在り間
公開 2025/07/04 22:11
最終更新
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今日も暑うございました。床に横たわったら冷たさが気持ちよく、ついうたた寝をしてしまった。
すぐに目が覚めて室内の風景を眺めながら、夢で聴いていたラジオのような音声が響いていて、ああ、〇〇が部屋にいるのか、と懐かしい気分になった。でも実際にはまだ夢の続きで、だんだん音声のボリュームが絞られていって、あ、聴こえなくなる、消えてしまう、と焦ったところで完全に目が覚めた。
〇〇とはぼくの知らない誰かだった。
自分の夢ではない気がした。
ぼくは映画好きなので様々なひとの感想、解説を聞いたり読んだりするのも好きなのだけど、そういった評から長年何となく感じつつも言葉にできなかった事があって、それは(その人にとっての)異性二人の物語というのは自覚するよりずっと深い自己投影がなされているかもしれないな、と。
古くはイングマール・ベルイマンの「ペルソナ」。公開されたとき世界中で絶賛され、今なお引用される名作だ。男性にとって社会の抑圧を受ける女性二人が対話する物語とは、自身が抑圧している女性性を発見する物語でもあるかも知れない。女性性とは創造性。ユング心理学で言われるところのアニマ。
最近だったら「アノーラ」が記憶に新しいショーン・ベイカーの映画だ。セックスワーカーの女性と老女の物語に男性は、深い場所で抑圧され発生を待つ自身の創造性を見出してるのかもしれない。
と、ここまで書いたけど現実の世界でどっちの性を生きてるとかは関係なく、この社会(資本主義、新自由主義、家父長制、封建制度…あとなんだ皆同じようなものだ)が求める主体のペルソナとはほぼ「成人男性」のそれであるから、自他ともに女性と認知される女性ですら相当の成人男性的時間を生きざるを得ず、女性だからといって女性性を生き生きと生かせているとは言い難い。よって抑圧を受ける(=マイノリティである)性の側である二人が対話を行い何らかの和解、融合に向かう構造の物語はこれからもますます求められるのだろうな、男性ペルソナ、男性的ペルソナを生きる人間が希望を見出すフォーマットとして。と考えたりした。
希望とは自己の創造性でもあるから。
すぐに目が覚めて室内の風景を眺めながら、夢で聴いていたラジオのような音声が響いていて、ああ、〇〇が部屋にいるのか、と懐かしい気分になった。でも実際にはまだ夢の続きで、だんだん音声のボリュームが絞られていって、あ、聴こえなくなる、消えてしまう、と焦ったところで完全に目が覚めた。
〇〇とはぼくの知らない誰かだった。
自分の夢ではない気がした。
ぼくは映画好きなので様々なひとの感想、解説を聞いたり読んだりするのも好きなのだけど、そういった評から長年何となく感じつつも言葉にできなかった事があって、それは(その人にとっての)異性二人の物語というのは自覚するよりずっと深い自己投影がなされているかもしれないな、と。
古くはイングマール・ベルイマンの「ペルソナ」。公開されたとき世界中で絶賛され、今なお引用される名作だ。男性にとって社会の抑圧を受ける女性二人が対話する物語とは、自身が抑圧している女性性を発見する物語でもあるかも知れない。女性性とは創造性。ユング心理学で言われるところのアニマ。
最近だったら「アノーラ」が記憶に新しいショーン・ベイカーの映画だ。セックスワーカーの女性と老女の物語に男性は、深い場所で抑圧され発生を待つ自身の創造性を見出してるのかもしれない。
と、ここまで書いたけど現実の世界でどっちの性を生きてるとかは関係なく、この社会(資本主義、新自由主義、家父長制、封建制度…あとなんだ皆同じようなものだ)が求める主体のペルソナとはほぼ「成人男性」のそれであるから、自他ともに女性と認知される女性ですら相当の成人男性的時間を生きざるを得ず、女性だからといって女性性を生き生きと生かせているとは言い難い。よって抑圧を受ける(=マイノリティである)性の側である二人が対話を行い何らかの和解、融合に向かう構造の物語はこれからもますます求められるのだろうな、男性ペルソナ、男性的ペルソナを生きる人間が希望を見出すフォーマットとして。と考えたりした。
希望とは自己の創造性でもあるから。
