息吹
公開 2023/09/24 17:16
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※タンザ期終盤、アルバイトと雇用主の散歩の話
チカリ、と光を感じた気がして目を開いた。それが道路の両側に並び立つ木々の隙間から落ちる日差しのせいだと気が付いて、数度まばたきをする。
「起きましたか」
左側──運転席から聞こえてた声にまだどこかぼんやりとした思考のまま視線をやれば、今日も輝かんばかりに美しい男がハンドルを握り、一瞬だけ視線を俺に向け、すぐに前を向く。
「……ごめん、俺、どれくらい寝てた?」
「十五分程度かと。そろそろ起こそうかと思っていたところです」
「そっか……」
少しずつ、記憶が現実に追いついていく感覚。最近また調子を崩しがちな俺をリチャードが心配しているのは知っていたけれど、いつまでも眠剤と安定剤に頼ってばかりではいられないのだと、俺もリチャードも分かっていた。
だから、連れ出してほしいと頼んたのだ。
この居心地も景色もいいホテルの部屋から、どこか別の場所へ。どこへでもいいから、と。
俺の頼みに、リチャードは数分間無言だった。俺の顔色なんかを観察しているのは明らかで、隠しきれない溜息を吐かせてしまったのは申し訳なく思う。
「あなたは」
「うん」
「以前から変な方向に思い切りが良すぎる」
「ごめん」
「……それに助けられたことがあるのも事実です」
きゅっと唇を噛んで、リチャードはテーブルの上に置いていたジャガーの鍵を手にした。
「場所は私に任せて頂けるのですね」
「うん。特に希望はないから。……いいのか?」
「行きたいと言ったのはあなたでしょう。それに今日は元々散歩にお誘いするつもりでしたので」
朝、この部屋を訪れた際にケーキの箱を持っていたのは気のせいではなかったはずだ。俺と食べるつもりで買って来てくれただろうに、気を遣わせまいとするリチャードの気持ちが嬉しかった。
「ありがとう。帰って来たら、一緒にケーキ食べような、リチャード」
「……どういたしまして」
そうして上着だけを手にして、あたたかな鳥籠から外へと踏み出したのが、二時間ほど前のことだ。
◇ ◇ ◇
初夏の湖畔に、新緑の色を映したようなジャガーが停車する。車のドアを開けると同時に漂ってきたのは水と土の匂い。それが柔らかな風に乗って頬をそっと撫でていく。
「東京とは思えないなぁ……」
「県境に近いところではありますが、紛れもなく東京ですよ。寒くはありませんか、正義」
「大丈夫。上着もあるし日差しがあるから暑いくらいだよ。リチャードこそ運転しっぱなしで疲れただろ。ベンチに座って休むか?」
「お気遣いありがとうございます。ですが折角ですし休憩は少し散策してからにしましょう」
二人で並んで案内板を見てから、売店でペットボトルの飲み物を買う。リチャードはいつも通りミネラルウォーターを選んだ。俺も迷わず同じものを買う。別にペットボトルのお茶が死んでいると思っているわけではなくて、なんとなく同じものにしたかった。
ゆっくりと、光を反射して白くきらめく水面を見ながら歩いた。車通りは多くなかったけれどさりげなく車道側を歩くリチャードは、俺の歩くスピードに合わせてくれていた。相変わらずの優しさと過保護さに、口元が弛むのを我慢できない。
「そんなに心配しなくても、突然倒れたりしないぞ。最近は発作も治まって来てるだろ」
「用心するに越したことはありません」
「まあ、そうだけどさぁ」
「あなたは嘘は下手ですが、隠しごとは案外上手いと思っているので。もう騙されるわけにはいきません」
「あー、うー……ごめん?」
「何故疑問形なのか。反省の色がない」
「大変申し訳ありませんでした」
「よろしい。今日は許して差し上げます」
「厳しいなぁ」
もう何回も、何十回も情けない姿を見られていると言うのに、俺はいつまで経っても慣れることがない。慣れないというか、そのうちの半分以上を今の俺は覚えていないのだから仕方がないのかもしれないが。
「脳って不思議だよな。俺のことなのに、俺が覚えてないことがたくさんある」
「今は忘れていた方がいいということでしょう」
「いつか思い出すのかなぁ」
「……思い出したいのですか」
「そういうわけじゃ、ないんだけど。でもいつか全部思い出すんじゃないかなって、そう思う。数年後か、数十年後か。ボケてからかもしれないけど」
「もしも」
半分以上冗談のつもりで言ったのに、リチャードの声はひどく真剣だった。
「もしもあなたが記憶を取り戻して、混乱していたら。私が抱き締めて、落ち着かせてあげます」
──吹き抜けた風がリチャードの髪を乱したせいで、表情が読み取れなかった。す、と手櫛で髪を整えたあとでも、それは変わらない。
「うん、よろしく、お願いします」
「かしこまりました」
だけど俺の返答にこちらを見たリチャードの表情は笑っていたから、それ以上は何も言わなかった。
結局駐車場からぐるりと回って、対岸まで歩いてしまった。景色を一望できるベンチに並んで腰掛けて、少し温くなった水を飲む。
風に揺れる水面と一面の緑。葉が、枝が揺れる音。鳥の声。近くの民家からは赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
俺が数ヶ月間遠ざけていた、人と世界の音だ。
「最近、薬の量が減っただろ。少しだけど」
「ええ」
「夢を見ないわけじゃないんだけど、前よりも自分で夢の中をコントロール出来るようになっててさ」
「そうですか」
「昨日は、エトランジェでプリンを作る夢だった」
「素晴らしいですね」
「うん……だからそろそろ、現実にしようかと思って」
膝にのせていた手を、拳にする。
「大学への復帰と、アルバイトの再開を、しようかと思うんだけど……どうだろう」
リチャードに、アルバイト先の店長で俺の面倒を見てくれている、この世界一美しくて優しい男に、どうしても一番最初に、伝えたかった。守られてばかりの俺がちゃんと巣立つのはもう少し先だろうけど、それでもその意思が芽生えたのだということを。
リチャードはまた唇を噛んだ。
きっと言葉を飲み込んだのだろう。こくりと喉仏が動く様子すら美しくて、ベンチに座っていなかったらへたり込んでいたかもしれない。そんな醜態を晒すことにならなくて本当に良かった。
「本当に、あなたは」
「『以前から変な方向に思い切りが良すぎる』だろ」
「……本当に、そうです」
今でも心配で心配でたまらないのだと、天青の瞳が告げている。本音を言えば、俺だって心配だ。
大学内に俺の情報を流した奴がいるんだ、とか。
ジェフリーが人を使って調べていてくれるけどまたアイツが目の前に現れたら、とか。
いちいち挙げていたらキリがないくらい不安要素はあるけれど、エトランジェを辞めようと、リチャードの元から離れようとしていたあの時よりは、今の俺は遥かに安定している。
「条件を三つ」
白く長い指が三つ、目の前に掲げられる。
「一つ。大学への往復には、まだ公共交通機関を使わないこと。エトランジェへの移動もです。私が送るかこちらが用意したタクシーを使用してください」
「いきなり過保護が過ぎる!」
「二つ。夏休みまでは週二日程度に抑えること。エトランジェでのバイトは営業している土日、両方入っていただいて構いません」
「……まあ、それは俺もいきなり講義に復帰できるとは思ってなかったし、同意するけど」
「三つ。……エトランジェの厨房で、プリンを作ってください。夢を現実にしたいのでしょう?」
最後の条件を断ったら、他の条件どころか復帰自体がなかったことにされそうなくらい、真剣な眼差しでリチャードが言う。多分俺の口はぽかんと開いていただろう。
だって、こんな些細なことを他の何よりも重要だと、そんな風に言うなんて。本当に。本当に……。
「お前、本当に俺のプリンが好きなんだなぁ」
「もちろんです。世界で一番、あなたの作って下さるプリンが美味しいですから」
「そうかぁ。そう言ってもらえると作り甲斐があるよ。そうだ、どうせならどーんとバケツプリンに挑戦してみるか?」
「いえ、いつものサイズのプリンが一番ですから」
……でも、いつかバケツプリンも食べたいです。
最後の最後に、やはり興味は隠せなかったのか。小さな声で本音をこぼした麗しの宝石商に、俺は笑いながら了承の言葉を返した。
◇ ◇ ◇
空のペットボトルを売店横のゴミ箱に捨てて、ジャガーへと乗り込む。シートベルトを締めながら窓の外を見れば、ほんのりと西の空が色づいていた。
「そういえば、どうしてここだったんだ」
ミラーを調整していたリチャードは、一度湖に視線をやり、エンジンをかけた。
「この近くにお客様がお住まいで、何度かご注文頂いた品を届けに来たことがあります」
「うん」
「春は桜、秋は紅葉が美しく……どこかのアルバイトに見せたら喜びそうだなと、考えていたので」
桃色の唇が描く弧の優美さに、車の中だというのに俺の身体の中を新緑の風が吹き抜けていったような、そんな錯覚を覚えた。
「それから、この近くに美味しい和菓子屋があるのであなたにも是非食べさせたい」
「……帰ったらケーキあるだろ」
チカリ、と光を感じた気がして目を開いた。それが道路の両側に並び立つ木々の隙間から落ちる日差しのせいだと気が付いて、数度まばたきをする。
「起きましたか」
左側──運転席から聞こえてた声にまだどこかぼんやりとした思考のまま視線をやれば、今日も輝かんばかりに美しい男がハンドルを握り、一瞬だけ視線を俺に向け、すぐに前を向く。
「……ごめん、俺、どれくらい寝てた?」
「十五分程度かと。そろそろ起こそうかと思っていたところです」
「そっか……」
少しずつ、記憶が現実に追いついていく感覚。最近また調子を崩しがちな俺をリチャードが心配しているのは知っていたけれど、いつまでも眠剤と安定剤に頼ってばかりではいられないのだと、俺もリチャードも分かっていた。
だから、連れ出してほしいと頼んたのだ。
この居心地も景色もいいホテルの部屋から、どこか別の場所へ。どこへでもいいから、と。
俺の頼みに、リチャードは数分間無言だった。俺の顔色なんかを観察しているのは明らかで、隠しきれない溜息を吐かせてしまったのは申し訳なく思う。
「あなたは」
「うん」
「以前から変な方向に思い切りが良すぎる」
「ごめん」
「……それに助けられたことがあるのも事実です」
きゅっと唇を噛んで、リチャードはテーブルの上に置いていたジャガーの鍵を手にした。
「場所は私に任せて頂けるのですね」
「うん。特に希望はないから。……いいのか?」
「行きたいと言ったのはあなたでしょう。それに今日は元々散歩にお誘いするつもりでしたので」
朝、この部屋を訪れた際にケーキの箱を持っていたのは気のせいではなかったはずだ。俺と食べるつもりで買って来てくれただろうに、気を遣わせまいとするリチャードの気持ちが嬉しかった。
「ありがとう。帰って来たら、一緒にケーキ食べような、リチャード」
「……どういたしまして」
そうして上着だけを手にして、あたたかな鳥籠から外へと踏み出したのが、二時間ほど前のことだ。
◇ ◇ ◇
初夏の湖畔に、新緑の色を映したようなジャガーが停車する。車のドアを開けると同時に漂ってきたのは水と土の匂い。それが柔らかな風に乗って頬をそっと撫でていく。
「東京とは思えないなぁ……」
「県境に近いところではありますが、紛れもなく東京ですよ。寒くはありませんか、正義」
「大丈夫。上着もあるし日差しがあるから暑いくらいだよ。リチャードこそ運転しっぱなしで疲れただろ。ベンチに座って休むか?」
「お気遣いありがとうございます。ですが折角ですし休憩は少し散策してからにしましょう」
二人で並んで案内板を見てから、売店でペットボトルの飲み物を買う。リチャードはいつも通りミネラルウォーターを選んだ。俺も迷わず同じものを買う。別にペットボトルのお茶が死んでいると思っているわけではなくて、なんとなく同じものにしたかった。
ゆっくりと、光を反射して白くきらめく水面を見ながら歩いた。車通りは多くなかったけれどさりげなく車道側を歩くリチャードは、俺の歩くスピードに合わせてくれていた。相変わらずの優しさと過保護さに、口元が弛むのを我慢できない。
「そんなに心配しなくても、突然倒れたりしないぞ。最近は発作も治まって来てるだろ」
「用心するに越したことはありません」
「まあ、そうだけどさぁ」
「あなたは嘘は下手ですが、隠しごとは案外上手いと思っているので。もう騙されるわけにはいきません」
「あー、うー……ごめん?」
「何故疑問形なのか。反省の色がない」
「大変申し訳ありませんでした」
「よろしい。今日は許して差し上げます」
「厳しいなぁ」
もう何回も、何十回も情けない姿を見られていると言うのに、俺はいつまで経っても慣れることがない。慣れないというか、そのうちの半分以上を今の俺は覚えていないのだから仕方がないのかもしれないが。
「脳って不思議だよな。俺のことなのに、俺が覚えてないことがたくさんある」
「今は忘れていた方がいいということでしょう」
「いつか思い出すのかなぁ」
「……思い出したいのですか」
「そういうわけじゃ、ないんだけど。でもいつか全部思い出すんじゃないかなって、そう思う。数年後か、数十年後か。ボケてからかもしれないけど」
「もしも」
半分以上冗談のつもりで言ったのに、リチャードの声はひどく真剣だった。
「もしもあなたが記憶を取り戻して、混乱していたら。私が抱き締めて、落ち着かせてあげます」
──吹き抜けた風がリチャードの髪を乱したせいで、表情が読み取れなかった。す、と手櫛で髪を整えたあとでも、それは変わらない。
「うん、よろしく、お願いします」
「かしこまりました」
だけど俺の返答にこちらを見たリチャードの表情は笑っていたから、それ以上は何も言わなかった。
結局駐車場からぐるりと回って、対岸まで歩いてしまった。景色を一望できるベンチに並んで腰掛けて、少し温くなった水を飲む。
風に揺れる水面と一面の緑。葉が、枝が揺れる音。鳥の声。近くの民家からは赤ん坊の泣き声が聞こえてくる。
俺が数ヶ月間遠ざけていた、人と世界の音だ。
「最近、薬の量が減っただろ。少しだけど」
「ええ」
「夢を見ないわけじゃないんだけど、前よりも自分で夢の中をコントロール出来るようになっててさ」
「そうですか」
「昨日は、エトランジェでプリンを作る夢だった」
「素晴らしいですね」
「うん……だからそろそろ、現実にしようかと思って」
膝にのせていた手を、拳にする。
「大学への復帰と、アルバイトの再開を、しようかと思うんだけど……どうだろう」
リチャードに、アルバイト先の店長で俺の面倒を見てくれている、この世界一美しくて優しい男に、どうしても一番最初に、伝えたかった。守られてばかりの俺がちゃんと巣立つのはもう少し先だろうけど、それでもその意思が芽生えたのだということを。
リチャードはまた唇を噛んだ。
きっと言葉を飲み込んだのだろう。こくりと喉仏が動く様子すら美しくて、ベンチに座っていなかったらへたり込んでいたかもしれない。そんな醜態を晒すことにならなくて本当に良かった。
「本当に、あなたは」
「『以前から変な方向に思い切りが良すぎる』だろ」
「……本当に、そうです」
今でも心配で心配でたまらないのだと、天青の瞳が告げている。本音を言えば、俺だって心配だ。
大学内に俺の情報を流した奴がいるんだ、とか。
ジェフリーが人を使って調べていてくれるけどまたアイツが目の前に現れたら、とか。
いちいち挙げていたらキリがないくらい不安要素はあるけれど、エトランジェを辞めようと、リチャードの元から離れようとしていたあの時よりは、今の俺は遥かに安定している。
「条件を三つ」
白く長い指が三つ、目の前に掲げられる。
「一つ。大学への往復には、まだ公共交通機関を使わないこと。エトランジェへの移動もです。私が送るかこちらが用意したタクシーを使用してください」
「いきなり過保護が過ぎる!」
「二つ。夏休みまでは週二日程度に抑えること。エトランジェでのバイトは営業している土日、両方入っていただいて構いません」
「……まあ、それは俺もいきなり講義に復帰できるとは思ってなかったし、同意するけど」
「三つ。……エトランジェの厨房で、プリンを作ってください。夢を現実にしたいのでしょう?」
最後の条件を断ったら、他の条件どころか復帰自体がなかったことにされそうなくらい、真剣な眼差しでリチャードが言う。多分俺の口はぽかんと開いていただろう。
だって、こんな些細なことを他の何よりも重要だと、そんな風に言うなんて。本当に。本当に……。
「お前、本当に俺のプリンが好きなんだなぁ」
「もちろんです。世界で一番、あなたの作って下さるプリンが美味しいですから」
「そうかぁ。そう言ってもらえると作り甲斐があるよ。そうだ、どうせならどーんとバケツプリンに挑戦してみるか?」
「いえ、いつものサイズのプリンが一番ですから」
……でも、いつかバケツプリンも食べたいです。
最後の最後に、やはり興味は隠せなかったのか。小さな声で本音をこぼした麗しの宝石商に、俺は笑いながら了承の言葉を返した。
◇ ◇ ◇
空のペットボトルを売店横のゴミ箱に捨てて、ジャガーへと乗り込む。シートベルトを締めながら窓の外を見れば、ほんのりと西の空が色づいていた。
「そういえば、どうしてここだったんだ」
ミラーを調整していたリチャードは、一度湖に視線をやり、エンジンをかけた。
「この近くにお客様がお住まいで、何度かご注文頂いた品を届けに来たことがあります」
「うん」
「春は桜、秋は紅葉が美しく……どこかのアルバイトに見せたら喜びそうだなと、考えていたので」
桃色の唇が描く弧の優美さに、車の中だというのに俺の身体の中を新緑の風が吹き抜けていったような、そんな錯覚を覚えた。
「それから、この近くに美味しい和菓子屋があるのであなたにも是非食べさせたい」
「……帰ったらケーキあるだろ」
