のような顔で、そうだ若いっていうのはこんな感じだったなと思い出す。いつも自分のなかに生まれる熱がムクムクとうずまいて、涼しくシュっとなんかしていない。
ティモシー・シャラメはこの映画のために5年に及ぶレッスンを受けたそうだ(宮代大嗣さんのテキストが熱く素晴らしい)。
https://otocoto.jp/column/acompleteunknown0228/
エドワード・ノートン演じるピート・シーガーが良かった。民衆の歌を歌い続ける。会場の観客に促し、マイクを向け声をひとつにする。ステージの彼は即興のスキャットを重ねて、そこに境界のない素晴らしい混声の音楽が生まれる。ぼくは今日シンガロングという言葉を知った。
対話を大事にし、重鎮でありながらも権威的にはならない、エドワード・ノートンの柔らかい(非アメリカな)雰囲気と相まってピートは現代的な、理想の父のように思えた。
だから物語的にはボブ・ディランは「父」を壊さなければいけない。
映画を観た後狭い中華料理店でボブとシルヴィが交わす「母の支配を逃れた娘」の表現がそれぞれ違うことが興味深かった。より良い自分と「別の」自分と。
ぼくがエル・ファニングをとても好きなので、頼む彼女はいつも幸せに笑っていてくれ、と思う。でも歌う男は歌わない女にとって、「それはぼくじゃない」のだろう。
ボブが呼吸さえ惜しむように曲を作り続ける様子は生々しかった。鳥に楽譜は必要ない、と言うように、音楽を身体に持って生まれた人間はすべてを音楽にするのだろう。教わるより先に身体が探して掴んでしまう。
ぼくは日本のフォークソングが本当に苦手だったものだから源流のほうもこの年までちゃんと聴かずに来てしまったけど、こんなに詩で溢れ、即興で重ねられる豊かなものだと知ってとても満たされている。
でももうひとりでやるから大丈夫。と言うので任せた。ぼくは公開初日の「名もなき者」を観に行った。贅沢してDolbyシステムの劇場である(半分本当。行ける時間帯の上映がDolbyシアターだけだった)。

ティモシー・シャラメが演じるボブ・ディランは冒頭から熱っぽく浮腫んだ寝不足のような顔で、そうだ若いっていうのはこんな感じだったなと思い出す。いつも自分のなかに生まれる熱がムクムクとうずまいて、涼しくシュっとなんかしていない。
ティモシー・シャラメはこの映画のために5年に及ぶレッスンを受けたそうだ(宮代大嗣さんのテキストが熱く素晴らしい)。
https://otocoto.jp/column/acompleteunknown0228/
エドワード・ノートン演じるピート・シーガーが良かった。民衆の歌を歌い続ける。会場の観客に促し、マイクを向け声をひとつにする。ステージの彼は即興のスキャットを重ねて、そこに境界のない素晴らしい混声の音楽が生まれる。ぼくは今日シンガロングという言葉を知った。
対話を大事にし、重鎮でありながらも権威的にはならない、エドワード・ノートンの柔らかい(非アメリカな)雰囲気と相まってピートは現代的な、理想の父のように思えた。
だから物語的にはボブ・ディランは「父」を壊さなければいけない。
映画を観た後狭い中華料理店でボブとシルヴィが交わす「母の支配を逃れた娘」の表現がそれぞれ違うことが興味深かった。より良い自分と「別の」自分と。
ぼくがエル・ファニングをとても好きなので、頼む彼女はいつも幸せに笑っていてくれ、と思う。でも歌う男は歌わない女にとって、「それはぼくじゃない」のだろう。
ボブが呼吸さえ惜しむように曲を作り続ける様子は生々しかった。鳥に楽譜は必要ない、と言うように、音楽を身体に持って生まれた人間はすべてを音楽にするのだろう。教わるより先に身体が探して掴んでしまう。
ぼくは日本のフォークソングが本当に苦手だったものだから源流のほうもこの年までちゃんと聴かずに来てしまったけど、こんなに詩で溢れ、即興で重ねられる豊かなものだと知ってとても満たされている。