不可逆の赤
公開 2023/09/24 12:41
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※バッドエンドですのでご注意下さい※
あなたはもうこないのに
「ハイ、山田くん。久し振りですね」
「ジェイさん、来てたんだ」
庭で洗濯物を干している時にやって来たのは、笑顔の爽やかな青い瞳の人だった。何かとちょっかいを出しては怒られているのに、むしろそれを楽しんでいるような、優しくて聡い人。
「エディに教えておきたい話があったものですから。でもいないみたいですね? 外出中ですか?」
「そう。先生は多分夜まで戻らないよ」
「アイツの外出に君が付いていかないなんて珍しい」
「……そうかな。そんなことないけど」
背中を向けたままでシーツを広げた俺の言葉をどう受け止めたのか、視線が刺さってくるのが分かる。
どうか気付かないで欲しい。この人相手にそんなの考えても無駄だとは分かっているけれど。
「ところで山田くん。君、痩せました?」
「そんなことないですよ」
「この場合はやつれた、と言う方が正しいのかな」
「そんなことないですってば」
「こんなに腕が細くなったのに?」
後ろから伸びてきた手に空の籠を持つ手を掴まれる。妙に熱いと感じるのは俺が冷えてるせいだろうか。
「やっぱり痩せてるね。エディはどうしたんです」
「……先生は関係ないよ、ジェイさん」
「あいつが君のこんな状態を許すとは思えないけど」
「っだから、先生は関係ないってば!」
掴まれた腕を思い切り振り払うのと、視界がくらりと揺れるのは同時だった。
ベッドの上で目が覚めても、薄暗い部屋の中には求める姿も香りもなかった。伸ばした手は空を切る。
あぁ、お前は何を期待していたんだ、山田誠司。もうあの人から何も求められていないというのに。
涙が一粒だけ落ちる。内側で何かが壊れる音がした。
あなたにふれたいのに
深夜に屋敷に戻った私を出迎えたのは、久し振りに顔を見る男だった。
「やあエドワード。遅いお帰りで」
「……来ていたのですか」
後ろに控えていた部下にもう休むと告げ、自室へと向かう。
今日はとにかく疲れていた。
こちらの利益になる相手だというだけで笑顔を見せなければならず、時には心にもない言葉を告げなければならなかった。早く切り上げたいと思っても表に出すことも適わない。
ささくれだった心に、せめて彼だけは相手から変に目をつけられることがないように、と自分から距離を置いた人の姿が過ぎる。何も言わずに彼の手を離したことが、今更になって気になりだした。
彼──山田さんとはここ数日まともに顔を合わせていない。今朝も視界の端に姿を見掛けた程度だ。
「ジェイ、山田さんに会いましたか」
「倒れた」
「……今、なんと?」
「昼間僕と話している最中に倒れて、今は自分の部屋で休ませてる。ひどい栄養失調に睡眠不足、それから……っ待てエディ、まだ話は終わってない」
二階へ上がろうと動いた身体を止められ思わず睨んだが、この程度でジェイが怯むわけもなかった。私と似た色をしたジェイの目は、今は怒りしか伝えてこない。
「今は駄目だ。彼に会うのはやめておけ」
「何故です」
「……今の山田くんは、誰のことも分かってない。僕のことも、お前のことも。ここがどこなのかも。かろうじて自分の名前が山田誠司だというのは理解している様子だったけれど……それだけだ」
「何を」
「あの子は自分から世界を閉ざしてしまったんだよ、エドワード。どうしてあの子を、山田くんを一人にしたんだ。山田くんがああ見えて人一倍繊細なことはお前が一番よく知って……ダメだ、行くなエディ!」
どれだけ止められても、それ以上ジェイの言葉を聞く必要などないと思った。だって、彼が。山田誠司が私のことを忘れるなど、そんなことあるはずがない。
ノックもせずに開けたドアの向こう。ベッドの上に腰掛けて、山田さんは窓の外の暗闇を見ていた。
月の光もない暗闇の中に、彼にしか見えない何かがあるように。
「山田さん」
声をかけても、反応はない。
「山田さん」
一歩ずつ距離を詰めても、視線は来ない。
「……誠司」
目の前に立って無理矢理視線を合わせても、彼の瞳に私が映っても。彼は私を『見て』はくれなかった。人形のように虚ろな瞳に背筋が冷たくなる。
「誠司……あなたに何も告げなかったことは謝ります。長い間、一人にしすぎたことも。だから、だからもう一度だけ私にチャンスをくれませんか。あなたのその目に、私を映すチャンスを」
最後に彼を抱いた時よりずっと薄くなった肩に手を回す。力のない身体も、いつもより大分低い体温も。太陽のように笑う彼には似つかわしくないものだった。
「──っう、ぁ」
「誠司?」
「うぁぁ、やあぁぁぁぁぁ!!」
突然叫び、暴れだした山田さんの身体を抑えつけようとするもまったくの逆効果だった。全身で、それこそ足までも振り上げられてしまえば思わず腕が緩む。そのタイミングで強く胸を突かれて息が止まった。
突き飛ばされる形で距離を取った時に香ったのは、数時間前まで一緒にいた相手が纏っていた、どろりと甘い花の香り。
この時初めて、着替えもシャワーも浴びずにこの部屋に来たことを後悔した。
山田さんは顔面蒼白になりながらも私から距離を取り、一番離れた部屋の角で蹲っていた。離れていてもガチガチと歯が鳴る音が聞こえてくるくらい震えるさまに、駆け寄ろうとした身体が固まる。
「エドワード。今は山田くんから離れていろ」
叫び声を聞いて部屋に駆け込んできたジェイが、私の代わりに山田さんに静かに近付いていく。ジェイが小さな声で名前を呼んでくるのですら拒絶するように両手で耳を塞ぎ──そのまま山田さんは気を失った。
「……言っただろう。何も分かってないって」
山田さんの痩せた身体を抱き上げてこちらを振り向いたジェイが、苦しそうな顔で笑う。
意識を失い眠る彼は、まるで人形のようだった。
不可視の底
目が覚めたら、見覚えのない真っ白な部屋にいた。ここはどこだろう。アイツと暮らしていたアパートではない。あそこは、こんな柔らかな布団があるような部屋ではなかった。
上半身を起こしてみても、やっぱりここは初めてきた場所だとしか思えなかった。いろんなことを考えたいけれど頭がぼーっとする。
ただぼんやりしているうちにドアが開いて、誰かが部屋に入ってきた……らしい。わからない。人っぽい形をした黒いモヤモヤした塊にしか見えなかった。
「ああ山田くん、よかった。目が覚めましたか。気分はどうですか? 栄養失調と睡眠不足だとお医者様が言っていましたよ」
塊は人間らしかった。声に時折ザリッとノイズが混じっていたが、聞き取れないほどではない。
山田、くん? 俺のことだろうか。俺はそんな名前だったか? もっと違う……何だったかな。思い出せない。だけど山田と呼ばれても嫌な感じはしないから、きっと俺の名前なんだろう。
「君が倒れたことを にも伝えようとしたんだけれど……実はまだ連絡がつかなくてね。帰ってきたら多分怒られますよ、君も僕も」
「……?」
倒れたというのは俺のことだろうか。でもそれよりも、一部分だけすっぱりと音が消えていた気がする。何に伝えようとしていたのか、という部分が。
思わず首を傾げた俺に、黒い塊……誰か分からないけれど俺を知っているらしいこの人は一瞬息を詰まらせた。
「……山田くん、念のため聞きますけれど、僕のことがわかりますか。 。君はいつも僕のことをこう呼んでいました」
首を振る。また音が消えていた。多分だけれど、名前を名乗ったのだろう。けれどそこだけが音を切り取られてしまっている。
「そうですか……じゃあ自分のことは? 山田、山田誠司。君の名前だ。それはわかるかい?」
不思議と、自分の名前らしいものは音がちゃんと聞こえている。山田誠司。最初に呼ばれた時も思ったけれど俺はそんな名前だっただろうか……いくら考えても分からない。
戸惑いつつも小さく頷いた俺に、この人は少しだけほっとしたらしい。名前が分からない上に姿も見えないせいか、声の感じだけが手掛かりだった。
「僕と のことだけが分からないのか、それ以外のこともなのか調べなくちゃダメかもしれませんね。山田くん……本当に のことまで忘れてしまったんですか。先生って呼んであんなに慕っていたのに」
先生。せんせい。
その単語が聞こえた瞬間、胸が軋むような気持ちがした。何も思い出せないけれど、俺はその言葉を……その言葉を、大切にしていたんだろうか。分からない。
胸の軋みは一瞬のことで、まるで波が引いていくように痛みも薄らいでいった。アイツと暮らしていた時のことを思い出す。殴られたり蹴られたりしたけれど、すぐに忘れるようにした。そうすれば泣かずにいられた。そうだ、きっとこれでいい。
思い出せないことは、辛いことなんだから。
黒い塊はそのあとも何かを話し続けていたけれど、だんだんと、何も聞こえなくなっていった。
次に気が付いたときにはベッドに座っていた。裸足の足に、フローリングがひんやりと心地いい。
窓の外は真っ暗だった。
暗いのは良い。何も見えないから。黒いのは良い。何もかも消してくれるから。明るいところも、白いものも、俺は苦手だ。
この部屋は白くて苦手だ。もっと暗くて、もっと狭い所に行きたい。でもここは知らない場所だから、勝手に動いてもし誰に見つかったら、殴られるかもしれない……それは嫌だなぁ。
そんなことを考えていたら、また目の前に黒いモヤモヤの塊が現れて……そのまま、包まれるような感触がした。
この黒い塊は、最初に見たものと同じものだろうか。内側からはザリザリとした、チューニングが合ってないラジオみたいな音が聞こえてくる。……この黒い塊が喋っているんだろうか。どうして最初のヤツみたいに声が聞こえないんだろう。
なんとなく抱き締められているような体勢が居辛くて身体を動かそうとしたときに感じた甘い花の香りに、一気に吐き気が込み上げてくる。
嫌だ。
嫌だ。
…………嫌だ!
「っう、ぁ」
声が出せないと思っていたのは俺の気のせいだったらしい。乾いた渇いた喉を引き裂くように出たのは確かに俺の声だった。
「うぁぁ、やあぁぁぁぁぁ!!」
とにかく必死に、自分でも分からないままに手足を振り回した。これはダメだ。近くにいたくない。俺が壊れていく。痛い。死んでしまいたい。先生が許してくれない。でも先生は俺をいらないって、捨てて。
……先生。先生って誰だ。
黒い塊が俺から離れた隙に、部屋の隅に逃げて蹲る。暴れたときに誰かを……あの黒い塊を突き飛ばした気がする。殴られるだろうか。蹴られるかもしれない。怖い。痛いのは嫌だ。もう何も聞きたくないし見たくないのに、どうして俺の目も耳も言うことを聞いてくれないんだろう。
両手で強く耳を押さえれば、少しはましになった。そうだ。身体から心を離してしまおう。辛いことは忘れてしまおう。我慢していればそのうち飽きてどっかに行くだろう。
アイツだってそうだった。これは躾だと言いながら、ことあるごとに俺を殴ってきた、父親も。
ずっと忘れていたその顔を思い出した途端、世界は真っ暗になった。部屋の形はぐねぐねと歪み、固いはずの床のフローリングは氷のように融けていく。
そして、暗い暗い沼に落ちていくように、俺は沈んでいった。
ここは寒くも暖かくもなくて、ただただ暗い。でも何も聞こえないし何の香りもしないから、俺にとっては居心地が良かった。でもずっとここにいたら俺はどうなるんだろう。
……死んじゃうのかな。
それはすごく理想的だと思った。だってここにいるだけで、苦しいことも悲しいことも痛いことも感じないで済むのだ。そうしていつか死ぬ。たとえ誰にも見つけてもらえなくても、二度と先生に会えなくなるとしても。先生は怒るんだろうけど……先生?
……また先生だ。誰のことなのか全然思い出せないくせに、その単語だけが頭にこびり付いて剥がせない。
もう忘れよう。忘れたい。先生がどこの誰だろうと俺には関係ない。俺は先生に捨てられて、忘れられて、寂しくて……違う。いなくなりたかった。もういらないって言って欲しくて、違う、もう一回だけ名前を呼んで欲しくて。違う。違う!
お前なんかいらないと言われるのが怖くて。
お前なんか死んでしまえと言って欲しくて。
そうだ、あの時。ベッドの上で目覚めてもそこに先生がいなくて。……それが痛くて辛くて悲しくて我慢できなくて、そうして呆気なく俺は壊れてしまった。
──もう元に戻る方法も分からないくらい、粉々に。
不可逆の赤
私の前で酷く暴れて気を失ってから丸二日、山田さんは眠り続けた。それから目を覚ましても反応はない。反射はするが、こちらの声も音も、何も聞こえていないようだった。
シーツを変えるために抱き上げた身体は、恐ろしく軽い。食べ物を経口摂取出来ない代わりに点滴で誤魔化してはいるものの、いつまでも通用しないことは私もジェイも分かっていた。
「山田さん……あなたは」
死にたいのですか、と口にすることはどうしても出来なかった。たとえ冗談だとしても、その瞬間に彼が意識を取り戻して肯定するのではないかと、そんな恐怖心だけがあった。
日に日に弱って、薄くなっていく身体。朝になったら冷たくなっているのではないかと、ここ数日は体温の低い山田さんを抱き締めて眠るようになった。呼吸の温かさと心臓の音だけが彼が生きてることを教えてくれる。
『先生は俺より体温高いから、抱き締められてると気持ちいいですね』
同じベッドで眠ると、いつもそう言って笑っていた。触れるだけでほんのり頬を染めて、嬉しいと全身で伝えてくれていたのに。
『先生、大好き』
……私はそんな彼を、何も言わずに突き放したのだ。
「これ以上は無理だよ、エディ。もう限界だ」
「そんなことはありません」
「山田くんの状態を一番知っているのはお前だろう。これ以上は個人の手に余る。いつまでも点滴だけで誤魔化せるものでもないんだ」
「……彼はまだ生きています」
「今はまだ、ね。このままの状態が続けばどうなるかなんて言わなくても分かるだろう」
ジェイがくたびれた顔で話すのを見るのは、これで何度目だろう。山田さんが倒れてからずっと、私達の間には苦々しさだけがあった。
山田さんが心と身体の制御を喪ってから、一ヶ月が経っていた。毎日言葉を掛けても反応はない。時折何かを思い出したように身体を起こして歩こうとするが、体力の落ちた身体はすぐに崩れる。ここ数日は特にそれが顕著で目が離せないことが続いていた。
「……専門のスタッフがいる病院や施設の空きを今探しているところだ。近いうちに移そう」
「私からあの子を取り上げるつもりですか」
「そうじゃないよ」
「どこがです。同じことでしょう」
「……あの子の中には、もう僕もお前もいないんだよ、エディ。誰もいないんだ」
ジェイは小さい子供に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を並べた。
ベッドで眠る山田さんの髪を梳く。彼の綺麗な黒髪は私のお気に入りだった。
「……明日、ジェイと出掛けてきます。あなたの行き先を決めてくる予定です」
規則正しい寝息にいつも救われていた。彼がまだ生きているというだけで、それだけで良かったのに。
「あなたは私の魂の片割れ。オレンジのもう半分。そして私の生き甲斐でもある。……あなたに伝えたことはありませんでしたが。もっと早く言えば良かった」
こんな、脱け殻になってしまう前に。何度そんなことを思っただろう。その度に、悪いのは全部自分だと思い出しては苦しむのだ。
私はなんて醜くて独り善がりな人間だろう、と。
「おやすみなさい、山田さん。せめて良い夢を」
額に口付けて、いつものように山田さんの頭を抱えるようにして眠る私は気付いていなかった。
山田さんの目が、開いていたことに。
□ □ □
──ベッドサイドに置いていた、ガラスの水差しがなくなっていたのだという。
エドワードの不在の間に山田くんの様子を何度か見に行った部下の男は、指示通り一時間おきに部屋を訪れていた。
この日ずっとベッドの中にいた山田くんの様子を見ていたとき、一時間前にはあったはずの水差しがないことに気が付いたが。
……その時にはもう何もかもが手遅れだった。
「誰かが下げたのかと確認したけど、俺以外は誰も山田の部屋には入ってませんでした。慌てて部屋に戻って……。多分ベッドの中で、割ったんだと思います。水は窓から音が出ないように捨てて……換気のために窓は開けてましたから」
「うん。……続けて」
「布団は山田の顔の半分を覆ってました。声を掛けながら揺すったら鉄臭くて、それで、めくったら……真っ赤で。一面血の海だったんです。山田は一番大きい破片を握っていて、それで、首を、切りつけて」
「……ありがとう、君には辛いことを思い出させてしまったね。もう下がって大丈夫だよ」
顔を青くして部屋を出ていく部下のことを見送ることもせず、僕はベッドの横に立ち尽くしたままの義弟にどう声を掛けるべきかと考えていた。
明らかな自殺だった。他殺に見せかせることも出来なくはなかっただろうけれど、その線は薄いだろう。
「……エドワード」
エディは山田くんの動かない身体を前に、ただ声もなく泣いていた。
山田くん。君は本当に酷い男だ。置いていかれる方はたまったもんじゃないのに。……そんなに満足そうな顔をされたら、責めることも出来ない。
西日の照らす部屋の中。
夕陽と血に紅く染まった君だけが、微笑んでいる。

あなたはもうこないのに
「ハイ、山田くん。久し振りですね」
「ジェイさん、来てたんだ」
庭で洗濯物を干している時にやって来たのは、笑顔の爽やかな青い瞳の人だった。何かとちょっかいを出しては怒られているのに、むしろそれを楽しんでいるような、優しくて聡い人。
「エディに教えておきたい話があったものですから。でもいないみたいですね? 外出中ですか?」
「そう。先生は多分夜まで戻らないよ」
「アイツの外出に君が付いていかないなんて珍しい」
「……そうかな。そんなことないけど」
背中を向けたままでシーツを広げた俺の言葉をどう受け止めたのか、視線が刺さってくるのが分かる。
どうか気付かないで欲しい。この人相手にそんなの考えても無駄だとは分かっているけれど。
「ところで山田くん。君、痩せました?」
「そんなことないですよ」
「この場合はやつれた、と言う方が正しいのかな」
「そんなことないですってば」
「こんなに腕が細くなったのに?」
後ろから伸びてきた手に空の籠を持つ手を掴まれる。妙に熱いと感じるのは俺が冷えてるせいだろうか。
「やっぱり痩せてるね。エディはどうしたんです」
「……先生は関係ないよ、ジェイさん」
「あいつが君のこんな状態を許すとは思えないけど」
「っだから、先生は関係ないってば!」
掴まれた腕を思い切り振り払うのと、視界がくらりと揺れるのは同時だった。
ベッドの上で目が覚めても、薄暗い部屋の中には求める姿も香りもなかった。伸ばした手は空を切る。
あぁ、お前は何を期待していたんだ、山田誠司。もうあの人から何も求められていないというのに。
涙が一粒だけ落ちる。内側で何かが壊れる音がした。
あなたにふれたいのに
深夜に屋敷に戻った私を出迎えたのは、久し振りに顔を見る男だった。
「やあエドワード。遅いお帰りで」
「……来ていたのですか」
後ろに控えていた部下にもう休むと告げ、自室へと向かう。
今日はとにかく疲れていた。
こちらの利益になる相手だというだけで笑顔を見せなければならず、時には心にもない言葉を告げなければならなかった。早く切り上げたいと思っても表に出すことも適わない。
ささくれだった心に、せめて彼だけは相手から変に目をつけられることがないように、と自分から距離を置いた人の姿が過ぎる。何も言わずに彼の手を離したことが、今更になって気になりだした。
彼──山田さんとはここ数日まともに顔を合わせていない。今朝も視界の端に姿を見掛けた程度だ。
「ジェイ、山田さんに会いましたか」
「倒れた」
「……今、なんと?」
「昼間僕と話している最中に倒れて、今は自分の部屋で休ませてる。ひどい栄養失調に睡眠不足、それから……っ待てエディ、まだ話は終わってない」
二階へ上がろうと動いた身体を止められ思わず睨んだが、この程度でジェイが怯むわけもなかった。私と似た色をしたジェイの目は、今は怒りしか伝えてこない。
「今は駄目だ。彼に会うのはやめておけ」
「何故です」
「……今の山田くんは、誰のことも分かってない。僕のことも、お前のことも。ここがどこなのかも。かろうじて自分の名前が山田誠司だというのは理解している様子だったけれど……それだけだ」
「何を」
「あの子は自分から世界を閉ざしてしまったんだよ、エドワード。どうしてあの子を、山田くんを一人にしたんだ。山田くんがああ見えて人一倍繊細なことはお前が一番よく知って……ダメだ、行くなエディ!」
どれだけ止められても、それ以上ジェイの言葉を聞く必要などないと思った。だって、彼が。山田誠司が私のことを忘れるなど、そんなことあるはずがない。
ノックもせずに開けたドアの向こう。ベッドの上に腰掛けて、山田さんは窓の外の暗闇を見ていた。
月の光もない暗闇の中に、彼にしか見えない何かがあるように。
「山田さん」
声をかけても、反応はない。
「山田さん」
一歩ずつ距離を詰めても、視線は来ない。
「……誠司」
目の前に立って無理矢理視線を合わせても、彼の瞳に私が映っても。彼は私を『見て』はくれなかった。人形のように虚ろな瞳に背筋が冷たくなる。
「誠司……あなたに何も告げなかったことは謝ります。長い間、一人にしすぎたことも。だから、だからもう一度だけ私にチャンスをくれませんか。あなたのその目に、私を映すチャンスを」
最後に彼を抱いた時よりずっと薄くなった肩に手を回す。力のない身体も、いつもより大分低い体温も。太陽のように笑う彼には似つかわしくないものだった。
「──っう、ぁ」
「誠司?」
「うぁぁ、やあぁぁぁぁぁ!!」
突然叫び、暴れだした山田さんの身体を抑えつけようとするもまったくの逆効果だった。全身で、それこそ足までも振り上げられてしまえば思わず腕が緩む。そのタイミングで強く胸を突かれて息が止まった。
突き飛ばされる形で距離を取った時に香ったのは、数時間前まで一緒にいた相手が纏っていた、どろりと甘い花の香り。
この時初めて、着替えもシャワーも浴びずにこの部屋に来たことを後悔した。
山田さんは顔面蒼白になりながらも私から距離を取り、一番離れた部屋の角で蹲っていた。離れていてもガチガチと歯が鳴る音が聞こえてくるくらい震えるさまに、駆け寄ろうとした身体が固まる。
「エドワード。今は山田くんから離れていろ」
叫び声を聞いて部屋に駆け込んできたジェイが、私の代わりに山田さんに静かに近付いていく。ジェイが小さな声で名前を呼んでくるのですら拒絶するように両手で耳を塞ぎ──そのまま山田さんは気を失った。
「……言っただろう。何も分かってないって」
山田さんの痩せた身体を抱き上げてこちらを振り向いたジェイが、苦しそうな顔で笑う。
意識を失い眠る彼は、まるで人形のようだった。
不可視の底
目が覚めたら、見覚えのない真っ白な部屋にいた。ここはどこだろう。アイツと暮らしていたアパートではない。あそこは、こんな柔らかな布団があるような部屋ではなかった。
上半身を起こしてみても、やっぱりここは初めてきた場所だとしか思えなかった。いろんなことを考えたいけれど頭がぼーっとする。
ただぼんやりしているうちにドアが開いて、誰かが部屋に入ってきた……らしい。わからない。人っぽい形をした黒いモヤモヤした塊にしか見えなかった。
「ああ山田くん、よかった。目が覚めましたか。気分はどうですか? 栄養失調と睡眠不足だとお医者様が言っていましたよ」
塊は人間らしかった。声に時折ザリッとノイズが混じっていたが、聞き取れないほどではない。
山田、くん? 俺のことだろうか。俺はそんな名前だったか? もっと違う……何だったかな。思い出せない。だけど山田と呼ばれても嫌な感じはしないから、きっと俺の名前なんだろう。
「君が倒れたことを にも伝えようとしたんだけれど……実はまだ連絡がつかなくてね。帰ってきたら多分怒られますよ、君も僕も」
「……?」
倒れたというのは俺のことだろうか。でもそれよりも、一部分だけすっぱりと音が消えていた気がする。何に伝えようとしていたのか、という部分が。
思わず首を傾げた俺に、黒い塊……誰か分からないけれど俺を知っているらしいこの人は一瞬息を詰まらせた。
「……山田くん、念のため聞きますけれど、僕のことがわかりますか。 。君はいつも僕のことをこう呼んでいました」
首を振る。また音が消えていた。多分だけれど、名前を名乗ったのだろう。けれどそこだけが音を切り取られてしまっている。
「そうですか……じゃあ自分のことは? 山田、山田誠司。君の名前だ。それはわかるかい?」
不思議と、自分の名前らしいものは音がちゃんと聞こえている。山田誠司。最初に呼ばれた時も思ったけれど俺はそんな名前だっただろうか……いくら考えても分からない。
戸惑いつつも小さく頷いた俺に、この人は少しだけほっとしたらしい。名前が分からない上に姿も見えないせいか、声の感じだけが手掛かりだった。
「僕と のことだけが分からないのか、それ以外のこともなのか調べなくちゃダメかもしれませんね。山田くん……本当に のことまで忘れてしまったんですか。先生って呼んであんなに慕っていたのに」
先生。せんせい。
その単語が聞こえた瞬間、胸が軋むような気持ちがした。何も思い出せないけれど、俺はその言葉を……その言葉を、大切にしていたんだろうか。分からない。
胸の軋みは一瞬のことで、まるで波が引いていくように痛みも薄らいでいった。アイツと暮らしていた時のことを思い出す。殴られたり蹴られたりしたけれど、すぐに忘れるようにした。そうすれば泣かずにいられた。そうだ、きっとこれでいい。
思い出せないことは、辛いことなんだから。
黒い塊はそのあとも何かを話し続けていたけれど、だんだんと、何も聞こえなくなっていった。
次に気が付いたときにはベッドに座っていた。裸足の足に、フローリングがひんやりと心地いい。
窓の外は真っ暗だった。
暗いのは良い。何も見えないから。黒いのは良い。何もかも消してくれるから。明るいところも、白いものも、俺は苦手だ。
この部屋は白くて苦手だ。もっと暗くて、もっと狭い所に行きたい。でもここは知らない場所だから、勝手に動いてもし誰に見つかったら、殴られるかもしれない……それは嫌だなぁ。
そんなことを考えていたら、また目の前に黒いモヤモヤの塊が現れて……そのまま、包まれるような感触がした。
この黒い塊は、最初に見たものと同じものだろうか。内側からはザリザリとした、チューニングが合ってないラジオみたいな音が聞こえてくる。……この黒い塊が喋っているんだろうか。どうして最初のヤツみたいに声が聞こえないんだろう。
なんとなく抱き締められているような体勢が居辛くて身体を動かそうとしたときに感じた甘い花の香りに、一気に吐き気が込み上げてくる。
嫌だ。
嫌だ。
…………嫌だ!
「っう、ぁ」
声が出せないと思っていたのは俺の気のせいだったらしい。乾いた渇いた喉を引き裂くように出たのは確かに俺の声だった。
「うぁぁ、やあぁぁぁぁぁ!!」
とにかく必死に、自分でも分からないままに手足を振り回した。これはダメだ。近くにいたくない。俺が壊れていく。痛い。死んでしまいたい。先生が許してくれない。でも先生は俺をいらないって、捨てて。
……先生。先生って誰だ。
黒い塊が俺から離れた隙に、部屋の隅に逃げて蹲る。暴れたときに誰かを……あの黒い塊を突き飛ばした気がする。殴られるだろうか。蹴られるかもしれない。怖い。痛いのは嫌だ。もう何も聞きたくないし見たくないのに、どうして俺の目も耳も言うことを聞いてくれないんだろう。
両手で強く耳を押さえれば、少しはましになった。そうだ。身体から心を離してしまおう。辛いことは忘れてしまおう。我慢していればそのうち飽きてどっかに行くだろう。
アイツだってそうだった。これは躾だと言いながら、ことあるごとに俺を殴ってきた、父親も。
ずっと忘れていたその顔を思い出した途端、世界は真っ暗になった。部屋の形はぐねぐねと歪み、固いはずの床のフローリングは氷のように融けていく。
そして、暗い暗い沼に落ちていくように、俺は沈んでいった。
ここは寒くも暖かくもなくて、ただただ暗い。でも何も聞こえないし何の香りもしないから、俺にとっては居心地が良かった。でもずっとここにいたら俺はどうなるんだろう。
……死んじゃうのかな。
それはすごく理想的だと思った。だってここにいるだけで、苦しいことも悲しいことも痛いことも感じないで済むのだ。そうしていつか死ぬ。たとえ誰にも見つけてもらえなくても、二度と先生に会えなくなるとしても。先生は怒るんだろうけど……先生?
……また先生だ。誰のことなのか全然思い出せないくせに、その単語だけが頭にこびり付いて剥がせない。
もう忘れよう。忘れたい。先生がどこの誰だろうと俺には関係ない。俺は先生に捨てられて、忘れられて、寂しくて……違う。いなくなりたかった。もういらないって言って欲しくて、違う、もう一回だけ名前を呼んで欲しくて。違う。違う!
お前なんかいらないと言われるのが怖くて。
お前なんか死んでしまえと言って欲しくて。
そうだ、あの時。ベッドの上で目覚めてもそこに先生がいなくて。……それが痛くて辛くて悲しくて我慢できなくて、そうして呆気なく俺は壊れてしまった。
──もう元に戻る方法も分からないくらい、粉々に。
不可逆の赤
私の前で酷く暴れて気を失ってから丸二日、山田さんは眠り続けた。それから目を覚ましても反応はない。反射はするが、こちらの声も音も、何も聞こえていないようだった。
シーツを変えるために抱き上げた身体は、恐ろしく軽い。食べ物を経口摂取出来ない代わりに点滴で誤魔化してはいるものの、いつまでも通用しないことは私もジェイも分かっていた。
「山田さん……あなたは」
死にたいのですか、と口にすることはどうしても出来なかった。たとえ冗談だとしても、その瞬間に彼が意識を取り戻して肯定するのではないかと、そんな恐怖心だけがあった。
日に日に弱って、薄くなっていく身体。朝になったら冷たくなっているのではないかと、ここ数日は体温の低い山田さんを抱き締めて眠るようになった。呼吸の温かさと心臓の音だけが彼が生きてることを教えてくれる。
『先生は俺より体温高いから、抱き締められてると気持ちいいですね』
同じベッドで眠ると、いつもそう言って笑っていた。触れるだけでほんのり頬を染めて、嬉しいと全身で伝えてくれていたのに。
『先生、大好き』
……私はそんな彼を、何も言わずに突き放したのだ。
「これ以上は無理だよ、エディ。もう限界だ」
「そんなことはありません」
「山田くんの状態を一番知っているのはお前だろう。これ以上は個人の手に余る。いつまでも点滴だけで誤魔化せるものでもないんだ」
「……彼はまだ生きています」
「今はまだ、ね。このままの状態が続けばどうなるかなんて言わなくても分かるだろう」
ジェイがくたびれた顔で話すのを見るのは、これで何度目だろう。山田さんが倒れてからずっと、私達の間には苦々しさだけがあった。
山田さんが心と身体の制御を喪ってから、一ヶ月が経っていた。毎日言葉を掛けても反応はない。時折何かを思い出したように身体を起こして歩こうとするが、体力の落ちた身体はすぐに崩れる。ここ数日は特にそれが顕著で目が離せないことが続いていた。
「……専門のスタッフがいる病院や施設の空きを今探しているところだ。近いうちに移そう」
「私からあの子を取り上げるつもりですか」
「そうじゃないよ」
「どこがです。同じことでしょう」
「……あの子の中には、もう僕もお前もいないんだよ、エディ。誰もいないんだ」
ジェイは小さい子供に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を並べた。
ベッドで眠る山田さんの髪を梳く。彼の綺麗な黒髪は私のお気に入りだった。
「……明日、ジェイと出掛けてきます。あなたの行き先を決めてくる予定です」
規則正しい寝息にいつも救われていた。彼がまだ生きているというだけで、それだけで良かったのに。
「あなたは私の魂の片割れ。オレンジのもう半分。そして私の生き甲斐でもある。……あなたに伝えたことはありませんでしたが。もっと早く言えば良かった」
こんな、脱け殻になってしまう前に。何度そんなことを思っただろう。その度に、悪いのは全部自分だと思い出しては苦しむのだ。
私はなんて醜くて独り善がりな人間だろう、と。
「おやすみなさい、山田さん。せめて良い夢を」
額に口付けて、いつものように山田さんの頭を抱えるようにして眠る私は気付いていなかった。
山田さんの目が、開いていたことに。
□ □ □
──ベッドサイドに置いていた、ガラスの水差しがなくなっていたのだという。
エドワードの不在の間に山田くんの様子を何度か見に行った部下の男は、指示通り一時間おきに部屋を訪れていた。
この日ずっとベッドの中にいた山田くんの様子を見ていたとき、一時間前にはあったはずの水差しがないことに気が付いたが。
……その時にはもう何もかもが手遅れだった。
「誰かが下げたのかと確認したけど、俺以外は誰も山田の部屋には入ってませんでした。慌てて部屋に戻って……。多分ベッドの中で、割ったんだと思います。水は窓から音が出ないように捨てて……換気のために窓は開けてましたから」
「うん。……続けて」
「布団は山田の顔の半分を覆ってました。声を掛けながら揺すったら鉄臭くて、それで、めくったら……真っ赤で。一面血の海だったんです。山田は一番大きい破片を握っていて、それで、首を、切りつけて」
「……ありがとう、君には辛いことを思い出させてしまったね。もう下がって大丈夫だよ」
顔を青くして部屋を出ていく部下のことを見送ることもせず、僕はベッドの横に立ち尽くしたままの義弟にどう声を掛けるべきかと考えていた。
明らかな自殺だった。他殺に見せかせることも出来なくはなかっただろうけれど、その線は薄いだろう。
「……エドワード」
エディは山田くんの動かない身体を前に、ただ声もなく泣いていた。
山田くん。君は本当に酷い男だ。置いていかれる方はたまったもんじゃないのに。……そんなに満足そうな顔をされたら、責めることも出来ない。
西日の照らす部屋の中。
夕陽と血に紅く染まった君だけが、微笑んでいる。

